<<--- Side Hachiman --->>
キング○リムゾン!!
復帰後の第一声がこれだ。
「あー、こいつまだ治ってねーなー」と失笑されても文句は言えない。しかし今の気分に合致した言葉を他に知らないのだから、仕方ないではないか。
ネットで5000円のリーズナブルな凶刃でブッスリやられた俺は、痛みで呼吸も覚束ないまま救急車に乗せられた。そのあたりまではちらほら記憶が残っているのだが、ここから先がいただけない。ちょっと気を抜いて寝落ちしただけのつもりが、目が覚めたら三週間経っているときたもんだ。
このプチ竜宮体験にはもちろんびっくらこいたが、改めて考えてみると、それ程騒ぎ立てる事でもなかった。たがが三週間程度でこの俺の一体何が変わるというのだ。そんな短期間の変化でこの人格がどうにかできるなら、ぼっちなんて新人類はこの世に誕生しなかった。
実生活への影響を強いて挙げるなら…アニメの話題に大きく後れを取っているくらいだろうか。いやほんと、HDレコーダーが無かったら即死だったわ。積みキュアの消化が今から楽しみである。
目覚めた俺といくつか言葉を交わした小町は、そんな俺の小並感を見抜いたのか、あからさまに渋い顔をして押し黙っていた。医者と入れ替わりで入ってきた雪ノ下達も、俺の記憶があやふやであることを知り、些か動揺している様に見える。
「──つまり、ここに入院してから今日までの事を、何も覚えていないのね?」
「そ、そういうことになるな…」
容疑者を問い詰めるかのような鋭い目つきに若干怯えながら、俺は現状把握のために脳をフル回転させていた。
さて、どうしたことだろう。何かやらかしてしまったかのような、気まずいこの空気…。今もなお、毎秒1℃くらいのペースで室温が低下し続けている気がする。
こいつら、曲がりなりにも見舞いに来てくれたんじゃないの? 入ってきた時はそんなに機嫌悪そうに見えなかったのに。一色なんて見たことないくらいニコニコしてたのに。
空気が変わったのは、一色に怪我がなかったかと確認した瞬間だった。そこから逆説的に、彼女が何らかの負傷をした可能性が推測できる。それも、飛びきりの笑顔が凍り付くくらいの何かだ。
けど、確か一色は「無事だ」って言っていたような──。あれ、これどこで聞いたんだっけか。
「なあちょっと、小町さんや…」
「い、いろはさん、ちょっと一緒にお花摘みに行きましょう! ね?」
身内に助けを求めようと思ったが、当の本人はこちらに見向きもしない。かなり切羽詰まった様子で、一色を部屋の外へと連行していった。んな漏れそうな時くらいソロションで我慢なさいな。お兄ちゃんちょっと恥ずかしいよ。
俺の知る限り、二人が直接対面する機会はなかったはずだ。おそらくこの病院で初顔合わせと相成ったのだろうが──。
「…あいつら、仲良さそうだな」
三週間経過していた事実より、この悪魔的ユニットが発足した瞬間に居合わせられなかった事の方がずっとショックだった。既にフラワーハントを同道するくらいには親しくなっているようだし、あの二人の相性は悪くないらしい。遠からずボーイズハントにまで手を出すのでは、と今から気が気ではない。
"いろは×こまち"ってことは、二人合わせて"はまち"……。
駄目だな、やはり俺のネーミングセンスは間違っている。
はまちメンバーの今後について比企谷Pがあれこれ構想を練っていると、
「──御免なさい、私もちょっと席を外すわね」
と、雪ノ下まで花園へと旅立ってしまった。
残されたのは、珍しく難しい顔をしたわんわんと俺。
顔を合わせてすぐに退出されると些か心にクるものがあるが、目の前でこうしてムッツリされるくらいなら、素直にトイレへ避難して頂きたい。何なら俺が避難してもいい。むしろさせて下さい。
「…ヒッキー、どこまで覚えてる?」
気を取り直したようにこちらへ向き直った由比ヶ浜は、ベッドに手をついて身を乗り出してきた。俺達の距離感ってこんなんだったっけ…? ちょっと近過ぎる気がするのだが。
そういえば、比企谷のDNAと近しくしている影響か、一色の距離感も少し変わっていた気がする。当たり前の様に背中に手を添えてきたもんだから、内心かなりビビった。性感帯でも何でもないのに、ソフトタッチでビビッと来た。
「屋上の事はそこそこ…。っても、ほとんど音だけな。平塚先生来てなかったか? 何か怒られた気がする」
「うん、正解。…他には?」
「いや…んー。あんまハッキリとは…」
「そっか…」
由比ヶ浜はどこかホッとしたような、しかし納得はしていないような、据わりの悪い表情をしていた。
「…うぅ~…っ」
「な、何だよ」
「んーん、何でもない…」
痒いところに手が届かずに悶えているわんこのように、由比ヶ浜はぷるぷると頭を振っている。彼女の表情を見るに、覚えていない期間にまた"何か"があったということなのだろう。改めて、脳内に残留している断片的な情報に意識を傾ける。
──けたたましいサイレンの音。
──握られた手を伝う血。
──薄暗い病院の廊下と、いくつもの泣き顔。
──派手なセーターのおっさん.......って誰だお前。
他にもいくつかの光景がぼんやりと浮かんではいるのだが、頭が覚醒するにつれてどんどん希薄になっていく。思い出そうとするほどに指から零れ落ちていくこの感覚…おそらくは夢にでも見た場面なのだろう。だいたい、死にかけている自分の顔なんて物理的に見えるわけないんだし。
情報源としては一番頼りないが致し方ない。意を決して由比ヶ浜に尋ねることにする。
「で、結局あの後どうなったわけ?」
「うーん…色々、かな…」
「…………………………」
お、オーケー。ここまでは想定内。
「…出来ればもう少し具体的に頼む」
「…いろはちゃんが超泣いた。あたしも。ゆきのんも」
ぐっはぁ。
こ、これまた刺さるエピソードから入ってきたな。聞いた時点で多少覚悟はしていたが。
「ホントに死んじゃうかと思ったし」
じりっと睨んで来る由比ヶ浜。脳内BGMは久方ぶりに聞いた「なぁーかーせたぁ、なぁかせたぁー♪」の大合唱である。出来れば
「まあ酷い絵面だったもんな…」
大立ち回りしていたこいつらの姿は明滅する視界の端に入っていたが、比企谷汁でデコったJKというのは結構なスプラッタだった。その汚液の源泉を彼女達は直視し続けたのである。SAN値が危険域を下回るのは自明の理というものだ。
…待てよ? 冗談交じりに卑猥な表現をしてみたが──事実、俺は彼女ら全員に熱い
「その節は色々な意味で多大なるご迷惑を──って、雪ノ下も? 泣いたの?」
「当たり前じゃん。ゆきのんのこと何だと思ってんの?」
「いや…」
血も涙もない…とまでは言わないが、絵面が今一ピンとこないんだよな。周りがオイオイ泣いてても、一人だけマネキンみたいに乾いてそう。そして皆が泣き疲れて眠った頃合いに、そっと長ドスに手を伸ばすのだ。なめたらいかんぜよ!
「さっき聞きそびれたけど、一色は──お前らも、怪我とかしなかったか」
「あ、うん。そっちはヘーキ。みんな心配し過ぎてちょっと痩せたくらいじゃない?」
由比ヶ浜の答えを聞いて、ひとまず胸を撫で下ろす。
いやいや安心している場合ではない。世界遺産の標高に影響があったとすれば人類の一大事ではないか。雪ノ下平野は…どうせ大して変わらんだろうから置いておいて、一色はどうだったかな。そっちもあんま余裕はなかったような気がするが。
「そか。原因が言うのもなんだけど、食事と睡眠だけはちゃんと摂っとけよ?」
「まじヒッキーがいうなし。これ、今夜も眠れなさそう…」
「なんでだよ。起きない方が良かったみたいに聞こえるぞ」
「…………んなワケないじゃん、ばか…」
う、うーん。
今のは台詞の恥ずかしさから生まれた間なのか、それとも即答できずに生まれた間なのか。由比ヶ浜の声が小さくて、正しいニュアンスが掴めなかった。もし後者だったら立ち直れないでござる。雪ノ下の場合はまだネタ解釈という逃げ場があるけど、こいつのはガチ本音っぽくて心臓に悪いんだよな。
しかし他にも聞きたいことがあったので、もの言いたげな由比ヶ浜の視線を見なかったことにして、俺は聞き込みを続けた。
「じゃあ…例の、西山だったっけか。アイツはどうなった?」
「そっちも色々あったけど…こないだ医療少年院?とかゆうのに入ったって」
「
俺は一方的にやられたからあちらさんに怪我はさせてないはずなんだけどな。もしかして無意識に
「なんかあの後すぐにバイクと事故ったらしいよ。バチがあたったんじゃない?」
「ほーん…ちゃんとしょっぴかれたんなら、どうでもいいけど…」
俺だってお世辞にも善人とは言えない人種なので、因果応報とか気にし始めると夜も眠れなくなる。既にムショに入ったのならば十分だ。この上さらに報復してやるみたいな執着もない。ってか、ヤツの逆恨みが晴れたとも思えないし、出来れば二度と関わり合いになりたくない。
ただ、結構レベルの高い変態だっただけに、再犯の可能性だけは気になった。いっそ去勢でもしちまえば安心なんだけどなぁ。
「あのさ…」
「ん?」
「聞かないの? 昨日までの…入院中のコト」
お団子髪をしきりに撫でつけながら、由比ヶ浜はこちらを見ずにそう言った。
「いや…そっちはあんま興味ないし…」
だって三週間経った状態で、まだこんなに痛むんだぞ? どうせ身動きも取れなかったに決まってる。
いや本音を言えば、小町に色々見られたんじゃないかとか、綺麗な看護師さんにシモの世話をされてたらどうしようとか、その手の不安要素が続々と浮かんではくる。だからこそ、出来るだけ考えたくない。
「ずっとベッドの上だったんだろ? 食っちゃ寝以外に出来ることがあったとも思えんし」
しかし、由比ヶ浜はあからさまに目を逸らし続けている。落ち着きなく指を擦り合わせるその姿に、次第に不安が首をもたげ始めた。
「…な、何もなかった…んだよな?」
「…………」
ついには背筋に"ざわ…"とお馴染みの寒気が忍び寄ってきたところで、
「あ、あたしもちょっとお手洗い!」
とうとう最後の一人が逃走し、病室には俺だけが残された。
わーお。ガハマさん露骨ゥ…
「せめて上辺だけでも否定していってほしかった…」
釈然としない思いで、改めて病室をぐるりと一瞥する。
「個室か…。ちょっと広すぎて落ち着かないな。相部屋よりはいいけど」
そうして独りごちていると、気が緩んだのか、ねっとりとした眠気が意識を刈り取りにやってきた。本当に記憶が飛ぶような状態だったのならば、まだまだ脳みそのデフラグ中なのかもしれない。
「次に起きたらまた三週間後、とか言わないよな…」
抗いがたい力で下がってくる
あれ…前に買った…
なんで…ここに……あるんだろ…な……。
<<--- Side Yukino --->>
由比ヶ浜さんに二度目の丸投げをした私は、後で必ず謝罪しようと心に誓いつつ、一色さんの後を追っていた。小町さんが付いていったから、私は必要ないのかも知れないけれど…。
先日の助言が今の状況を産んだ一因であることは疑いようもない。今回は比企谷くんから逃げ出した訳ではなく、それなりの責任を感じての行動だった。
廊下を辿って休憩コーナーまで出た所で、ペーパーカップのジュースを手に、二人が並んで座っている姿を見つける事が出来た。
「一色さん…」
肩を震わせ、しゃくりあげる濡れた鼻声は、想像通り。
ただ、その声の主は、私の予想とは些か異なっていた。
「あ、雪ノ下先輩。…すみません、ご心配お掛けしましたか?」
声に力こそ入っていないものの、一色さんは意外と落ち着いた様子でカップに口をつけている。
ポロポロと涙を零していたのは小町さんの方だった。
「っく…ごめんなさい、ホントにごめんなさい、小町のせいで…ひっく…」
「だから、こまちゃんのせいじゃないってば。わたしが話も聞かずに飛び込んだのが悪いんだよ?」
「でも、でも、ちゃんと先に伝えておけば…そしたら、あんな、ショック受けないで、済んだのにっ…」
「そんなの遅かれ早かれだよ。それに先輩、良くなったんだから喜んであげなきゃ」
どうやらあの顛末に責任を感じた小町さんが、先に泣き出してしまったらしい。一色さんはその肩を抱き、優しく声を掛けていた。
「──正直、泣いているのは貴女だと思っていたわ」
「ですよね…。ホントはわたしもそこそこヤバいんですけど…」
苦笑いしている一色さんのカップから、敢えて視線を逸らす。
水面が細かく波打っているのは、きっと見られたくないだろうから。
あれだけの事があっても人前で泣かなかった小町さんが、今は自分の為に泣いているのだ。致し方ないとは言え、ここまで涙の大盤振る舞いをしてしまった一色さんだけに、泣くに泣かれぬ状況に陥ってしまったのだろう。
けれどこれはこれで、一色さんにとって救いだったのかもしれない。彼女が口にしている言葉は、私が言わんとしていた事そのものだ。こうして自分で再確認してくれるのであれば、私なんかの出る幕ではない。
必要以上に明るい声で、彼女は小町さんに向って胸を張った。
「実はね、このパターン、完全に予想外ってワケでもないんだよ? わたしなりに記憶喪失のこととか調べてたから。雪ノ下先輩も気づいてたんですよね? あんまり動揺してないみたいですし」
「…こうなる可能性は、それほど低くないと思っていたわ」
一色さんが予め可能性を考慮していた、というのは嘘ではないと思う。私自身も調べ始めてすぐに辿り着いた症例だったからだ。ただそれ以上に、目についた事例としては「覚えている」ケースの方が多かった様に思う。彼女の感情面を考慮すれば、希望的観測に縋ってしまうのは当然だろう。
「きっと大丈夫」と「もしかしたら」の差は大きい。ましてや私と彼女では前提条件が全く違うのだ。彼女の受けた衝撃を考えれば、泣き喚かないだけでも十分称賛に値する。
けれども、ここで「よく泣かなかったわね」などと褒めてしまうと、年上の威厳で何とか保っている彼女のメンタルを突き崩しかねない。私は自販機で紅茶を購入し、彼女らの傍らに静かに腰を下ろした。
* * *
「すみません、小町一人で騒いじゃって…」
「ううん。泣いてくれてありがとね。自分で泣くよりスッキリしたよ」
「えへ…そう言ってもらえると助かります」
濡らしたハンカチを目に当てた小町さんは、既に呼吸も落ち着いている様子だった。
頃合いを見計らい、今後の行動方針を提案してみる。
「ちょっと慌ただしいけれど、今日はお開きにしましょうか。彼も病み上がりだから、体調への配慮という体裁なら違和感もないし」
「いえ、わたしは大丈夫です。さっきはびっくりしてテンパっちゃいましたけど、先輩の前で泣き崩れたりしませんから」
「そう? 別に逃げるモノでもないのだから、焦らなくてもいいのよ?」
「早いうちにやらなくちゃいけないんです。それこそ先輩が混乱してるうちに」
「それって──」
一色さんの言葉の意味を訪ねようとしたところで、私達の下に最後の一人がやって来た。
「あれっ、結衣先輩…」
「あ、ここに居たんだ」
ふと、一色さんではなく小町さんが目を腫らしていることに首を傾げるも、思い出したかのように彼女は遺憾の意を示す。
「って、みんなヒドいよー。あたし色々聞かれて大変だったんだからね?」
「えっ。もしかして昨日までのこと、教えちゃいましたか!?」
「んーん、事件とか犯人のその後とか、そういう系」
「入院生活については聞かれなかったの?」
「自分の事はあんま気になんないみたい。どうせ痛くて動けなかったんだろーって」
「それは…らしいというか何と言うか…」
「けど、その辺うまくスルーできなくって──ゴメン、あたしまで逃げてきちゃった」
「…仕方ないと思うわ。私が聞かれたところで、似たような物だったと思うし」
一色さんの件をどう対処するか、
そもそも、事前にそう言った場を設けていれば、この展開だって示唆出来た筈なのだ。ただ改めて槍玉に挙げてしまうと、一色さんを言外に糾弾する形になるような気がして、ついつい先送りにしていた。
「すみません。わたしが勝手したせいで、色々とこじれちゃって」
「それはもう言いっこなし──って、あたしまで来ちゃったらヒッキーひとりじゃん! 戻んないと…」
「あの、ちょっといいですか? みなさんも…」
「実は、迷惑ついでにお願いがあるんですけど──」
* * *
私達が連れ立って病室に戻ると、部屋の主は掛け布団の中に引きこもり、丸くなっていた。
「…先輩、もしかして寝ちゃってます?」
「お
「しばらくは頻繁に寝ちゃうかもって言われてるんで、平気だと思います」
「そっか。今日だって寝て起きたら良くなってたもんね」
足音を忍ばせてゾロゾロと侵入した私達は、彼が眠るベッドから距離を置いて、声を潜めた。
「最後にもう一度お聞きしますけど──いろはさん、ホントにいいんですか?」
「うん、お願い。お二人もお願いします」
「貴女がそれで良いのなら、私は構わないわ」
最後の一人に視線が集中する。彼女は未だにむすくれていたけれど、皆が賛成している中でひとり反対しきれなかったようで、ふいと顔を逸らして言った。
「……いいよ。納得はしてないけど…とめない」
一色さんの"お願い"。
──この病室で自分がした事は、全て無かった事にして欲しい。
そう口にした彼女に最後まで反対し続けたのは、意外なことに由比ヶ浜さんだった。あれだけ悔しがっていた彼女が誰よりも激しい拒絶を見せたのは、それが自身の規範に抵触するような行為であったからなのかもしれない。
けれど現実問題として、私達が取り得る選択肢は隠蔽と暴露の二者択一だ。一色さんがどの様な葛藤の末にこの結論にたどり着いたのかは私には分からないけれど、感情論を抜きにすれば、丸く収めるにはこちらしかないだろう。そういった判断から、私は賛成の立場を取っていた。
「ごめんなさい、結衣先輩…」
「べつに、謝ってほしいんじゃないし…」
「比企谷くんの負担を考慮しても妥当な選択でしょう。由比ヶ浜さん、気持ちは分かるけれど…」
「分かってるよ。だから止めないってゆってんじゃん…」
珍しく刺々しい空気の由比ヶ浜さんを
「ごめんね、ちょっと借りるよ──」
ベッドへ忍び寄り枕元を漁っていた彼女が、スマートフォンを手にして戻ってくる。
「パスワードは分かっているの?」
「それは大丈夫です。だいたい小町の名前とか誕生日なので」
当たり前の様に兄のスマホを開錠した小町さんを見て、一瞬だけ、都合三人分の視線が寝息を立てる
「メールと、通話履歴と、あとはLINE…かな。他に何かやりとりしてましたか?」
「ううん、それで十分だと思う」
小町さんはてきぱきと操作をして必要な措置を施していく。自分が渋ったところで、一色さんが辛い思いをするだけだと分かっているのだろう。改めて彼女の顔色を伺うような事はなかった。
「他に何か、配慮の要りそうな物はあるかしら」
「あ、それ…」
由比ヶ浜さんの声に顔を向けると、一色さんが壁に向かって静かに佇んでいた。一面の白にぽっかり浮かぶ淡いライムグリーンは、ここへ通い詰めた彼女の象徴みたいなものだった。
「…先輩、思い出してくれたんですよね。これのことも」
このエプロンは比企谷くんから貰った物だと聞いている。そちらの記憶は蘇ったのだろうが、代わりに失われたのもまた、掛けがえのないものだった。いや、ひょっとしたら──思い出に貴賤をつけるのは無粋だけれど──より大事なものを取り上げられてしまったのではないか。これを身にまとった彼女の表情を見てきた私達は、そう思わずには居られなかった。
やがて彼女は静かにエプロンを手に取り、丁寧にたたんで鞄へとしまい込んだ。
「──よかったです。本当に」
その声は震えていたけれど、下手な慰めは毒にしかならない。
私達は黙って、彼女の後姿を見守っていた。
「………ばか」
ずっと背を向けていた由比ヶ浜さんの呟きは、真っ白な壁に沈んで消えた。