そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■42話 涙があふれるほどの何か

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「──うん、良さそうだね」

 

 脳波検査によって強化人間の気分を味わっていた俺に、担当医はニコニコと笑って太鼓判を押してきた。このまま問題が無いようであれば、数日後には退院できるらしい。

 

 忘れてしまった時間に興味はないと言ったが…いざもうすぐ退院と言われると、もの凄い損した気分になってきた。考えてみれば、冬休みより遥かに長い期間をすっぱ抜かれたのだ。退院後にはすぐに受験戦争が始まってしまうだろう。失われしモラトリアムはもう帰ってはこないのか。

 

「はー、しんど…。これ帰ってからが一番きつそうだな…」

 

 手すりを頼りに、診察室から病室までの道を歩いていく。松葉杖で突っ張るとかえって痛いのでフリーハンドだ。足に異常がある訳はないので、衝撃にさえ気を配ればわりと歩きまわれるようになった。

 

「うわ、ルート選択間違えた…」

 

 病室の前まで辿り着いたところで、ちょっとした失敗に気が付いた。入口の戸は向かって右側にある。だというのに、廊下の左側を伝ってきてしまった。仕方なく命綱を手放して、ヨチヨチと反対側へ渡河を開始する。

 

「えっほ…えっほ…あんよが…じょうず…っと」

 

 秒速5センチメートル…とまでは言わないが、ナマケモノとレースをしたら余裕で負けそうな鈍足ぶりを披露していると──突然、俺の半身に柔らかい塊がくっついてきた。

 

「おわ! って、一色…?」

 

「こっちに体重掛けていいですから、ゆっくり歩いてくださいね」

 

 暇を持て余しているわけでもなかろうに、今日も見舞いに来てくれたらしい。彼女はためらいもなく俺の脇の下に潜り込むと、その小さな体をぎゅっと押し付けるようにしてこちらを支えてくる。

 

「あ、ああ…すまん…手間かけて──」

 

「そういうコト言わないでください」

 

 学校帰りの彼女は分厚いコートに身を包んでいたが、強く密着した身体の柔らかさは十分に伝わってくる。鼻先をくすぐる亜麻色の髪の香りが、長い禁欲生活で弱り切った理性を激しく揺さぶっていた。

 

 やめて。マジで好きになっちゃうからもうやめて。

 

「せ、先輩!? 痛むんですか? 車イス持ってきましょうか?」

 

「い、いや…傷は平気……」

 

 どんどん前屈みが酷くなる俺を本気で心配してくる女の子に、心の中で土下座をせずには居られなかった。

 

 

* * *

 

 

「いや、マジ助かったわ」

 

 結局、彼女に支えられたまま、ベッドの上まで丁寧にエスコートしてもらった。

 

「いえいえ、お構いなく」

 

「………」

 

 一色は、なぜか一緒のベッドに腰を下ろしていた。引き続きドキドキが止まらない。身体を支えていた流れのままであるため、ほとんど肩が触れそうな距離だ。

 しかし本人は全く気にしていない──どころか、かつて見たことがないくらいに寛いだ表情をしている。彼女にとって男のベッドなんてものは、公園のベンチ並みにどうということのないオブジェなのだろうか。

 

「っ!?」

 

 突然、悶々としていた俺の手の甲を、しっとり滑らかなものが滑った。

 背筋に電気が走るようなこの感じ…覚えがあるぞ…!

 

「お、おい…ちょっと…」

 

「はい?」

 

 くりっとこちらを向いた後輩は、思った通り悪戯っぽく笑って──いない。あまり見慣れない、しかし何度かはお目に掛かった事のある、自然体の笑顔だった。

 

「その…だから……手」

 

「て?」

 

 俺の視線につられて二人が絡まり合ってる部位を見つめた一色は、たっぷり数秒経ってから

 

「…………あっ!」

 

 

 と、慌てた様子で握っていた俺の手を離した。

 火傷でもしたかのように両手を胸元に抱き込み、顔を伏せてしまう。

 

「す、すみません、つい……」

 

「いや、俺は別に…」

 

 つい、で異性の手を取ってしまうなんてことがあるだろうか。いや、コイツの場合はあるのかも。前に「なんかいいなーと思ったら手を(以下略)」とか言ってたこともあったしな。あれだけの苦難を乗り越えたのだし、さすがの俺もいろはす査定で「なんかいいなー」レベルには到達したのかもしれない。

 

「……………っ」

 

 やけに落ち着かない空気を発しているお隣さんをこっそり盗み見ると、左右の指をすりすりと絡ませながら、物欲しそうに俺の手へ視線を飛ばしていた。

 何すかそのエッチな手つき。変な気分になるからやめてくんない?

 

「……どしたの」

 

「いえ、その…。ま、マッサージとか要りませんか? 指先の」

 

「要りゃない。ごほん。いや…別に手はなんともないし…」

 

 自分のベッドに腰かけた女の子からの、上目遣いのお誘いだ。つい脊髄反射で「要ります」って言いかけた。というか、半分くらい漏れた。

 細くてやわっこくてすべすべの肌が、指の間をくすぐるあの絶妙な感触──。これで念入りにしごかれでもしたら間違いなく大惨事だ。確実に別のところの血行も良くなってしまう。俺は血を吐く思いで却下した。

 

「で、ですよねー」

 

 言わば暴行未遂に遭ったわけだし、男性に触れるのが怖くなったりしないだろうかと心配していたのだが、コイツに限っては杞憂だっただろうか。それとも逆に、無意識下の恐怖を払拭するために誰かに触れていたい、みたいな強迫観念があるのかも知れない。

 

「…………」

 

「…………」

 

 どこかくすぐったい、しかし決して不愉快ではない沈黙に言葉を出しあぐねていると、

 

「おいっすー!」

 

 タイミングの良い事に、色気のない挨拶を口にした小町が、病室へと乱入してきた。

 

「ヘーイちゃんおにー。賢くて可愛い小町ちゃんですよー。お菓子とお茶でもてなして──って」

 

 お見合い状態となっている俺達を見て、訪問者は素早く戸口へと舞い戻る。

 半身を乗り出したまま、彼女はにへらっと笑った。

 

「……お邪魔でしたぁ?」

 

「そこに居たら邪魔。いいからこっちゃ来い」

 

 悪代官に侍る某問屋の如く、低い腰で擦り寄ってくる小町。

 

「どもどもー。いろはさん、お邪魔しまーす」

 

「いらっしゃーい。あ、コートそっちに掛けていいよー」

 

 ベッドに座ったままの一色が、あたかも部屋の主の如く来客の応接をこなしている。この不思議な光景はとりあえず見なかったことにして──

 

「さて、良いところに来たな小町くん。実は折り入って頼みがあるのだが」

 

「うむ、言ってみそ」

 

「悪いけどこれ濡らして背中拭いて欲しいんだわ」

 

 俺は小町の手をとって、その上にタオルをぽんと乗せた。

 

「え"っ…」

 

「前は自分でやったんだけど、後ろは身体(よじ)れなくてまだ無理っぽい。あ、洗面器そこね」

 

「あー…え~っと……」

 

 てっきりアイス一本くらいで快諾してくれるものと思っていたが、小町は困った顔で顔を逸らしてしまった。返事を渋った彼女の視線を追ってみれば、なぜか一色が腰を浮かせている。

 

「あ、わたしが! …いえ、その…良かったらで、いいんです…けど…」

 

 バッ…小町ちゃん、いつからそんな空気読めない子になったの? 鈍感力育成中なの?

 この状況で一色に振ったりしたら、立場的にこう言わざるを得ないでしょ。

 

「いや、そんな気ぃ遣わなくていいから。つか後輩女子を指名とかセクハラとパワハラで(ダブル)役満になっちゃうからね? ここは血を分けた妹の出番でしょ普通」

 

「そうですか…。そうですよね…」

 

 あっれぇー? おっかしいなー。かなりクールに配慮したはずなのに、これぞ泣き寝入り女子!みたいなやるせない顔が目の前で展開されている。何なら今夜にも#MeeTooで呟かれちゃいそうな雰囲気。

 

「別にいいけど…ホントに小町でいいの?」

 

「…他に居ないだろ?」

 

 俺ではなく、またも一色の様子を伺う小町。ってさっきから兄スルー頻度が高すぎじゃないですかね。もうちょい心のアンテナ立ててこ?

 

「じゃあいろはさん…ひっじょーに申し訳ないんですけど…」

 

「あっ、ぜ、ぜんぜん! ぜんぜんだから。こ、こまちゃんお願いするね。わたしちょっと売店行ってきまーす!」

 

 俺が貧相な上半身を晒そうとしている事実に思い至ったのだろう。空気の読める一色はパパっと財布とポーチを取り出して、パタパタと病室から出て行った。

 

「ふーむ…」

 

「…なにさ」

 

「一色にしては斬れ味が悪いなーと。最終的にはイヤイヤ名乗り出るにせよ、今の流れだとまずは『気持ち悪くて無理ですごめんなさい』って来そうなものなんだけど」

 

「なにそれドM? 気持ちわる」

 

 その冷たい声はホント勘弁して。機嫌悪いときの小町の声色って、他の女子と比べてもぶっちぎりで怖いからね? 慣れてる俺でさえちょっと死にたくなるし、初見だったらあっさり首吊るレベルですよ?

 

「…遠慮しすぎじゃねーのかってこと。あれ、屋上の事まだ気にしてるよな…」

 

「さあ。もう演技でも言いたくないだけなんじゃない? そういうの」

 

「えーと…」

 

 つまり"ヒッキーキモい"のテンプレに付き合う気すら起きないってこと? それ、前よりポイント下がってない? 名前を呼んでもらえないラインよりも下が存在するとか…。「なんかいいなー」に昇格したのは気のせいだったのか?

 

「……ほら脱いで。やったげるから」

 

 絞ったタオルを片手に、半ば引ん剝くようにして俺の寝間着を脱がせていく小町。手つきに乱暴さこそないものの、これ見よがしに背中を撫でる溜息が、その心中をありありと代弁していた。

 

「はぁ~~~~っ」

 

「…妹がガチで嫌がってるように見える件。だけど大丈夫、まずもって気のせいに違いない」

 

「嫌だよ。嫌に決まってんじゃんこんな役。空気読めバカ八幡」

 

 ひぎぃ! ナイフで刺された時より痛いッ!

 

「こ、小町さん…ちょっとお口が過ぎるんじゃありません? お兄ちゃんうっかり泣いちゃうかもよ?」

 

 さっき「別にいいよ」って言ってたのに…何たる反抗期。これだから娘ってのは…。

 あまり兄を邪険にするもんじゃあないぜ。いいか、俺はお前のおしめだって替えたことが──いやそれは無かったわ。たかだか二歳差だしな。

 

「泣きたいのはお兄ちゃんじゃないし」

 

「いやお兄ちゃんで合ってるだろ…」

 

 この状況で他に誰が泣くっていうんだよ…ぐっすん。

 

 

* * *

 

 

 不機嫌プリプリ☆ギガプリンの小町が帰ってから、俺は知らぬ間に買い与えられていたスマホを使い、とある動画を視聴していた。

 

『──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』

 

 一色が事件の折にニュースに顔を出し、ネットでちょっとした祭り状態になっていると聞いていたのだが…これはちょっとなのだろうか。再生数を見る限り、祭りを通り越して例大祭に発展しているような。

 

 しかし前から思ってはいたが、やっぱカメラ映えもすげえな。性格的にも絶対アイドルとか向いてると思うんだけど…いやいや、それはちょっと危ないか。一般人やってる時点でストーカーに追われてるのに、アイドルなんて完全に自殺行為だ。

 

 コメ欄が壮絶にヌメヌメしてるけど、よく見れば否定的な意見は多くない。何なら便乗して千葉叩いてる輩の方が多いくらいだ。動画の中の一色はいつものお愛想も控えめで、小悪魔っていうより愛玩系の可愛らしさが前面に押し出されている。この作為的な魅せ方──第三者によるプロデュースの臭いがするな。

 

 しかしこうやってネットに露出された以上、たとえ俺みたいなぼっちが動画を所持していても、格別の後ろめたさを感じずに済むからありがたい。せっかく本人との接点があるのに心行くまでそのルックスを鑑賞する機会がなかったので、ここぞとばかりにループ再生して眺めていた。

 既に4週目に突入しているが…今のところ全然飽きが来ない。いろはすマジ美少女。腐っていると評判の俺の目も蘇生しちゃうレベルで幸せです。

 

 さてもう一周、とリピートアイコンに指を伸ばしたところで──

 

「なに見てるんですかー?」

 

「いひゃっ!?」

 

 超高音質(ハイレゾ)ですら表現できない、生の甘ボイスが近づいてきた。

 

 売店から帰ってきたマジ美少女な後輩に、俺は慌ててブラウザを落し、しかしその拍子にスマホまで落っことしてしまった。ケースもつけずにいた筐体はフロアをしゅるりと滑り、そのままベッドの下へと潜り込む。

 

「っと…イヤなとこ行っちまったな…」

 

「あ、いいですいいです。わたし拾います」

 

 パタパタと駆け寄ってきた一色は、脱いだコートをベッドの柵に引っ掛けると、しゃがみ込んでベッド下に手を突っ込んだ。

 

「いや、悪いからいいって。自分でやるから…」

 

「いえいえ。屈むの辛いですよね?」

 

 遅れて俺もベッドから身を乗り出したが、そこでとんでもない事に気がついてしまった。

 

 ふわっとした髪の隙間に見える白い首筋と、魅惑の闇に包まれた襟元。

 それらが眼下に一望できる、神シチュが訪れていたのである。

 

 ごくり──。

 

 未知の領域への好奇心に抗う術を、俺は持たない。

 当然の如く、視線は冒険の旅に出航した。

 ボンボヤージュ! 索敵機発艦セヨ!

 

 さてさて、由比ヶ浜を戦艦とするならば、本標的はさしずめ軽巡洋艦といった所だろうか。あんまり大きくはないが、軽量級には軽量級の良さというものがある。具体的にはチクチラの期待値が高め。え、雪ノ下? 駆逐艦が活躍するのはここじゃないと思うな(酷)

 

「先輩慌てすぎ。絶対エッチなサイト見てたでしょ…っと、見えないなぁ…」

 

 うむむ? 一色は普段からもっと襟元が緩かった気がするんだが、なんでこんなにきっちり閉じてるんだろう。男の個室訪問するからって警戒してるんだろうか。この警備レベルじゃ鎖骨すらも厳しいぞ…。

 おっと、何やら肌色以外のものが見えたような…もうちょい…もうちょい…。

 

 敵艦の動向に最大限警戒しつつ、全力で胸元海峡の索敵を続けていると──

 

「…あったあった。よい…しょっと…」

 

 期待していた布地とも肌とも、もちろんビーチクとも違う、光沢のある金属質のものが、首と襟の隙間からズリズリっと零れてきた。

 

「あ」

 

 それが何であるかを確認する前に、彼女の口から漏れた警戒音を聞いた俺は、慌てず騒がず落ち着いて対処を試みた。

 ごく僅かに目線の角度のみをずらし、一緒にベッドの下を覗いていたフリをする。「最初からそっち見てなかった」のではなく、「そっち見てたけど別にお前見てた訳じゃないから」という体を装うワケだ。成功の秘訣は絶対に慌てないこと。いや成功したかどうかの確認はしたことないんだけども。

 

「…どしたん?」

 

 きっちり一秒。長すぎず短すぎずの間を置いてから、あたかも「いま初めてあなたを見ましたよ」という惚け顔を張り付け、慎重に一色へと目線を移す。

 

 

 ぷらんぷらん、と──。

 

 彼女の胸元で、鎖に繋がれた小さなリングがブランコを漕いでいた。

 

 

 チェーンを通して指輪を首に掛けていたらしい。頭を下げて覗き込んだ拍子に、それがポロリしたのである。

 

 ハッ! こいつはとんだレアドロップだ。

 期待させやがって…俺もう那珂ちゃんのファンやめます。

 

 一色は何故か固まってしまっているが、我が軍の策敵機が捕捉された…という雰囲気ではない。どうも、この指輪を見られたことに動揺しているようだ。

 確かに俺も今まで全く気づかなかったし、本人も厳重に隠していたみたいだが…。

 

「や。別にいいんじゃねえの、そんくらいの私物は。俺もチクったりしないし」

 

 生徒会長がこんなん着けてるって露見したら、さすがに騒ぎになりそうだとは思う。しかし授業中にヨガのポーズでもしない限り、今みたいな事故は起こらないだろう。

 

 一色は俺の視線を遮るように、ぎゅっとリングを握り込んでいた。

 しかし何かを決意したかのような顔で立ち上がり、その手の中のモノをこちらに突き付ける。

 

「…先輩。これ、わかりますか?」

 

 胸にぶら下げたものを俺の目の前に持ってきたのだから、自然と胸も突き出す形になる。体温を帯びたフェミニンな香りがふわりと鼻を撫で、リングの向こうに広がる双丘へと意識が引っ張られた。

 

 わかりますとも。天竺ですよねお釈迦様。

 

「これ、ここのトコ。読んでください」

 

 しかし、やけに真剣な声色で続ける一色に、こちらも真顔にならざるを得なかった。

 言われるがままに目を凝らすと、リングの内側に小さなアルファベットが掘ってあるのが見える。

 

 ほーん。こういうのはバカップル専用装備だと思ってたけど、思ったよりカッコいいな。指輪自体のデザインが落ち着いていて、あんまり子供っぽくないからだろうか。これ見よがしに指にはめていないのもポイント高い。見えないところでのオシャレにも気を抜かない──さすがは総武高の傀儡生徒会長(ファッションリーダー)である(失礼)

 

「えーと…"H to I"…」

 

 Iはいろはすだよな。じゃあ送り主はHくんか。Hねぇ…エイチ……。

 

 

 ……ん!?

 

 は? え、H? マジで!?

 

 そういう事? コレそういう事なの?

 

 じゃ、この指輪ってもしかして、俺が記憶飛ばしてる間に…!?

 

 

 感想を待っているのか、一色は何かを期待するような目で、じっとこちらを見つめている。その熱のこもった瞳に若干たじろぎつつも、俺はこの後輩に素直な気持ちを返してやることにした。

 

「…いや、すげぇわ、お前」

 

「す、すごい…ですか…?」

 

「あれだ、雨垂れ石をも穿つっつーか、石の上にも三年っつーか」

 

「え、えっと…?」

 

 こっちが記憶を落している間に自分もちゃっかり落すとは…本当に恐れ入った。

 

「あの、先輩。この意味、ちゃんと分かってますか…?」

 

 一色はなおも不安そうにこちらを見上げている。

 

 おのれ、どこまでも失礼な後輩め。指輪との接点なんて、どうせ縁日で小町に恵んだオモチャか700円のカッコカリが関の山だと思っているんだろう。Exactly(イグザクトリー)(そのとおりでございます)

 

「にしても、三浦とか大丈夫なのか? それこそ血の雨が降りそうなんだが…」

 

「は…? なんで三浦先輩…?」

 

「けど葉山の場合、あんくらい入れ込んでる女子は他校にも居そうだな。出歩く時は気をつけろよ?」

 

 誰かさんと色々被っていないことで定評のある、一色の大本命ことH先輩。

 見たとこ彼女には少々分の悪い勝負に思えたが、恐らく陰で地道なアプローチを積み重ねていたのだろう。それに今回の事件がきっかけで、あいつも一色のことを意識する時間が増えていたはずだ。

 俺も今回の依頼では盛大にやらかしてしまったが、巡り巡ってうまく行ったのであれば、負債を全部チャラにしてもらってもいいんじゃないだろうか。

 

「えっ!? は、葉山先輩…? あの、ちょっと先輩なに言って──」

 

 本気で頭を心配しているような失礼極まりない目を俺に向けていた一色は、しかし何かに気が付いたかのように指輪を検めると、次の瞬間、盛大に笑い出した。

 

「……ぷっ、あはははは、あはははっ!」

 

「……え、何?」

 

「ぜ、全然気が…あはははっ! え…やだウソ、な、名前まで…ぶぷっ…マンガみたい! あはは!」

 

「おい…さっきから何なの? なぞなぞ?」

 

「いえ、そういうんじゃ……いやある意味そうなんですけど…ふふっ、あははっ」

 

 どうでもいいけど、いろはすがここまで大笑いしてるの、初めて見た気がする。涙まで浮かべやがって、ちょっと可愛いじゃないの。

 

「ま、まさかここまで引きずるなんて…。まあ完っペキに自業自得なんですけどねー」

 

「よく分らんけど…。ここまで引きずったから、最後の最後で勝ったって話じゃねえの?」

 

「最後の最後ですか…。一体どうなるんでしょうね…」

 

「…? …とにかく、おめでとさん」

 

 俺にしては珍しく真面目に祝ってやったつもりだったのだが、結局一色はこれといってまともな返事をしてくれなかった。

 

「あー笑った。…はい先輩、スマホ♪」

 

「どうも……」

 

 手渡されたスマホに礼を言うと、

 

「けど、さすがに病院ですよね。ベッドの下もホコリ全然ですし」

 

 一色はあからさまに話題の切り替えを図ってきた。

 判然としないままに、俺は彼女との会話に応じる。

 

「学生のやってる掃除とは違うしな。仕事なんだからこんくらいやってもらわにゃ困る」

 

「わたしなら手を抜けそうなところは抜いちゃいそうです。この壁だって、なんでわざわざ白なんですかね。この色、汚れ目立つのに…」

 

「あ、壁で思い出したんだけど──そこらへんにさ、何か掛かってなかった?」

 

 

 

 

「……………………………………」

 

 

 

 

 ついさっきは朗らかに笑っていた一色が、今は朝凪に佇む水面の如く、静まり返っていた。

 

 

 考えてみれば、俺に限ってスムーズな会話など出来るわけがないのだった。キャッチボールのつもりがデッドボールを返してしまったとあっては、笑うに笑えない。過去最大クラスの地雷を踏んだ感触に、嫌な汗が脇の下を湿らせていく。

 

「………あ、すみませんちょっと考え事してました。なんですか?」

 

 無視するには心臓に悪すぎる沈黙の後、一色はいつも通りの小悪魔スマイルでこちらを振り返った。

 

 って聞き逃しただけかよ! 今のでちょっとトラウマ更新されちゃっただろうがふざけんな。

 

「だから、そこの壁にさ。何か掛かってただろ」

 

「…ポスターとかですか?」

 

「いや、その…そういうんじゃなくて…」

 

 お前にやったアレが、掛かっていたような──。

 

 きょとんとしている一色の様子を見て、だんだん自信が無くなってきた。そういや寝落ち寸前に見かけたんだっけ。ひょっとして夢だったんじゃないのか? てか、よく考えたら真偽はどうあれそんなアホなこと聞けるわけないし。

 

 なぜかって? んじゃ、さっき俺が言わんとした言葉、意訳してみようか?

 

 ──前にやったプレゼント、わざわざ持って来て、俺のために着て見せてくれたよな?

 

 うん普通にキモいですね。いや普通以上にキモいですね。

 理性と常識が口を揃えて「妄想乙」とか罵っちゃうレベルでキモいですね。

 

 ちょっと顔見知りの先輩ごときの為に、キッチンもない病院の一室で、何が悲しくてそんなイメクラまがいのサービスをしなければならないのか。しかも相手は非モテを拗らせた喪女ではない。今や時の人となった一色いろは──そう、いろはすスパークリングである。

 

 既に白い壁には辟易していたところだ。このうえ精神(こころ)のお医者さんの世話にはなりたくない。

 

「すまん。やっぱ勘違い──」

 

 取り繕おうと一色に目をやったところで、今度は俺が固まってしまった。

 

「お、おい…」

 

「え?」

 

「いや、それ……」

 

 ニコニコと笑みを絶やさない、その大きな瞳から、ついと一筋。

 

 大粒の涙が、彼女の頬を濡らしていた。

 

「え……あ………」

 

 言われて頬に手を当てた彼女は、そこで初めて気が付いたかのように慌ててハンカチを当てる。

 

「さ、さっき笑い過ぎて、まだ残ってるんですよ」

 

「…………………」

 

 堰を切ったように瞳から零れる雫を、俺はぼうっと眺めていた。

 

 うちの親父とオカンはあの調子だ、命に別状のない俺のためにわざわざ仕事を休んでいたとは思えない。必然、入院中の面倒は小町が見てくれていたものだとばかり思っていた。

 

 しかしこうして彼女を見ていると、その当たり前の仮説が揺らいでくる。俺との距離感やこの病室での立ち居振る舞いの全てが、もっと単純な回答を提示してくるのだ。

 ちょっと顔見知りの先輩ごときの為に、キッチンもない病院の一室で、イメクラまがいのサービスまでしてくれた人物。俺の妄想にしか登場しないはずの、そんな甲斐甲斐しい女の子が、確かに実在するのだと。

 

 だから思わず問い詰めそうになる。

 

 それはお前のことなんじゃないのか、一色──。

 

「あ、あー! 目がちょおゴロゴロするー! これはマツゲ入ったかもですー」

 

「……あんま強くこすんなよ」

 

「ちょ、ちょっと洗面所…ひぐっ……きょ、今日はそのまま直帰しますね、お疲れでした…っ!」 

 

 背を向けたまま荷物をひったくり、彼女は逃げるようにして病室を飛び出していく。

 

「そか。気ぃつけてな…」

 

 俺は結局何も聞けないまま、その小さな背中を気のない素振りで見送った。

 

「…………」

 

 白い壁を見つめ、溜息をひとつ吐く。

 

 これはきっと、触れるべきではないのだろう。

 

 一色のみならず、周囲の誰もが異口同音に「何もなかったのだ」と言う。そこまで無かったことにしたいと言っている、そして掘り返されれば涙があふれるほどの何か。口にすれば取り返しのつかないことになりそうな──そんな危うささえ感じる。

 

 もしもこの直感が正鵠を射ているのであれば、それこそ本人が望む通りにしてやるべきではないだろうか。ようやく想い人と結ばれた彼女にとって、他の男の世話をしていた経歴なんてのは黒歴史でしかない。女の過去は言わなきゃ無いのと同じ、とはよく言ったものだ。感謝ではなく忘却を求めている彼女に、俺は恩を返さなくてはならない。

 

 だから、そこに触れるべきではないのだ。

 

 エプロンなんてなかった。それでいい。

 

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

 病院の中庭は、入院患者達にとって格好の散歩コースになっている。けれど真冬の、しかも夕方という薄暗い時間帯ともなると、好き好んでここを通る人間は多くない。そんなうらぶれた空間で、彼の声に火照った身体の熱を冷ますのが、最近増えた新しい日課だった。

 

 我ながらけっこう病的だとは思うんだけど。

 でも、こうでもしないと、先輩の前で笑っていられないから。

 抱き締めて、キスしたいって、言っちゃいそうだから。

 

 コート越しにベンチの冷気が立ち上ってくるけれど、今のわたしにはそれすら生ぬるい。バッグから黄色い缶を取り出して、白い息を吐いた。既に温もりが失われて久しいそれをカキッとやって、そっと口をつける。

 

 好物を我慢してまで挑戦し続けた甲斐もあってか、わたしの舌はこの風変わりな飲料を美味しいと感じるまでになっていた。ううん、今では愛おしいとすら思っている。もういっぱしの中毒者と言って差し支えない状態だった。

 

 

「酷いですよ、先輩──」

 

 

 飲み口はあっという間に外気に冷えて、触れていると痛いくらい。

 それでもわたしは、そこに唇を押し付ける。

 繰り返し、優しく、自分の熱を分け与えるように。

 

 

 何度目かの彼とのキスのとき、はっきりとこの味がした。

 

 だからこの甘さは、彼の味だ。

 

 温もりも香りも吐息も、何もかもが足りないけれど。

 

 この味だけはあの時とおなじ──。

 

 

「忘れるなら全部忘れてください……こんなの辛すぎます……」

 

 

 グツグツと湧き上がってくる熱い塊を、わたしは仮初めの恋人へと口渡しし続けた。

 

 

* * *

 

 

 中身の尽きた空き缶をしつこく唇で弄んでいたわたしは、いつからか、目の前に一人の女の子が立っていることに気が付いた。意識を向けられた彼女は、いつも通りの朗らかな声色で話しかけてくる。

 

「ここ、寒くないの?」

 

「…身体は暑いくらいなので」

 

 わたしの言葉の裏が伝わったのか、少しだけ悲しそうな空気が伝ってきた。何か言おうとして、けれど開いた口は言葉もなく閉じられる。同情を嫌ってわざわざこんなロケーションを選んでいる身としては、その配慮がありがたかった。

 

 

「告白…」

 

「……っ!?」

 

 

 ややあって、彼女の口からポツリと漏れた単語に、一瞬で全身の肌が粟立った。

 

 『──したよ』と続いたならば、それはわたしにとって終わりを意味する言葉になる。

 

 けれど実際には、想像とかけ離れた意図の発言だった。

 

 

「──しないの?」

 

 

 握りしめた手の平に浮かんだ汗が、寒風と共に熱を奪っていく。

 真剣で寸止めでもされたかのような、生きた心地のしない瞬間だった。

 一呼吸おいて唇を湿らせてから、わたしは口を開いた。

 

「…言ったじゃないですか。無かったことにするって」

 

「恋人ごっこは、でしょ?」

 

「…辛口ですね」

 

 全身全霊で引きずっている、わたしの心の拠りどころ。あの愛しい蜜月の日々を、

 

「だって認めてないし。あの時のことも、その後のことも」

 

 そう言って、彼女はきっぱりと断じてみせた。

 少なからずムッとしたけれど、他でもない彼女にだけは、どう言われても反論できない。胸を突いた苛立ちを、溜息と一緒に無理やり吐き出した。

 

「…とにかく、しませんよ、そんなこと。出来ません…」

 

「断られるの、怖い?」

 

「……そうかもですね」

 

 もう一度彼と触れ合うことが出来るなら。

 その可能性が僅かにでもあるのなら、今すぐにでも思いの丈をぶつけたい。

 けれど、勝ち目がゼロの戦いに飛び込むのは無謀ですらない。ただの自殺だ。

 

「気、遣ってるとか」

 

「……さあ、どうでしょうか」

 

 申し訳ないけれど、正直それもない。

 この件に関して、わたしはどこまでも自分本位だ。

 ましてや圧倒的優位の二人に送る塩なんて、持ち合わせてはいない。

 

「それとも、退院するまで我慢?」

 

「……ご想像にお任せします」

 

 待ってどうにかなるような話なら、いくらでも我慢する。

 けれど、きっと時間はわたしに味方なんてしてくれない。

 

「もしかして飽きちゃった?」

 

 ────。

 

 凍えていたはずの頭の芯に、赤い火が灯った。

 想い出に微睡(まどろ)んでいた思考が、一気に過熱していく。

 

「お試し期間で満足しちゃったのかなって」

 

「…結衣先輩」

 

 ほんの一瞬だけ理性が"待った"をかけてきたけれど、もう止まらなかった。

 

 

「──ケンカ売ってるんですか?」

 

 

 やってしまった。

 

 自分の喉から出たとは思えない、まるで地を這うかのような声。

 このひとに、こんな汚い感情をぶつけたくはなかった。

 けど、そこはわたしの逆鱗なのだ。触れた方が悪い。

 

 ここで初めて彼女の目を捉えたわたしは、しかし返ってきた言葉に一層目を見開くことになった。

 

 

「うん、そう」

 

 

 正面に立ち、こちらを見下ろしている両の瞳。

 

 そこには、今までに出会ったどんな女性よりも、強烈な光が宿っていた。

 

 

「ケンカ売ってる」

 





女の闘いもついに最終ラウンド突入。

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