プロローグ
3年前――
どこからともなく、水の滴る音が聞こえる。コンクリート打ち放しの無機的な空間に、何者かの荒い息が響いていた。天井の照明は耳障りな音を立ててちらつき、点滅を繰り返している。そんな中、足音を立てて駆けてきた男は、落ち着きなく周囲を窺いつつ、駐めてあった車に乗り込んだ。
誰が見ても挙動不審であることは明らかだった。彼はエンジンを掛けた後も座ったまま、しきりに辺りを見回している。後部座席に投げ込まれていたのは、大量の書類や写真が挟まった1枚のファイルだった。電子化が進んだこの時代、わざわざデータを紙の書類にして持ち出すのは不自然以外の何物でもない。まして、大量の写真が挟まっていればなおさらだ。
エンジンを高鳴らせながら、猛スピードで駐車場の構内を疾走した彼の車は出口へと差し掛かる。端末にパスをかざしてバーが開いたのを確認すると、力強いエンジンの唸りとともに地上へ続くスロープを一気に上った。地下5階相当の深さから這い上がった彼は、改めて周囲を確認すると再びアクセルを踏み込む。
閑散とした道路には彼の車以外、誰も走ってはいなかった。辺りに広がるのは、整備され尽くした平坦な土地のみ。背後に聳える巨大建造物群のシルエットは、月の光に照らされその輪郭を白く煌めかせる。静寂が支配する大地を打ち破るかのように道路を突き進んだ彼は、やがて“ゲート”へ着いた。
鋼鉄製の重厚なポールが道路を塞ぎ、小屋の中には男性型警備アンドロイドが無表情で立っていた。終始無言を貫いたまま、彼は先ほどのパスとダッシュボードの中に突っ込んでいたクシャクシャの書面を渡すと、緊張を紛らわすために煙草に火をつけた。
「退域許可および構内車両通行許可を確認しました。ゲートの通過を許可します」
抑揚のない、機械的な音声がアンドロイドから発せられると、ポールは地面に吸い込まれるように引っ込んだ。
パスを受け取ると、車は再び走り出す。先ほどとは打って変わり、周りの景色は鬱蒼と茂る森林地帯へと移り変わった。そんな中でも、時折みられるのが通行車両を監視するカメラと、それに付随する通信装置だった。
公安監視網が張り巡らされた一般の道路ですら、ここまでの監視体制はあり得ない。それらはここがまだ、彼の出ようとしている施設内であることを示していた。
滅多にない対向車が、彼の車の横を通り過ぎていく。だが、それは到底、車とは言い難い代物であった。グレーに塗装された本体から4本の脚が伸び、両腕の先には7.62ミリチェーンガンの銃身が覗いている。口吻にあたる部分では6砲身のガトリング砲が鈍く光り、頭部には白いアイボールが一つ埋め込まれていた。さらに背部には、57ミリ榴弾砲の射撃ポッドまで搭載されている。
そんな重武装の思考戦車が定期巡回している。それだけで、ここが余程の重要施設であることは明らかだった。
5分ほど山道を進むと、再び姿を現したのはもう一つのゲート。先ほどと同型の男性型警備アンドロイドが再びパスの提示を求めた。
彼は煙草をふかしつつ、助手席に置いていたそれを手渡す。しばらくして通行許可を告げると、アンドロイドはゲートを開いた。ここから先はいよいよ一般道路へ接続する区間となる。監視カメラの数も少しは減るが、それでも通常の道路の倍は設置され、到底避けることはできない。となれば、できるだけ早くこの区間を抜けるしか他に手段はなかった。
エンジンがけたたましい咆哮を上げ、車は一気に急加速した。スピードメーターは80キロを超え、間もなく100キロまで差し掛かろうとしている。山道を切り開いて造られた専用の連絡道路は、カーブの半径から勾配に至るまで厳しい規格で整備されていた。大型車両の通行と災害時の避難を想定した道だけあって、夜間でも車を走らせるには申し分ない。
しばらく連絡道を進むと、新浜方面へ接続する高速入口の看板が見えてきた。交差点を左折して料金所を通過すると、彼は新浜方面の上り線に入る。深夜ということもあり、走っていた車はどれも長距離バスやトラックばかりで、乗用車は見られない。彼はそれらの車両の隙間を縫うように進み、新浜を目指していた。
冷や汗を拭いながら、片手でカーラジオのボリュームを上げる。深夜放送のためかアナウンサーの声は入らず、音楽のみが流され続けていた。いま流れているのは古いロックナンバー「ロンドン・コーリング」だった。彼はドラムのリズムに合わせて脚を揺らし、少しでもこの緊張から逃れようとする。だが、喉の奥に張りついた渇きが消えることはなかった。ハンドルを握る指先が、薄く汗ばんでいる。
バックミラーを見ては、前方に視線を戻す。そのたびに、肩の筋肉がわずかに強張った。背後には何も映っていない。だが、何も映っていないことが、かえって彼の不安を煽っていた。
すぐにでも誰もいない辺境の地へ逃げ出したいと思う気持ちもあるが、同時にそれらを抑え込む勇気も彼は持ち合わせていた。そうでもなければ、死んでもこんな行動は起こさない。乾いた唇を舐め、彼は自嘲気味に鼻で笑う。
制限速度を超える猛スピードで車を走らせ続けて、もうすぐ1時間が経とうとしていた。ようやく新浜に着くという安心感とともに、再び緊張が戻ってくる。そんな時、また1台、トラックを追い抜こうとした彼は、ウインカーを出して車線変更をする。だが、あろうことか突然そのトラックが彼の走る車線にはみ出してきた。
「畜生、危ねえじゃねえかッ!」
右手が反射的にハンドルを握り直し、全身が硬直した。怒声を上げた彼は、クラクションを鳴らし続ける。トラックはそれに気づいたのか、やや車体を路肩に寄せて、追い越し車線を開けた。そこを彼は流れるように通り過ぎようとするが、何とトラックは再び車線をはみ出し、中央分離帯に押し付けるように急速に幅寄せしてきたのだ。
「くそッ!!」
掌に汗が滲み、ハンドルが一瞬だけ滑った。彼は歯を食いしばり、迫る中央分離帯から目を離さないままアクセルを踏み込む。
一瞬だけトラックの運転席を見やったが、そこに人の気配はなかった。黒いスモークフィルムの奥からは、怒声も視線も返ってこない。ただ、巨大な車体だけが彼の車へ圧力をかけていた。
バックミラーを覗くも、そこに映るのは、空いた車線と白い照明の列だけ。後続車はいない。彼の顔から血の気が引いた。
一旦は追い越して回避しかけたものの、トラックも急加速して彼の車の後部側面に衝突した。後輪がスリップして白煙を上げ、車体のバランスが崩れる。そのまま中央分離帯に激突すると、彼の車は高速道路上を派手にスピンした。そうして反対側のガードフェンスを突き破り、高架下に勢いよく叩き付けられる。
車は原形を留めないほどに潰れ、たちまち炎に呑まれた。衝突したトラックは炎上する車の惨状を見届けるように、路肩を減速して進むと、悠然と走り去っていった。
翌日の新聞では、その事故は紙面の端に小さく扱われただけだった。首都高速で未明に起こった事故により、ある原子力発電所の現役の制御室長が亡くなったという内容だ。だが、原因は彼の無謀な運転にあると報じられ、警察が酒気帯び運転で捜査中であるとしか書かれていなかった。彼の車に積まれていた書類の存在には、一切触れられていなかった。
2026/5/12 一部修正
2018/8/20 一部加筆修正