第21話
東の空が赤く染まり、間もなく日の出を迎えようとしている。山々の稜線が白く輝き、早くもガビチョウやキジバトのさえずりが聞こえてきた。車から降りた岸田は、無言のままその光景を食い入るように見つめ、目に焼き付ける。木々の葉がさざめき、吹き抜けてくる風からは緑の香りがほのかに漂う。生命の息吹が満ちていた。また新たな一日が始まろうとしている。
しかし、人間の世は常に夜のままである。一生明けることのない暗闇の中で、人々はすべてを忘れ去り、見せかけの快楽に溺れている。極めて愚かなことだ。岸田はホルスターからハンドガンを抜き出す。鉛色の鈍い光沢を放つフレームに、特徴的な黒いグリップ。半世紀前にチェコスロバキアで製造されたCz-52は、兄の雄一からの遺品だった。
(俺たちが夜明けをもたらしてやる。そして、兄貴の仇も)
反芻するようにその言葉を繰り返した彼は、Cz-52に弾倉を入れる。装填されているのは9ミリより貫通性に優れる7.62×25ミリトカレフの強装弾仕様8発で、近距離なら軽量義体の外殻や関節部を撃ち抜き、内部機構に損傷を与え得る威力を持つ。
その時、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。砂埃を上げる無骨な灰色のピックアップトラックから降りてきたのは、一人の長身の男。晴天にも関わらずフードを深く被るその姿は、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。
現れたその男を取り囲むように、岸田の部下たちが集まる。だが、銃を向けるようなことはしなかった。ホルスターに銃を戻した彼は、振り返ると男の方に向かって歩み出す。
「今のところ、あんたの言う通りに事は運んでいる。だが、本当にこの作戦でいいんだろうな?」
「ああ、何も心配することはない。必要なものはあらかた揃った」
彼の問いかけにそう答えた男の後ろから、再びエンジン音が聞こえた。姿を現したのはオリーブドラブの大型トレーラーだった。荷台が大きく沈み込んでいるところを見ると、余程の重量物が積載されているようだが、荷台には灰色のカバーが取り付けられていて中身を確かめることはできない。しかし、カバーの凹凸から、積載物の大まかな形は想像できた。
「これが例のものか…」
それを見た彼は、さすがに息を呑んだ。まさか本当に準備できるなど、考えてもいなかったのだ。一世代前とはいえ、一部の部隊では今なお現役で使用されている陸自の多脚戦車。それが用意できれば、目標の達成はいよいよ現実味を帯びてくる。
「爆薬はどうだ?準備は整っているのだろうな」
相手にそう訊かれた岸田は、目で示した。彼の目線の先には錆び付いた生コンクリート工場の建屋が見え、吹きさらしのトタン屋根の下の駐車スペースには数台のバンが駐められていた。うち1台の荷台は開かれており、大きな黒いカバンがいくつか積まれている。それを見ただけで男は頷くと、車へと戻り始めた。
岸田はそんな後ろ姿を押し黙ったままじっと見つめていたが、車に乗り込む寸前になって呼び止めた。
「お前は見たところ全身義体だな。なのになぜ、我々の協力をしている?」
その場の空気が一気に張り詰める。岸田の仲間たちは獲物に餓えた狼のような殺気を滲ませ、鋭い表情で睨みつけている。だが、男は全く意に介さず、開きかけた運転席のドアを一旦閉めると、静かに岸田に向き直る。数秒の沈黙。だが、男は突然薄笑いを浮かべると、こう言った。
「私の利益になるからだ。私はカネとスリルを常に求める貪欲なハンターだからな」
そうして、男は車に乗り込むとエンジンを吹かして素早く切り返し、来た道を去っていく。だが、やや困惑した様子の仲間たちとは対照的に、岸田は事態を冷静に受け止めていた。相手の本当の目的が何かは分からない。しかしいずれにせよ、金やスリルなどという空虚なもののために手を貸してくれるのであれば、利用するだけ利用すればいい。
「お前にもいずれは審判の日が訪れる、赤蠍」
彼はそうつぶやくと、待機していた仲間たちに作戦開始の命令を下した。整然と敬礼を決めた彼らは、駆け足で駐められた車の方へ駆けていく。相手がたとえ全身義体だろうと、人間であることには変わりはない。いまは彼の協力が不可欠だが、用が済んだら直ちに手を打つ必要がある。岸田はそんな思考をめぐらしつつ、目の前に停まった仲間のバンに乗り込んだ。
複雑なトラスに支えられた換気塔が、どんよりとした明灰色の雲を貫くように聳えていた。辺境の地に突如現れる巨大建造物群。その地下には、天使にも悪魔にもなり得る“魔法の燃料”と反応炉が埋まっている。
公安9課で日々職務を全うする彼には、途中の道路に設置された鉄塔の先に光るカメラの存在にはとうに気付いていたし、またそれが何を目的としているのかも分かっていた。
車両のナンバーを自動的に読み込むNシステムである。その他にも、道路上にしばしば設置されている監視カメラの多さだけでも、いかにこの施設の重要性が高いのかを窺い知ることができる。特に、大都市とはほど遠いこのような田舎で、高速道路並みにカーブや勾配が抑制された専用道路がある時点で、事情を知らない者ですら薄々何かを勘付くだろう。
トグサは間もなく通行ゲートの前に到着すると、小屋の中から姿を現した警備アンドロイドにあらかじめ9課に届いていた許可証を渡した。
アンドロイドがそれを確認している間、トグサは周囲に目をやった。敷地内外を隔てるフェンスには立ち入り禁止の警告が張られ、20~30メートルほどの間隔で赤外線監視カメラが設置されている。高速道路の料金所を思わせる屋根付きのゲートにも複数のカメラと車両スキャナー。強行突破に備えてか、重厚な金属製のポールが地面から何本も突き出し、前方を完全に塞いでいる。このアンドロイドも推測に過ぎないものの、かなり出力強化された軍用に近いスペックのはずだ。そして彼は、ゲートの脇に書かれた文字を見つめる。
『新日本電力新大浜地下原子力発電所』
電力の自由化が進んだ現代でも、原子力発電所のような国の危機管理にも関わる重要施設を建設できるのは、指定を受けた一部の電力会社のみである。だが、この新日本電力は西日本を中心に展開している有力な電力会社の1つで、各地にもいくつかの原発を抱える巨大企業だった。
昨日訪ねた本社といい、この施設といい、どれほどの金が掛かっているのかトグサには見当もつかなかった。主婦のたしなみといって株取引を始めた妻の話では、時価総額が某大手銀行に肉薄するほどの経営規模ということだ。ただ、電気事業法改正にかかわる疑惑など、色々と悪い噂も絶えないので、妻は早々と株を売却してしまったようだが。
「ここの企業体質なら、不正の隠滅があっても不思議じゃないな」
トグサはそう呟くと、返された許可証を受け取って開かれたゲートを通り抜ける。監視網はさらに強化され、道路にはしばしば簡易バリケード構築用のポールの穴が見られた。山道を進むことおよそ5分。やがて2つ目のゲートが見えたが、今度のゲートに張り付けられた警告表示にはさすがの彼も息を呑む。
『これより先、原子力保安法第9条に基づく特別保安区域につき、許可なく侵入した者は警告なく射撃される場合があります。また、日本国政府及び株式会社新日本電力は一切の賠償責任を負いません』
簡単に言えば、この先は例え撃ち殺されても誰にも文句を言えないということだ。テロ対策を考えれば納得できることではあるが、無警告での射撃というのは元刑事としてはやや抵抗があるのも事実だった。
同じようにして許可証をアンドロイドに渡した彼は、遠くに視線を移すとため息をついた。なぜ自分だけテロリストの事件から、こんな過去の事件の捜査に回されてしまったのだろうか。確かに、生身の自分がテロリストとの戦闘では足手まといになりかねないのは自分でも分かっている。昨日も少佐が陸自の思考戦車とやり合うなど、自分ではあまりに危険な事件も起こっていた。でも、それなりに代わりの何かでその分を補ってきたつもりだった。
少佐は何を考えているのだろう。彼女は自分にこの事件の捜査を命令した時、おそらくテロリストたちと何らかの関係があるということを話していた。だが、実際考えてみれば、そう思える根拠は乏しい。確かに剣菱の開発次長が残した痕跡は、最終的に3年前に亡くなったこの原発の制御室長の記憶へと繋がっていた。それでも、現時点でテロリストとその制御室長を結びつけるのは、どう考えても不可能なのだ。
もしかすると、少佐は何かを感じているのかもしれない。彼女がしばしば口にする、『ゴーストの囁き』というやつだろうか。
だが、今の自分にはゴーストは囁いてくれなかった。
「許可証は確認されました。ゲートの通過を許可します」
再び車を走らせたトグサの前に、前方から何かが近づいてくる。思わずスピードを緩め、目を凝らす。間違いない、あれは思考戦車だった。
灰色に塗装されたその戦車はタチコマより一回り大きい上に、比べ物にならない程の重装備が施されていた。まず輪郭が直線形で、装甲が剥き出しになっている。両腕からはライフルの銃口が伸び、口にあたる部分にはガトリング砲が1門。タチコマで言えば、課員が搭乗する後部ポッドに当たる部分には榴弾砲の砲身が鈍い光沢を放っていて、まさしく戦車たるに相応しい姿だった。
「車両ID203の車両へ。案内を開始します」
目の前まで来た戦車は機械的な音声でそう言うと、方向を変えて施設の方へ走り始めた。どうやら、駐車場所まで車を誘導してくれるようだ。お喋りなタチコマにすっかり慣れてしまっていたトグサは、不親切なこの戦車のAIに少し驚かされた。こうしてみると、いつもは五月蠅いと感じるタチコマだが、こんな根暗なAIよりは幾分マシなのだろうと思えてくる。
戦車の後を追いつつ、彼は施設内を改めて見回した。前方には巨大な煙突が4本聳え、赤い航空障害灯がゆっくりと点滅を繰り返していた。草木がすべて刈られた敷地内には、しばしばポールが立ち、水銀灯の丸いガラス球が見える。しかしよく見ると、照明用ポールに混じって、旋回式の監視カメラのような物体があった。
一見するとカメラだが、何となく彼はあれがカムフラージュされた自動銃座に見えて仕方がなかった。先ほどから見てきた物騒な物のせいでそう感じるのかもしれないが、目の前を思考戦車が道案内をするという異様な状況から考えると、不思議なことではないのかもしれない。
先に見える発電所の建屋は複雑に絡み合い、その一つ一つがあまりにも巨大だった。ほとんどの建物はカクカクした直方体で、まるで積み木がいくつも積み重ねられているような光景だ。それでも一つ気になったのが、あるべきはずの配管やタンクといった設備が見られないことだろうか。地下原発といっても、どこまで地下化されているのかは分からない。ただ一つ確かなのは、ニュースで見る他の原発より、地上設備が明らかに少ないということだった。
案内されるがままに道路を進むと、やがて地下駐車場の入口へと案内された。駐車端末に許可証をかざすのがここまで来ると面倒臭いが、この警備体制なのだから仕方がないと自分を納得させる。地下5階ほどの深さまで一気にループ状のスロープを下ると、外部来訪者用に隔離された駐車区画へ出た。戦車は銃身が突き出たマニピュレータで空いている駐車スペースを指さす。
トグサはそこに車を駐めると、ドアを開けて降りる。不親切な戦車は既に施設の入口まで進んでいて、危うくはぐれそうになった。壁に埋め込まれた認証端末に許可証をかざすと、鋼鉄製の重厚なドアがゆっくりと開く。
「第2エレベーターにお乗りください」
戦車の指した先には、確かにエレベーターのドアがあった。そして、早くも戦車はその場で方向転換すると入口へ戻っていく。あまりに淡々と動く戦車に、トグサは後部の型番をチェックしてみた。調べたところ、案の定10年近く前の大戦期に開発された基地警備用軽多脚戦車にヒットする。
道理で不親切なAIなのだろう。それと同時に、少し恐ろしさを感じる部分もあった。なにせ旧式とはいえ、立派な軍用思考戦車なのだ。装甲もしっかりしていて、並みの対物ライフル程度では撃ち抜くことはできないと思われる。
「こりゃ、まるで軍基地並みの警備体制だな…」
トグサはそうつぶやきながら、エレベーターに乗り込んだ。ふと目線を上にやると、天井の隅には監視カメラがついている。ここまでの間に、一体いくつのカメラが設置されているのだろう。
扉が開くと、ようやく人間が出迎えてくれた。と言っても、一目見ただけで義体化率の高いことが窺える、体格の良い武装警備員たちだったが。肩にはSMGの一種、H&K UMP45を提げ、銀色の特殊なゴーグルを装備している。そんな彼らの姿に、トグサは思わず身構えてしまった。
「ようこそお越しくださいました。それでは、ボディチェックをさせてもらいます」
「ああ」
彼らに言われるがまま、トグサはエレベーターを降りてすぐの保安検査ゲートに連れて行かれた。指示通り、彼は携帯していたマテバM2007とその弾を専用のプラスチックのカゴの上に置き、金属・爆発物探知ゲートを通る。電脳化以外の義体化はしていない生身の体だったため、検査は予想より早く終わった。さすがに義体化をしていないのを検査官に訝しまれたのは気に障ったが、仕方がない。公安関係者で全く義体化をしていない者はあまりいないのだ。
「では、これは所内では規定に基づき預からせていただきます。電脳通信も制限されていますのでくれぐれもご注意を」
あらかじめ知っていたことではあるが、所内の保安区域では外部電脳通信は禁止され、許可された所内回線以外に接続することはできない。トグサも指示に従い、電脳を自閉モードに切り替えた。また、マテバもそのまま検査官に預かられてしまう。こういう仕事に就く者としては一抹の不安が残るものの、このような厳重警戒の施設内ではそんな心配は無用なのかもしれない。
そして、彼は許可証と引き換えに保安検査を完了した証明となる青いIDカードを渡され、首にさげた。
「では、私たちが案内しましょう」
そう言うと、2人の警備員がトグサの前後を挟んで歩き始める。相変わらずSMGを握っていて、どことなく空気が張りつめていた。そんな空気に嫌気がさしたトグサだったが、変な行動を取って逆に面倒なことになるのも考え物なので、大人しく歩き続ける。
通路の壁は白を基調に、胸の高さほどに1本の赤いラインが左右に引かれていた。天井に並んだ蛍光灯には1つとしてちらつくものはなく、しばしば黒いドーム状の監視カメラが設置されている。
初めて入る現役の地下原発に、トグサは興味津々だった。しばらく廊下を進んだ後、再びエレベーターに乗って下へ降りる。警備員の2人は歩き始めてからずっと沈黙を続けていたが、ここにきてようやく口を開いた。
「制御室内は部外者の立ち入りは完全禁止なので、休憩室でお願いします。既に、面会の職員はそこに待機しています」
「分かった」
扉が開くと、左右のラインは青に変わっていた。フロアまたは区画ごとに異なる色に塗り分けているのだろう。また、目の前の通路を進んだ奥には一際重厚な鋼鉄の扉が控えていた。おそらく、あれが制御室の入り口といったところだろうか。いや、もしくは保安区画の入り口に過ぎないのかもしれない。そんなことを考えていたトグサだったが、もちろん彼はその扉の方には案内されず、右の通路を進んだ先にある大部屋に案内される。
「我々は部屋の前で待機しております」
そう言うと、2人は出入り口の両側にぴたりと整列した。このまま監視を続けるつもりなのだろう。休憩室のドアはガラス張りの押し扉となっていて、数台の自動販売機のほか、中央に置かれたテーブルに座る1人の人影が見えた。そして、トグサは軽く咳払いをすると部屋の中へと入っていく。
「私は公安のトグサです。あなたが制御室長の中野康さん?」
「ええ、そうです」
「この度は忙しい中、お手を煩わせて申し訳ありません。数年前のことで少しお訊きしたいことがありまして、伺わせていただきました」
椅子に腰かけた彼の前に座っているのは、中野という原発職員の1人だった。年は40代後半で、髪には白髪がまじって灰色になっている。体は痩せ型で、眼の周りは落ち窪んでいた。年の割には老けて見える男だった。
彼は今回捜査している元制御室長が現役だった当時、副室長を務めており、何らかの情報を知っている可能性があった。そのためにわざわざ電力会社から連絡を入れ、捜査に協力してもらったのだ。
「さっそくですが、3年前の6月、何があったか覚えていらっしゃいますか?」
いきなり妙なことを訊くものだな、と相手はやや怪訝そうな顔をしていた。首をかしげつつ、思い当たる出来事を懸命に考え込んでいる様子だった彼は、やがて当てはまりそうなことが思い浮かんだのか、不安げな面持ちながらも答えた。
「3年前といえば、事故で上司の加賀さんが亡くなった年ですけど…。それとも、それ以外のことですか、刑事さん?」
「いえいえ、今回伺ったのはその加賀さんのことについてです」
そう言って、トグサは一枚の写真を彼の前に置いた。制御室長を務めていた加賀正樹氏のものだ。相手はそれを軽く一瞥すると、すぐに目線をこちらに戻す。
「加賀さんは3年前に事故で亡くなりましたが、当時あなたと加賀さんは職場の上司として以外で、何か関係はありましたか?」
「えーと、そうですね…。何度か個人的に2人で飲みに行くことはありましたけど、そんなくらいです」
「そうですか。ほかに個人的な付き合いなどはなかったんですね?」
「ええ、まあ」
相手は少し困惑した様子で答えた。突然押しかけた上に、3年も前に亡くなった上司の話を聞き出しているのだから、怪訝に思うのも無理はないだろう。これまでの様子を見ている限りでも、特に加賀氏に関してあからさまに隠し事があるような様子もみられない。もっとも、彼が全く関係ないと決めつけるのはまだ早いが。
「あの、刑事さん。加賀さんのことで、何かあったんですか?」
先ほどからの質問の意図が全く掴めなかった相手は、やや心配そうにそう訊いてきた。トグサもいたずらにこれ以上触れ込んでも何も出ないと感じ、時間を空けてもらっていることもあるので、そろそろ本題に入ることにした。
「今日伺いたいのは、その加賀室長が亡くなった事故の件です」
「といいますと?彼は交通事故で亡くなり、もう捜査も終わってますよね?」
「ええ。ですが、その事故処理の過程に瑕疵があったらしいのです。まあ、言うなれば手抜き捜査ということですね。それで、室長と関係の深かったあなたにも話を伺っているわけです」
「なるほど、そういうことでしたか」
先ほどまでこちらを訝しんでいた彼も、ようやく腑に落ちたのか表情が和らいだ。トグサはなおも相手の様子に注意を払いつつ、質問に入る。
「まず、当時制御室長だった加賀さんは、事故に遭う前に様子が変だったり、何か妙な言動はありましたか?」
「妙な言動?いいえ、特にそんなことはなかったと思います。記憶の限りでは」
「酔っ払っていた様子などは?」
「えっと、退所した時は、当たり前ですが酔っていなかったと思うのですが…。ただ、その後は知りません」
トグサがそう訊いたのは、当時の警察の司法解剖で、事故で亡くなった加賀氏の血中から基準値を超えるアルコールが検出されたからだ。ただ、職場帰りに酒を飲んで運転することはあまり考えられず、証拠の捏造が行われた可能性も考えられる。
「加賀さんは日ごろから酒はよく飲む方でしたか?」
「普段の飲み会では、それなりに飲んでいたと思います…」
「車の中で飲むのは考えられますか?」
「いや、そこまではちょっと分からないです。確かに酒癖は悪かったですが、飲酒運転するかといわれると何とも言えないです。ただ…」
「ただ…?」
「今思い出したことなんですが、何日か前から、ちょっと自棄気味になっていた感じはありましたね。まあ、そのときは仕事がかなり立て込んでいた時期でもありましたが」
トグサはそれを聞くと、少し考え込んだ。先ほどまでの様子から一貫して、彼には何ら不審な点はない。受け答えも変に力むこともなく、目が泳いでいることも少ないのだ。仮に彼が嘘に手慣れた人間であったにしろ、ここまで完全に演じ切るのは相当難しいとは言わざるを得ないだろう。
それに事実、加賀氏は帰宅した後、毎晩といっていいほど必ず晩酌をしていて、しかも事件当時はかなり荒れていたというのが警察の捜査資料の中にあった。彼の証言はそれとも一致しており、矛盾点はないのだ。
「すいません。仕事が立て込んでいたというのは、具体的にはどんな業務だったんでしょうか?」
「えっと、まあ、話せば長くなるんですが、当時ここの原子炉の多くがちょうど定期点検の真っ最中だったんですよね。その時に、ちょっと技術的なトラブルが出てしまって…。加賀さんもメーカーの担当者と一緒に、何日も残って作業していました。まあ、それは自分も同じですけどね」
最後に軽く苦笑いをしながら、中野は答えた。この証言も、当時の状況と一致している。昨日本社で調べた資料を見ても、加賀室長が亡くなった当時は1つを除いてここの原子炉はいずれも検査中だったのだ。
もしかすると、彼は本当に何も知らないのかもしれない。だが、副制御室長として加賀氏とある程度つながりを持っていた彼が、全く知らないというのは本当にあり得るのだろうか。あの記憶を見る限りでは、加賀さんは何かのスキャンダルを公表するために動いていたはずなのだ。それが、もっともつながりの深かった当時の副室長ですら何も知らないというのは、どういうことなのだろう。疑問に思ったトグサは、怪しく思われない程度に聞き出そうと試みる。
「他に、加賀さんから些細なことでも、何か聞かされていませんでしたか?」
「すいません。特に思い当たることはないです…。さすがに3年も前になってくると、当時の細かいことまではあまり覚えていないですし。ですが、特に私に言っていたことは業務のこと以外はなかったと思いますが」
「そうですか。業務のことというのは?」
「その言葉の通りです。運転状況、作業日程、事務連絡など、仕事に関することですよ」
「なるほど」
訊くべきことは概ね訊き終わった。反応次第ではさらに突き詰めていこうとも考えていたが、彼が嘘をついている様子は微塵も感じられなかった。本当に何も知らないのだろうか。
そんな中、トグサはイチかバチか切り札を使うことにした。彼があの事故を隠蔽した勢力に繋がっているならば、相手側にこちらの手の内を知られる危険が伴う。だが、それを調べる術がない以上、賭けに出るしかなかった。そうでないと、何も手掛かりは得られない。彼はそう直感していたのだ。
「この女性に見覚えは?」
トグサがそう言って中野の前に置いたのは、一人の女性が写った写真だった。写っているのは茶髪のロングヘアで髪を後ろで束ねた、赤いフレームの眼鏡をしている若い女性の姿である。
「…ありません」
冷静に答えた彼だったが、トグサは写真を見た時、彼の表情が一瞬だけ強張ったのを見逃さなかった。彼は間違いなく、写真を見て驚いていた。その感情を表には出さなかったが、微かな眉の動きと目線の泳ぎでよく分かる。間違いない、彼は彼女を知っている。
トグサはやや残念そうに「そうですか…」とだけ答えると、咳払いの後に彼に言った。
「では、これで事情聴取は終わりです。仕事中大変失礼しました。ご協力に感謝します」
「こちらこそ、どうもありがとうございます」
席を立った中野は、トグサに深々と頭を下げると部屋の中から出ていった。写真の女性は捜査中に浮上したあるフリージャーナリストのものだった。イシカワによると、殺された加賀室長の通話記録から事件前に頻繁に連絡を取り合ったことが確認されている女性である。だが、彼女は加賀室長の事件の一週間前に強盗に遭い殺されていたのだ。
その彼女を知っているという事は、彼が事件に何らかのかかわりをもっているのはほぼ確実だろう。それに、彼は殺された加賀室長の後に制御室長に就任している。何となく、トグサは胸の奥に嫌な予感を覚えていた。ゴーストの囁きかどうかは分からないが、彼は、加賀室長が殺された件以外にも、何か重要なことを知っているのかもしれない。
ただ、仮にこの聞き取りで嘘をついているのだとすれば、彼は相当嘘に手慣れた男であることは間違いない。あの写真を見せるまでは自分でも全く見抜けなかったほど、あれほど自然に嘘がつける人間はそうそういないのだ。情報を引き出すのは、なかなかの困難を伴うだろう。
こうなると、片っ端から当時の室長と関わっていた原発の人間に事情聴取を行い、加えて関係資料なども押収しながら客観的な証拠を集め、嘘の綻びを見つけるしか方法はない。骨の折れる仕事ではあるが、これで根拠をもって仕事に取り組むことができる。
トグサは一旦少佐に報告するべく、席を立つと休憩室を後にした。このフロアは一切の電波通信が禁止されており、電脳通信を使うにはエレベーターに乗って保安検査を受けたフロアに戻らなければならないのだ。
2人の警備員に付き添われて、トグサはエレベーターに乗ると上のフロアへ上る。扉が開き、エレベーターから降りた彼は、通話用の専用スペースに行くと少佐に電通を繋いだ。
《少佐、間違いありません。ビンゴです》
2018/9/18 一部加筆修正
Cz-52
1952年にチェコスロバキア軍に採用された軍用拳銃。シングルアクション。制式採用から外されて以降、放出品が市場に出回る。銃身の揺動が少なくロッキングが強固であるため、命中精度が高い他、強装弾が使用でき高い火力を発揮できる。