社会人として多忙な日々を送る獅子原爽と、牌のおねえさんとして活躍する真屋由暉子。
二人は疎遠になって久しく、しかしある日、爽の元に由暉子が倒れたという連絡が入ってきて――


爽ユキの短編小説です。

Pixivでも同内容(ハーメルンは修正版)を投稿しています。
http://www.pixiv.net/novel/mod.php?mode=mod_text&id=5810268

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ゆきにねがいを

 ほのかな月明かりと共に、しんしんと雪が降り注ぐ。校庭に敷き詰められた白い絨毯の上で、彼女は舞うようにステップを踏む。珍しくもない天気なのに、どういうわけか随分ハイテンションだ。転ぶから危ないぞ、と注意しようとしたけれど、ちゃんと声にならなかった。

 

 私はずっと、彼女の姿に見惚れていた。

 

 太陽はとうの昔に沈み切り、辺り一帯は闇夜。積もりきった雪の水分が僅かな光を乱反射し、煌めきを放つ。他に人の影は一つとしてなく、まるで星空にも似た舞台にたった二人だけで立っているかのような錯覚を覚えた。

 

 それは美しく、幻想的な光景で。――私はこのまま永遠に、彼女の踊りを見つめていたい気持ちに浸っていた。

 私が黙りこくっていると、彼女はぴたりと足を止めた。

 

「先輩? どうしたんですか?」

 

 あどけなさの残る顔を傾け、あまり遠慮を感じられない語調で問いかけてくる。私はすぐに答えられなかった。

 

「……なんでもない」

 

 結局出てきた言葉も、歯切れが悪い。

 

「らしくないですね」

 

 くすりと笑われてしまった。返す間もなく、彼女は続けて言う。

 

「先輩は、これからどうするんですか? やりたいこととか、あるんですか?」

「それはゆっくり大学で探す!」

「モラトリアムですか」

「そのための大学だ」

 

 胸を張って答えると、再びくすりと笑ってくれた。

 

「夢がないですね」

「でも、やってもらいたいことならあるな」

 

 既に何度も伝えたことで、いまさらと言えばいまさら。だからこれは、照れ隠しだ。今の感情を悟られたくなくて、茶化してしまう。

 

「ポスト瑞原はやり! ユキなら絶対牌のおねえさんになれる!」

「はい」

「抵抗なしかー」

 

 相も変わらず素直すぎる答えには、いじり甲斐はないけれど安心する。彼女の愛くるしい容姿と、どこか飄々とした性格――どちらも私は、とても気に入っていた。

 けれどもちょっと、心配になってしまう。

 

「あんまりはいはい頷いてたら後が大変だぞ!」

 

 たまには苦言を呈しておかなければ。もう、こうして会える機会は減ってしまうのだから。なのに、彼女は、

 

「それが、先輩の望みなら」

「――」

 

 私の気持ちをやすやすと飛び越えていく。赤面モノの台詞を簡単に口にしてくれる。

 

「それが、先輩の願いだから」

 

 重ねられた言葉の意図を、私は訊けなかった。耐えきれなくなって、彼女に背を向けてしまう。鼻の奥が、つんと痛くなった。

 儚く、細い声が背中に触れる。

 

 

「爽先輩」

 

 

 振り返らなくても、分かった。彼女は笑ってくれている。

 

「ご卒業、おめでとうございます」

 

 笑って、祝福してくれる。

 

 見上げても、見下ろしても広がるのは夜空。輝く星の海に視界が飲み込まれ、気分はまるで宇宙飛行士。得体の知れない浮遊感が、体を包み込む。離れてしまわないように、遠くへ行かないように、両足にしっかりと力を込めなくてはならなかった。

 

 忘れない。――彼女と観たこの光景を、きっと私は一生忘れない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 着陸を告げるアナウンスが耳の中に響き渡り、私はゆっくりと目覚めた。――それなりに、長い夢を見ていた気がする。しかも、相当に古い。高校の制服を着ていたから、もう八年も前になるのか。

 

「……びっくりだ」

 

 最近は忙しさにかまけて、思い出を振り返る時間すらなかった。なんでまたこんなタイミングであんな夢を見てしまったのか。

 

 機体が降下を始め、窓の外の景色が変化する。

 ――ああ、そうか。

 

「久々の日本だな」

 

 見えてきたのは、しばらくぶりの関東平野。離れていた時間の分、ノスタルジックになってしまったのだろう。

 もっとも、新千歳に降りられないのは残念である。成田から経由するわけでもない。東京で積み上がった仕事が私を待ち受けていることだろう。地元有珠山に帰郷するのは、もう少し先の話だ。

 

 轟音と振動と共に、飛行機が滑走路に着陸する。昔はこの揺れが嫌だったのに、今ではすっかり慣れきってしまった。

 

「成田、さっむ!」

 

 空港に降りてすぐ、雪国育ちにあるまじき発言をしてしまった。東南アジア諸国を回って三ヶ月、体はすっかりあちらの気候に順応したようだ。

 

 ひとまずは帰宅して、シャワーを浴びたい。寝汗で肌がべたつく。

 

 流れてきたキャリーケースを引き摺りながら、熱湯に想いを馳せる。全てが全てではないけれど、あちらのホテルの中には酷いものがあった。最初の一分しかお湯が出て来ず、苦情は完全スルーなんて当たり前。都市部は発展していても、不便な場所は不便で大変な出張だった。後発砲事件が一件。

 電車に乗り換えるため、到着ロビーを通り過ぎようとし、

 

「……あ」

 

 足が、勝手に止まった。

 目に入ったのは、ロビー中央のスクリーン――その中で、歌って踊る、一人のアイドル雀士。

 朝方夢に見たときよりもあどけなさは失われて、代わりに大人びた空気を纏わせて。柔和な笑みの中に、凛とした確かなものが見え隠れする。

 

 かつての後輩。

 そして当代の牌のおねえさん。

 

 

「ユキ……」

 

 

 半ば呆けて、私は彼女につけた愛称を呟いていた。

 真屋、由暉子。同じ高校、同じ部活で、同じ時間を過ごした妹分だ。そして私たちの中で一番の出世頭と言えるだろう。だって、あの牌のおねえさんなのだ。首にシワ一つない。

 それにしても、

 

「聞いたことない歌だな」

 

 冬の寒さを打ち消すような、アップテンポの曲。彼女の優しい歌声が絡み合い、あっという間に耳を支配する。一度聞いて、忘れる類のものではない。出しているCDは全てチェックしているはずだけど――

 

「……ああ、出張中に発売したのか」

 

 そう言えば、日本を発つ前に新曲がどうとかいう記事を読んだ記憶がある。ネット配信もチェックし忘れるとは、不覚だった。

 

 仕方ない。

 

 私は一旦電車に乗り込んで、自宅の最寄り駅に向かった。直接帰らず、開店したばかりのCDショップに足を踏み入れる。クリスマスソングがあちこちから聞こえてきた。

 

 ユキの新譜は、すぐに見つかった。発売から一ヶ月以上経っているのに、特集コーナーが組まれていた。とりあえず五枚ほど引っ掴み、レジに持っていく。

 

「こちら同じものになりますが、よろしいでしょうか?」

「はい!」

 

 複数買いも珍しいわけではないようで、店員さんは眉一つ動かさず対応してくれる。ユキの人気がここでも見え隠れして、一息つけた。ほっとした。

 

 ようやく帰宅し、熱い湯船で身を清めたら、もう昼前になっていた。

 

 長期出張の前に冷蔵庫の中身をあらかた片付けてしまい、ろくな食材が残っていないことにいまさら気付く。今から外に出るのも億劫な上、早くユキの新曲を聴きたかった。

 

 仕方なくカップ麺にお湯を注ぎながら、スピーカーから聞こえてくる彼女の声に耳を傾ける。作曲はさておき、作詞は全てユキ自身が担当しているらしく、今回も彼女独特のセンスが光っている。チカ辺りに言わせれば「痛い」のかも知れないが、私はとても気に入っていた。

 気が付けば、食欲も忘れて聞き入ってしまって、

 

「うわ」

 

 カップ麺は、伸びきっていた。控え目に言って、不味かった。

 それでもお腹が膨れると、旅の疲れも手伝って、自然とベッドに体が引き寄せられていた。ユキの歌声を子守歌に仮眠をとろうと目を伏せる。

 

 

 

 瞼の奥は、真っ暗闇。

 ああ――でも、今朝の夢を思い出すと、闇の中にちかちかと光が見えてきた。まるで一面が星空、宇宙のよう。

 

 すぐそばには、ユキがいて。

 自由気ままに踊りながら、歌ってくれる。姿は見えなくても、はっきりと分かる。

 頭の奥がじんと痺れ、体を浮遊感が包み込む。そのままどこまでも、宇宙の果てまで漂い続けそうだった。

 

 ――そんなとき。

 

 突然、ユキの歌声が途切れた。

 あれだけ煌めいていた星から、次々と光が失われていく。本物の闇が、全てを染め上げる。ユキを探して、必死でもがく。けれどももがいたところで、どうにもならない。

 

 心まで暗闇に塗りたくられていく感覚。頼れるものたちも、傍にはいない。どうしようもなくなって、私は抵抗を止める。体が、動かなくなる。

 

「……ユキ……」

 

 ――そこで、目が覚めた。目覚めさせたのは、自分の声と、スマホの振動。

 今朝に続いて、同じような夢を見てしまった。まだ疲れが残っているのか。時計を見れば、まだ昼の三時だった。

 

「あれ?」

 

 リピート再生していたはずの、ユキのCDが止まっている。間違った設定をしていたのだろうか、とオーディオの蓋を開けてみる。

 

 反射的に、眉を潜めてしまった。

 CDに、傷が一本入っていた。

 

「不良品かー」

 

 腹立たしさよりも、悲しさが先に立つ。

 仕方なく、別のCDの封を開ける。その過程で、スマホに着信が来ていたのを思い出した。画面を確認してみると――揺杏からだった。

 

 岩館揺杏。

 私の幼馴染の片割れにして、高校時代の部活仲間にして、戦友。

 

 彼女から連絡から飛んでくるのも、最近あまりなかったことだ。メールの一斉送信で、宛先は私の他は、チカと成香。高校の麻雀部の面子だ。

 

 けれども、その中にユキの名前はなかった。

 酷く、嫌な予感がした。震える指で、画面に触れる。

 

「……え?」

 

 本文は、たったの一行しか記されていなかった。けれどもそのたった一行が、私の心を鷲掴みにした。

 

『ユキが倒れた』

 

 くらりと、体がよろめいていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「揺杏!」

「爽。久しぶりー」

 

 指定された喫茶店には、既に揺杏の姿があった。すらりと高い身長と、上着に袖を通さず羽織るスタイルは高校時代から変わっていない。常に頬を釣り上げ余裕ありげに笑う態度も。

 

「ひっどい顔だなー。ちゃんと休んでるの?」

 

 揺杏から、茶化すように指摘される。――私を落ち着かせようとしてくれているのは、すぐに分かった。けれどもお礼を言う余裕もなかった。荒っぽく椅子を引き、彼女の対面に座る。

 

「昨日帰国したばかりなんだ」

「そりゃグッドタイミング……って言って良いのかはわっかんないか」

「チカと成香は?」

「連絡はついたけど二人とも今北海道だからねー。流石に飛んでは来れないだろうよー。私としては爽に連絡ついたのが一番驚きだって」

 

 揺杏の軽口に、言い返せなかった。仕事にかまけて日本から離れている時間が長すぎた。

 

「それで」

 

 できる限り平静を装って、私は揺杏に訊ねる。

 

「ユキはどうなんだ」

 

 ――社会人になってから、私たちの中でユキに一番近いところで働いているのは揺杏だ。揺杏は趣味の域を通り越し、現在服飾デザイナーとして生計を立てている。いくつかの賞も受賞し、新進気鋭の若手として期待されているという。

 その実績を買われ、ユキの衣装も一部担当しているのだ。今回も、衣装の打ち合わせのためユキと直接会う予定だったらしい。

 

「それが突然のキャンセルになっちゃってさー。話をよくよく聞いてみると、倒れたって言うからさ。とりあえず過労って説明は受けた」

「……そうか」

 

 浮き上がりかけていた腰を降ろす。過労。本当だろうか。疑ってしまう。

どうしても思い浮かべてしまうのは、数代前の牌のおねえさん。確か彼女は、人気絶頂期に大病を患って引退したのだ。

 

 彼女とユキは違う。ただ、立場が同じだけ。

 そう自分に言い聞かせても、逸る気持ちは抑えられない。

 私がそわそわしてしまっているのに気付いたのか、揺杏は苦笑を浮かべた。

 

「向こうにも都合があるからさ。見舞いはあと一時間待ってくれよー」

「……分かってる」

 

 不承不承頷くと、今度はにっこり笑ってくれた。それから気を紛らわせるためか、揺杏はあれやこれやと私の近況を聞きたがった。実際口を動かしていると、少しは気が楽になった。なんだかんだで、幼馴染は分かってくれている。

 気付けば、約束の時間になっていた。

 

 揺杏の先導で向かった都内の病院は、今までお目にかかったこともないくらい大きかった。最先端の医療機関みたいで、逆に不安が煽られる。

 

 病院前で待っていたユキのマネージャーさんと、揺杏は親しげに挨拶を交わし合う。普通なら門前払いであろうが――もっともユキが倒れたニュースは流れていないが――話は通していたため、あっさりと案内してもらえた。

 ユキの病室まで、随分と歩かされた。消毒液なのだろうか、病院独特の匂いが酷く鼻を突く。すれ違う患者たちの肌は総じて青白く、不安が鎌首をもたげる。

 

 ようやく病室の前に辿り着く。

 すぐにでも会いたいと思っていたのに、そこで私の足は止まってしまった。――いまさらユキに会うのが、怖くなった。

 なのに揺杏は平然と、

 

「爽、先行って」

「えっ」

「私はちょっと待ってるからさー」

 

 意味が分からない提案をしてきた。反論しようと口を開きかけ、

「たぶん、そっちのほうが良い」

 

 真摯で、まっすぐな彼女の言葉に、黙らされた。

 背中を押される形で、私は病室の扉に手をかけた。

 深呼吸を一つして、扉を引く。

 

「お邪魔する!」

 

 その一言が震えないようにするだけで、精一杯だった。

 

 ユキの姿は、すぐに見つけられた。

 個室とは思えないほど広い病室の奥、設えられたベッドの上。彼女は上半身だけ起こして、体を横たえていた。

 

「まだどうぞとは言っていませんが」

 

 久しぶりの顔合わせだというのに、彼女は――ユキは、いつもの調子で文句をつけてきた。

 化粧を落としているせいで、いつもテレビで見るときとは受ける印象が違う。それでも十分美人に見えるのは、先輩の贔屓目ではないはずだ。かけた眼鏡は、出会ったときに使っていたものに似ていた。

 

「これでも慌てさせられたからな!」

 

 冗談めかして、真実を言う。けれどもユキは、くすりとも笑わなかった。代わりに顔を俯かせ、彼女は呟くように言った。

 

「……すみません、ご心配をおかけしたみたいで」

「気にしなくても良い、私たちが勝手に押しかけたんだから!」

「揺杏先輩はどうしたんですか?」

「ちょっとトイレだ」

 

 適当に誤魔化して、椅子をベッドの近くまで引き寄せる。

 

「それより、調子はどうなんだ」

「皆さん大袈裟なだけです。少し疲れが溜まっていただけですよ」

 

 平坦な声で、ユキは答えた。

 嘘を、吐いている。

 すぐに、分かった。根拠はなくとも、分かってしまった。掌が、自然と拳の形になっていた。

 かけるべき言葉を見つけられず、黙りこくってしまう。

 先に折れたのは、ユキだった。彼女は溜息を一つ吐いて、

 

「揺杏先輩との打ち合わせ前に倒れたのは、不覚でした」

「…………」

 

 私はなおも、声をつまらせる。

 だけど、ああ、だけどだ。誰か、教えて欲しい。こんなとき、何と後輩に言えば良いのか。

 

「それ」

 

 一言も発せない私に代わるように、ユキは訊ねてきた。

 

「お見舞いの品じゃないんですか」

 

 彼女の視線は、私の膝の上にある箱に落ちていた。揺杏と待ち合わせた喫茶店で、買ってきたケーキだった。

 

「……食べるか?」

 

 恐る恐る問いかけると、ユキはこっくりと頷く。

 

「いただきます」

 

 美味しそうにチーズケーキを頬張るユキは、体のどこも悪くないように見える。――いや、そう見えるように振る舞っているのか。

 

「それにしても、本当に久しぶりですね」

「ケーキ食べた後で、いまさらな挨拶だな」

「爽先輩がいきなり入ってくるからですよ」

 

 ナプキンで口元を拭きながら、ユキは悪びれず言った。

 

「誓子先輩や成香先輩は、ライブチケットを送ったら駆けつけてくれるのに」

「うっ!」

「爽先輩にはいつも『仕事が忙しくて』でパスされて」

「ちょっ! ユキっ!」

「なのに、いきなり病室に入ってきたんですから。びっくりして、挨拶も遅れます」

「……悪かったよ」

 

 拗ねるように謝ると、ユキはにっこり笑った。部室で初めてじゃんけんしたあの日のように、笑った。

 この期に及んで、後輩に気を遣わせてしまっているこの状況が、とても情けなかった。

 

「お仕事、まだ忙しいんですか」

「それなりにな。でも、私たちの中で一番忙しいのはユキだろう」

「かも知れません」

「かもじゃなくて、絶対そうだろう」

 

 プロ雀士としても、アイドルとしても一線で活躍しているのだ。忙殺なんて言葉は当たり前。自由だって、少ないはずだ。

 

「……なー、ユキ」

「どうしました?」

 

 私は、酷い質問をしようとしている。最低だと、分かっている。

 それでも、問いかけずにはいられない。

 

「私を、恨んでいないのか?」

「――……」

 

 返答は、すぐには帰ってこなかった。私は視線を膝の上に落とし、続けて言った。

 

「八年前のインターハイに出たのは、お前のビジュアルを広く知らしめるためだった。そしてアイドルっぽくなってもらって、はやりんを超えて貰おうって、私は無邪気に言ってた」

 

 あのときは、その意味を深く考えていなかった。その先に、何が待っているかなんて想像していなかった。

 でも。

 

「そのせいで、お前の生き方を決めてしまったのなら――」

 

 何と、謝って良いか分からない。彼女自身がやりたいことを見出せず、あるいは見出す機会を与えられず、私が勝手に引いたレールを走らせた。無責任な言葉でおだてて、無責任に前へと進ませた。

 

 結果、今みたいな状況にユキは陥った。ユキ自身の望みを叶える暇もなく、どん詰まりまで行き着いた。

 ――働き出してからずっと、私は敢えて大変な仕事ばかり選んできた。若い内にできることをやりたい、と表向きには言い訳して。

 けれども、ユキに会った今なら分かる。

 

 自分だけ楽な道を選んではならない、という罪悪感があった。

 やりたい道を選んではならない、という罪悪感があった。

 ユキに合わせる顔がない、という罪悪感があった。

 

 結局、私は逃げ続けていたのだ。責められたくないと、ユキから逃げていた。

 

「先輩たちに、恩義を感じているのは確かです」

 

 やがてユキは、ぽつりと零すように言った。

 

「でも、恩義のあるなしにかかわらず――先輩たちが、爽先輩がよろこぶように生きたいと、思ったんです」

「そう思わせたことを、私は後悔しているんだ」

「困りました。私はずっと、嬉しかったのに」

「……頼むから、そんな優しい言葉をかけないでくれ」

 

 心に、突き刺さるのだ。ああでも、これが罰というのなら最後まで聞くのが筋か。全く、格好悪いったら仕方がない。

 

「爽先輩」

 

 呼びかけられても、答える余裕はなかった。だけどユキは、構わず言った。

 

「雪ですよ」

 

 意外な言葉に、はっとなって顔を上げる。ユキの視線は、窓の外に。――そこでは、確かに雪がちらついていた。雪国育ちの私たちにとっては、珍しくも何ともない光景。東京だって、年に何度も雪は降る。

 けれども私は、吸い込まれるように窓の外を見つめてしまっていた。

 

「あのですね、先輩」

「どうした」

「控え目に言って、私今結構辛い状況なんですけど」

 

 言葉とは裏腹に、平然と彼女はそう前置きして。

 

「昔も、辛いときがあったんです。いつだと思いますか?」

「……さぁ、知らないな」

「先輩が卒業するときですよ」

 

 さらっと恥ずかしいことを、ユキは言った。

 

「卒業式の前日――あの日、一緒に私の中学に忍び入りましたよね。覚えていますか」

 

 覚えている。覚えているに、決まっている。一生忘れないと思った世界が、あそこにあったのだから。

 

「なんてない、いつもの雪でしたけど――先輩と一緒に見た雪は、違いました。とても綺麗で、とても暖かくて。――私は、救われたんです。ちゃんと、私の思うように生きていこうって、思えたんです」

「ユキ……」

「あのとき、私お願い事をかけたんです」

 

 ユキの視線が、私の方へと戻ってくる。彼女らしい、まっすぐな目が私を捉えて離さない。

 

「また苦しいことがあったら、先輩が来てくれるようにって。一緒にまた、雪を見てくれるようにって。――あの日、雪に願いをかけたんです」

 

 指先が、震えた。窓の外では、変わらずしんしんと雪が降り続く。白銀の世界が、そこに見えた。

 

「本当に、びっくりしたんですよ。急にお願い事、叶っちゃったんですから」

 

 ああ――ああ。

 私はバカで、悔やんでばかりで、逃げていたけど。

 最後の最後で、ぎりぎりで間に合った。間に合ってくれた。

 頬を、雫が伝い零れる。それを拭う気力もつもりも、なかった。

 ねぇ先輩、とユキは小首を傾げ、訊ねてくる。

 

「先輩のお願い事は、叶いましたか?」

「ばか」

 

 私はそっと、彼女の手に触れた。とても冷たい手だった。構わず、強く握りしめた。

 

「とっくの昔に、叶っていたから!」

 

 あのときとは違って、私たちは向かい合う。やっぱり彼女は、笑っていた。

 

 あの日見た、見上げても見下ろしても広がる夜空がここにある。輝く星の海に視界が飲み込まれ、気分はまるで宇宙飛行士。頭の芯までのぼせ上がるような多幸感が、体を包み込む。もう二度と遠くへ行かないよう、両手にしっかり力を込めなければならなかった。

 

 離さない。――もう二度と、一生、私はこの手を離さない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「獅子原君、ちょっと良いかね」

 

 定時前、課長に呼び止められて酷く嫌な予感がした。このパターンは、きっとアレだ。

 

「どうかしましたか」

「またで悪いんだが、明後日からまたオランダに飛んでくれないか」

「すみません無理です!」

「ええっ」

 

 私が断るとは思っていなかったらしく、課長は素っ頓狂な声を上げた。それもそうだろう、今まで私が出張を断ったことなんてほとんどなかったのだから。

 

「どうかしたのかね?」

 

 心配そうに、課長は訊ねてくる。純粋に心配してくれている目だった。ちょっとバツが悪いながらも、私は頬を掻いて正直に答えた。

 

「週末、後輩からちょっと誘いがありまして!」

 

 ――鞄の中には、彼女から送られてきたチケットが眠っている。

 

 そう。

 真屋由暉子・奇跡の復活ライブを見届けないわけにはいかないだろう。

 

 

 

                            ゆきにねがいを おわり



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