それはデオ峠を半ば越えた頃の事だった。
息を切らせて、だいぶ遅れた所を歩いているイオンを見ながら、ルークは
「この旅、予定より遅れてる……」
と、そんな漠然とした思いを抱き始めていた。もちろん、何日遅れているとか、いつごろヴァン・グランツと合流できるのかとかを具体的に数字で理解しているわけではない。
その具体的な旅の行程と方法を考えて提案するのも、ジェイドとコゲンタ、ガイだ。それにティア、アニスそれにナタリアの意見や情報を取り入れて、みんなで決めるようにしてきた。もちろん、ルークもその都度、細かい所までは理解し切れていないにしても納得してきたはずだった。
ならば何故、「遅れている……」などと思い始めイライラとしているのだろうか? それは、ルーク自身にも言い表せそうにない「ぐちゃぐちゃ」な感情だった。
だから、なのだろう。気が付けば、
「……こんなコトなら、イオンなんか助けても連れてくるんじゃなかったぜっ……!」
という自分でも呆れるほど子供のような台詞が、つい口から漏れ出していた。ルーク自身が「しまったっ……!」と思った時にはもう遅い。
「ちょっとっ! それってどういう意味っ……で、ですかぁ?」
アニスがその言葉を耳敏く聞き咎める。ここまで溜め込んできた旅路の疲労が怒りに換わり、抑えられなくなったのかもしれない。
いや、いちおう取り繕ってはいる様だが、普段なら考えられないほどの敵意を込めた眼をルークに向け、眉をしかめて無理矢理の作り笑顔をひくつかせている。
「……そ、そのままの意味だろ。イオンは別に、こっちに来なくても良かったんだからなっ!オレがいれば戦争なんて、起こんねぇーんだからさっ!」
売り言葉に買い言葉、イオンが同行するとなった時に抱いた漠然とした疑問を、ルークは拙いながらも素直に口にしていた。……してしまった。
「あ、あんた……バカ……? あっ……! い、いやそのあの、そうじゃなくって、あのその……」
「なっ……なっ! バカだとっ!」
アニスの何かに裏切られたかの様な顔で呟いた。彼女の様子から思わず出てしまった言葉のようだが、ルークと同じように一度言った言葉は拾って隠す事は出来はしない。
そして、今のルーク自身にも笑って受け流すほどの心の余裕は無いのだった。いがみ合いに発展するのは当然といえば当然の事なのかもしれない。
互いに貯まった苛立ちと、自身の振って湧いたような激しい感情、戸惑いを多分に含んだ不可思議な睨み合いの間に、いち早く割って入ったのはナタリアであった。
だがしかし、その瞳は厳しい色をたたえルークに向けられており、そして彼女の口から出たのはやはり厳しい色をふくみ、嗜めるような言葉であった。
「……ルーク。この平和は、お父様とマルクトの皇帝が、導師に敬意を払っているから成り立っていますのよ。イオン様がいなければ、調停役が存在しなくなってしまいますわ」
「いえ、ナタリア。両国とも僕に敬意を持っている訳ではありません。『ユリアの遺した預言』が欲しいだけです。本当は僕なんて必要ないんですよ。それに、ルークは別に……」
ナタリアの言葉にイオンは首を横に振って自嘲的な微苦笑で答え、さらに何事かを伝えようとルークの顏を見やり、言葉を続けようとするが……
「そのような事、イオン様……!」
「そんな考え方には賛成できないな。イオンには抑止力があるんだよ。それがユリアの預言のおかげでもね」
ナタリアとガイの少し曖昧だが素朴な信仰心と純粋な善意に遮られ、イオンは最後まで言葉を続ける事が出来なかった。
「みんな、やめて……!」
ティアが決して大声ではないが力のこもった声で議論を制止した。
「アニス、そんな言い方はいけないわ。ルークは、教団にとっても恩人なのよ。ルークは本当は犯さなくても良い危険を犯してまでイオン様救出を手伝ってくれたわ。神託の盾としても、一人の人間としても、それは言ってはいけない事だわ」
「で、でも、ルークさまが、イオンさまのコトを……」
「……それでもよ。イオン様をお守りするだけが、神託の盾の任務じゃないでしょう」
ティアにしては珍しい咎めるような強い口調に、流石のアニスもたじろぐ。
「それから、ルークもさっきの言い方は少し乱暴だわ。ナタリアやガイは貴方がそんな事を本気で言う人ではない事を分かっているでしょうけど、付き合いの短いアニスやわたしは言葉通りに受け取ってしまうかもしれないわ。ルークだって誤解されるのは嫌でしょう?」
「う……うん、そうだうよな……。うん……」
ティアは、ルークに向き直っていつになく厳しい口調で言い含める。ルークは批判された事よりティアでも怒るのかという事に驚いて、反論する事を忘れてしまい素直な返事をしどろもどろにしか返せない。
ルークの驚きを知る由もないイオンはティアの言葉に頷いて、
「アニス……。ダアトや導師など関係なく、ルークも紛れもなく僕自身の恩人です。その恩人を軽んじるような事はどうか言わないでください。もちろん、僕にとって貴方も恩人です。でも、それとこれとは別の事です。だから、どうか……」
と優しく語り掛ける。諭すような口調であった。
「イ、イオンさままで……」
「いや~。ルークは、アグゼリュスの皆さんの事を考えて、あえて厳しい事を言ってくれているわけですねぇ……。感動してしまうじゃないですかっ!」
庇ったはずのイオンに突き放され困惑するアニスを尻目に、ジェイドが感激したように続ける。そして、イオンに意味ありげに視線を投げたが、それもほんの少しの事で、
「マルクト人を代表して熱く御礼を申し上げたいと思います。それと、ナタリアにアニス……ルークは別にイオン様の存在自体を否定したわけではありません。ただ“今回のアクゼリュスへの旅には同行する必要性は無い”という事を率直に言葉にしたに過ぎません。誤解を元に相手を批判するのは些か頂けませんよ?」
と、ルークに深々と二度、三度と頭を下げつつ微笑みながらナタリアとアニスの顔を見回す。
「わ、わたくしはそんなつもりでは……! わたくしは、ただ……」
「もちのろん! 皆さん解っていますとも。誰にでも、聞き間違い、見間違い、思い違いに勘違い、ついちゃっかり……いえ、うっかりしてしまう事はありますから。ルークも解ってくれますよ!」
言い募るナタリアに、ジェイドは両手を「抑えて、抑えて」と振ってみせ、
「しかしまぁ、何にしてもアグゼリュスまでは、まだかなりあります。ここで休憩しましょう? 最近はちょっと歩くと腰の右側がですねぇ……。実は、かつて右ヒザに矢を一度に二本から六本ほど受けてしまって……。姿勢が良くないんでしょうかねぇ……?」
と、朗らかに言い一同を見回した。もちろんオーバーアクション気味な自虐も忘れず、ジェイドは右腰を軽く叩きつつ、右足をぶらぶらと回してほぐす。
「……ちぇっ! わかったよ。少しだけだぞっ……!」
「流石はルーク、話せるぅ!ありがとうございま~す!」
これ以上、余計な事を言いたくないルークは言い捨てるなり、仲間達に背を向け乱暴な足取りで山道の脇へと歩き出した。
それから、一行はその山道の脇で休憩する事になった。ルークは一人で少し離れた丘で休む事にした。ティアとジェイドが仲裁してくれたとはいえ、アニス達と顔を会わせていたくなかった。
ティアは最初、お茶を持ってきてくれたが、しばらくしてコゲンタに何事か言いつけられ、皆の荷物を仕分けしていた。私物以外の共用の品物を振り分けている。自分も手伝おうか迷っていたら、ガイたちも作業し始めたので意固地になって、寝たふりをして、やめてしまった。
一方、ティアが道具を整理していると、ガイが此方にやって来た。何やらバツが悪そうにティアと少し離れた所に屈み込んだ。手伝いに来てくれたのだろうか?
しかし、ガイはパナシーアボトルの小瓶を揺らして僅な水音を奏でるばかりである。
「どうしたの、ガイ……?」
「いや……、なに、甘やかし過ぎじゃないかと思ってさ。ルークを、キミやジェイドも、あとイシヤマの旦那もちょっとさ……」
ティアは作業の手を止めて、思わずポカンと彼の顔を見た。ガイの言う「ルークを甘やかしている」の意味がしばらく分からなかったのだ。
直属の上司カンタビレはもちろんの事、個性派……いや、“超”個性派ぞろいの第六師団に鍛えられたティアの内では、ルークは逆に心配になるほど素直で聞き分けの良い青年だった。しかも、いざとなれば頼りになる。これ以上、注文をつけようという方がワガママという物だと思っていた。
いや、むしろ、こちらこそ“ルークに甘やかされ過ぎ”ではないだろうか? とさえ考えている。
「えっと……もしかして、さっきの話? そんな……、ルークは普通じゃない状況で頑張ってるじゃない? すごい事だわ。それに、誰だって言い過ぎてしまう事はあるでしょ。今はまだ“将来的”にだけど、ルークとイオン様とは対等な関係になるんだから……」
ティアは努めて感情的にならないよう、言葉を選んで反論した。時として、ルークと親友であるガイは彼を必要以上に“子供”と見る事がある。
言い換えると、確かな信頼関係が存在しなければ耳の痛い苦言は言えないだろうが、ルークを不当にないがしろにしているようでティア自身も面白くない。
「けど、さすがに“アレはない”と俺は思うぜ?」
導師であるイオンを庇い、敬う気持ちからの発言なのであろうガイは気にせず、ルークがいるであろう丘の方を見やりつつ顔を顰めてみせた。
「確かに、あれはちょっと、引いちゃいましたね。イイ人だと思ってたのに……。イオンさまに、あんなコト言うなんて……」
「イラついてるのは解るけどなぁ……」
アニスが丘の上に見える赤い髪を横目で見て、話に加わった。やはり、その瞳にはイオンをないがしろにしたような言葉を口にしたルークへのわだかまりが色濃く残っている。
それに頷きながら天を扇ぐガイ。
それにしても“アレ”とは、ルークがイオンの役目に取って代わるとも取れるような発言の事だろう。もちろん、はなはだしい誤解ではあるのだが……
「ふむ。まぁ、ルークの境遇を鑑みれば微妙な国勢や各要人の立ち回りには縁遠いでしょうからねぇ。しかし、イオン様ご本人が問題無いとされていますので、周りが追いすがってまで問題視しようとするのは、返ってイオン様に対して“不敬”なのではないですかぁ?」
顎を撫でつつ心得顔でうなずき微笑むジェイド。そして、擦れてもいない眼鏡を人差し指で直しながら皆を見回し続ける。
「それに世の中には、必ずしも“人助けをしなければならない”というルールなんて存在しませんよぉ? 特に“街の外”ではね……」
肩を竦めて悪戯っぽく微笑むジェイド。しかし、その口から出された言葉は酷薄だった。ジェイドお得意の悪い冗談ではないらしかった。
「そっ……そんな!イオンさまを、お助けするのは当たり前のことじゃないですかっ!」
アニスは、批判されたと思ったのか気色ばんだ声で答えた。
「いえいえ、アニス。そういうことでは無く、イオン様が導師であるという事と関連つけず冷静に考えてください。確かに人助けは正しい行いです。素晴らしいっ! ……しかし、無関係な人間の善意に付け込んで“正しい人助けの為に命を懸けて戦え!”とか“身代わりに犠牲となれ!”と迷い無く言えますか? どんな善意にも常に犠牲が付き物です。それが小さな犠牲か大きな犠牲かの違いしかありません。私が言うのも何ですが、それは少し図々しいと感じてしまいます♪」
「そ、それは、そうかもですけど……」
アニスはジェイドの理論に言い淀む。あまりといえばあんまりな理論だが、現実的な正論でもある。時として現実的な正論のほうが残酷な物に見える事もある。
他者の善意を、何時でも何処でも無条件で最高、最善の形で受けられると、無邪気に思い込んでいる人間が世の中には少なからず存在する。
他人の無償の厚意を“権利”と考え、受けられなかったならば、“権利”が踏みにじられたと考えて激しく憤り攻撃し始める事さえもある。
ティアやジェイドとて、アニス達がその様な浅ましい人間だと思ったり言っている訳ではない。ルークが示し積み上げてきた確かな“実力”と“好感”が皮肉にも、やや身勝手とも言えるアニス達の主張を導いてしまっている、つまり彼らはルークの実力と人格に“甘えている”のだ。
「その話はもう良かろう。こんな所で査問会を開いた所で、今のわしらではアグゼリュスの者達を助ける事はできぬのだからのぅ……」
大声ではないが少しイラついた声で、コゲンタが話を制止し、
「それよりも、ガイ。これからの陣形を決めておこう……」
「あ、あぁ、うん。そ、そうだな」
と荷物を纏め直した荷物袋の紐を縛った。珍しいコゲンタの有無を言わせぬ頭から押さえ付けるような雰囲気に、かなり戸惑いながら頷いたガイは慌ててコゲンタに向き直り、アニスはバツが悪そうに口をつぐむしかない。
そんな重い雰囲気にティアは、今まで感じた事のない種類の不安感を拭えなかった。
一方、一同のいる場所から少し離れた木陰でイオンの診察と治療をしているナタリア。
「……ありがとうございます、ナタリア。すっかり息苦しさが治まりました。ナタリアは、弓術だけでなく治癒術も巧みでスゴいです。努力家なのですね?」
イオンは身支度をしながらナタリアに微笑みかけた。幾分顔色が良くなっている。
しかし、返答が無い事に疑問を感じ振り返ると、彼女は俯きながら思い詰めた表情で座ったままだ。
「ナタリア……?」
「えっ? あ、いえ、そのような……。今のわたくしにはこのくらいしか出来ませんわ。本来、お身体の事を考えれば、ルークのようにイオン様をお止めするのが一番なのでしょうけれど……」
ナタリアは慌てて笑ってみせたが、すぐにその眉は曇っていった。
「……ナタリア。僕のワガママのせいで、皆の雰囲気を悪くしてしまいました。本当に申し訳ありません」
イオンは少し沈黙し、ナタリアを労わるように声を掛けた。彼女はその労わりは受け取れないというように首を振り、
「いいえ。悪いのはイオン様ではありません。本当に責任を感じなければならないのは、浅慮にもルークの言葉を頭ごなしに叱り付けてしまったわたくしですわ。わたくしったら、いつもそうなんですの。今のルークは、お勉強が嫌いで……、お世辞にも王族としての物事をわきまえているとは言えませんわ。でも……」
過去を思い出すような眼で言った。ルークとの思い出を思い描いているのだろう。そして、不意に手で顔を覆った。
「今のルークは、とても真っ直ぐなのです……。人間なら、本来“そうするべき”という言葉を自然に口に出して、わたくしやガイはよく“ギクリ”とさせられましたわ。ルークは言葉選びが乱暴ですから、わたくしはいつも喧嘩をしてしまいました。ええと、そう『図星を突かれた!』という形で、苛立たちついでに意地をはってしまって……」
ナタリアは涙を必死に堪えているのが分かる声になっていったが、
「けれど、いつもルークの方からお手紙が……仲直りのお手紙が届いて、わたくしが許して終わるんです」
と、顔を覆うのを止めて、最後の方だけ笑顔をしてみせた。少し強がっている色がありありと浮かんでいたが……。
「けれど、それってとても傲慢な事ですわよね……?」
「ナタリア……。それでは今回は貴女の方から謝ってみてはどうでしょう? ナタリア自身の言葉で直接です。ルークなら絶対許してくれて、すぐ仲直りできますよ。仲違いの原因である僕が言うのもおかしいかもしれませんけれど……」
イオンは、やはりナタリアを労わる声で言った。今度は聖職者らしい大人びた声だった。
「いいえ、ありがとうございます。イオン様」
ナタリアはようやく素直な笑顔を浮かべた。
しばらくして、ルークはティアの「そろそろ行きましょう」と呼び声に起こされた。日に当たった岩が暖かく、いつの間にか居眠りしてしまったらしい。さすがに不用心だし仲間たちに申し訳ないので、慌てて飛び起きた。
ルークが皆が集まっている場所に歩いていくと、
「しばらくの間、ルーク殿が頼りだ」
と、コゲンタが自分の剣と荷物を手渡してきた。訳が分からなかった。コゲンタに限って、楽をしようとしているわけではないだろう。しかも剣まで渡すなど、あり得るだろうか?
すると、コゲンタがイオンの前に膝まづくと背中を向け、
「ささ、むさ苦しい背中でござるが……」
「コゲンタの背中を、そんな風に思いませんが……」
「あははは、お褒めに預り光栄だの」
イオンは遠慮がちにコゲンタの背中に身体を預けると、コゲンタはゆっくりと立ち上がり、ティアが長めの帯で親が子供をおぶる時のように、二人の身体を結び付けた。こうして見ると二人の背丈はあまり変わらない。
「旦那、交代する時はいつでも言ってくれ」
「貴君の居場所はルーク殿の傍らだ。負担をかけるが頼む」
ガイの申し入れにコゲンタは微笑み、彼の肩を叩くと、ルークの顔を見て、「思い出した」というように、
「あぁ、ルーク殿には言っておらなんだな。見ての通りでの。すまんが、頼んだぞ」
と笑いかけると、先ほどと変わらない足取りで歩き始めた。
こうして一行は峠を越え、大きなぼた山が、アグゼリュスの街が目に入ってきた。
何かの見間違いであろうか?街が……街といっても巨大な穴の周囲に大小様々な建物が寄り集まった不思議な造りの場所だが……紫色の光の霧に覆い尽くされている様に見える。
恐らく坑道なのであろう巨大な穴に近づくにつれて紫色は濃くなり、建物の輪郭を朧気な物に換えてしまっていた。
間違っても、沈みゆく太陽が見せる光の悪戯といった事ではあるまい。
「あれって……?もしかして、あれが障気なのか……?」
「そう、あの紫色の光が障気よ。“障気”と言っても気体じゃなくて、変質した音素だから抑え込むのが難しいの。濃い物を急に吸い込んだり、長く浴び続けたりすると本当に危険だから注意してね……」
「う、うん……わかった」
意地を張っている事を、一瞬忘れてティアの忠告に素直に頷いてしまい、ルークの悪くなった“バツ”はますます悪くなるばかりである。
しばらくして峠の麓にたどり着いた時には、すっかり太陽は地平線の向こう側に身を隠してしまっていた。このまま急げばアクゼリュスに行けなくもないが、到着は真夜中になりそうだ。もちろん、別に下にも置かない大歓迎を期待しているわけではない。対応に追われる坑夫達の負担になる事は避けたいのだ。
その日は、この場で野営して明日の朝に改めてアクゼリュスへ向かう事となった。
近づくにつれ、街に異様な雰囲気を感じ始めた。
そう、音が聞こえないのだ。アグゼリュスは鉱山の街である。坑道に発破をかけた時の轟音や、鉱石を割ったり選別したりする機械を動かす音どころか、鉱夫たちの掛け声や鎚を振るう音すら聞こえないのだ。
「少し待ってくれ」とコゲンタが声を掛け、イオンを背中から下ろした以外は一行は歩みを進めて行く。
ルークは、正直に言って街に近づくのが嫌だった。
「気味が悪い……」
師匠が待っていなければ足を踏み入れるなど絶対にゴメンだと感じる。彼は誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。いや、もしかしたら自分の喉からの音だったのかもしれない。
地面の質が踏み慣らされた物に変わっていき、足下に鉱石運搬用のトロッコが通る線路がいくつもあるのを気が付いた時、あちこちに天幕が張られているのも同時に気が付いた。そこには無数の何かが蠢いている。そして、風もないのに『ヒュー、ヒュー』という隙間風のような音が聞こえる。蠢く中に何かが生えてきた。人間の腕だ。それは十人以上の人間が雑魚寝している様だったのだ。あの隙間風はその人達の呼吸の音だったらしい。
それを認めるやナタリアが、その人たちの所へ駆け寄り、治癒術の詠唱を始めた。
「お、おい、ナタリア!汚ねぇからやめろよ、なんか伝染るかもしれねぇぞ……!」
「……何が汚いの。何が伝染るの! 馬鹿な事を仰らないで!」
ナタリアは裏切られたような表情でルークを見ると、彼の言葉を切り捨てた。その目には敵意の色すら見える。
「ナタリア、落ち着いて!」
ティアはすぐにナタリアの側に駆け寄り、怒りを吸い取るように彼女の肩を抱いた。
「しかし、ある意味で事実ですよ。瘴気に侵された患者は免疫力が極端に落ちて、様々な感染症を併発してします。それに、その方たちは既に“選別”が済んでいます。手首を見てください。黒い札が巻かれているでしょう?気の毒ですが、現状では助かる見込みはありません」
彼女たちの背後から、ジェイドの冷静な分析が聞こえてくる。ナタリアは目の前の小さな黒く塗られた木札を見て、愕然とした顔になった。
その小さな木札が何を意味しているのか解らない。しかし、ジェイドの言わんとしている事は理解できた。
「……えっ、見捨てるつもりかよっ?!」
理解できたが納得できなかったルークは思わず、抗議の声を上げた。病気が感染る事を心配しただけで、何も見捨てると言ったつもりでは無かったのだ。
「そうですねぇ……率直に言い表すならば、そういう事になりますね。誠に残念ながら……」
ルークの剣幕にもジェイドは冷静な声で切り返す。
「でもっ! そんなっ……まだっ……!」
「確かに、可哀想ですね。もしかすれば、このような非常時ではなく、大勢の医師や第七音素譜術士、潤沢な薬品を始めとする物資に、適切な医療用設備が有る状況なら、助ける事の出来る病状なのかもしれません……」
言いすがるナタリアに、ジェイドは頭に来るほど明朗な声で答え、
「例えばですが、我々手持ちの薬品と、そして長い時間をかければ、こちらの方を救う事が出来る……としましょう?」
患者たちの一人を示した。
その声に打ちひしがれたナタリアの横顔が見えて、自分まで批判されているような気分になるルーク。そんなナタリアと彼を置いてジェイドは尚も続ける。
「そもそも、とても私たちの持っている量では足りませんし、それはこちらの1人を救う為にもっと助かる見込みのある赤色や黄色の方々を見捨てるという意味でもあります。貴女に出来ますか、ナタリア? 何の躊躇も無く?」
「ナタリア……。二人で離れた所から痛みを鎮める譜術だけでも、かけてあげましょう?」
ティアは、ジェイドの話を遮るようにナタリアに話しかけ、彼女の肩をより強く抱くと優しく諭すように言った。
「ナタリアお嬢様。その熱き心は大切だが、頭は冷静でなくてはいかん。まずは先遣隊と合流した方がよろしかろう」
コゲンタの声にナタリアは返事はせず、ただ頷いた。
「その方が組織的に動けるしな」
ガイが努めて明るい口調でナタリアを励ますと、彼女はゆっくりと立ち上がると、ティアと二人で患者たちに治癒術をかけようと、聖句を唱え始めた時だった。
事務所か休憩所らしい小屋の一つから筋骨隆々だが、不釣り合いに色白な男が出てきて、
「あんたたち、キムラスカ側から来たのかい?」
一行に声を掛けてきた。
「わたくしは、キムラスカの王じょ……」
「左様でござる。こちらはキムラスカ王国親善大使、ルーク・フォン・ファブレ殿にござる。ピオニー皇帝陛下の依頼を受け、皆様方をお助けするために参上いたした」
コゲンタが大袈裟な声を上げて、王女と名乗りそうになったナタリアを遮った。
「ああ!グランツさんって人から聞いてます! 自分はパイロープです。そこの坑道で現場監督をしてます。村長が倒れてるんで、自分が雑務を請け負ってるんでさぁ」
「グランツ謡将と先遣隊はどちらに?」
疲れが色濃く出た顔を少し安堵させたパイロープに、労うように微笑みジェイドがいつもの世間話のような優しい口調で尋ねる。
「ああ、グランツさんなら、坑道の奥でさぁ。あっちで倒れてる仲間を助けて下さってます」
ヴァンが入っていったという坑道を指さして頷くパイロープの言葉に、ルークは初めて聞く師の消息に不謹慎にも嬉しくなってしまった。
「辺りの様子を確認したら、行ってみましょう」
ティアの提案に一同が頷く。そして、ナタリアとティアは気を取り直して聖句を唱え始めた。治癒術をかけ終わると、患者たちの息遣いが安定してきた。パイロープは涙ぐんで二人に礼を言っていう。だがしかし、ナタリアの表情は晴れず、ルークの表情もまた暗く罪悪感に沈んだままだ。
一行は、診療所や仮の救護所になっている礼拝堂といった街のあちこちを見て回った後、パイロープに教えられたヴァンが入っていったという坑道に行く事にした。
礼拝堂に立ち寄ると、建物の前に天幕が張られ、何人かの先遣隊の姿が見えた。ルーク達の顔を見ると、何故か一瞬緊張のような色を見せたが、すぐに敬礼した。ジェイドの姿を認めるまで何者なのか分からなかったのだろうか?
ジェイドが「どうも、どうも」と気軽な返礼をして、これまで経緯を話し始めた。
ルーク達がそれを待っていると、
「もしかして、メシュティアリカ・グランツ?」
と背後から声をかけられた。
はたして、ティアが振り返った所には神託の盾の兵士が立っていた。法衣は黒地に金の刺繍が施されている。ルークの知らない事だが、彼は主席総長直属の親衛隊だ。
ただでさえ実力主義の神託の盾騎士団全体から、実力のみで選抜された精鋭中の精鋭部隊だ。彼ら一人一人は、“個”の武人としての能力は《六神将》には当然ながら劣るものの、“群”の兵士としての能力を活かせば《六神将》どころか総長であるヴァンですら凌駕する働きが出来るであろうと云われている。
もはや反射的に身構えるルークに、ティアは「大丈夫、味方よ」と手で制して、頭を下げた。
兵士は、兜を脱ぎつつ、こちらに歩み寄って来た。その顔は騎士としての精悍さを持っているが、年の頃はルークとさほど変わらないようにも見える若者だった。
「……ハイマン? あなたなの?」
ティアが呟いた。その顔には驚きと一緒に喜びの色がある。二人は知り合いらしい。
「あぁ、『ハイマン・バード』だ。憶えていてくれたんだね! 嬉しいよティア……」
爽やかに微笑むハイマン。
「ふふふ、大げさね。訓練仲間を忘れるわけないわ」
二人は再会を心から喜んでいるようだ。(もちろん、状況が状況だけに控えめにではあるが……)そんな彼らの親しみのこもった微笑みを見ていたら、何故か怒りとも悲しみともつかない感情を憶え、落ち着かない。今さら峠での一件での八つ当たりだろうか? 彼女は自分を気遣ってくれたのにお門違いも良いところだ。
「嬉しいこと言ってくれるなぁ。それにしても、正式配属以来だから二年ぶりくらいかな?」
「そうね。そのくらい」
柔らかく微笑むハイマンに、ティアはいつになく少し弾んだ声で頷き返す。彼女はハイマンの黒い法衣を見つめ、さらに微笑む。
「それにしても、凄いわ。その法衣……親衛隊になってるなんて」
「ハハッ、まだ新米の雑用係だけどね。あの日、君に負けたのが悔しくてね。僕もけっこう頑張ったんだよ」
ハイマンは嬉しそうに頭を掻いた後、過去を見つめる目になった。
あの日というのは、彼とティアが第六師団に配属されて間もない頃、模擬戦の対戦相手になった時の事である事が、彼女には分かった。
「……負けたって? わたし、模擬戦であなたに勝った事なかったと思うけど……」
余談だが、ティアはハイマン以外の同期生との模擬戦でも勝ち星は少なかった。彼女の自己評価の低さの遠因の一つであ。
「“試合”にはね。でも、肝心な“勝負”には負けたてたんだよ僕は……」
どこか熱のこもった眼差しで彼女を見つめて語りかけるハイマン。とその時、見つめられるティアの背後でルークは心がざわつかせていた。何故か分からないが、彼はハイマンを睨んでしまう。
「あの日の模擬戦……。カンタビレ様の横槍がなければ負けていたのは僕の方だよ」
その横槍というのが、訓練生時代のティアの模擬戦の主な敗因である。それはカンタビレ直々の“アドバイス”と自称する野次の事である。
当然、ティアとて悔しいので、あの手この手の作戦で対抗した。惜しい所まで行くのだが、肝心な所で“アドバイス”で敗退するというのが、多くのパターンだった。当時は教官の行動に思う所はあったのが、今では「戦場は思い通りにならない物……」と考えられるようになり、色々と学ばせてもらった。
一方、ルークは目の前の二人との間に積み重ねた時間の差を感じていた。
「そんな君が来てくれて心強いよ。」
嬉しそうに話すハイマンとティアの背後でコゲンタがわざとらしく咳払いをしてみせた。
「あぁ、ごめん。つい懐かしくなって……。見ての通り、街はひどい有り様でね……」
ハッとしたハイマンはあわてて顔を曇らせて、ティアを促すように周囲に視線を振った。
「総長は、しばらく前に精鋭の第一、第二分隊を率いて、最深部の救助に向かわれて、まだお戻りにならない。総長なら大丈夫だと思うけど……、聞いていたより要救助者が多いのかもしれないな」
「ハイマン、ごめんなさい。わたしは、あなたの……アグゼリュスの人たちを助ける手伝いはできないわ……」
「えっ、何故だい?」
ティアは悲しげに顔を伏せる。ハイマンは、彼女の言葉を理解し損ねたような顔をしたが、すぐに気遣うように彼女の顔を覗き込んだ。
ルークの方と言えば、彼の長身を屈めて、ティアの視線の高さに合わせる所が彼女、彼女の顔を間近で見たいがためのように見えて、言い知れない焦りを覚えずにはいられない。
どんな呼び名の感情なのかはルーク自身にも解らない。しかし、こんな状況の街を前に、ましてやティアに対して抱いても良い物ではない気がする。
「わたしは、今は彼を……」
ティアはルークに僅かに視線を送ると、何か祈るように杖を握りしめながら、いつものように慎重に言葉を紡いでいく。
「……ルーク様をお守りする事が今のわたしの役目なの。どちらも片手間にできる役目じゃない。詳しい話はできないけれど……。ごめんなさい」
ティアは嬉しい事を言ってくれているのに、その丁寧な言い回しに、やはり“壁”を感じてしまうルーク。
「そうだったのか……。」
ハイマンは、気弱としか思えない表情をした。その時、ルークとも目が合った。そこで彼はルークに目礼しつつ、一呼吸置くと
「いや、こちらこそごめん、ティアたちを困らせるつもりはなかったんだ。それにしても、ティアは自分が悪くなくても、すぐに謝ってしまうのは相変わらずだな。ハハハ、人手が全然足りなくて気が弱っていたんだ。また、君に甘えてしまう所だったよ」
とティアに笑顔を向けて、最後には若者らしい強気な表情で言い切った。
「ハイマン……」
ティアは尚も申し訳なさそうに顔を伏せるが、背後から
「イイじゃねーかっ、手伝ってやれったら! オレは逃げたりしないぜ。でも、ここの街の人たちは……病気の人達は“捕まえて”おかないとマズイんだろ?」
と場違いに朗らかな声を掛けられた。言うまでもなくルークだった。
ティアは驚いて振り向いた。
「ルークっ……様、何を言うのですか!?」
そんなティアにルークは、少しわざとらしく「ニッ」と笑うと、
「心配ショーだなぁ。ティアがいなくたって大丈夫だよ。おっさんやガイもいるんだ。ヘーキだって! おっさん、行こーぜ。ヴァン師匠が待ってる!」
隣に立つコゲンタの肩を引っ掴んで、ティアに背中を向けた。
「おいおい、ルーク殿……」
「ったく、ルークは……。ティア、そっちは頼んだよ。それぞれの出来る事をやろう」
ガイは一つ溜息を吐いて、ティアに軽く敬礼してルークを追う。ナタリアとアニスも頷き合い、彼らを追う。
「……分かったわ。ルーク、お兄様をお願いね」
「申し訳ありません、ルーク様。お気を付けて」
ハイマンはルーク達に最敬礼をした。
こうして、ルークは師に会いたいとはやる気持ちとティアへの良く解らない気持ちを胸に、街の奥へと下って行った。
さらに、暗い、暗い奥の方へとルーク達は降る……。
更新が遅くなりすみませんでした。
今回はナタリアが可哀想な回だったと思います。
非常にセンシティブな場面だったので、ばっさりカットしてしまい衝動にかられましたが、けれどもTOAを扱う以上、この場面を描かなけらば“嘘”だろうと思い、描きました。
あの場で、ルークの失言に怒りを覚えるのは仕方ないでしょう。彼には反省を促すべきです。ただし、瘴気の、彼らの世界での『感染症』、『防疫』についての充分な知識を授けてからの話です。
極論もよい所ですが、医療技術はおろか、なんの事前知識すらなく大規模な感染者病棟に行って作業できる者のみが、ルークに石を投げらるのではないでしょうか?
またも極論ですが、ルークが神託の盾騎士を斬れなかった事とナタリアが病人に駆け寄った事、どちらも一人の人間の命がかかった一大事に良心が働いた結果の行動です。前者は咎められ、後者はお咎めなし。です。
また、ナタリアの行動を“リアル”に考えれば本人や仲間達は大丈夫でも“キャリアー”となって瘴気で弱った人々に接触したら……という可能性も考えました。TOAの世界には『感染症』がないんでしょうかね?
それはともかく、主要キャラクターが病人を見捨ててしまうというのも見栄えも悪いというのが一番にあるでしょう。それをルークに言わせたわけですから、制作陣が彼をどう表現したいかというのは察しがつこうという物です。
白状しますと、私も初プレイ時に撹乱されてしまったので、制作陣は『ハロー効果』など駆使した巧みな扇動者としては評価します。しかし、人間としはいかがな物かと思います。
皆さんはいかがお考えでしょうか?