目を覚ますと、大きな怪物が目の前にいた。メンテナンス用の通路いっぱいに体を押し込んで。猿と虎と、蛇の瞳がケンゴを見つめている。
「無粋は俺だったかな」
返事はなかった。
怪物はそのかわりに怒りをあらわに立ち上がる。とめどなく、その腹から流れるのは血か。その姿が霞んだと思うと、憤怒の形相を浮かべた大猿の顔が眼前に迫っていた。虎の前足がケンゴの肩を押さえつける。鋭い爪が皮膚を薄く切り裂いた。
「ふざけるなよ、ケンゴ」
「大声出すと、あの女に見つかるぞ」
「アンタが邪魔しなければ、そもそもあの女との決着はついていた」
本気で怒っているのか。もとから顔の赤い猿ではそれすら分からない。普段の少女とは似ても似つかない姿。一見おどろおどろしい怪物だが、彼女が必死に怖い見た目を取り繕っているのを想像するだに笑えてきた。
「何がおかしい」
それが気に入らなかったのか、猿の顔の口から蛇が数匹飛び出してきた。ムキになるあたり、やはりだとケンゴは思う。見た目がどれだけ恐ろしかろうと、ぬえはぬえだった。
「でも、お前は死んでいたな」
意表を突かれたのか、猿は目をむいた。蛇たちが顔を見合わせる。
「――それがどうした」
「お前に、ぬえにこれ以上傷ついてほしくなかった。それだけだ」
猿の瞳を再び怒りが満たす。肩を締め付ける力が強まる。ケンゴはわずかに呻いた。
「わたしは鵺だ。わたしは妖怪だ。ケンゴに気を遣われるほど、おちぶれちゃいないんだ!」
その背中から、黒煙がゆっくりと吹き出している。ぐねぐねと身をよじって、鵺はより恐ろしげで、形容しがたい形へと姿を変えていく。血が壮絶にまき散らされていく。
怒りにたぎる瞳に映るケンゴ。対照的に落ち着き払った、その目。
「答えろ、わたしは何に見える」
そりゃあ怖い怖い化け物に見えた。
この地に現れてから幾度も敗北と苦戦を強いられているのは、相手が日傘の女では悪すぎたというだけのことだ。伝説の怪異であることに変わりはない。それは、こうして間近で見ることでより深く理解できた。
それでも、だ。今のケンゴの目には、恐ろしげな怪物にかぶさるように、もうひとつの像が見えている。
「いつもの、ぬえに」
怪物の体が風船のようにしぼんでいく。黒煙は晴れ、残されたのは全身傷だらけの少女だけだった。
心底恐ろしげな怪物に見えて、それは欺瞞。ただのコケ脅しだ。正体が何者であるか十分にわかっていれば、彼女の術は効かない。
「お前はぬえだ。封獣、ぬえ」
彼女は呆けたように座り込んで、前に立ったケンゴを見上げている。
「どうして」
「あ?」
「どうしてさ。いつものケンゴは、そんなこと言わないよ」
傷つくことを言ってくれる、と言いかけて、それがいかに的を得た言かと感心した。
「ケンゴが生きてさえいれば、後はどうとでもなる」
「ぬえ」
「何」
「お前を失いたくない。お前がいないと、その、困る」
少女は口元を覆った。
「え、ええと、それ」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくてだな」
放ってから気づいた言葉の意味を必死に弁解して、ケンゴは通路の先に広がる暗がりを見据えた。諦めたのか、見失ったのか。日傘の女は現れないが、気は抜けない。
「ここを出よう。話はそれからだ」
「……こっち。こっちに空気の流れがある。足元、岩が転がってるから気をつけて」
わずかに染まった頬を逸らして、ぬえはケンゴの手を引いて歩き出した。その掌が血にぬめっている。暖かな雫が手を濡らすたびに、ケンゴは苦々しげに眉間のしわを深めた。
「痛くないのか」
「痛いよ。ただ、騒ぐほどじゃないってだけ」
「ごめん」
ちらりと背後に視線を送って、彼女はまた歩みを進める。
「わたしはケンゴが勝手に死のうとしたことが許せないの。前にも言ったけど、アンタがこの町と私の世界を救う唯一の鍵。そう簡単に投げていい命じゃない」
「俺には何もできない」
「今はね。でも、本当は何でもできるはず。それこそ、この世界の王様みたいに振舞うことだって」
ケンゴの手を握る力がわずかに強まった。前を行くぬえの表情はうかがい知れない。
この世の王としての力。ケンゴはそんなものを感じたことも、使ったこともない。たちの悪い冗談めいている。それは、この町に異変が起こってからの日常すべてに言えたことだが。
「お前の世界と俺の町に起ころうとしている、その、危機って何なんだ。やっぱり日傘の女なのか」
「違う」
はじめは日傘の女も、彼女たちの世界を救うために奔走していたらしい。直接対面することはなかったが、あの馬鹿げた力だ。怪しい人物を片っ端から締め上げる彼女の噂は嫌でも耳に届いたという。
『向江ケンゴを探しなさい』
そしてこの地に現れた時、彼女はおかしくなっていた。
「今は時間が惜しい。あいつから逃げないと」
「待ってくれ、これだけは教えろ。俺が持つ力なんて、誰がそんなことを言ったんだ」
ぬえの足が止まった。振り向いた少女。彼女にしては珍しいことに、その眼差しには明らかな迷いが見て取れた。ケンゴの視線をしばらく受け続けた彼女は根負けして、静かにその目を伏せる。
「……キョウコ、よ」
みしりと、不気味な音がトンネルに響いた。