『その時が来たら、向江ケンゴを捜しなさい』
と言った。
そう遠くない昔、あるところにいけ好かない男がいて、
『向江ケンゴを見つけたら問答無用でブチ殺しだ』
と言った。
もちろん言葉を受け止めた彼女には体も頭もひとつしかない。ならば、仲のいい方の頼みを聞くのが当然のことだろう。しかし、実際は思ったよりも状況は複雑で。
結果として彼女は澱んだ水の中に身を横たえていた。周囲は降り注いだがれきに閉ざされ、彼女自身も巨大な岩塊の下敷きで身動きができない。
珍しくピンチだと思う。それこそ死神だの地獄の閻魔だの。馬鹿げた存在と渡り合ってきた彼女が、たった一つの石ころによって膝を折ろうとしていた。目をつぶると、とうの昔に酸素が失われた体が悲鳴をあげている。ぷちぷちと聞こえるのは単なる水泡か、それとも細胞が一つ一つ死んでいく音か。
(参ったな)
最後まで、みっともなく泣き喚くような無様はするまいと考える。実際痛くも苦しくもない。ただ、口惜しい。
(私も嘘つきになっちゃうわね)
自分がいなくなっても、残された仲間たちがきっと全てをやり遂げてくれるとは信じている。用心も役立った。妖怪の手を借りたとは言え、まさかただの人間に負けるとは思いもよらなかったが。
とにかく、あの青年はもう生きてはいないだろう。
『――そして、あの子を守ってあげて』
約束を自らの手で遂げられない。それだけが口惜しくて仕方ない。
(ごめんね、キョウコ)
音を立てて焼け付いたフィルムが回りだす。空っぽの映画館で彼女は一人端の席に座っている。埃と古びたシートの匂い。背後の暗がりにぼんやりと輝く非常灯。スクリーンに映し出されるタイトルは、
1.時計じかけのひまわり
「君も研究かね」
日傘の女は顔を上げた。
土を知ることは大事だ。この分厚い舗装を破って頭を出したひまわりとアサガオたちは、お世辞にも最高の状態とは言えない。だからこそ、彼女は土を調べる。彼らの疲れを癒すに足りる養分はあるか。根を健全に保つだけの深さはあるのか。
数時間の調査の後に彼女が軽く絶望していると、男に声を掛けられた。自転車を傍らに、彼は積み込まれたシャベルを降ろし始めると彼女の返事も待たずにざくざくと根を掘り返し始める。男の白衣からは汗に混じって香のにおいがした。
「あんまり褒められたことじゃないわね」
「うん、そうだな。彼らには悪いと思うのだが」
軽い驚き。
男は彼女の言う『褒められないこと』の対象がなんであるか即座に理解していた。泥の跳ねた眼鏡越しに、彼はひまわりを見ている。
「それでも仕事だ。おまんまを食うためには、仕方なし」
「この子達を掘り返して……何をしているの?」
「こいつらを何が突き動かしたのか。俺がたった数時間目を離した隙に、こいつらがどうやってここまで増えたのか。地中にあったむかしの種子が時を経て発芽することにはいくつか事例がある。だが、こうも広範囲に、短時間でとなると」
男は手を休めない。ヒゲもぼうぼうの、老年に差し掛かりつつある男は、それでも少年のように顔を輝かせてシャベルを振るう。
「花は咲きたいから咲く。それだけでしょ」
「あぁ、どうやら君は学者じゃないみたいだな」
「ただのロマンチストよ」
「苦手な人種だ」
言葉とは裏腹に、愉快そうに笑いながら男はシャベルを進める。こいつを埋めれば少しは栄養の足しになるだろうか、と思うが。ここは彼女のいた世界ではない。侵入者を徹底的に排除するのが彼女のやりかたで、今は彼女が侵入者だ。
「うお、やけに硬い根だな」
それでも、精一杯の抵抗はするのだが。
「ま、好きになさいな」
「そうさせてもらうよ、お嬢さん」
男に背を向けて、彼女は歩き始めた。巨大なビルの隙間いっぱいにひしめくひまわり。青空と入道雲とをバックに、電線のシルエットが眩しい。彼女の世界には無縁の異様な光景だ。生まれ育った世界の里山に慣れた彼女には、どこへ行ってもよそよそしく感じられる。
「あなたはどうしてこの世界で生きていこうと思ったのかしらね」
ぼそりと呟いて、彼女は不意に懐かしくなった。
『どうせ理解してくれないでしょ。石頭』
『これでも心配してるのに』
『それはおせっかいって言うんだよ』
別れの茶会は大喧嘩で締めくくられた、ように思う。結局それからはほとんど言葉を交わさないまま別れが訪れ、言葉少なに最後の約束を結んだ。
旧友と出会えたら、理由を改めて訊こうと思う。だが、まずは準備が必要だ。その時が来るまで、ケンゴを守るための要塞をこの町に築くための。
日傘を片手にひまわりと朝顔たちを元気付けて回る。見知らぬ土地であっても、彼らと触れ合ううちに少しづつ気が和らいでいくのを彼女は感じた。そのまま一日が終われば、どれだけ心穏やかに彼女はケンゴを迎えに行くことができただろうか。
錆び付いた車輪の音に気づいたのは、もう日も暮れかかろうとしていた時だ。
「アンタを待ってたよ」
きりきりと耳障りな音を立てて現れたのは車椅子と、奇妙な風体の男だった。
まず目を引くのが、スニーカーとズボンの裾の間だ。足首があるはずの場所には金属の光沢が見える。不自然に動かない膝から下は義足になっているようだ。炎天下の下でも長袖のパーカーを深く被り、うつむき加減と相まって顔は見えない。
「クソだな」
男は露出した地面のぬかるみに小声で文句を言いながら車椅子を転がしてくる。日傘の女はちらりとその姿を見て、さっさと横を抜けていく。
「無視か?」
日傘の女の背後。男は唾を地面に吐き捨てる。車輪の軋む音。
「ねぇ、あなた」
一本のひまわりが傾いでいた。ゆっくりと車輪で茎に乗り上げつつ、車椅子の男は女の言葉には答えず、咳混じりの笑い声を立てる。日傘の女は背を向けたまま、密やかな声に怒気をにじませる。先の男とこの車椅子の主、やっていることは似ていても、本質があまりに違いすぎる。
「どうだ、聞く気になったか?」
尚もめりめりと音を立てる茎。ゆっくりと日傘の女は振り向いた。笑顔だ。
「えぇ」
あなたの悲鳴を。
「ハハッ、やめとけよ、俺は無敵だぜ!」
土が爆ぜる。瞬く間に隆起したひまわりの根が男を車椅子ごと刺し貫いた。車椅子、おまけにぬかるんだ足元。男は何の反応もできなかった。宙に浮いた車輪が虚しく回転している。そして、
「ほらな」
男は体中から槍をはやしたまま高笑いした。体を揺すって笑う彼に合わせて、車椅子がぎしぎしと音を立てる。その異様さに日傘の女は飛び退った。男は串刺しのまま、未だ冷めやらぬ興奮にくつくつと笑いを漏らしながら、日傘の女を見据えた。
「でもなかなか良かったよ」
「……何者なの?」
見上げる形になってもまだ、日傘の女に男の顔はわからない。目深にかぶられたフードの中にはただ黒々とした闇が渦巻いている。ともすれば、単なる穴のようにも。目が眩みそうな夕日の下にあって、目鼻立ちの輪郭すら見えないのだ。
「向江ケンゴの関係者」
「それで?」
その名をここで口に出すということは、日傘の女の目的も知っているということか。抜け目なく次の攻撃と回避の準備をしながら日傘の女は一歩踏み出す。周囲でひまわりがざわめく。
「そうキンチョーするなってば」
対する男は至って愉快げで、目の前の人知を超えた存在におののくそぶりを見せない。ひしゃげた車輪を手持ち無沙汰に空回りさせながら、もう一方の手で胸から生えた槍の穂先を弄ぶ。
「その、アンタ――ええと、そうだ思い出した。ユーカだユーカ。風見幽香」
「気安く呼ばないで」
「でさ、幽香ちゃんは自分の世界を救いたくてここに来た、そうなんだろ」
名前を知っているということもだが、それ以前にこの男の話し方が気に食わない。日傘の女は返事替わりに新たな槍を男の体に突き刺した。
「あだだだ。これでも一応痛いんだぜ? で、なんだっけな。あ、そうだ。今日は幽香ちゃんに朗報を持ってきたんだ。聞きたい?」
「別に」
「どこのお嬢様だよ。高飛車キャラなんてあっという間に廃れちまう、今のうちに路線変更した方がいいって」
路線変更。言って、男はまた笑った。笑いすぎて身体に障ったのか、また激しく咳き込む。無敵を自称し、針山と化しても笑い続ける男にしては、あまりにちぐはぐな行動だった。
「あークソ。それでさ幽香ちゃん、アンタの目的は知ってる。そこで、ちょっと計画を変えてみようぜ」
「その必要はないわ。さっさとケンゴの力を借りて、約束をはたして、帰る。それだけで済む話だもの」
「ところがどっこい、そうはいかなくなっちまった」
「へぇ」
「あいつは立派なクズに育った。もうダメだ。どう見積もっても、何の役にも立たないポンコツだよ。アンタらの言う程度の能力とやらも失われちまったよ」
向江ケンゴに宿った力があれば幻想郷と、H市に定められた滅びの運命を変えることができる。かつて、幽香の友はそう言っていた。それがもう無いという男の言葉を信じる気は無い。だが、嫌な胸騒ぎが収まらない。
それでも幽香は冷静を取り繕う。
「それは直接会って確かめるわ」
「まぁ気が済むように。だが、いずれにせよ向江ケンゴを見つけたら問答無用でブチ殺しだ。頼むぜ、マジで」
男の肩から一枚の花びらが飛んだ。黒くくすみきった、ひまわりの花びらが。その数が一枚二枚と増え、次第に男の姿が崩れていく。残されたのは車椅子と、男の代わりに貫かれた、萎れたひまわり。
「早速ヘンなのが出てきたわね」
幽香は、しばし呆然と立ち尽くすほかなかった。
◆◆◆
彼女が市内の大部分に張り巡らせた植物によって、向江ケンゴの居場所は大方調べがついていた。だが、肝心の幽香は彼の元を訪れることに乗り気でない。
『あいつは立派なクズに育った』
それは、百万歩譲っていいとしよう。不本意だが、鉄拳制裁は幽香が得意とするところだ。相手がクズならクズなりに、モノの頼み方がある。しかしあの男の言うとおり、万が一にもケンゴが能力を失っていたら?
「お、戻ったか」
思考の袋小路に入り込んでいた彼女は、見覚えのある白衣の男を見つけて歩みを止めた。
「そういうわけじゃあないけど」
出くわしただけである。
男の自転車の荷台には三本のひまわりが横たわっていた。極力傷つけまいと、丁寧に掘り出されていることはよく分かる。それでも車椅子の男が語ったケンゴに関する一件とで、幽香はつい険しい表情を浮かべてしまう。
「そんな怖い顔するなよ。ちゃんと謝った」
「そうなの?」
荷台のひまわりに聞いてみる。まだみずみずしさの残るひまわりは、かすかに首を揺らした。
「ふうん」
「君、不思議ちゃんってやつなのか」
「はん。この子達を研究しているにしては視野が狭いわね。そもそも人が人の言葉だけ理解できるという前提からして」
熱く語り始めた幽香は口をつぐんだ。
「そういえばあなた、ここに来る前はどこに?」
「どこって?」
「服からお香の匂いがしたから」
「おい、よく分かったな」
教え子の葬式に彼は行っていたのだという。
「教え子?」
「あぁ。向江響子って、言う、ん、だが……」
幽香の様子を見るうちに、教授の声は次第に小さくなっていった。それまで仏頂面を保っていた彼女の顔に差した一瞬の陰りが見えていた。
「大丈夫か」
「え? えぇ。平気よ。そのキョウコって、アサガオが好きなキョウコでいいのかしら」
「そうだな。研究室の机にいつも造花まで飾って」
確信する。それは、幽香がよく知るキョウコだ。アサガオが好きで、いつも身近に置いていた。笑顔はどちらかといえばひまわりに似ていたような、そうでもないような。大事な友人の顔が少し気を抜いた隙に記憶が薄れてしまう。幽香は少しばかり長く生きすぎたことを後悔する。
「そっか。キョウコ、行っちゃったのね」
「あぁ」
「別ればかりね」
「そうだな」
男は懐からタバコのパックとライターを取り出し、幽香の存在を思い出してバツが悪そうに仕舞う。泥まみれの白衣を叩きつつ、飛行機雲の走る夕焼け空を見上げる。つられて幽香も空を見上げる。
「一瞬だったそうだ」
「そう」
空だけはどこへ行っても一緒なのね、と幽香は呟いた。
白衣の男は幽香の表情を観察する。すくなくとも陰りはもう見えない。それは外見の若々しさからは想像がつかないほど、多くを見すぎた者の顔だった。男が字面の失礼を承知で評するなら、老成している。男よりもずっと。
「……これからどうする?」
「帰るわ。夜はあまり好きじゃないの」
「この町に住んでるのか?」
「そういうわけじゃないけどね。でもしばらくはここに。もしかしたらまた会うかも」
軽く手を振って幽香は歩き始めた。男はようやくタバコを吸い始める。なまじ葬式よりも、教え子の死を強く感じた数分間だった。これから研究室に戻って、かつて響子が使っていた物品を目にするのが少しだけ辛くなってしまった。
「最近は変わった子が多い」
ふと、白衣の男は振り返る。ひまわりの立ち並ぶ路地を歩いていく幽香の後ろ姿。彼女は立ち止まると、軽く日傘を持ち上げて見つめ返す。しばらくの沈黙の後、彼女はまた歩き始めた。黄昏の中で静かに揺れる白い日傘も相まって、彼女が一輪の花のように見えた。