東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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3.午後と紅茶

 

 新しく持ち込まれた論文はたいそう奇想天外なシロモノで、教授はたった2ページを添削するだけの作業に半日を費やした。研究室で伸びをひとつ、ブラインドを押し上げる。ちょうど、研究棟から出て行く居候たちの姿が見えた。

 うざったそうに振り払うケンゴと、付きまとう少女。その背中に一瞬翼としっぽが見えたような気がして、教授は目元を揉んだ。よく見ろ、何の変哲もない白昼の光景だ。

 しかしいくら目を揉んだところで、うずたかく机の上に積みあがった超大作は消えることがない。タバコに火を点けようと手に取ったライターを無意識に束に近づけていたことに気づき、教授はいかん、と呟いた。

 

 ――あの生徒は大物になるだろう。きっと。そのまえに息の根を止めてやりたくはあるが。

 

 このままでは胃袋に穴が開きそうだったので、気分転換にパラソルと折りたたみ式のベンチを抱えて研究棟の薄暗い階段を登る。こっそり作った合鍵を取り出して、屋上への扉にかけられた南京錠を外す。べつにこの施錠に薄暗い過去が絡んでいるわけではない。

 十数年前、とある植物学の研究室にとある学生がいて、真夜中に屋上でドンパチ花火大会を開催。それが何の間違いか爆発事故に繋がり、研究棟の屋上が半分消し飛ぶ事態に発展した。

 

『教授、すまん』

 

 生真面目な学生だったはずの彼が、よくもトチ狂ったことをしでかしたと呆れたものだった。幸いケガ人は当の本人を除いてゼロ。監督責任を問われ、教授はなぜか同階の研究室すべての学生の出した『ユニークな論文』を添削するハメになった。

 

『あれはなんというか、特訓だったんだ。すまん、本当』

 

 それから大学へのせめてもの仕返しにと作ってやったのがこのカギだった。屋上には誰もいない。胃潰瘍をこさえそうな作業のあとにぼんやりするには最高の場所だった。

 

しかし、この日は変わった先客がいた。

 

「また君か」

「こっちのセリフよ」

 

 トランクケースを椅子がわりに、フェンスにもたれて町を眺めるのは、いつしか町で彼が出会った女であった。名前も名乗らず、ただ彼女がキョウコの古い知り合いであるということしか教授にはわからない。それにしても不思議なのは、

 

「どこからここに入ったんだ?」

「空を飛んで」

「笑えるね」

 

 女――風見幽香はちらりと教授を見た。

 おおかた前回入った時に鍵を閉め忘れたか、と片付けて教授はさっさとパラソルを組み立てる。ベンチを置けば、もう午睡の準備は整った。メガネを枕元に、彼は胸の上で手を組んだ。目を閉じると乾いた埃の匂いが不思議と心を落ち着かせる。そこに微かな花の香りが混ざったので、彼は薄目を開けた。

 傍らには幽香が座り込んでいた。

 

「こっちでのキョウコって、どうだった?」

「こっち?」

「ええと」

 

 珍しく彼女は言いよどむ。どう言っていいのか、その表現に迷っているようだった。

 

「故郷での彼女はよく知っているのだけど。こっちは、いろいろ環境が違うでしょ?」

「あぁ」

 

 たいそう鄙びたところから来たのだろうか。そう深くは考えずに教授は組んだ手の上で指をくるくると回した。幽香は流石にバカバカしいと思ったのか、ビーチパラソルの下で日傘を差そうという試みを諦めたようだった。

 

「どこにでもいるフツーの学生だったなあ。普通に研究して、普通に恋をして、普通に卒業して子供を生んだ」

「幸せそうだった?」

「そうだな。子供を研究室に見せに来たりして。俺も一瞬結婚に心が動いたりしたもんだ」

「結局しなかったってこと?」

「相手がいないんじゃなあ」

 

 感心する。彼女の友人は、思ったよりもこちらで上手に立ち回っていたらしい。生まれの場所である現代と、そして本来の居場所である幻想郷。とても、妖怪とは思えないほどに器用だった。

 

◆◆◆

 

『おめでとう!』

 

 我が事のように喜ぶ幽香と、目に涙を浮かべるキョウコ。幽香が子を持ったことはないが、その嬉しさは理解できるつもりだ。

 

『幽香、どうしよう。わたし、わたし』

『大丈夫、きっとうまくいく。あなたの口癖じゃない』

『うん』

『あなたに子供が出来たって、結婚したって、私たちは友達。でしょ?』

『うん』

 

 どこか一本調子な答えを不穏に思いつつも、幽香は気楽に物事を考えることにした。子供が生まれれば当然つきっきりになるし、二人で過ごせる時間も減る。でもそれは一時のものだ。すべてが落ち着けば、いずれはまた、楽しく過ごせる。

 その時はあの外来人に、どうやって彼女をものにしたのか聞いてみるつもりだった。子供と遊ぶのもいい。ちょっとした面倒くらいは見てやろう。

 そんな皮算用は、あっという間に打ち砕かれることとなるのだが。

 

 数年が経ち、向江健吾と名付けられたその子供はしっかりとした足取りで花畑を駆け抜けるようになっていた。初めは未知の生き物に触れるように接していた幽香も、「ゆーか」と呼ばれるうちにだんだんと愛着を抱くようになっていった。

 

『……実は、彼女が来たの』

『彼女?』

 

 朝早くにドアベルを鳴らしたのは妖怪だった。それはいい。だが、ここは彼女の領域だ。通常の手段では侵入することができない。はずだった。相手を見てキョウコは納得するとともに、底知れない恐怖を覚えたという。

 

『ハロー、キョウコ。それにおチビちゃん。この訪問の理由は分かるわね』

 

 現世と幻想を分離する結界の管理者。彼女のありとあらゆる境界とスキマを自由に操る能力は、既に概念の域にすら干渉できるとキョウコは聞き及んでいた。

 

『ケンゴ、ちょっと大事な話だから、奥で遊んでてくれるかしら』

 

モノの軽重、善と悪、そして男と女の境でさえ、彼女の思うがまま。それがいかに危険なことであるかなど、言うまでもない。彼女ならこの領域に入り込むことなど造作もないことだろう。

 

『あの子に手出しはしないで』

『何も切った張ったでカタを付けようってワケじゃないのよ。あなたがしたズルは罰せられるべきだけど、その気持ちは最大限尊重したい』

 

 結界の管理者はキョウコの住居である白い小さな家の周りを見渡した。地平線まで広がっているヒマワリ畑と、白壁に映える大輪のアサガオ。のどかで穏やかな光景はしかし、幻想郷のものではない。青空にうっすらと見えるものを見透かして、その妖怪は目をしばたたかせた。

 

『妖怪として生まれ、人の手で育てられた。あなたにもあの子にも二つの世界がある。だからといって両方を行き来するなんて都合のいい生き方は許せない。私はあなたたちを守るためにこの立場にいる。この立場にいるために、一人の例外も見過ごすことはできないの』

 

 だから選べ、と彼女は再度告げた。

 結界に穿たれた小さな穴。幻想郷と現代をつなぐための中継地点としての存在を創り上げるのがキョウコの能力であった。百の花が咲き乱れる永遠の春の星。すなわち、百花境を。

 

『それで、どうしたの? あいつの言うままにうんうん頷いてハイ分かりましたって返事したわけ?』

『あの人が慎重に言葉を選んでくれているのは分かったし。それに、一番あの人がつらそうに見えた。わがままを言っているのはわたしだもの』

『もういい』

 

 日傘をばさりと広げて幽香は踵を返した。相手がだれで、どんなお題目を掲げていようとも、気に入らないヤツは力ずくで言うことを聞かせるだけ。道理が通らないなら、無理を通すだけだ。

 なれたもので、キョウコは幽香の様子が変わったことを察するなりすばやく彼女を羽交い絞めにした。二人の力の差は明らかで、その気になれば振りほどくことは簡単だ。だが、友人という枷は何よりも強固に幽香という妖怪の、荒ぶる心を縛ってくれる。

 

『離して』

 

 それは彼女にとって「落ち着いた」の同義語だ。それでも今回ばかりは冷めやらぬ怒りが真紅の瞳に渦巻いている。

 

『もとからあの子は向こうで育てる気だったの』

 

 キョウコは、薬指に光る指輪を愛おしげに撫でる。その手つきに断たれようとしている友情までもが込められているような気がして、幽香は拳を握りしめていた。爪が肉に食い込む感触で我に返る。キョウコはただただ理解を求めるように幽香を見つめていた。とても視線を合わせることなんてできない。

 

『あなたと同じような力が、きっとケンゴにも宿ってくる。あなたはあの子がやることなすことに責任を持てる?』

『きっと、大丈夫だよ』

『――またそんな言葉で誤魔化そうとして! あなたのバカみたいなポジティブさのしわ寄せを貰っていたのは、いつだって私だったじゃない』

『どうせ、どうせ理解してくれないんでしょ。石頭』

 

 さすがのキョウコも幽香の物言いに思うところがあったのか、返しの言葉も必然キツいものになっていく。

 

『これでも心配してるのに』

 

 見たこともない友人の様子に幽香が戸惑う。珍しく泣きそうになっていた。

 

『そういうのをさ』

 

 言ってはならないと知りつつ言葉が過ぎてしまうことはままある。仲のいい友人の間であっても。そして、今回は最悪のタイミングでそれがやってきただけのことだった。

 

『おせっかい、って言うんだよ』

 

◆◆◆

 

 幽香の険しい表情をどう思ってか、教授はベンチを立った。彼女が何か言う前に階下に消えると、しばらくして古い書類かばんを手に戻ってくる。手で埃を払って取り出したのは、

 

「アサガオね」

「きれいなもんだろ」

 

 まるで押し花のようにきれいに圧された研究標本を見つめる幽香の目は優しい。満足げにそれを見て、教授はフェンスまで歩いていくとタバコに火を点ける。甘い香りの煙を天高く立ち上らせる教授が、幽香の目には、まるで雲を吐いているように映る。

 

「君も、花が好きなんだな」

「えぇ」

 

 端のラベルに書かれた『向江響子』の字を何度もなぞって、彼女は標本を抱きしめた。

 

「もっと適当に作ってほしいってのが俺の本音だったんだがね」

 

 キョウコは決してその作業をおろそかにしなかったという。たとえ研究が遅れてどやされようが、一本一本の花を慈しむように扱っていたという。それこそ、ただの雑草に見えるようなものですら。

 

『そんな事したら、あの子に怒られちゃいます』

 

 と、困ったように笑いながら。

 

「もってけ。彼女も本望だろう」

「いいの?」

 

 返事がわりに教授はまた一つ、新しい雲を浮かべる。

 

「ありがとう」

 

 朗らかに笑って幽香はトランクに書類かばんをしまった。

 トランクを椅子がわりに、アサガオの標本を幸せそうに見つめる彼女は美しい。人生折り返しを越えて春を思い出したわけではないが、教授はその姿に、花を重ねて見る。

 

「時々、君が枯れてしまいやしないかと心配になる」

「ロマンチストはあなただったみたいね。言っておくけど私、何があろうとも枯れたりしないから」

「そうかい。そりゃよかったね」

「お礼に紅茶でもどう? とっておきの茶葉があるんだけど」

「いいね。でも火――え、ここで沸かすの? マジ?」

 

◆◆◆

 

 とぼとぼとキョウコが歩いていく。もともと背の低い彼女だ、ひまわりに囲まれてはろくに見通しが利かない。その分足元にはよく目がいった。赤い花、と思いかけてそれが乾きかけの血糊であることに気づく。転々と続く血痕を無意識に追いかけるうち、よくない予感が脳裏をよぎる。蛇の尾を踏んだかも知れない、と。

 しかし、そう気づいたときは乱れた呼吸音が耳に触れる瞬間だった。

 

『だれ?』

 

 あたりは嘘のように静かになった。

 静寂の中、ぴりぴりとした殺気を感じる。百花境、彼女の王国に入ってこられるものは限られている。彼女が許したものか、または小さな花園に施された欺瞞を見破るほどの力を持つものか。

 

『アンタこそ誰だ』

 

 キョウコの背後から黒煙が漂い始める。ゆらりと音が立ちそうなほどに緩慢かつ静かに立ち上がったそれを認めた瞬間、その姿が残像のように霞んだ。てっきり食い殺されるかと思ったキョウコが恐る恐る目を覆った手を下ろすと、その怪物は彼女の数歩前で力尽きていた。どうやら、足をもつれさせたらしい。

 

『ケガ、してるのよね』

『だからどうした。お前を喰らうだけの力はあるぞ』

 

強がりをいうものの、怪物は一向に立ち上がる気配がない。馬とも龍ともつかない姿をとった黒い獣は、虚ろな目で空を見上げていた。その輪郭が何度もさざめくように波立つ。その下に垣間見えたもの。無意識に、キョウコは手を差し伸べていた。

 

『手当てさせてくれるかしら』

『ナめてるのか。わた、我は何に見える。助けが必要なように見え――見え――』

 

 半身をもたげた怪物は、そのままぐらりと頭を揺らして反対側に倒れ込んだ。ぜいぜいと息を荒げる。ごぼりと濁った血を吐き散らしながらも敵意の篭った目でキョウコを睨める。

 

『ただの女の子に見えるわ』

 

 怪物は困ったように目をきょろきょろさせた。

 

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