東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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第4章 『ガラスの檻』
1.モーニング・グローリー


 

『保証が欲しい』

 

怪物は血を吐く。

 

『アンタが私に何もしない。その保証が欲しい。なんでも、いいから』

 

 キョウコは少し考えて、薬指から銀の指輪を外す。彼女が放った指輪を怪物は牙で挟み込むと、そのまま飲み下す。

 

『いいよ。お願い』

 

 怪物の体がほどけるように開く。乱れた黒髪の隙間から未だ敵意と警戒を残した視線を向ける少女へと、キョウコは初めの一歩を踏み出した。

 

◆◆◆

 

ケンゴの体を抱えたまま、ぬえは途方にくれていた。

アサガオによって心臓を握りつぶされた体はどんどん冷たくなっていく。ぬえを助けるために命を呈して戦い、そして勝利とともに息絶えた青年。

 

「なんだよ、ケンゴ。どれだけ嘘つけば気が済むの?」

 

震える唇を必死に律して、彼女は小馬鹿にした笑いをいびつに取り繕う。

 

「ちょっと眠るだけって、言ってたじゃんか」

 

イヤなやつだと思っていたのに、最後の最後でいいことをするだけしておいて死にやがって。ぬえはケンゴの胸板に拳を叩きつけた。微動だにしない。勝ち誇る赤いアサガオを握りしめ、殺意を込めて引き抜きにかかる。それでも好きにしろよとでも言うように瑞々しく咲く花が憎たらしくて仕方がなかった。

 

「やめとけ」

 

 肩にかけられた手を、反射的にぬえは振り払っていた。

 

「教授」

「どうしてケンゴの奴がこうなったのかは、説明しなくてもいい。知ろうとも思わない。だが、まだすべて終わったわけじゃないぞ」

 

 シャツをはだけたケンゴの胸が小さく上下している。

 

「生きてる」

 

 おそるおそるぬえはケンゴの胸元に耳を押し当てる。アサガオの根によって粉砕されたはずの心臓が、かすかに脈打っている。そして、弱弱しくはあるが確かな呼吸。その奇跡がいかなる理由によって引き起こされたのかはこの際大事ではない。

 

「ねぇ、ケンゴ。意地悪いな、もう。起きなよ」

 

 教授がケンゴの首を軽く持ち上げて、枕代わりにバッグを挟んでやる。ぬえはその間もケンゴに呼びかけ、肩をゆすり続けていた。やがて激しく咳き込んだ青年は薄目を開ける。ぼんやりとした焦点が定まるにつれ、彼の網膜には二人分の像が結ばれる。

 いつも通りヨレた白衣の袖をまくり上げた初老の男と、今にも泣きだしそうな妖怪の少女を。力なく指先を持ち上げて、ケンゴは口の端を吊り上げる。

 

「……ひでぇ顔」

 

 その一言で我に返ったぬえは、目元をぬぐうなり勢いよく顔をケンゴの胸にうずめた。彼女の額が深々とめり込み、ケンゴはまた咳の発作に襲われる。ニヤニヤを隠そうとしないのは教授だ。

 

「ずいぶん早い目覚めだな」

「こいつがうるさくて眠れやしない」

 

ぬえの頭に軽く手を載せながら答えて、その行為の自然さにケンゴ自身が驚いた。

 

「ばか」

 

ケンゴの胸元につっぷしたままのぬえが発したくぐもった声。安堵したのだろう、彼女はそれまでの疲れを思い出すように、そのまま微かな寝息をたて始める。複雑な表情でケンゴは彼女を見つめた。

 

「モテる男ってか。妬ましいねえ」

「そんなんじゃないさ、こいつは」

 

そんなんじゃない。

彼女にとってケンゴは生まれ育った土地と、そこに住む彼女の友人を救うための手段でしかないはずだ。たった一人の青年に、そいつら全員の命運が詰め込まれている。だからこそ彼のために彼女は泣くし、身を挺することだって厭わない。

 

「…………可愛くないヤツ」

 

我ながら勝手なことを言う、と思った。そのまま、いつの間にか。ケンゴも眠りに落ちていた。教授はとりあえずタバコに火を点けて苦笑する。寄り添って眠る二人の姿は、否応なしにかつて研究室にいた問題児たちを思い起こさせた。

 

◆◆◆

 

 ケンゴが目覚めると、ゴザの上に寝かされていたことに気づく。扇風機がのんびりと風を送っている。ブラインドから吹き込む風は夕立の匂いがした。

 

「あ、ケンゴ。おはよう」

 

 すぐそばにはちゃぶ台が持ち出され、ひじきと豆の煮物をもくもくと食べていたぬえが表情を輝かせた。教授はいない。

 

『しばらく留守を任せた。絶対に標本はいじるな』

 

 ぬえが突き出した書置きには短いメッセージ。すぐさまそれで鼻を拭いたケンゴは、ゴミ箱に書置きを放り込んでちゃぶ台まで重い体を引きずっていく。炊飯器に手を伸ばすぬえを何の気なしに見守るケンゴ。山盛りに盛られたご飯を見て、彼は初めて彼女が自分のためによそってくれたことを理解する。

 

「あ、ありがとう」

「ん」

 

 箸を進めるにつれて、ケンゴの体は調子を取り戻し始める。首筋に指を当てて確認すると、確かに心臓は打っていた。

 

「お前、何をしたんだ?」

「何もしてない。ケンゴは確かに一度死んで、自分の力で蘇った」

 

 言っているぬえでさえも釈然としないようだった。確かに心臓を損なった人間が生き延びた例は過去にもいくつかある。最古に遡れば偉大な存在に行きつく。そいつでさえ復活まで三日はかかった。そして、通常心臓を無くしたら大人しく土に返るのを待つのが人間というものだ。

 

「とりあえずは喜んでおいていいと思うわ」

 

 ぬえは箸を置くと、勝手知ったる我が家という風で冷蔵庫から酒瓶を取り出す。

 

「そろそろ、私がこっちに来た目的を話すよ。百花境のはなしを」

 

百花境。聞きなれない単語だった。

 

「私が知る限り、最も巨大で単純な災厄ね。ある日突然月ほどの大きさの石ころが落ちてくる。それだけ」

「お前の世界には無茶苦茶強い妖怪と巫女がいるんだろ。そいつらを呼ぶわけにはいかないのか?」

「その気になれば百花境の破壊だけじゃ済まないような連中ばかりなんだけどね」

「よく保ってるな、幻想郷」

 

 しかし、その助力はあまり期待できないというのがぬえの見解だった。

 

「まず結界の管理者が不在ってのが大きいわ。彼女は百花境を止めようとして、逆にその力を食われた。今はどこにいるのか――そもそも、生きているのか。とにかく彼女の助けなしではあちら側からこちら側へと渡ることはできない」

 

 管理者が力尽きるまでに送り込んだのはぬえとわずかに数体の妖怪、その中にはあの、日傘の女も含まれていたという。それだけではあまりに荷が勝ちすぎる相手だ。百花境は生きた天体で、おまけに明確な敵意を持って現代と幻想郷に攻撃を行う。百花境が落ちたその時、幻想と現代を断つ壁は完全に破壊される。無数の怪異が解き放たれた時に、一体何が起きるのか。想像するだに恐ろしい。

 

「あの星は二つの世界に同時に堕ちる。完全に破壊するには二つの世界から同時に破壊する必要がある。前に一度破壊に失敗したのは、それができなかったから」

「前?」

 

 もったいぶるように、そこで一度ぬえは話を切ると茶碗の中身を一気にかき込んだ。ケンゴはもどかしい気持ちでそれを待つ。

 

「ある外来人と、その相棒の妖怪がいて」

 

 たいそう強かったと、彼女は聞いていた。片側の幻想郷から徹底的な打撃を数か月にわたって加え続け、星一つを完封したというのだ。星を食い止めるほどの火力。そんなバカげた力があると聞いて二人が思い出すのは、やはりあの、日傘の女だった。

 

「妖怪の方が誰かは知らない。でも、その外来人は有名だよ」

「それは?」

「ケンゴのお父さん」

 

◆◆◆

 

「クソオヤジ。阿保馬鹿」

 

留守電に罵詈雑言を吹き込むと、苛立たしげに公衆電話の受話器を叩きつけて、ケンゴは大学のロビーのソファを占領するぬえのもとへと戻っていく。未だ元気に繁茂するアサガオが光をさえぎるため、ロビーの蛍光燈は一日中点けられている。日に黄色く焼けた紙にマジックで書かれた『節電!』の文字が虚しい。

 

「ダメだった?」

「あぁ。あのオヤジ、携帯の電源切ってやがる」

 

ぬえの枕元に腰を下ろしたケンゴを、さかさまのぬえが見上げる。すぐさま立ち上がったケンゴは未だ冷めやらぬ父への不満をぶつくさと漏らしつつ、自販機でジュースを買うと冷え切った缶をぬえの額に押し当てた。

 

「うわっ、何するのさ」

 

 飛び起きたぬえに、したり顔を見せつけて缶を開けるケンゴ。しばらく膨れて見せたぬえも、彼にならってプルタブを起こす。鉄の缶にいともたやすく穴が開いた、と。いまどき珍しい感動を口に漏らす彼女をケンゴは面白そうに眺めていた。

 

「オヤジはさ、どうして俺に黙っていたんだろう」

「言う必要がなかったからじゃない?」

「俺とオヤジがこんがらがったのは、そもそもあいつが百花境とやらを止めに行っていたせいなんだぜ。俺もみんなも、てっきりそれが――――あいつ、弁解の一つでもすりゃよかったのに」

 

 缶の内側の暗闇を見つめるケンゴ。水面に揺れる彼の顔にはいたるところに絆創膏が貼られていた。それだけで、まるで自分が自分ではない何者かになったような、おかしな感覚にとらわれる。少なくともこれだけの非日常を体験した後で、数日前のケンゴ自身に戻れるような気はしない。

 

「はいはい、そうやってイチイチ悩まない悩まない」

 

 背後からケンゴに覆いかぶさったぬえによって、水面は乱れに乱れた。もはやそこに何が映っていたのかも定かではない。というよりも、一番の問題は。

 

「ばっ、何、してんだよ!」

 

 振り払われたぬえは大げさに天井近くまで飛び上がると、いつも通りの器用な身のこなしで床の上に降り立った。

 

「仕返し」

 

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、思わず赤面したケンゴを見つめる。ケンゴの記憶にある限り、母がそんな顔をした覚えは一度もない。

 

「直接会って話せばいいと思うよ。せっかくの親ってやつなんだからさ」

 

 と、不意に浮かべる優しげな表情には確かに母に似ているのだが。

 

「お前、本当に何なんだろうな」

 

 いつしかの苦し紛れを思い出す。二時間遅刻した言い訳をくどくどと叔父に語って呆れられ、そのあげくひりだした結末は世界を天使と救う、という荒唐無稽に過ぎる代物だった。それがまさか現実のものとなるとは。

 ただ、どう見ても目の前の少女は天使などではない。激戦の爪痕を残すズタズタの衣服と相まって、その姿はなお一層悪魔じみて見える。なにより無視できないことに、実際に妖怪なのであった。人を騙し、喰らう。そんな百鬼夜行の世界から飛び出してきたのはいずれも麗しい少女たちで、なおさらにケンゴは困惑する。

 

「ほら、また考え込む」

 

 ケンゴは低く唸った。

 ロビーの扉を押し開けて現れたのは教授だった。海外のタバコを山ほど詰め込んだ紙袋と、使い込まれたジャージの押し込まれた紙袋を左右に提げて現れた彼は、

 

「着替えろ」

 

と二人の前にジャージをぶん投げる。

 

「こういうことは面と向かって言ってもいいのか疑問だが」

 

教授は顔をしかめると、不思議そうに顔を見合わせる二人に叩きつけた。

 

「お前ら、臭いし汚いぞ」

 

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