東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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第5章 『百花境にて』
1.忘我


――――あの子なんて――――

 

 

◆◆◆

 

 最強の力があると、とある妖怪は言っていた。

 世界を支配するような力。この世の王のように振舞うための力。だが、能力を使った記憶など、ケンゴのこれまでの人生においてたったの一度もない 。そんなモノがあるならばとっくに使っている。こうして見知らぬ家屋の一室で目覚めることもなかっただろう。

 ホコリが厚く積もった枕が、ケンゴが起きてはじめて目にしたものだった。ゆっくりと体を起こすと、へし折った足が鈍く疼いた。痛みに喘いで、再びベッドに体を横たえる。

 

「頼むぜ」

 

 首だけで薄暗い室内の様子を伺う。

 並べられた調度品は絵画だの花瓶だの。まったく現代の気配を感じさせないものばかりだ。少なくとも、電化製品の類は一切置かれていない。カビた壁紙を視線でなぞっていくが、コンセントの一つも見当たらなかった。なまじ慣れきっている分、たった一つの要素が欠けるだけでケンゴには異質な空間だと感じられる。

 それでもなお、この部屋には奇妙な懐かしさがあった。現に、ケンゴは敵陣のど真ん中とは思えないほどに心安らいでいる。静寂を破った控えめなノックにも、さほど動じはしなかった。

 

「あぁ、良かった。お目覚めですね」

 

 萌黄の着物。椿の髪飾り。彼女とケンゴが出くわしたのは、いつか大学の構内であった気がする。そして、遊園地の廃墟でも。

 

「一応足は手当しましたが、当分歩けはしないでしょう」

 

 女はベッドの横の車椅子を示した。座面にはいつの間にか盆が乗せられ、食事が湯気を上げている。食べろ、使えということらしい。痛みに顔をしかめつつケンゴが車椅子に乗り換える間、彼女はずっと盆をもって傍らに控えていた。

 

「家を出ると快晴の空。こんな日なのに気分は最高。うっかり口笛なんて吹いていると、水たまりに足を突っ込んでしまった。せっかくの革靴が。やっぱり今日は最悪の日だ」

 

 車椅子が軽く軋んだ。ケンゴは謎めいた言葉を口にした女を見上げる。彼女はケンゴの膝の上に盆を預けて、ぼろぼろのカーテンを開け放った。真夏だというのに、まるであのモールに逆戻りしたような寒さが吹き込んできていた。

 

「電灯の大鴉と旋風。公園の少女。猫の群れと、咲き誇る色とりどりの花。季節はずれの寒波。そして、全身黒ずくめの天使」

 

 言わんとするところはケンゴにもよくわかる。確かにそれらはすべて、現実のものとなっていった。未だ目にしていないものも、きっとこの現代に降り立ったのだろう。そこに能力を振るった、という実感がないのが不思議ではある。

 

「なにか、忘れていませんか」

 

 振り返った少女は、その外見よりもずっと大人びて見える。レティとも橙とも違う。ましてや、あの幽香とも。彼女は明らかに人間で、明らかに何かを超越してしまっていた。その言葉は、すっと、研ぎ澄まされた刃のように痛みもなく聴く者の胸に滑り込む。

 

「最後の嘘を覚えていますか」

 

 最後の嘘。それは嘘が物語に変わるトドメになったものだ。空から天使がやってきて、こんなところで何をしているんだと問う。そして、お前が必要だと。その切実さをたたえた瞳に見据えられるうちに、

 

「そこまで」

 

 女はぱちんと手を手を打ち合わせた。

 われに帰ったケンゴは視線を落として、すっかり空になった食器を見つける。手には箸。どうやら、体感していたよりもずっとずっと長い時間女の言葉を聞いていたらしい。

 

「ここは、どこなんだ。アンタは誰なんだ」

「私は稗田阿求。こんなナリだけど歴史家です。一度見聞きしたことは忘れませんから、私の前であんまりヘンことしちゃダメよ?」

「今更カワイ子ぶられてもな」

「あらら。自己紹介は失敗か」

 

 車椅子を押して、彼女はドアのそとにケンゴを連れ出した。廊下があって、居間の横をすり抜けていくと玄関があって。間取りまでもが手に取るように思い浮かぶ。壁の刻み傷も懐かしい。

 

「覚えていないかもしれないけれど、ここはケンゴとキョウコという妖怪がかつて暮らしていた場所。生家、というやつですね」

 

 言い知れぬ感覚に戸惑うケンゴを見守っていた阿求が口を開いた。

 

「母さんが、妖怪?」

「そう。そして風見幽香は彼女の親友でした」

「オヤジも母さんも、隠し事が多いのは確かだ」

「あるいはあなたが覚えていないだけか」

 

 土間への僅かな段差を乗り越える。振動で骨が痛んだ。

 

「ごめん」

 

 心底申し訳なさそうに謝る阿求を見ているうちに、ケンゴは彼女が敵なのか味方なのかわからなくなりつつある。軽く乱れた息と衣服を直して、彼女は戸に手をかける。尋常ではない寒気がケンゴの顔に吹き付けた。

 

「ようこそ。そしてお帰りなさい。百花境へ」

 

名に反して、そこは完全な静寂の世界だ。分厚い雲のかかった紫色の空と、どこまでも平坦に続く暗褐色の大地。亡者の群れのように、枯れ果てたひまわりが虚しく風に揺れている。そしてひまわりの葬列の中で彼を待つ、もう一台の車椅子。その背後に控えたものは。

 

「ケンゴ」

 

 少女は下唇を噛み締め、黒いドレスの裾を握り締めた。

 

◆◆◆

 

 それはたったの数メートルに過ぎない。たとえこの瞬間車椅子が煙のように消えてしまっても、ケンゴが必死で這いずればすぐにぬえに触れることのできる距離。だが、今は無限の隔たりがそこにあるように思えた。おそらく彼女にとってもそうなのだろう。きゅっと結ばれた口元には、決別の言葉を秘めているようにも見える。ことこの場に至って、二人が確かに共有できているのは打つ手なしの距離感だけだった。

 

「恨めるのなら、恨んでください」

 

 背後の阿求が発したのは幽かな声だった。

 

「これからあなたは苦しむでしょう。今までの比ではないくらい」

 

車椅子がゆっくりと進み始める。枯れて死んだはずのひまわりたちが視線で自分を追っているような錯覚を青年は覚える。死の光景の中で、確かに青年の物語は結末に近づいていた。終点で待ち構える得体の知れない男が、わずかに顔を上げた。

 

「思ったより粘ったな」

 

フードの内側に渦巻く輪郭のない暗黒。そこから発せられる言葉には仄暗い熱が宿っている。

 

「お前は誰だ」

「同じく俺も聞きたい。お前は誰だ」

「俺は向江ケンゴだ」

「……そうか。当然そう答えるわな」

 

 男の車椅子を押すのは他でもないぬえだ。ケンゴにとって、今は目の前の男よりも彼女の様子が気がかりでならない。どうしてこんなヤツの隣に控えているのか。

 

「なぁケンゴ、マジで母さんが――お前を、愛してくれていたと思うか?」

「もちろんだとも」

 

 嘘をつき、母を傷つけ始めてからもそれは変わらない。身勝手ではあるが、時折母が見せてくれた笑顔は心からのものであると信じている。信じていたはずだった。目の前の男の言葉は、ケンゴの心を揺らしてならない。

 

「不幸だな。いや、ツいてるのか」

 

 男はぬえを振り仰いだ。

 

「ぬえ、教えてやれよ。コイツの知らない向江ケンゴを」

 

 俯いたまま、ぬえは動きを止めていた。

 

「……そうかい。じゃあ、俺が代打ってことでいいんだな。ホームラン、打っちまうぜ」

 

 興ざめした様子で男は自分の手で車椅子を押した。よほど具合が悪いと見えて、男はそれだけで煙にむせたような深く激しい咳をした。

 

「ま、病院を脱走してくりゃこうもなるわな」

 

 自嘲気味に言い放って、男は地面に痰を吐いた。赤いものが混ざっている。軋む車輪を押しながら、男はゆっくりとケンゴとの距離を詰める。

 

「封獣ぬえは大嘘つきだ。本当はお前を守るために来たんじゃない。何が天使だ。バカバカしい。こいつはむしろその真逆のことをある人物から頼まれていた」

「やめて」

「『向江ケンゴを探せ。そして殺せ』」

 

 百花境を吹きすさぶ冷たい風が、ケンゴの胸に開いた風穴を、びょう、と音を立てて吹き抜けたようだった。許しを請うような少女の瞳。ケンゴは決して男の言葉がでたらめでないことを悟る。からからに乾いた口で、ケンゴはぬえに問うた。

 

「じゃあ、なぜお前は」

「まぁ待てって。こちとらこの時のためにセコセコ原稿まで準備してたんだぜ。俺の話を遮るんじゃねえよ。さて、疑問が一つ片付いて面白くなってきた。じゃあどこのどいつが向江ケンゴの殺害計画を企てたってことだがな。なんと驚き、これが」

「やめてよ!」

 

 世界が終わったような気がした。

 奥歯ががちがちと鳴っていた。恐怖からではない。まるで浅い川を渡っている最中に底知れぬ深みに足を取られるような。階段の最後の一段を見誤ったときのような、唐突すぎる奈落との対面に。目の前の邪悪な男が語るよりも早く、その人物の察しは付いてしまっていた。

 顔を上げたぬえの顔に浮かぶのは、今まで彼女が見せたこともないような表情だった。

 

「ケンゴ、わたしは」

 

◆◆◆

 

『はは、バカだなぁ、お前』

 

 幼いケンゴを膝の上に乗せ、すっかり傷の癒えたぬえが上機嫌に遊んでいた。彼女はちらりと傍らのキョウコに目を向けて、そしてケンゴの頭を撫でた。

 

『ちょっとお母さんと話があるから。向こうで遊んでおいで』

 

 素直に頷いて駆けていくケンゴを見送って、ぬえは腰を上げた。埃を払って、咳払いを一つ。

 

『浮かない顔、してるね』

『そうね』

『ケンゴに何か?』

『あの子のちからについてはもう話したわね』

 

 かすかにぬえは頷いた。そんな馬鹿げた力があるとはにわかに信じることはできなかったが、それを語ったのはキョウコの口だ。つきっきりで傷を看てくれた女のことをあえて疑おうとはしなかった。

 

『確かにあの子の力は世界を救える』

 

 そしてその逆も。

 

『ぬえ、あなたに頼みがあるの』

『私にできることかしら』

『そのときが来たら、あの子を迎えに行って、そしてあなたの目で見極めて。あの子の力がこの世界にとって必要なものなのか、そうでないのか』

『もし、ケンゴの力が世界を滅ぼすようなものだったら?』

『幽香には頼めなかったことを、あなたに任せなくちゃいけなくなる』

 

 恩に報いるため、恩人の息子を手にかける。それはどれほど矛盾した感謝の形であろうか。それまでただのお人好しと片付けていたはずのキョウコの瞳に、底知れないものを感じる。

 

『最強最悪の能力、だっけ? もし私の力が及ばなかったときは?』

『死角がないわけじゃないわ。あの子の能力は、この百花境がなければ使えないもの』

 

 幻想郷に渦巻く無限の力を収集し、たった一人の人間に供給する。それが百花境の持つもうひとつの能力だ。二つの世界から血を引くケンゴであるからこそ、この惑星を莫大な動力源として使うことができる。

 

『あの子は本能的にこの星を守っている。幻想郷と現代、一つの星を二つの世界に跨らせるようにして、ね』

 

 科学によって守られた現代と、幻想によって科学を拒絶する現代。決して歩み寄ることのできない世界双方から攻撃を加えない限り、この星は破壊できない。だが、星に自らを破壊させることはできる。

 

『あの子が止められなくなってしまったら、この星を落とすわ』

『穏やかじゃないわね』

 

 百花境が小さな星だといっても、衝突によって二つの世界には未曾有の被害が引き起こされるだろう。特に、幻想郷に至っては最悪の場合跡形もなく消し飛ぶかも知れない。

 

『あなたの子供よ』

『それが、この世界にとっての救いであるのなら』

 

 いつもどおりの、包み隠さぬ物言い。改めて彼女はぬえに指輪を手渡した。。

 

『理不尽だとはわかっている。愛してもいるわ。でも、たまに自分がわからなくなることがある』

 

 それが妖怪としての、自分の限界なのだと彼女は言う。所詮息子も、夫も、人間としか見ることができない。愛情などという出処の不確かなものを杖にどうにかこうにかやってきたが、この先息子が目障りになったとしたら、どうするだろうか。

 

『例えば息子と自分の前にトラックが迫ってきていて、どちらかを犠牲にしなければ生き残れないとしたら?』

 

 トラックというものがなんなのか、ぬえにはわからない。とにかく大きくて、騒々しい、太刀打ちできないほど強い怪物を想像してみる。キョウコを自分に置き換えて、もし人間の息子というものがいたとして。

 

『責めはしないわ』

 

 ぬえは即答する。キョウコは寂しげに笑った。それが彼女の答えを言外に伝えていた。

 

『こんなに辛いなら、あの子なんて産まなければよかったのかもしれないわね』

 

◆◆◆

 

「キョウコはずっと、妖怪である自分と、あなたがこの世界そのものを憎んだときのことを恐れていたわ」

 

拳を冷たい涙が打った。

 

「おい――おいおいおい! 泣いてんのか、お前? まったくよぉ、泣きたいのはこっちのほうなんだぜ、マジで。おい、頼むよ!」

 

 枯れ果てたひまわりの野にあって、ケンゴは両膝を握り締める。痺れるような痛みが走るが、それがかえって頭を冷やしてくれる。

 

「俺は向江ケンゴだ」

「へー、持ち直すのね」

 

 男の茶々にも動じず、笑みを浮かべてぬえを見据える。

 

「向江キョウコの息子、向江ケンゴだ。今までちゃんと生かされてきた。それにぬえ、お前はお前の言葉通りに俺を守ってくれたじゃないか。俺はお前を信じる」

 

 言葉を尽くしてなお、ぬえの表情は暗く沈んでいた。

 

「言っておくが、話は終わったワケじゃあないぜ」

 

 男はいつしかケンゴの目の前にいた。膝がくっつきそうな距離で、車椅子に腰掛けた青年たちは対峙する。

 

「身長、同じくらいなんだな」

 

 冷たい手のひらがケンゴの額に触れていた。これ以上ない嫌悪感を覚えつつも、ケンゴの体は動いてくれない。見えない縄で縛られたようだった。

 

「体格も同じ。年の頃も同じ。違うのは足がついているか、どうか――だったな。だが、今のお前は限りなく俺に近い」

 

 額から男の手が頬を滑り、顎を掴む。そして、

 

「つまりは、そういうことさ」

 

 ばきん、と嫌な音がした。ガラスを折り曲げて粉砕した時の音によく似ていた。ケンゴの顎下に深々と突き刺さった男の手が、彼の顔を引き剥がしにかかっていた。耳をつんざく叫びはケンゴではなく、ぬえのものだ。

 

「文」

 

 光が車椅子の横を掠め、黒い羽が散った。涙に霞んだ視界の片隅で、真っ黒な翼を生やした少女が地面にぬえを押さえ込んでいる姿をとらえる。しかし、それもすぐに見えなくなった。

 

「不確かな記憶」

 

 頬がそがれる。唇が離れる。

 

「母の面影を持つ妖怪」

 

 鼻がどこかへ行った。まぶたがなくなる。目も落ちる。

 

「幽香の言葉。そして、『最後の嘘を覚えている』か?」

 

 念仏のような男の言葉とともに、生皮が一気に引き剥がされる。頭皮ごと、シャツを突き抜けて背中まで。

 

「これが答えだ」

 

 めきめき、ばしゃり。

 

「が、ああああっ」

 

 ぬえの抵抗むなしく、男の手にはケンゴの顔であったものが握られていた。しかしおかしい。明らかに人間の皮膚ではない。鱗と毛皮と剛毛がいびつに混ざり合った奇妙な生皮。それが吹き荒れる風の中にすぐさま崩れて消えていく。

 

「お前――お前、は!?」

 

 顔を抑えたケンゴの指の隙間からとめどなく溢れ出るものは、血ではなく真っ黒に濁った粘性の液体と黒い煙だ。今の彼には目も口も鼻もなく、それでも男のフードが風によって持ち上がる瞬間はよく見えた。

 

 

 現れたもの。何もかも倦みきったような、どうしようもない青年の、どうしようもない顔。

 

 

 

「本物の向江健吾は俺だ。そこんとこ頼むぜ、マジで」

 

 

 

――まるで自分が、自分ではない何者かになったかのような――




【削除済みの前21話に関するお詫び】

深夜三時に筆がノリにノリまくり、ドヤ顔で投稿したはいいものの、起きた時に受けた衝撃は凄まじいものでした。
脱線しまくった過去描写が物語全体を巻き込んで大爆発するという事態になり、慌てて削除したのが二日前の夜(だったような)。

とんでもないミスをしでかしちまったぜと後悔のあまりご飯も喉をろくに通らず、
縁側で宅配ピザのLサイズを食べながらネトゲの強ビルドを考えることで深い反省に浸り、この話を書き直しました。

ほんとーにごめんなさい(もぐもぐ)
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