「やめますか?」
夕日の中、バスのつり革が揺れている。最後部の座席にゆったりと腰掛けていた青年は、唐突な問いかけに眉をひそめた。
「やめる?」
運転手の頭が軽く下がった。
降りる、ではなくやめる、と彼は言った。そもそも今まで、何を続けてきたというのか。ここに至ってそれを考えるのは億劫すぎる。そして、夕日が優しすぎる。
「もう少し考えさせてくれ。終点まで、まだなんだろ?」
バスが揺れた。ドアが閉まるときの、独特の音。名前の剥げ落ちたバス停が遠ざかっていく。エアコンの利いた車内は実に快適だ。青年は安らかな眠りに落ちていく。意識はどろどろに溶けて、崩れていった。
◆◆◆
確かにこの瞬間、ある一つの小さな世界が終わってしまった。
実際に百花境は動いていて、二つの世界は終わりへと着実に近づいていて。そうして、死の星の上で、向江ケンゴ を名乗っていたものの世界は確かに一足早い終末を迎えてしまったのだ。
「まだまだ語り尽くせないくらい秘密はあるんだぜ」
車椅子から転げ落ちたそれは、もはやあの青年とは思えないほどに様相を変えていた。蠢く人型の肉塊は、車椅子の男――ケンゴを恐るように呻き、這い逃げる。もったいぶるようなペースで車輪を進めて、ケンゴはそいつに言葉をぶつけていく。
「俺の能力は『すべての嘘を裏返す程度の能力』だ。だが、母さんが死んで、俺がこの力を取り戻したとき、まだまだ百花境は万全とはいかなかった。あのどうしようもない嘘を実現するためには依代が必要だった。そこでだ」
車輪が肉塊の足を踏み潰した。
「むかーしむかし、とある妖怪がいた。もう千年は昔の話だ。もともとそいつは力があったが、調子に乗って天皇をビビらせて、きっついお灸を据えられることになった。なんでも、バラバラに切り刻まれて、足だの頭だのは別々の場所に埋められたんだと」
肉塊をいたぶるケンゴの後方では、無表情に天狗がぬえを組み敷いていた。
「離せよ、この人でなし!」
「人ではありませんから。私も、あなたも」
うっすらと、彼女に刻まれた朝顔の刻印が光っていた。レティが『馬車馬と御者』とはよく言ったもので、それは手綱に似たものだ。ケンゴを通して百花境の力を供給する代わりに、手足のように使われる。それにしても今の文の様子は何かがおかしい。自由を愛する烏天狗である彼女の人格は、わずかも残されていないように見える。
「一体いくつの部位が、どこに散らばったのかはわからん。教授に聞けばありがたいウンチクを垂れ流してくれそうなもんだがな。とにかく中には最終的に人知れず別の世界に行き着いた部分もあったはずだ」
ちらりとぬえを見て、ケンゴは車椅子の車輪を送り出す。腐りかけの肉塊はなんの抵抗もなくちぎれたが、痛みに反応している様子はない。ただ、悲しげに鳴いて後ずさるだけだ。
「で、そのひと欠けがもしも、どうしようもないクソ田舎町にあったとしたら? それが偶然にも俺の能力の寄り代として選ばれたとしたら?」
当然というか、肉塊は答えることがない。頭を抱えて、がたがたと震えるだけだ。
「おい、橙」
ひまわりの中からおずおずと歩み出た猫又が小首をかしげた。
「ぬえのところまで押してくれ」
「私がやるわ」
「橙じゃこいつが暴れた時に倒せるか微妙だ」
「大丈夫だよ、レティ」
うんうん言いながら、小柄な橙が先立ちで車椅子を押していく。咳の音が遠ざかっていく。一部始終を苛立たしげに見守っていた阿求は、おもわずケンゴであった肉の残骸へと歩み寄っていた。レティが鋭い視線を阿求に向ける。
「ダメ。まだ耐えて。幻想郷の命運はあいつが握ってるのよ」
「もう、わたしは我慢できない」
非力な阿求がそこまでの覚悟で挑んでいる。だが、レティ自身も限界だ。ひまわりの異変が始まってから、ずっとこの二人を見てきた。苦しみながら戦い抜く姿を見てきた。束の間訪れた平和に頬を緩めた瞬間も。やはりレティは期待していた。このケンゴのうつろが人未満であると言うならば、彼はやはり人と妖怪が信頼し合うなんて、馬鹿げた可能性を十二分に見せてくれた。それが今、目の前で踏みにじられ、消えようとしている。
「……橙はいいとして、私じゃ文は抑えられないわ」
攻撃の機会はたったの一度。それでケンゴを完全に無力化しなければいけない。だからこそケンゴは最も信頼でき、最も素早い文を手元に置いているのだ。
「彼女の様子、どう思います?」
「わからない。あの様子じゃ頭の中までいじられたのかも」
我ながらぞっとしないことを、とレティは表情を歪めた。それはともすれば、彼女自身に降りかかっていたかも知れない運命なのだ。
「彼が我々との約束を守るとは到底思えない。彼の目的は、むしろ」
「そうね。あの子は間違いなく百花境を使ってよからぬことを考えている」
冷気の灯がレティの指先に灯る。ゆっくりと凝結していくものは、あまりにも細く鋭い氷の針だ。分子レベルの切っ先はどれほど強固な装甲にも易易と侵入する。幻想郷では禁じ手として封印していたものだ。この氷の悪魔をケンゴの頭に突き刺してやれば、それで全てにカタがつく。たとえ不死身であろうと、一時的に思考を寸断することができれば能力は封じられる。
しかし、ケンゴの横。感情のこもらない文の視線は間違いなく針を捉えていた。
「くっ」
文が飛び出す。針を叩き落とすか、その体で受け止めるか。異変に気づいたケンゴが振り返る。悲鳴を上げる間もなく粉々に消し飛ばされるレティ。降って沸いたヴィジョンが、彼女に攻撃の手を止めていた。支えを失った針は一瞬で溶け、消えた。
「私たちは、この不条理を指をくわえて見ているしかないのですか」
阿求が激情にかすれた声で呟いた。
◆◆◆
「なぁ、ぬえ」
ケンゴはぬえに手を差し伸べた。もはや飛び出していくこともできないほどに憔悴しきった彼女が、虚ろな瞳で車椅子の青年を見上げる。
「俺にはわかる。お前はこいつらとは違う。だって、あんなどうしようもないがらくたとだって仲良くなれたんだ。それに、お前があいつを殺さなかった理由だって察しはつくさ」
熱のこもった口調と裏腹に、ケンゴの眼差しは木のうろのようにぽっかりとしたがらんどうだ。
「端的に言えば、俺のモノになれってことだ」
ぬえの腰にケンゴの腕が回された瞬間、逃げてばかりだった肉塊が驚くべき行動に出た。大きく飛び跳ねると、ゆらりと、ほとんど獣じみた挙動で立ち上がる。ケンゴに向かって突進する。
「守れよ」
空気が凝縮し、ブロック状に固められた氷が肉塊を直撃した。人の姿すら失いつつあるそれは手足をバタつかせながら空を飛んで、べちゃりと水音を立てて倒れ伏す。百花境を包む寒さの中でなら、レティはより高い精度と威力で能力を振るうことができる。
(残念だけど、ね)
彼女の脇腹にも、あの刻印が脈打っている。この場で彼に自由を縛られていないのはたった一人。ぬえだけだ。その彼女は文の下でむなしく暴れることしかできない。
「実際お前は最高の代役だったよ。ぬえも、ユーカも、クソオヤジも、この世界でさえ。みんなおまえの演技に騙された。おかげで俺は幻想郷の結界からこの星を引っ張り出して準備するだけの時間が腐るほど手に入った。俺の誤算はたったの一つ」
幽香を倒したことも、もちろん誤算と言えば誤算ではあったが。
「抜け殻のお前が生きて四日目の朝を迎えたことだ。俺は向江ケンゴが死んだという事実が欲しかったが、どいつの手助けか。まぁ、もういい。でも正直アレはマジびびったよ。お前に俺の力のかけらでもあるなら、だいぶ事情は変わってくるからな」
「ねぇ、彼は人間なの? それとも妖怪なの?」
倒れた肉塊に目を向けたまま、レティは問うた。
「人間未満だ。事実、こいつには三日分の時間しか与えてなかったわけだからな。虫けら並みの生命力でよくここまで生きたもんだ――じゃあな、偽物」
肉塊がふわりと浮いた。糸の切れた人形のように、だらりと手足を垂らしたまま空に吸い込まれていく。
「ケンゴ!」
「それは俺だ。もう間違えないでくれよな」
ケンゴによって百花境の重力から解放されたそれは空に落ちる。分厚い雲の先にあるものは。
ぬえの腕を掴んだケンゴに、ぬえは明らかな拒絶と軽蔑の視線を浴びせる。
「やめろよ、ヘンタイ」
「べつにやらしいこととかはどうでもいいんだ。俺に、あいつにしたみたいに接してくれればさ。おい、こっち見ろって」
それでも、ぬえは焦りの浮いた表情で空を見つめている。
「よく考えてみろよ。幻想郷にいるおまえのお仲間はどうなるんだ? あんなちっぽけな出来損ないを救うために、お前は本当にそいつらを棄てられるのか?」
妖怪の少女はまぶたを閉じる。さんざん悪行を働いた自分を拾って、仲間に引き入れてくれたとある僧を思い出す。しばらくの間、あたりに口を開くものはいなかった。無限と思われる沈黙の果、ぬえは静かに言い放った。
「それでいいわ」
「あ?」
再び顔を上げたぬえは、まっすぐにケンゴを見つめた。敵意も悲しみもなく、ただ決意だけを秘めた瞳に気圧されて、思わずケンゴは彼女から視線を外していた。
「……おいおい。忘れちゃいないだろうな。今のお前がどれだけ弱ってるのか。俺もこいつらも、全力でお前を攻撃するんだ。お前、また八つ裂きにされたいのか?」
「笑っちゃう。バラバラも一人ぼっちも、慣れっこよ」
ただならぬ気配に、文が飛び退いた。
立ち上がったぬえの手中に槍が形成されていく。先端に幅広の刃を配された、これまで見せたことのない形態だ。同時に背中から迫り出したものはたった一対の翼。しかし、彼女の翼からはいびつさが失われていた。今背負うものは、完全左右対称の、あまりに大きな翼だった。
「ケンゴが誰かなんて私には関係ない」
「だからよ、その名前であれを呼ぶんじゃあねえ。ケンゴは俺だ!」
「わたしは、わたしの意思でケンゴを助けに行く。ここであいつを見捨てたら、それこそあの人たちに顔向けできない。――アンタはただの、あわれな臆病者よ」
「なんだと!」
もうぬえはケンゴを見ていない。上空、点と化した肉塊に狙いを定める。そして、静かに佇む天狗に。
「文。やっぱり私、バカだった」
とことん不敵に笑って、彼女は飛んだ。その姿が一瞬して輝く青と赤の閃光と化し、凄まじい暴風が地上を駆け抜けた。土埃の中から、怒りをにじませたケンゴの鋭い声が飛ぶ。
「クソ、文!」
「なんでしょう」
「おまえの速さをあいつらに見せてやれよ。粉々にして、もう一度バラ撒いてやれ。今度は二度と目覚めないようにな!」
激高したケンゴは、また激しく咳をする。冷ややかな目を向けて、文は空を仰いだ。
「はい。やってはみますが――そう上手くいきますかね」
「お前、何言ってんだ?」
訝るケンゴ。文は巨大な翼を背に、飛び上がる。その表情がはばたきに隠される一瞬前、恋する乙女のような微笑みを彼女が上空の妖怪と人もどきに向けていた。レティは気づき、震える阿求の肩を抱く。
「大丈夫よ」
阿求が顔を上げる。希望の眼差しで、レティは彗星のような勢いで空を飛ぶ妖怪へと視線を馳せた。
「きっと、大丈夫」
◆◆◆
「おかしい」
息を荒げ、額に汗をにじませながらも、文は表情を輝かせていた。
「ぬえさん、一体どれだけ速く飛んでいるか知ってます?」
二色の閃光と、追いすがる臙脂色の光は空中で幾度も交錯した。閃光と爆風が百花境の空に花火のように散る。青紫色の爆炎から姿をあらわした二者の距離は、途方もなく開いている。
「今行くわ」
青年へと差し伸べたぬえの手を、文の弾丸が打った。後方には視線を向けず、羽虫を払うようにぬえが槍を一閃する。幾筋もの銀の残光が空を真っ白に染め上げた。光の大嵐に文がわずかに速度を落とす。ぬえはより一層加速する。
限りなく、限界に近い速度で。限りなく、力強い羽ばたきで。もっともっと燃やせる、と思う。今なら、ぬえにはよくわかる。どうしてここまでの力を不完全なままの体で出せるのか。
「偉大な力、ってやつですかね」
かつて彼女が自らバカバカしい、と切り捨てた物によって。この瞬間世界で最もぬえは強い。だが文にも天狗としての誇りがある。幻想郷最速は守りを完全に捨て、三角雲を突き抜ける。音と光の境。科学と幻想の境を。
大輪の朝顔がいくつも咲き乱れる空の下、レティはケンゴに歩み寄る。
「苦戦してるわね」
「黙れ。お前も援護射撃くらいしろよ」
「ここからじゃ文に当たるわ」
「構うもんか。やれ」
肩をすくめてレティは氷の礫を浮かせていく。
「そう上手くいくかしらね」
天狗と同じ言葉を吐いたレティに、ケンゴは犬のように唸った。
「どういうことだ」
「彼女たちを見ていて思わない? あの子――あなたが作ったおもちゃは、あの妖怪をどうやって留め置いているのかしら。あなたのように呪いを使って、かしら。それとも?」
「……俺の能力は最強だ。お前たちは、信じて身を委ねていればいい。約束は守ってやる」
「とはいえ、小さな違いが結果を大きく変えることもあるのよ。老婆心から言っておくけれどね」
言って、また彼女は思うところがあったらしく橙の頭を小突いた。
「な、なんでー」
空気が爆ぜる。百花境の上空に走った衝撃波が、大気すらも歪めて、大地を打つ。橙が飛び跳ねる横で、レティは氷の弾幕を展開した。等比級数的に増殖する氷塊が一瞬で空を埋め尽くし、炸裂する。暴風めいて吹き荒れる氷の礫の中をぐねぐねと縫って行く光。負けじと追いすがる文が火柱を上げた。
ふらふらと飛びながら、さらに数回爆炎を吹く。速度を失い、現界した少女のシルエットが煙を上げながら百花境へと落ちていく。
「あーあ、これじゃあ天狗の邪魔をしちゃったみたいねえ」
「使えねええええぇ」
頭をばりばりとかきむしって、ケンゴは何かを思いついたように指を鳴らした。
「そうだ。いいこと思いついちゃったぞ」
◆◆◆
バスが揺れて、ケンゴは目覚めた。またあの時のように、黒々とした暗夜の中にバスは停まっている。ただ、唯一の違いを挙げるとするならば。
「なぁ、あれは何だ?」
田舎道、バス停の先に引かれたものはぼんやりと発光する赤い線だった。運転手の脇まで歩いて行って、線の正体を確かめる。一直線に道路を横断した線は、視界の限りにまっすぐ伸びており、その先には何もない。空も山も田園もすっぱりと途切れ、本当の暗黒がたゆたっている。
「境界ですよ」
バス停の文字は例のごとく読めない。腕時計にふと目線を落とすと、時計の針が凄まじい速度で逆回転をしていた。
「この先には何が?」
「何もありません。本当のおしまいがあります。あなたとわたしの」
とはいえ、それは救いなのかもしれない。ケンゴの記憶にある最後の瞬間は、自分の顔が引っペがされ、言いようのない絶望感と悲しみに苛まれたことだけだ。続けるか、やめるかと言われれば。
「ここでバスを降りれば、どうなる?」
「あなたは苦界に逆戻り、ですね。何のちからも持てず、壊れかけた体で絶望の中を這いずりまわるハメになる」
「なら、選ぶまでもないんじゃないか」
「確かに」
ケンゴは窓を開けて、星を見る。あの目障りな凶星はどこにもない。すがすがしい草いきれを含んだ風が吹き込んでくる。
「なぁ、ここはどこなんだ?」
「ここは境界のど真ん中に穿たれた空白です。隙間、と言えばわかりやすいですか?」
「スキマね」
それがどんなものか、聞いてもイマイチ青年には理解できなかった。おおよそ執行猶予のようなものなのだろう、とカタをつけてシートに腰を下ろす。バスのエンジンがうなりを上げた。車体は微震し、ゆっくりと前輪が境界を踏み越える。
なにか、引っかかっていた。まだ何かが終わっていないような気がしていた。無常にも進みゆくバスの中、ケンゴは頭を抱える。まとまらなかった思考は徐々に磨きをかけられていく。時計の逆回転は徐々にスピードを落とし始める。バスの速度も落ちる。
少女。
「ぬえ!」
急なブレーキにバスが揺れた。
いつもケンゴの傍らには少女がいた。何があっても助ける、と。約束してくれた彼女のために、ケンゴはとある誓いを立てたのだ。それは。
「俺は戦うんだ。あいつが来るって信じてる。だから」
「そう、ですか」
「アンタだって、本当は降りて欲しいんだろ。なぁ?」
運転手は無言で扉を開けた。
「はっ」
ケンゴは笑っていた。あの赤い線は、後輪の真下。財布をまるごと料金箱に突っ込んで、ステップを飛び降りる。と、あたりの光景は一気に胡乱になっていく。地面は画用紙を敷き詰めたように不確かで、遠くの山々はやすっぽい書割だ。
「ありがとう」
バスを振り返る。帽子を脱いだ運転手に、一瞬豊かな金髪の美女の姿が被って消えた。
「ケンゴ!」
叫びのような呼び声に、ケンゴは意識を向ける。旋風が吹き荒れ、偽りの風景が渦を描く。
◆◆◆
「ぐうっ」
ぬえは苦痛に呻いた。背で血の煙が上がる。翼が切り離され、次いで槍も光の粒子となって消えた。姿勢を制御する術を失った彼女はきりもみ回転を始め、落ちる青年へと伸ばした指が弾かれる。
とうの昔に百花境の重力圏からは逃れている。分厚い雲へと、二人は飲み込まれていく。
「あの子に何をしたの?」
レティは二人が消えてもなお空に視線を向けたまま、ケンゴに問うた。
「人間にしてやったよ。そうすれば、母さんみたいに苦しまないだろ?」
その背後で、阿求が拳を握り締める。橙はぽかんと口を開けたまま、三人を見つめていた。
「ケンゴ!」
とめどなく血を雲間に散らしながら暗雲を突き抜けると、眼下にはもはや見慣れたH市が広がっていた。そして、青年の体も。
ぬえは顔を真っ赤にして、必死に空をかく。ほんの1度羽ばたけば辿りつけた距離が、今は狂おしいほどに遠い。だらりと垂らされた手に手を伸ばす。しかし、数センチが。数センチがいかようにも詰め難い。つま先から指の先までピンと張り詰めて、それでも尚。
「お願い!」
こんなところで終わりにはしたくない。
「アンタとじゃないとできないんだ! なにも始まらないんだ!」
この七日間を、こんな締めくくりにしたくない。見定めろ、とキョウコはぬえに言った。ならこれも、彼女に示してやれる答えなのだと信じた。だから、終わらせるわけにはいかない。
「こんなところで、何をしてるんだよ!」
しかし、必死の抵抗は報われる気配がない。青年の体がくるりと翻り、ふたりの距離は僅かずつ開いていく。絶望の暗雲がぬえの中に立ち込めていく。
「ねぇ、ダメなの?」
地表はぐんぐん近づいてくる。
「――ケンゴ」
彷徨わせたぬえの指に、青年が応えた。
「まったく」
聴き慣れて、焦がれた声。
華奢な少女の手をガラス細工を扱うように繊細に、しかし力強く掴まえると、肉塊は息を吹き返したように形を取り戻し始める。向江ケンゴの形を。むき出しの胸に輝くのは朝顔の花弁。
「お前といると、よく落ちるな」
腕を捕まえて、彼は一気にぬえを引き寄せる。目の前にケンゴの顔。甘酸っぱいものが心の底からこみ上げてきて、彼女は青年の胸に顔をうずめていた。ひたすら落ちているというのに、驚く程心安らいでいた。それはケンゴも同じだった。
「ごめん、ケンゴ。守るって約束したのに、間に合わなかった」
「何言ってやがる」
屈託なく笑って、ケンゴは強くぬえの体を抱いた。
「こうして、来てくれたろ」
もはや妖怪ですらない少女は、革紐に繋がれた指輪を取り出すと青年の掌に押し付けた。朝日を受けて、それは眩く輝いている。ずっとずっと前に、キョウコの指から失われていたそれを見るケンゴの目は優しい。
「これ、返すよ。ずっと黙ってたんだ。ケンゴに嫌われると思って」
「やるよ。おまえの指先の方が、ずっとよく似合う」
琳檎のように少女は頬を赤くした。青年は不思議そうに彼女の顔を覗き込む。
「そういうとこ。その気なしで私をこういう気持ちにさせるとこさ、ある意味ケンゴらしくていいと思うけど、困るのよ」
「今だけはそのつもりで言った」
「なお悪いわバカ。って、え?」
にしても困ったなぁ、とケンゴは言葉に反して口元を緩めながら呟いた。落下の終わりは近い。ぬえから目を離してH市を睨むと、もう通りを行き交う車列がはっきりと見える距離だった。
「お前、飛ばないのか?」
「あいつに何かされたみたい。たぶん今ならケンゴの方が強いよ」
「ふざけんなよ。それ助けに来たって言えるのか」
「あのさ。毎回思うんだけど、アンタ本当に礼ってのが言えないのね」
同時に沈黙し、直後同時に吹き出していた。圧倒的窮地にあるというのに、二人は笑っていた。正直、この落下をどうこうする手段はない。だが、もはや確信めいたものがあった。たとえアスファルトに叩きつけられようと、全身を撃ち抜かれようと、顔を失おうとも、どんな理不尽に襲われようとも。
――二人なら、きっと乗り越えられる。と。
赤く、速いものが雲間から飛び出してきたのはその直後であった。