雨の勢いは激しく、屋上のコンクリートを打つ雨粒の勢いに、水煙が立ち込めていた。雨ざらしの状態でそこに投げ出されていた青年は、覚醒したばかりのぼやけた視界に、雨中に佇むふたりの人影を見つける。ぬえと、もうひとりは。
「決断は任せるわ。それも、ひとつの幸せではあると思う」
「……覚えておく」
日傘の女――風見幽香はぬえの肩に手をおいて、振り返る。
「さて、今度はあなたの番ね」
とっさに言葉が出なかった。全力で殺し合いを演じ、そして水中に没したはずの相手がそこにいた。彼女は青年の前まで歩いてくると、一枚の紙片をポケットから取り出した。日傘は畳まれて、彼女のもう片手にある。彼女の髪から絶え間なく滴り落ちる雨粒が青年の頬を打つ。が、渡された紙片には染みひとつなかった。
「これは?」
「濡れちゃうわよ」
さっさとしまえ、と促す彼女に素直に従うと、彼は腰を上げた。熱があるようにぼんやりとした頭で彼女を観察する。あれだけの戦いを経て怪我の一つもないとは、流石はレティたちが最強と評するだけはある。
誰もいなくなった遊園地の廃墟。突如として水しぶきを上げ、涼しい顔で岩塊を持ち上げて地中から現れる幽香を想像するのは容易かった。
「あの後アキラちゃ、あなたのお父さんがやってきて、助けてくれたのよ」
「オヤジ――が?」
「そう。失礼なことを考えていたようだから、言っておくけど」
オヤジ。今はそう言っていいのか、青年には分からない。
腕組みする幽香の背後では、ぬえが背を向けたままフェンスの外に広がる町並みを眺めている。通りは車に埋め尽くされていた。雲間からぬっと南半球を表した百花境が不気味だ。こんな天気だというのに大きなヘリが何機も飛んでおり、空に現れた巨大な惑星を探っているようだった。
「生まれは関係ない、と思うわ」
青年は顔を上げる。人の心を探ることにも、この花妖怪は長けているようだった。
「彼女から大体のことは聞いた。あなたが何者で、何のために、どこからやってきたのか。でも、あなたにはこの町でケンゴとして暮らした一週間の記憶がある。なら、あなたはケンゴでいい。あの子をお父さんと呼ぶ権利はある」
「俺の記憶は不完全だ」
青年に与えられた曖昧な記憶が、めくらましのための急造品だということを嫌というほど感じさせる。本当のケンゴなら、目の前の幽香と旧交を温め合うことだって出来たはずだ。
「母さんがなぜ死んだのか、とか。あんたと過ごした思い出とか。そういうのが俺にはない。だから、俺はやっぱりケンゴではない」
「じゃあ何者?」
「わからん」
雨の勢いは、いよいよ強い。
幽香は青年の額に指を当てると、その顔をずっと見つめていた。青年の気まずさが限界に達しかけたとき、彼女は指を離す。
「
「ムク……?」
「ケンゴがお気に召さないなら、私が名前をあげるわ。あなたはムクゲ。この瞬間からは自分自身として一から生きなさい。アサガオじゃなくても、美しく生きる方法はいくらでもある」
彼女の言葉は相変わらず謎めいていたが、その名前は抵抗なく、すっと青年の頭に染み入るようだった。さっさと背を向けた幽香にいくら問いただそうと、その意図を語ってはくれないだろうことは明らかだった。
彼女の視線の先には、百花境が手招きするように静かに自転している。
「ケンゴの目的は明白。わたしとアキラは、アレを落としに行かなければいけない。あなたはそこの妖怪くずれと、どこへなりと行けばいい」
「勝てるのか?」
「わたしは嘘つきじゃないし、希望論者でもない」
迂遠な言い回しだったが、言わんとすることは液体から個体へ戻ったばかりの青年の脳みそでも理解できた。有無を言わせない背中が、屋上の端へと遠ざかっていく。彼女に聞きたいことは山とあったが、時間がない。
「なぁ、母さんは俺を――あいつを愛していなかったのか?」
「それは自分で選びなさい」
鋭い、突き放すような答えだった。彼女はもう一度ぬえと視線を合わせて小さく頷くと、その姿が赤い残像となって天まで伸びる。衝撃波が雨粒を吹き飛ばす瞬間が、青年にも見えた。数秒後、思い出したように風と雨が戻ってくる。
「ええと。ムクゲ、って呼んでいいんだよね」
振り向いて、ぬえははにかんだ笑みを漏らす。落下のさなかですら見せてくれた、いつもどおりの表情で、青年を迎える。
「風邪ひいちゃうよ。とりあえず中に入ろう?」
風雨が吹きすさび、その表情によぎった一瞬の陰りを、青年は見逃していた。
◆◆◆
スイッチを何度切り替えようと、電灯は反応しなかった。教授は研究室にいなかったが、勝手知ったる、といった様子でぬえはカセットコンロにやかんをかけ、戸棚から茶葉とポットを引っ張り出してくる。その横顔を、ムクゲはぼんやりと眺めていた。
「お前はさ」
「え、何?」
口をついて出てしまった言葉に、ぬえが振り返る。
「あ、いや。なんでもない」
首を振ったムクゲを得心いかない表情で見ていたぬえだったが、救いの手のようなタイミングでやかんが鋭く鳴った。彼女が注意をそちらに向けたことに、青年はなぜか安心していた。そうして改めて見つめた少女にちらつく、母の面影は。
(かつては、俺がおまえの一部だったからなのかね)
それはどこか嬉しいようにも、虚しいことのようにも感じた。
「これからどうしようか」
その言葉を聞くなり、ようやくあの修羅場から逃げ出すことができたのだという実感がムクゲの中に湧いてきた。心臓を握りつぶされ、氷漬けにされ、生皮を剥ぎ取られ、かつては殺し合った相手である幽香に命を拾われた。
「この期に及んで百花境に拘る必要は、もうないと思う」
ぬえの言葉に彼は頷いた。ここまで奇跡を積み重ねて拾った命を投げ出すようなマネをする必要はないと、ムクゲ自身も思う。
「そんじゃ、逃げちまおうか」
口からぽっと出た言葉が、ムクゲの中に渦巻いていた何か大きな塊を打ち砕いていた。悪事が無事に見過ごされた時のような、後ろ髪を引かれる安堵を覚える。
「じゃあさ!」
ぬえが勢いよく身を乗り出した。
「わたしと一緒に、同じ時間を生きよう。今度は遊園地を吹き飛ばしたりしないし、買い物だって最後まで付き合うよ。世界の果てまで逃げよう!」
「それ、言ってて恥ずかしくねえのかよ」
苦笑して、ムクゲは茶を注いだ。落ち着いた水面に映るのは、やはり変わらずケンゴの顔だ。笑ってみる。目を吊り上げてみる。あの男と自分の間に、一体どんな違いがあるのだろうか。彼は、これから何をしようとしているのだろうか。
「それに、幽香とケンゴのお父さんは百花境を一度壊している。なにも心配はいらないよ」
やはりぬえは嘘がヘタだと、ムクゲは茶を含んだ。
しばらく前に二人があの星を壊したとき、ケンゴはまだ子供で、自分の能力の可能性にも、世界の残酷さについてもよく知らなかった。今は違う。完全無欠の能力者が、母への憎しみと後悔を抱いて、落ちる星の上に立ったとき何が起こるのだろうか。
「そういえば、どうして十年前にあの星は落ちたんだ?」
「話したく、ないかな」
「大丈夫。もう整理はついてる。また溶けたりはしないさ」
おどけて言い放つムクゲに対して、ぬえはためらいがちに口を開いた。
「……キョウコが自分の手でケンゴを殺そうとした、ということじゃないの」
百花境を作り出したのは、他でもないキョウコの能力だ。たとえ彼女が否定していても、その深層意識に百花境はより強く惹かれる。キョウコが心の底から望んでしまったことは。
「幻想郷には化け物みたいに強い巫女がいるって話はしたよね。彼女の仕事は異変を解決すること。異変の大本がどうしても意思を曲げないのなら、できることは限られてくる」
「自分の命が関わっていても、母さんは百花境が落ちることを望んでいた」
「そう。そこで結界の管理者に猶予を乞うたのがあなたのお父さんたち。かくして、星を相手にする戦いは一応の勝利を収める。一応はね」
聞いているだけで胸が痛くなるような話だった。
「自分の子を、そこまで憎むことができるのか。母親ってものは」
「なんとも言えないわ。私に、子供なんていなかったから」
どうしても、どれだけ散らばった思い出のピースをかき集めても、ムクゲにはキョウコがそこまで残忍な妖怪だと思うことはできなかった。
紙片を取り出す。濡れそぼったムクゲのポケットに入れられていたせいで端がヘタってはいたが、そこに何が書かれているかはよく分かる。それは一枚の、
「違う」
紙片を前にして、ムクゲは顔色を変えた。
「え?」
「違う。きっと母さんは――あぁ、クソ、もっと早く気づいていれば!」
「ねぇ、落ち着いて」
「戻らなくちゃいけない、百花境に!」
ぬえはムクゲを見つめる。優しさと切なさがごちゃまぜになった眼差しに、ムクゲは彼女の瞳孔に吸い込まれそうになる錯覚を覚える。
「やっぱり。ムクゲなら、そうすると思ってた」
「行こう。こうしている間、に、も?」
立ち上がるなり、ムクゲは膝から崩れ落ちた。ぬえが落ち着いた様子で彼を抱きとめる。
「あなたはここで終わりだけどね」
耳元で発せられたにも関わらず、青年にはその声を聞くことすら叶わなかった。
ふわふわと頭が軽い。目に映る景色の色彩はパステル画のようにひたすら淡い。あくまで身体能力を人間並みに封じられただけであって、ぬえの肉体は依然として妖怪のものだった。その、強力な幻術を秘めた瞳であっても。
「ぬえ、お前、何」
やがてすべての色が渾然一体となると、意識に水を打ったような平静が訪れた。
「良い夢を。ケンゴ」
深い寝息を立てる青年を抱き上げて、ぬえは研究室の窓を開け放つ。
◆◆◆
教授はドアを開けて、絶句する。窓から吹き込む風に舞い踊る無数のレポート用紙と、ぐしょぬれのゴザ。慌てて窓を閉め、レポートを拾い集める。安いインクで印刷されたレポートは、大半が文字を滲ませてしまっていた。
「どこのどいつだ」
雑巾で机の上の水たまりを拭きながら舌打ちして、教授は未だ湯気を立ち上らせるひと組の湯呑を見つける。H市全域に異例の戒厳令が発せられた中、わざわざここまできてのんきに茶を飲むような連中といえば。
「あいつら、来ていたのか」
机の水たまりは床にこぼれ、引き出しのタバコもすべて水を吸っていた。白衣のポケットから無事に済んだ最後の一本を取り出し、火をつけようとする。が、今度はライターが問題だ。ひたすら火花を散らすだけで、らちがあかない。
明滅を見ているうちに目眩を覚え、教授はタバコも、ライターも苛立たしげにゴミ箱の中に雑巾と一緒に放り込む。窓の外には雲から顔を出した星が浮いていた。以前、似たような空気に町が包まれたことがあった。その時もこうして、教授は静かな環境で心置きなく仕事ができると喜んでいたのだが。
『成果は出す。だから、しばらくキョウコには会えないと伝えてくれ』
そう告げて数ヶ月ばかり姿を消した教え子を思い出す。あの時消し飛んだ屋上といい、今回の遊園地といい。
「お前らもそうだったのか?」
口に出して、不意に嫌な予感に襲われる。
なぜか、あの二人とはもう会えないような気がしていた。