東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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4.花の日に

 目覚まし時計のアラーム。

 ケンゴはこの音が嫌いだ。脳みそを朝一番でシェイクされたような気分になる。右腕にありったけの殺意を込めて、幾度も遅刻から救ってくれた恩を仇にする。満足げに鼻息を漏らして毛布にくるまった。そもそも今日は日曜だ。どうして目覚ましなどかけたのか。

 

「あのさ、ケンゴ」

 

 しかし、隣から立ち上った甘い香りに我に返る。

 意識よりも早く、全身の毛穴が目覚めた。だらだらと嫌な汗を垂らしながら、声の主へと向き直る。すぐ目の前で、黒髪の女性が不満げに頬を膨らませていた。

 

「な、な、な――!?」

「おはようございます。よっく眠れましたか」

 

 休日の目覚まし時計と目の前の彼女。ようやくすべてが繋がった。今日はアレだ。大事な日だ。

 

「わ、悪い」

「よろしい。さっさと準備すればケンゴくんマイナス1ポイントってことで許す」

 

 カーテンから差し込む光の筋の下で、ぷんすかと起き出すぬえ。あまりに無防備にさらけ出された肌に、ケンゴは息を呑む。

 

「マイナス5ポインツ」

「げ」

 

 背中に目でもついているんじゃないか、と思った。

 

◆◆◆

 

 バスに揺られて、朝の町をゆく。平日の朝ということで身構えてはいたが、車内は驚く程空いていた。秋晴れの朝。バスの中を紅葉のシルエットが通り過ぎていく。

 

「もう五年か」

 

 窓際、ケンゴの隣に座るぬえの膝の上には花束が揺れている。仏花にしては珍しく添えられたアサガオは、ケンゴが家の裏で育てていたものだ。キョウコが育てていた花を何世代も育てていく。それを毎年墓前に捧げるのが、ケンゴなりの弔い方だった。

 

「ケンゴ、ライター持った?」

「あ」

「マイナス3ポイント」

「なんだ、そのいきなり始まったポイント制は」

 

 ケンゴがため息をついたと同時に、バスが停止する。何の気なしに外に目を向けてコンビニを見つけると、ケンゴはぬえの手を引いた。

 

「計算ずくなんだよ」

「やれやれ」

 

 ケンゴは運転手を脇目に見ながら、運賃箱に小銭を放り込む。ステップを降りて、また運転手を振り返る。初老の運転手は愛想のいい笑いを浮かべて帽子を軽く下げる。バスが発車した。

 

「ほら、行くよ」

 

 どうしてそこまで気になったのかは分からない。しかしケンゴは何か、喉元に違和感を覚える。頭の先まで息が詰まっているような、思い出せそうで思い出せないときの違和感を。

 しかしそれは些細といえば些細なもので、コンビニで買い物を済ませるころにはすっかり忘れ去っていた。代わりに外に出て耳についたのは、子供の泣き声だ。

 

「困ったわねえ」

 

 子供の前にしゃがみこんだ女性の日傘で、すぐさま泣き声の出処を突き止めることができなかった。

 

「げえっ、風見幽香――さん!」

 

 ケンゴとぬえは同時にしゃがれた悲鳴を上げ、同時にたたずまいを正していた。

 

「あらあら、二人して今日はお出かけ?」

 

 二人に注いでも薄れることのない凶気を放ちながら満面の笑みで振り返るのは、近所の有名人、風見幽香その人であった。

 やれダンプカーと競り合って勝っただの、傘一本で地元剣道チームを全潰させただの、笑っただけで変わったばかりの信号が青になっただのと恐ろしげな噂が絶えない怪人である。おまけに見た目がたおやかな美人であることが更にタチが悪い。虫が花に募るように彼女にちょっかいをかけた男たちは、みんな従順な奴隷に改造されて町中を駆けずり回っている。今日こそは俺がやきそばパンを献上するのだと満面の笑みを浮かべながら。

 要するに、常軌を逸したいじめっ子(ドS)なのであった。

 

『そこがいいんじゃあないか』

 

 と。かつて出勤際に清々しい顔でケンゴに言い放って車で出勤したアキラは川に流されて帰ってきた。何があったのかは語られなかったし、ケンゴとしても聞きたくはなかった。車は翌日から幽香が乗り回していた。

 

「どうしたの、お姉さんの顔をじろじろ見たりして」

 

 幽香が笑みを浮かべた。愛らしいえくぼが口元に浮かぶ。『おまえの眉間にもえくぼを作ってやろうか』のサインだろうか。ケンゴのシャツは、秋風の中でもすっかり背中を濡らしていた。

 

「な、何でもないです。ところで、その子どしたんスか?」

 

 二人が目を向けた先には、小動物じみた可愛らしさを見せる少女が下唇を噛んで涙をこらえている。ぬえがなだめすかすうちに、少しは落ち着いてきたようだった。

 

「家族とはぐれたんですって。昨日からここにいるそうよ」

「は、昨日!?」

「大声出さないでよ。私がやったわけでもなし」

「お腹空いたよねー」

 

 墓前に添える予定だった饅頭をぬえが取り出すと、少女はわずかに笑顔を浮かべた。ぬえが小さくちぎって渡す饅頭を必死にほおばる姿は心和むものがあるが、傍からは犬猫に餌付けしているように見えなくもない。思い出したようにケンゴは携帯を取り出した。

 

「警察、呼んどきます」

「待ちなさい」

 

 幽香本人は優しく制するつもりだったのだろうが、ケンゴの手のひらごと押さえ込まれた携帯の液晶にはヒビが入っていた。悲鳴を上げて飛び跳ねるケンゴを見て、少女が笑う。ぬえが青ざめる。

 

「あだだだだ。何するんスか!」

「警察呼んで、仮に親が見つかったとして、みすみすそんな親のところに帰すワケ? ここに一晩放置するような人たちよ。ガツンと言ってやりたくもならない?」

 

 ガツンと行くのはアンタの拳だろうが、と突っ込みたい気持ちを必死に抑えて、ケンゴは壊れた人形のように何度も頷いた。

 

「親探し、私たちでしましょうよ。そうと決まったらまずはアシを確保しなきゃね」

 

鷹揚に頷き返した幽香が携帯を奪い取る。

 

「もうっ……最近のは……使いづらい」

 

 とボヤきながら入力されるナンバーにはケンゴも見覚えがあった。市内にある大学の、とある研究室のものだ。どのようにして彼女がそれを知ったのかを問い質すほど、ケンゴには勇気がない。

 

「あ、もしもし。来い」

 

 ばきん。

 

「はい、おっけー。ありがとう」

 

 おそらく旧世代の携帯とスマートホンの違いもわからないのだろう。綺麗に真っ二つにへし折られて返ってきた携帯を見下ろして、ケンゴは静かに落涙するのだった。

 

◆◆◆

 

「橙。ちぇん、ね。いい名前じゃない、猫みたいで」

 

 そんな褒め方があるか。

ミニの窮屈な後部座席でケンゴは呆れ切った表情を幽香の後頭に向ける。橙、と名乗った少女はぬえの膝のうえに抱き上げられ、上機嫌だった。助手席で幽香が持つ朝顔の花束も、どこか楽しげに風に揺れている。ハンドルを握る白衣の男の首筋を汗が伝っていた。

 

「教授」

「言うな。俺も思ってるから」

 

 男たちは思っていた。この車は一体どこへ向かっているのかと。

 

『で、ロクに目星もついてないんだろ、お嬢ちゃん』

『関係ない。行け』

 

 車に乗り込み、手を組んだ幽香が発した言葉は彼女を除く全員を戦慄させた。風見幽香が黒といったら無色透明でも黒である。ケンゴにはとりあえず郊外へ向けてひたすら爆進するミニが、まるで地獄へ突き進む棺桶に思えてならない。

 

(女ってやつは)

 

 一方、ぬえはぬえで突然のドライブを楽しんでいるようであった。癖のある黒髪を風にそよがせる。風音に混じって、彼女の鼻歌までも聞こえてくる。

 

「そういえば今日は、キョウコの命日だったのね。ごめんなさい」

「いいんですよ。墓参りしても午後からどうせヒマになっちゃうんだし」

 

 なぜケンゴの母がこの女怪と親友だったのかは永遠の謎であろう。

 ぬえと幽香の会話を聞き流しつつ、ケンゴは財布からメモを取り出し、文面を軽く目で撫でた。軽いため息を聞き漏らさなかったのは、橙だ。

 

「ケンゴおにいちゃん、ごめんね」

「え、あ、いや」

「へぇ。こんな小さな子に気を使わせるなんて、いいご身分(ゴミ)になったものね」

 

 何だろうか。ケンゴに寒気を感じさせたものが多すぎて、とっさに反応できない。あうあうと喘いでいると、幽香が窓の外に目を向けた。

 

「教授、止まって」

 

 つんのめるようにミニは路肩に止められた。軽い目眩を覚えながらケンゴが車を降りると、きらりと眩しく光るレンズが向けられている。年代物のカメラを片手に、奇抜なファッションに身を包んだ女性が笑った。

 

「ケンゴさん、やっほー!」

「マジかよ」

「はい、チーズ!」

 

 ばしゃばしゃと容赦なくフラッシュを浴びせて、彼女はかかか、と独特の笑い声を上げた。ナチュラルハイの学園記者、射命丸文ことご近所の怪人二号は、シャッターに眩んだケンゴの手を取ってぶんぶんと振り回す。ケンゴには縁もゆかりもないお嬢様学校に通う彼女は、なぜか昔から彼にご執心だった。

 ぬえがわざとらしい咳払いをすると、文はようやくケンゴを解放してくれた。

 

「こんなところで奇遇ですねえ。みんなでピクニックですか? それともメンツ的には誘拐の最中だった、とか?」

 

 幽香をばっちり見つめながら二の句を継げられるあたり、流石という他ない。

 

「相変わらず失礼な小娘ね」

「あやや。でもこういうのが一人くらいはいなきゃ、つまらないでしょ?」

 

 肩をすくめて見せながらも、幽香はまんざらでもないようだった。

 つくづくよくわからない、とぼやく青年も事実上ご近所の怪人にランクインしていることをまだ知らない。この渦中にあって未だ若木骨折以上の怪我を負っていないことが、彼の奇特さを雄弁に物語っている。

 

「――はぁ、なるほど。そういうことですか」

「まだなにも言ってないのに勝手にダッシュ繋げて理解するのやめてくれないかしら」

「いやいや、記者のカンというか、経験というか。風見幽香が子供に手を出さないことは知っていますから。それでもケンゴさんたちが一堂に会するというならこれは穏やかじゃない」

 

 文は不敵に笑った。

 

「ピクニックですね」

「お前のカン、ほんとポンコツじゃねえか」

 

◆◆◆

 

 結果的に、文の予言は当たることとなった。

 彼女の推理ゲームは泥沼の展開となり、話の中にグレイとチュパカブラがちらつき始めたあたりで橙の腹音が試合終了の合図を告げた。

 そうして今、一向は近くの空き地に新聞紙を広げ、少々早い昼食にありついているのだった。

 

「これ、うまいな」

「でしょうっ! お値打ちものですよ。いかがです?」

 

 (なぜか)郊外の道でばったりと出くわし、(なぜか)人数分の弁当を持っていた文は誇らしげに胸を張った。ブラウスの胸元が揺れた。

 

「確かにこりゃすげえ。お値段以上だ……」

「ケンゴ」

 

 つい目を皿のようにしたケンゴの後頭部をぬえの平手が一閃する。一部始終に笑い声を上げていた橙だったが、不意にその表情を曇らせた。

 

「あやや、苦手なものでもありましたか?」

「あ、そうじゃないよ。おねえちゃんのお弁当はおいしいよ。でも」

「でも?」

 

 切迫した表情で、彼女は文を見上げた。

 

「ねぇ、やっぱりよそから来た子は、好きになってもらえないのかな?」

 

 時間が止まったような沈黙が降りかかった。それまで痴話喧嘩を繰り広げていたケンゴとぬえも、口を開けたまま橙に視線を注いでいた。

 

「わ」

 

 気まずげに、教授が口を開く。

 

「わーお。こりゃ慎重に答えなきゃだな、文ちゃん」

 

 教授の脇腹に幽香の肘が埋まる。音もなく崩れ落ちた教授の背を肘掛けがわりに、幽香は文の答えを待った。じっと待った。十分な間を置く間、文は橙の目をまっすぐに見つめていた。

 

「どうして、そう思うんですか?」

「私ね、ずっと孤児院で暮らしてきたの。それで、今のおかあさんに引き取られて、でも、その家には大きなお姉ちゃんがいて」

「ふんふん。彼女との間でなにか?」

「何もないんだ」

「それはいいことなんじゃないですか?」

 

 ぷるぷると橙は小首を振った。

 

「本当に何もないの。おはよう、も。おやすみ、も。いってらっしゃい、も」

 

 口元に手をやったまま、文は動きを止めた。彼らの占拠する空き地の後ろをトラックが通っていく。やけにエンジン音が騒々しく響いた。たった一人の少女が作り上げた修羅場で涼しい顔をしているのは幽香と、もうひとりだけだ。

 

「私、いっぱい頑張ったよ。でも、おねえちゃんはどんどんわたしから逃げるようになっちゃった」

 

 いたたまれなさの限界に達した文がすばやく視線を横に流す。運悪く彼女と目を合わせてしまったのは、ぬえだった。

 

「ぬえさん、パス」

「えええっ」

 

 肩の重荷が降りるなり文は余裕の表情でへらへらと笑ってみせる。

 

「あれぇー、ぬえさんったらそんなことも答えられないんですかぁー? 」

「アンタここぞとばかりに……!」

「いい加減にしろ、お前ら」

 

 鋭い声を張ったのは、それまで聞きに徹していたケンゴだった。幽香が片眉を持ち上げる。軽く腰を浮かせて橙の前に座り込んだケンゴは、ぬえに叩かれて赤くなった頬をさすりながら彼女の目を覗き込む。

 

「橙、怒らないから正直に言え。嘘ついたろ」

 

 少女の同様は、誰の目にも明らかだった。

 

「う、嘘なんて」

「頑張るって、なんだ? 好かれるために嘘をついたってことか」

「それは」

「お前、自分で家を出たんだな。おおかた、そのおねえちゃんに嘘を見破られて怒られたとか、そのあたりだ」

 

 ぐう、と呻いて橙はうつむいた。

 

「アレ当たったんですかね」

「流石はプロの嘘つきね」

「しっ、聞こえるわよ」

 

 女怪三人衆がなにやら横槍を入れていたが、ケンゴはこの際無視することにした。

 

「どうして、わかったの」

「俺も家を出たことがある。それも何度もな。いいか、橙が何歳か知らないが、こちとら17歳にもなって母さんを泣かしてたんだぜ。今でもクソオヤジは酔っ払うたびにそのことを掘り返しては俺がキレる様を酒のつまみに」

 

 皆が小首をかしげていた。思わず話が脱線しかけていたことに気づいたケンゴは軽く咳払いする。

 

「母さんが死ぬまで、俺はずっとオヤジが憎かった。誕生日だってほとんど母さんと二人で過ごしてきた。葬式にすら出なかったんだ。外に女でも囲ってんじゃないかとも思った。でも、オヤジは俺たちのためにずっと働いてて、あちこち飛び回ってて。俺は」

 

 言葉を詰まらせたケンゴの背中に添えられたのはぬえの手だった。ちらりと振り返ったケンゴ。彼女は支えるように微笑んでいる。

 

「俺はずっと自分に嘘をついてた。オヤジさえいなければってさ。ほったらかしにされた分、そう思い込む権利があるなんてバカみたいなことを考えて。気付けば、正直になるのにはとてつもない勇気が必要だった」

 

 秋晴れの空を眺めるケンゴの姿は、そのもっと先にあるものを見据えているようにもとれた。

 ぬえが出会ったばかりのケンゴは、どう言葉を飾っても最悪の状態だった。父と目の前でケンカする姿を見たこともある。彼女の目には、その頃の青年の姿から一回りもふた回りも大きくなったように映る。

 

「どんな嘘でも、自分を騙し続けることだけはできない」

「よくわかんないや」

「そう、それでいい。嘘ついてわかった、なんて言う方がよっぽどお姉ちゃんは離れていくと思う。ただ、正直でいろ」

「嘘はいらない?」

「あぁ。嘘はもう、いらない。今日はゆっくり遊んで、決心がついたらお姉ちゃんに謝りに行け。そうすれば、許してくれるから」

 

 言い切って、ケンゴはそこではじめて皆の視線に気付いたようだった。

 

「おい。何見てんだよ」

「はー」「へー」「ふぅん」

 

 真面目に話を聞いていたぬえと文、そして幽香のニヤニヤ笑いが、どうしようもなく居心地悪い。教授は教授で、さっさと包囲網をすりぬけて車の中で居眠りをかましていた。

 

「これ。この揚げ物は何だ?」

「え、えと、それはハンペンで作ったコロッケです。あ、そんなに一気に食べたら」

 

 照れ隠しに一気に衣のついたコロッケをかき込んで、ケンゴは派手にむせる。

 

「よく言ったわね。はい、ご褒美よ」

 

 最強のいじめっ子が手渡したものをバカ正直に飲み干したのが悪かった。注ぎたて熱々のお茶を飲み込んだケンゴが、顔色を青から赤に変えて転げまわる。ようやくもとの騒がしさを取り戻した一同の中で、ぬえだけが泣きそうな顔で笑っていた。

 

 ボンネットの上、アサガオが風に揺れている。

 

◆◆◆

 

「色々あって、今年はちょっと賑やかになっちゃったけど」

 

 夕暮れ。ひぐらし。墓前にて半分になった饅頭をケンゴが供えている。花立てに添えられた朝顔はすっかり花びらを閉じてしまっていた。線香の煙が漂う中、皆が珍しく真面目に手を合わせている。

 

「ま、いいよな。たまには」

 

 振り返ってみると、霊園の墓石に夕日が反射して眩しかった。暮れの時間となって、死者の眠るこの場所は最も華やかだ。目を細めてみると、こちらにゆっくりと歩いてくる影がある。その一人が、大声を上げて駆けてくる。それは髪を金に染め上げた女性であって、遠目にも狐のように目鼻立ちのきりりと釣り上がった美人であることはわかった。涙で剥がれたマスカラが黒い涙を描いているのが、不思議とおかしかった。

 

「お姉ちゃん」

「ほらな。心配いらなかったろ?」

 

 駆け出した橙に道を譲って、ケンゴの方へと歩いてくるのは二人。もはやケンゴは乾いた笑いを漏らすことしかできない。奇しくも、ここにご近所怪人が全員集結することとなっていた。

 

「いやあ、手こずらせてくれましたよ。半日でなんとかしろだなんて、幽香さんも人が悪い」

 

 と呆れて見せるのは文の後輩で、現役学生と作家の顔を併せ持つ稗田阿求。全身冷えピタだらけの奇妙な人物がふらふらと彼女を追い越して、石段に腰掛ける。

 

「ええと、レティさん?」

「ニホン暑いネ」

 

 もう彼女には触れないことにして、ケンゴはいつしか真横で微笑んでいた幽香に向き直る。いつものような茨の笑みではない。今だけは、ひまわりのように穏やかな笑顔を浮かべている。

 

「最初から全部知っていたのはあなた、ってことスか」

「まぁね。キョウコの息子の成長が見られて、私ちょっと感動しちゃったわよ」

「本当、人が悪い。サイアクだぜ」

 

 珍しく、恨み言にも彼女は笑い返すだけだった。普段の彼女からは想像もできない、あまりに綺麗な表情にケンゴはどきりとしていた。

 

「でも、今日は楽しかったでしょ?」

 

 さっさとその場を後にする幽香の後に続くのは文。

 

「幽香さん、今日は駅前でみんなに晩ご飯おごってくれるって言ってましたよ!」

「ゆ、ユーカ、マジですカ‥…?」

 

 もはや体が氷のように溶け始めてるんじゃないかと思うほどの汗を撒き散らしながら幽香を追いかけていく不法滞在者に呆気にとられつつ、ケンゴは文に手を引かれて数歩だけ歩んだ。そして、止まる。振り返る。一段と高い場所で眠るキョウコの前で、ぬえが待っていた。

 

「少し遅くなる。みんなと先に行っててくれ」

 

◆◆◆

 

 財布にメモをしまいこんで、ケンゴは墓前で改めて手を合わせた。背後から、その両肩にぬえの手がかかる。

 

「こうして来たのにはもう一つ理由があって」

 

 困ったようにケンゴは墓石を撫ぜた。

 

「俺、大事な人ができたんだ。いや、ずっと前からいたんだけど、こないだから大事な人になったっていうか。あぁ、違うな。もとから大事だった。うん」

 

 たどたどしい話は何度も修正しなければいけなかった。ずっとずっと前に嘘をつき通していた頃とは比べ物にならないほど、舌の滑りは悪くなっていた。これではメモも意味を成さないではないか。深呼吸ともため息ともつかぬ息を吐いて、ケンゴは自らを律した。なるべく厳かに、報告をしようとこころがける。

 

「今日はその報告に来た。彼女はこれからもっと大事な人になると思う。オヤジは喜んでくれた。今なら母さんの気持ちも、少しは分かるんだ。子供をもって、年を食って、そしていつか、なんの前触れもなく死ぬ。案外悪くないんじゃないかって」

 

 遠くから聞こえる友人たちの笑い声。きっと橙も、その姉も近いうちにこの輪の中に入ってくるのだろうという気がケンゴにはしていた。それだけに、次の言葉を発するまで、たくさんの時間と覚悟を要した。まだまだこの世界に浸っていたい、と思った。だが、ケンゴの中の何者かがそれは間違っている、と告げている。

 腕時計の針は止まっていた。演技を終える時が来たのだ。

 

「でもやっぱり俺は、彼女と。ぬえと――――いっしょには、なれない」

「え?」

「もういいだろ?」

 

 この瞬間までケンゴであったものは、墓石に触れる指に力を加えた。光沢を失った墓石が、粉々に砕け散る。亀裂は果てしなく広がり続け、やがては霊園と、そこに佇む友人たちの体にも走っていく。

 

「ケンゴ」

「俺はムクゲだ」

 

 墓石に叩きつける拳。ついに大きな断裂が空にも入り、世界は千々に裂かれた。その先に広がるのは、ただの虚無だ。

 

「そこにいたんだな」

 

 ムクゲの腕が墓石の奥にあるものを掴み取った。赤黒い輪郭で発光する、抽象化されたアサガオの刻印。力ずくでそれを引きずり出し、握り潰す。頭の中がひどく痺れていた。どこか遠くで、男の悲鳴が聞こえたような気がした。

 

◆◆◆

 

 今度は本当に皮を引き剥がされた痛みだった。おまけに息が詰まる。真っ赤に皮が剥がれた両肩の痛みと、噛み跡の残る首筋。焼けるように熱い肺で酸素を必死に求めて、ムクゲはぬえの姿を探した。

 

「どうして」

 

 同じように倒れて、喘ぎながらも。ぬえは茫然自失とした表情でムクゲを見つめていた。彼女の手のひらも皮がまるごと引き剥がされていた。

 起きてすぐさまムクゲはここがどこであるのか理解した。崩れ落ちた家の中。室内は焼けただれて様相を大きく変えていたが、カビの浮いたマットレスに突き立ったままの木片には覚えがある。

 

「あのまま、夢をみていれば」

「わかってる」

 

 彼女のやろうとしていたことは、ムクゲにはよくわかる。もとは彼女の体なのだ。記憶も、人格も、取り込んでしまえばいつまでも一緒にいられる。ぬえの見せる夢たゆたっていれば、ムクゲはいつまでもケンゴでいられた。そしていつしかひとつの肉体に統合されていったのだろう。

 

「現実と向き合うのが苦しいことばかりだってのは、わかってるんだ。そこから俺を守ろうとしたお前が、どれだけいいやつかってことも」

 

 だからこそケンゴは嘘をついてきた。

 ぬえもまた、強い自分を保つために嘘をつく。われこそは伝説に根ざす最強の妖怪ぬえさまだ。どうだ、怖いだろう、と。そこに妖怪と人間の差がどれほどあるのだろうか。真正面から現実とぶつかり合って、マトモでいられるものが、一体どれだけいるのだろうか。

 

「いいやつ、か」

 

 自嘲気味にぬえは吐き捨てた。

 ある時、彼女はどうしようもない悪事を働いた。その企てはくじかれ、まさか自分が見下していた人間に保護されることとなったのだが。イチから自分を見つめ直してみよう、と思ったときにはすべてが遅すぎた。嘘抜きでは誰と触れ合うことも、できなくなりかけていた。

 

「皆の為に戦ってみようと思ったんだ。私を倒したあの巫女たちみたいに。誰かの為に血を流せば、少しは私のことを見直してくれるんじゃないかって」

「そんなの、ただの点数稼ぎじゃねえか」

「そうだね。それで私はケンゴの所にやってきた。キョウコの約束なんて無視して、ケンゴの力で世界をぱっぱと救ってしまおう、なんて考えて」

 

『希望が持てそう!』

 

 それからはニセモノを掴まされたり瀕死になったりと紆余曲折はあったが、結果的に彼女はほんとうのケンゴを見つけ出した。だが、その後の彼女の行動には矛盾がある。

 壁に背中を預けて荒い息を整えながら、ムクゲは目線だけをぬえに向けた。

 

「どうして俺を選んだんだ。幻想郷を救いたいなら、すがる相手が違う」

「ヒミツ。そのくらいは、正体不明でいいじゃない」

 

 隠しておくには今更という気はした。

 

「俺は後、どれだけ生きられる?」

「あ」

 

 不意に詰まったぬえの言葉に、ムクゲは俯いた。そんな気はしていた。ここまでぬえが必死になって夢の中に止めようとした理由には、これがあるのではないかと。

 

「そっか」

「胸のアサガオ、あなたに恋してるって幽香が言ってた。今のあなたは彼女から逆に命をもらってる状態なんだって」

 

 言われてみれば、赤い花はいささか元気をなくしているように見える。ムクゲが指を差し伸べると、蔓がゆるりと指にからみつく。幽香という女からは、つくづく奇妙な形で命を救われっぱなしであった。

 

「悪いな」

 

 アサガオは軽く花弁を開いて、ムクゲを見つめているようであった。

 彼女を傷つけないようにシャツのボタンを閉じて、青年は立ち上がる。体のだるさは消えていた。折れたはずの足も、すっかり調子がいい。

 

「ここで尻尾を巻いて逃げたら、本当に俺は嘘になっちまう。それだけは、イヤなんだ」

「いいよ。こうなったら最後までついていくから」

「悪いけど、上まで連れて行ってくれるか」

 

 ぬえの背中からは、あの翼が生じていた。ケンゴの邪悪な呪いによって封じられたはずの妖怪の力が今は全身を巡っている。手のひらの傷もすっかり塞がっていた。静かにぬえは驚愕する。この土壇場で、ムクゲに何らかの能力が目覚めつつあるのだろうか。

 

「ねぇ、夢の中で見せてくれたちから、あれは」

「わからん。俺はただ、嘘と決別したいだけだ」

 

 そういえば、とムクゲは思い出したように呟いた。

 

「お前の中、割と居心地よかったぞ」

「ばっ」

「え?」

「その、マイナス1億ポイント。よ」

 

 

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