東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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5.東方百花境

 その驚愕を言い表すのは難しい。彼の能力を運ぶ蔓の一本が破壊されてしまったのだ。完全無欠の能力。その自身が揺らいだ瞬間を、彼女は見逃さなかった。

 

「あぐっ」

 

 ケンゴの首筋に深々と鉤爪をめり込ませたのは文だった。

 

「あなたには二つの弱点がある」

 

 信頼していた。文を道具のように使ううちに、彼女をいつしか本当に道具だと思い込んでしまったのはケンゴの不覚だった。反抗の意思もなく、ただ命令に従順であるものなど。

 

「能力を行使するには大であれ小であれ、声に出して嘘をつく必要があるということ。そして私を信頼しきったことです。やっぱり、中身はただの子供ってことですかね」

 

 みしりとケンゴの首が音を立てた。やたらめったら振り回されるケンゴの手足に合わせて、錆び付いた車椅子が耳障りに鳴る。

 

「不死身でも、延々と酸欠しつづけるのは辛いでしょう?」

 

あえてゆっくりと力を込めつつ、文は考える。どこまで締め上げれば、彼は命乞いを始めるだろうかと。それは妖怪としての残酷さであると同時に、彼女の優しさでもあった。それが自らの弱さでもあることに文は気付けない。

 

「やめて!」

 

 それは取るに足らない衝撃だった。しかし不意をつかれた天狗はたたらを踏んで、地面に尻餅をつく。爪にはわずかに引っかかったケンゴの首の皮。そして。

 

「よくやった、猫又」

 

 ケンゴの指先が翻った瞬間、天狗の下半身は跡形もなく消し飛んでいた。痛みはない。血も、内蔵も出ない。削り取られた、というよりは別の位相に吹き飛ばされたと表現した方が正しいようだった。文は頬を青ざめさせながらも、ほくそ笑む。

 

「……あーあ、困っちゃいましたね。足の早さだけが自慢だったのに、これは」

 

 呆然と、橙は文を見つめていた。

 

「お前もか。お前も、俺のことを信じちゃいなかったんだな」

「当たり前でしょうに。誰もあなたのことなんて信じてない。嘘ばっかりのあなたを、愛してなんて、くれません」

 

 橙が天狗に駆け寄る。その頭に、文はそっと手を乗せた。

 

「だってケンゴが死んだら、紫様も、蘭様も戻ってこないから。わたし、わたし」

「えぇ。わかってますよ」

 

 文よりも、橙よりも、この場で傷を負っているものがいた。表面的には首の皮一枚をえぐられただけだったが、中身はズタズタに破壊されていた。それを悟って文は笑う。心底愉快そうに、かかか、と。

 

「橙、そこをどけ」

 

 静かな怒りと絶望を声ににじませて、ケンゴが車椅子を進める。

 

「危ないから下がっていてください。あなたまで巻き添えになったら、あの化け狐に殺されます」

 

 最後にしてはなんとも間の抜けたセリフだなあ、と。激しく咳き込むケンゴを見上げて天狗は後悔する。もっと格好いいことを言っておけばよかった、とか。どうせこんなことになるのならもっと早くヤケを起こしたほうがよかったんじゃないか、とか。

 ケンゴの指が持ち上げられた瞬間、死の大地に馬鹿げた大きさの光球が着弾した。

 

◆◆◆

 

「当たったか」

 

 風雨吹きすさぶ大学の屋上で、アキラは奇妙な武器の照準を下げた。かつて駅で見せた魔装とはまた別の、長大な対物ライフルじみた巨砲である。それを支え持つ彼の半身も、硬質の岩盤に覆われていた。

 

「弾速がない。威力もない。腕が落ちたわね」

 

 風も雨も関係なく、花びらのように降り立った花妖怪は周囲に花びらを漂わせる。それらもまた、彼女と同じくマイペースにふわふわと浮かんでいるのだった。

 

「首尾はどうだ?」

「鴉がしくじって、子猫が泣いてるわ」

 

 幽香の言葉を聞いて、アキラは姿勢を低くした。岩の銃身から岩の薬莢が吐き出され、幽香の足元に転がる。尾部は炸裂の衝撃で赤く焼けていた。

 

「じゃあ、早めにカタをつけないとな」

「その豆鉄砲で?」

「これはただのさきがけだ」

 

 彼女の困惑を示すように、花びらたちも一瞬動きを止める。

 

「俺だって、少しは成長したのさ」

 

 研究棟が震えた。遠く、山がまるごと崩れていくのが見える。そして地獄の業火と共に鎌首をもたげたそれを見て、幽香は。

 

「あっきれた。あんな時代遅れを持ち出すの?」

 

 やる気満々で立ち上った炎の蛇。その首は八つ。そして、尾も八つ。しかし束ねられたように、その胴は一つところに繋がっている。日本書紀にも記される大蛇は炎の舌をちろりと覗かせ、すべての口から一斉に光条を迸らせた。過たず、百花境に向けて。

 

「長崎でやっとこさ契約したはいいが、蛇の癖して酒飲みで目が悪いらしくてな。こうして印をつけてやらないと、あたりが火の海になる」

「……ま、派手なのは嫌いじゃないわ。華はないけれどね」

 

アキラは百花境に向けて再度狙いを絞りつつ、大蛇の咆哮に負けぬ確固たる声で。

 

「問題ない。花は、これから咲く」

 

◆◆◆

 

「クソオヤジに死にぞこないが。どいつもこいつも邪魔ばかりしやがる!」

 

 幾筋もの爆炎が走る中、ケンゴは叫んでいた。

 

「いつだってそうだ。俺が何かしようとする度に」

「違うでしょ」

 

 笑うことをやめた文は、肘を使って上体をわずかに引き上げた。真剣な眼差しがケンゴを射抜く。

 

「あなたは嘘で自分を守っているだけ。現実と向き合うのが怖いあなたの嘘が、現実をもっと残酷で、無慈悲にしてしまったんだ。わかってるんでしょ?」

 

 文の体が跳ねた。空中で粉々に分解されていく彼女の口元は、あくまで笑っていた。ケンゴを嘲笑っていたのではない。彼女の意識が消え去る寸前、それが空に見えたからだ。

 

「あぁ、うらやましいなぁ」

 

 黒羽が舞い散り、彼女の姿を覆い隠す。やがて手元に降りた一枚の羽を見下ろして、橙は嗚咽を上げた。レティは動かない。これまでのやりとりと、起こりつつある事態。すべてを、あくまで無表情でやり過ごしていた。

 

「ちょ」

 

 しかし直後、天狗の笑いが伝染ったように、彼女も小さく吹き出していた。

 

「何がおかしい」

「だって、あれ」

 

 レティの指す先には、小さな小さな点が浮かんでいた。ケンゴが目をこらす。そして、その正体に気づいた。

 

「あの、出来損ない、があ」

「あんなボロボロなのに、よくやるわねえ」

 

 それは、彼女たちにとってもはや見慣れた二人組だった。

 ぬえも、彼女に買い物袋のように吊り下げられてやってくる青年も、その不格好さに反してやけに真面目くさった顔をしているのがなんとも面白い。陰鬱な雲海がバックにあっても、その可笑しさはまったく損なわれていなかった。

 

「わたし、あんなのに負けたワケ?」

 

表情を変えずに迫ってくる二人を見つめるうちに新しい笑いの波が打ち寄せてきて、レティは思わずかがみ込んで腹を抱えていた。

 

「笑っている場合なのか?」

「ちょ、待って。もうちょっとだけ。一生のおねがい」

 

 舌打ちしてケンゴは人差し指を伸べる。ありったけの憎悪と、わずかの憧憬を込めて、最強最悪の弾幕を迸らせる。レティがその隣で大声を上げて笑った。ひいひいと言いながらも、頼もしげに二人を見上げる。

 

「いいじゃない、ねえ。あなたたちみたいのが、一人や二人いたって」

 

 まるでかまくらのように、レティの周囲で空気が凝結した。ケンゴが驚愕の表情を浮かべる間もなく、夥しい弾丸がその内部を跳ね回った。レティも、ケンゴの腰掛ける車椅子も、圧倒的暴力の前に削り取られ、消えていく。その様子は、遠く離れたムクゲたちからでも見ることができた。どうしてもその瞬間の彼女たちの顔が、夢の中で見た姿と被ってしまった。

 

「ぬえ、急ごう」

 

 弾丸に削られた大地の中心に、ケンゴは無傷で佇んでいた。意思を持ったように車椅子のパーツが形を取り戻し、サビの浮いた車輪を作り上げていく。ふと漂った雪の結晶に負けず劣らず冷たい光を宿した瞳を二人に向けて、ケンゴは攻撃するでもなく彼らの到着を待った。

 

「お前らは」

 

 寄り添うように立つ妖怪と人。そしてしっかりと地を踏むムクゲの足を見据えて、忌々しげにケンゴは目を細める。

 

「お前らは直々にすりつぶして、焼き切って、殺す。そうでもしなきゃ、気が済まない」

 

 死んだひまわりたちが反応した。まるでイバラのように茎を変形させながらケンゴと、彼の車椅子へと巻きついていく。遠目には、百花境の表面を夥しい数の紐虫が這いずり回っているように見えたことだろう。やがて車椅子も分解され、その体の一部に組み込まれていく。

 

「おい、できそこない共――これが力だ。唯一無二の、最強の向江ケンゴだ」

 

 天を擦るような死の巨人が、うつろな瞳で二人を見下ろしていた。ひまわりと金属の部品がいびつに絡み合った姿。下半身はまるで蛸のように幾筋にも枝分かれしていた。シルエットだけで見れば、百花境を掴む手のようにも見える。

 

「ケンゴ、聞いてくれ」

 

 ムクゲが恐怖などおくびにも出さずに声を張り上げる。

 

「母さんが殺したかったのはお前じゃなかったんだ」

 

◆◆◆

 

 大蛇が吹き上げる八筋の紅炎と風見幽香のひまわりによる一斉攻撃はお世辞にも功を奏しているとは言えなかった。百花境は所々炎に包まれ、砕け始めているようにも見えるが、依然として悠々と自転を続けている。

 

「もう決心はできたのかしら?」

「なんの決心だ?」

「あなたと私が攻撃しているのは、あなたの息子なのよ」

 

 アキラのライフルは彼を覆う装甲と一体化して、対空銃座じみた形態へと変形していた。一撃ごとに内臓を揺するような衝撃が屋上のタイルを浮かせる。絶えず吐き出される夥しい数の薬莢が、彼らの足元を埋めようとしていた。

 

「ケンゴがあそこまですることになった原因は俺にある。なら、俺が責任を取らなきゃいけない」

「殺すの?」

 

 照準器ごしに百花境の巨人が暴れている。そして、その相手は。

 

「連れ戻して、ゆっくり話でもするさ」

 

 それが叶うなどと、本当にアキラは考えているのだろうか。幽香は次弾の準備をしながら考える。雨に洗われるアキラの顔はますます巌のようだ。いくら風雨にさらされても、この強面ばかりは丸くなることはなかったが。しかし長年の付き合いで、その僅かな変化を読み取ることが花妖怪にはできる。泣いているようなものではないか。

 

「いいんじゃない。やれるだけの手伝いはさせてもらうわ」

 

 花吹雪が彼女の殺気と踊る。今回は彼女の発する怪光線もこの雨の中でも十分な破壊力をもって百花境まで届く。射線上に舞い散る花びらが、雨粒の軌道を捻じ曲げて、彼女のための戦場を作り上げていた。

 

「いいんじゃないか」

「えっ?」

 

 場違いな声に思わず振り返った幽香。光線が屋上を薙ぎ払う。

 

「うおおっ」

 

 咄嗟に頭を伏せたアキラの頭上を極太のレーザーが通過していき、彼の銃座の上半分を綺麗に削り取っていった。

 

「半減するはずの威力を真空を作って維持、か。その創意工夫、B判定はくれてやる。相変わらずウチの専門は植物なんだがな」

「きょ、教授!? 何してるんだ、危ないぞ!」

 

 ビーチパラソルとベンチを持って屋上に現れた男は、なに食わぬ顔でいつものセッティングを始める。激戦の真後ろでベンチに寝転がりポケットを探る。さすがの幽香も、呆気にとられて彼を見つめていた。

 

「日光浴だ。見て分からないのか」

「あなた。あれが見えるなら、この場所がどれだけ危険か分かるでしょ?」

「教え子たちの晴れ舞台なんだ。ここでこうして、眺めていたい」

 

 幽香とアキラは顔を見合わせた。

 白衣のポケットから彼が取り出したのは、くたびれたタバコのパックだった。今度はライターもある。火は一発でついたし、タバコの乾き具合も文句はない。教授はご満悦だ。上機嫌に煙を鼻から吹いて、百花境を指差す。

 

「彼らはあそこにいるんだろう。車椅子のケンゴも、そうじゃないケンゴも、長生きのお嬢ちゃんも」

 

 教授の視線の先で巨人が吠える。その背中から迸った閃光が百花境にいくつものクレーターを穿つ瞬間、爆炎の間を飛び回る少女と、青年の姿が見えたような気がした。

 

「本物だとか、ニセモノだとか、どうでもいいじゃないか。みんなこの数日で素晴らしい成果を見せてくれた。等しくウチの教え子だ」

「本当、外の連中ってヘンなのばっかり」

 

 呆れながらも、幽香は嬉しそうに笑った。花びらが鋭さを増し、彼女の手のひらの上で舞う。次射の充填は、これまでの間に予断なく行われていた。

 

「好きなだけ見せてあげる。消し飛んでも文句は言わないわよね」

「せっかくの特等席だ。少しくらい水がかかったって、構いやしない」

 

◆◆◆

 

「聞けよ――聞けってば!」

 

 巨人の振るう腕をすり抜けながら、妖怪と青年は叫ぶ。

 

「母さんが殺したかったのはお前じゃない。母さん自身だったんだ!」

 

 滞空していた無数の光球が炸裂する。それを皮切りに、百花境の巨人は攻撃を止めていた。ぎしりと体を鳴らして、空洞の瞳がムクゲに向けられる。

 

「妖怪の本能と、愛情の板挟みで下した決断を、母さんはずっと悔いていた。ずっと自分を責めていた。その後悔が十年前、百花境をこの町に引き寄せたんだ」

 

 突如として巨人が体をくの字に折った。音もなく、何度も体を震わせる姿が咳をするケンゴと重なる。彼の体は確実に限界に近づいているようだった。

 

「お前が気に病む必要はない。だから」

「百も承知さ、そんなことは」

 

 巨人の顔面が変形を始める。虚を突かれたケンゴとぬえに向かって無数の弾丸が殺到した。慌てて回避運動に移る二人だったが、遅すぎる。巨人の顔面は今や完全に変形し、邪悪に微笑むケンゴの顔を形作っていた。

 

「なぁ、お前はどうして俺に足がないのか知らないだろ」

 

 抱きしめるように巨人が腕を交差させる。寸前で真上に加速したぬえだったが、その体は暴風めいた風圧で大きくバランスを崩していた。すぐさま追撃には転じず、ケンゴは四本に分裂した巨腕をわななかせた。

 

「母さんは結局、俺を庇って死んだんだぜ」

「そんな記憶」

「与えてない。ぽっと出のお前に苦しまれても、見苦しいだけだからな」

 

 病院から脱走した、とケンゴはかつて言っていた。彼の体はやはり完全に治りきっていないどころか無理のツケが出始めている。

 

「トラックは去っていって、未だに見つかっていない。なぁ、作り物の脳みそで理解できるのか? 母さんと、俺の足が散らばった真夏の地面の冷たさを。あの坂道を延々車椅子で登る、空しさを」

「……キョウコ」

 

 奇しくも彼女は、自らが例え話に使った状況によって命を落としたのだ。彼女の愛情は死の間際にあって、やはり息子を選んだ。彼が人間であろうが、妖怪であろうが関係はなく。ただ、その想いがケンゴに正しく伝わらなかったことが、ぬえには残念でならない。

 

「本当に後悔していたのは、母さんじゃなくて俺さ。俺の力も、母さんだけは生き返らせることができなかった。だから、俺は遺志を遂行する。現実を裏返し、嘘を誠に、境界を流転させ」

 

 百花境が動いた。分裂した巨人の足が、その奥深くに差し込まれ、ひとつの指令を発したのだ。ケンゴとその能力を葬るため、二つの世界へと向けてこの星は惹かれはじめる。

 

「俺も、町も、幻想郷も母さんのところへ行く――それが俺の捧げる、母さんへの弔辞だ!」

 

 ケンゴの絶叫と共に巨人が再起動する。先程までの比ではない狂気の弾幕をぶちまけながら、自らの攻撃で体が削られることも構わずにムクゲたちを追い回す。その一撃が、ぬえの翼を掠めた。衝撃に、ぬえの指が青年を取り落とす。

 

「ケンゴ!」

「その名前でそいつを呼ぶんじゃあねえ!」

 

 宙に舞っていることに気づくまで、意識が飛んでいた。両側から迫る巨大な手のひらと、遥か上方にいるぬえの姿を見て。

 

「やっぱり、落ちるな」

 

 と、思う。しかして彼の落下は、今度も阻止されることとなった。

 

「橙?」

 

たった一匹の、それまで息を潜めていた猫又の手によって。

 

「ごめん。ごめんね、ケンゴ。わたし、バカだったね」

「お前」

「紫様たちを、おねがい」

 

ムクゲをキャッチした橙が、渾身の力でぬえへとパスを回す。その小柄な体からは信じられないほどの勢いでムクゲは弾丸のように飛んだ。彼の目の前で巨人の手のひらが彼女のいた場所を通り抜ける。後には、何も残らなかった。

 

「あぁ、そうかよ。やっぱりか。お前も」

 

巨人はずっと、手のひらを見つめていた。ケンゴの声に、恐ろしいものを感じる。これまでにない、虚無を。巨人の顔が溶け始める。ぬえに支えられて、ムクゲはその声がはっきりと聞こえた。おそらくその瞬間、万物の耳に彼の発した声が届いていたのではないだろうか。

 

「消えろ。何もかも目障りだ」

 

無数の光条を迸らせる巨人。その一発は大学へも降り注ぐ。直接的にケンゴやぬえを狙った攻撃ではない。この光は今までのものとはまったく属性が違った。巨人の背から伸びた光は、アンカーのように空間そのものに突き刺さり、固定される。

 

「ねぇ、これヤバくない?」

 

 すぐ横に突き刺さった光の鎖を指差して、教授は呟く。幽香は頷いた。その像ですら空間ごと引っ張られ、ひどく歪んでいた。

 巨人が体をひねり上げる。張り詰めた光の鎖が徐々に空間を歪ませ、そして。ガラスの割れる音と共に、すべてが破壊された。飛び交う空間の破片が破片を直撃し、さらに細かく砕かれていく。H市を中心に始まった崩壊の渦は、まるで世界を裏返すように全宇宙へと波及していく。

 

「あとは彼らに任せるしかないわね」

 

 破片のひとつに映った幽香の口元に、別の破片がぶち当たった。最強の妖怪は今度こそ虚無の淵に沈む。後に残された世界はシンプルすぎるものだった。

 

◆◆◆

 

「マジで世界を破壊したのかよ」

 

 どこまでも広がる白亜の空間を、ぬえとムクゲは飛んでいた。この空間において上下の区別をつけるものは遥か頭上の百花境くらいのもので、距離感も時間間隔もすぐさま消失していった。まるで、無限の牢獄に囚われたようだった。

 

「ここでふたりっきりってのも、悪くないけどね」

 

 こんな時でも、頼もしい相棒はムクゴに笑いかける。

 直後、彼女の片羽が爆裂した。

 

「ぬえ!」

「くうっ」

 

 きりもみで落下しながらも、ぬえは槍を構え、標的を探す。遥か後方、車椅子に体を預け、ぐったりとうなだれたケンゴへと。

 

「いける!」

 

 迸った銀の光はわずかに軌道を逸らし、ケンゴのすぐ傍で銀色の爆炎を吹き上げた。感触のあいまいな地面に投げ出され、もんどりうって転げながらも、ムクゲとぬえはケンゴが同じように地に叩きつけられる姿を見ていた。

 その動きは遅すぎる。もはや、車椅子を修理するほどの気力も残されていないらしい。

 

「あとはあなたの戦い」

 

 ぬえの体は、崩れ落ちた羽の付け根から飲み込まれるように崩壊を始めていた。侵食はすぐさま背中に広がり、封獣ぬえを食い荒らしていく。彼女を抱きしめるムクゲの頬を包み込むようにぬえの手が差し伸べられる。視界いっぱいに優しく微笑んだぬえの顔が映る。この瞬間彼女が纏うものは母の面影などではなく、たった一人の少女だった。そして、

 

「――――――ここまでしたんだから。勝ってね」

 

 後には、銀の指輪だけが残された。それを拾い上げ、ムクゲは向き直る。

 

「任せろよ」

 

 ムクゲは力強く踏み出す。かつて自分を生み出し、そして嘘によって世界を沈めようとする青年に向かって。彼が必死に這いつくばって叫んでいるのが分かる。距離を詰めていくにつれ、その内容が聞き取れるようになっていった。

 

「畜生、どうしてお前は消えないんだ!」

 

 それはもはや絶対無敵の能力者などではなく、

 

「お前は嘘が生み出した嘘なんだ! あいまいで、未来も過去もない、ただの幻影だ!」

 

 現実に裏切られ続けて、へし折られ続けた、どこにでもいるような嘘つきだった。

 

「それで」

 

 ムクゲはケンゴを見下ろして、その義足を指す。

 

「それは、消えなかったのか?」

 

 がっくりとケンゴはうなだれて、末後のように長く、細い息を吐いた。その体が横倒しになる。シャツのめくれ上がった腹から、赤いものが滲む。事故の直後から、ほぼ間髪を置かずに動き続けていたのだ。ムクゲですら思わず目を背けたくなるような傷が、その体には刻まれている。

 

「自分を騙し続けられる嘘なんて、ないんだな」

 

 わずかに地をかいて、ケンゴは呟いた。それは奇しくも苦闘の末にムクゲが導き出した結論と同じものであった。ムクゲの驚きを知らずに、ケンゴは皮肉に口元を歪める。

 

「負けだよ。俺が思っていた以上に、俺は愛されちゃいなかった」

 

 ムクゲは同じ顔をした、同じ姿の青年が死にゆくのを見つめる。彼にもまた、物語があった。母の決断に苦悩し、そして結果的には自己を捧げることで彼女の愛情に答えようとした、その悲劇が。

 

「レティが言っていたな。俺とお前の違いはどこにあるのかって。素直に頑張ってれば、あいつらも俺のために――あぁ、クソ。弱気になりやがって」

 

 浅い呼吸を続けるケンゴの前にしゃがみこんで、ムクゲは懐から例の紙片を取り出した。雨に濡れ、激戦のさなかもポケットにあったそれはすっかりボロボロであった。ケンゴはかすれた声を上げて笑う。

 

「スペルカード?」

 

 むりやり体を持ち上げて、ケンゴは膝立ちすると両腕を広げた。もはや咳ですらない発作に、すぐさま体を倒す。純白の大地に、濁った血しぶきが飛んだ。ぜいぜいという息の隙間から、

 

「やれよ。弾幕ごっこで命を落とすってのも、シャレが効いてていい」

 

 と言葉を飛ばしたきり、彼は黙してその時を待った。

 

 だが、彼の耳に届いたのはかすかな紙の音だった。力なく首を持ち上げるケンゴの前で、ムクゲは紙片を開いていく。それはスペルカードなどではなく、一枚の標本だ。

 

「これが母さんの愛したものだ」

 

 紫色のアサガオが微笑んでいた。

 

「お前は母さんに愛されていた」

「わけ、わかん、ねえよ」

「俺は正直お前が憎い。事ここに至っても、ぶち殺してやりたいと思う。お前はそれだけのことをした。だけど――ケンゴ、俺はお前を愛している。母さんの愛するお前を俺は愛し、許す」

「許、す?」

「許す。お前の苦しみは、俺がぶち壊してやる。何があっても俺はお前を見捨てはしない。それが、俺がお前に捧げることば(ラストワード)だ」

 

 ムクゲは静かに地面に手をついた。亀裂が広がる。虚構によって染め上げられた空間が崩壊し、現れたものは豪風と雷雨吹きすさぶどこか遠い土地の風景。雲間には百花境が見える。徐々に迫ってきている。激突の一刹那前の世界に、二人は戻ってきていた。

 

◆◆◆

 

 完全に倒壊した研究棟。ごうごうと渦巻く雲を蹴散らして、百花境が迫る。がれきの山がぐらりと動いた。

 

「なによ。大したことないわね」

 

 巨大な石塊を片手で持ち上げて現れたのは、言うまでもなく風見幽香だ。完全な生き埋めから易易と生還し、灰色の世界に存在感を振りまく姿は、むしろ花というよりはド根性野菜めいてはいた。

 

「教授、言ったろ。あそこはヤバいって」

「あぁ。びしょ濡れだ」

 

 幽香のぶん投げた石塊はくるくると宙を舞って、幽香の睨み一つで迸った閃光によって跡形もなく蒸発した。振り向いた花妖怪が壮絶に笑ったので、超人に片足を突っ込みつつある男二匹も流石に震え上がらざるを得ない。

 

「さ、宴はこれからよ。アキラちゃん」

 

 二人に向けたその顔は、まるでニコニコマークのように非の打ち所のない笑顔だ。ただし、口の端は耳を通り越して釣り上がっている。細められた瞼の奥の目には、瞳孔がひとつふたつ多いようにも思える。

 

「うふふ。うふふふふふふふふ」

 

 ここ一番上機嫌の彼女による一撃が飛ぶごとに衝撃波があたりのガレキをまるごと吹き飛ばしていく。百花境には何らかの変化が起きたようで、幽香の攻撃が炸裂する度、その姿はいびつに削れていった。それも、加速度的に。

 

「もうさ、全部彼女ひとりでいいんじゃないか」

「確かに」

 

 呆れるばかりの教授に、アキラは真面目めかして頷くのであった。

 

◆◆◆

 

「何なんだ、お前の、その力は」

 

 一瞬にしてすべての嘘を消し去ったムクゲを見つめて、ケンゴは目を見開いた。

 

「お前が世界に絶望したなら、俺がお前の明日を作ってやる。俺の力は、そのためにある」

 

 言いながら青年は胸元のボタンを解いていった。可憐な朝顔が、待ちわびていたように顔を出す。そこから立ち上る香りは、甘く、そして懐かしい。

 

「最後にひと仕事、頼めるか」

 

 赤い花弁が輝いた。残されたわずかな時間がさらに圧縮され、ムクゲの全身に流されていく。そうして揺り起こされるものは、鵺の肉体が持つ本来の姿だ。シャツを引き裂いて左右非対称の禍々しい翼が現れる。恐ろしげなしっぽがまるで意志を持ったようにのたうつ。

 その姿は悪魔じみているが、どこか神々しい。そう、まるで天使のように。

 

「さぁ、ケンゴ」

 

 ムクゲは手を差し伸べる。

 

「こんなところで立ち止まっている場合じゃない。世界を救おう」

 

 そして、ふたりの青年は同時に声を上げていた。荒唐無稽にして正真正銘最後の嘘。その、締めくくり。

歪な翼と恐ろしい尻尾を持った天使が現れて、ケンゴに歩み寄る。そして、こう口にするのだ。『こんなところで』と。

 

「お前が、そうだったのか」

 

 倒れ伏す寸前、ケンゴの顔には少年のような笑顔が戻っていた。駆けつけた少女に抱かれて、彼は満足そうに眠っていた。ムクゲに向けて、彼女は屈託のない笑顔を向ける。

 

「大丈夫。人間はそんなにヤワじゃありませんよ」

「生きていたのか」

「当たり前です。私が死んだりしたら、一体誰が歴史を綴るのですか」

 

 阿求はいつの間にか現れた女性に手招きした。その格好を見る限り、おそらくは医者なのだろう。ケンゴの肉体の具合にも関わらず、表情の一つも変えずにてきぱきと傷を修復していく。まるで魔法だ。

 

「ずっと、この世界を駆けずり回っていました。人と妖怪に話をして、ようやく先程双方の代表が歩み寄ったのです。力を合わせて、この危機に立ち向かおうと」

「この世界?」

 

 答えは阿求の言葉よりも早く訪れた。空を横切る無数の綺羅星が百花境に突撃していく。眩い緑の爆発と、直後に迸った太陽のように明るく、熱い光線。その合間を縫うように駆けていくのは巨大な刀であったり、ナイフであったり、針や謎めいた球体であったりした。無秩序な戦場を律するように虹色の光弾が空を舞う。そぎ落とされるように百花境が欠けていく。

 

「ここは――そうか」

「ようこそ。あなたにこれを見せることができて、よかった」

 

 煌びやかな衣装に身を包んだ少女たちが空を狭しと飛び交う。弾幕が空を真昼のように染め上げ、魔法が、奇跡が惜しげもなく花火のように放たれる。こんな修羅場にあっても美しいと思ってしまう。キョウコの生まれた世界は、幻想郷はひたすら美しい。

 

 守りたい、と。ムクゲは心の底から思う。

 

「ありがと」

 

 名も知らぬ妖怪が空間に開かれた裂け目から現れ、深々と頭を下げた。豊かな金髪が揺れる。その姿に、強大な力と奇妙な懐かしさを覚える。懐かしさと言っても、例えるならばどこかのバスの中で偶然目があったとか、ことばを交わしただとか、その程度のものだ。

 

「また、機会があれば。お礼に中身はパンパンにしておいたわ」

 

 ムクゲの足元に見慣れた財布を放って、彼女は空に舞い上がった。追従するのは二体の妖怪だ。美しい妖狐の隣で小柄な猫又が振り返って、手を振る。

 

「あれが紫様ってやつか。とりあえず、家族に会えたんだな」

 

 彼女たちの姿が再び裂け目に飲み込まれた瞬間、百花境を包み込むほどの激しさで極彩色の爆炎が吹き上がった。地上にいても、その熱を感じることができる。ムクゲは目を細めた。

 

「わたしは行きます。この出来事をすみずみまで見届けて、次の稗田に引き継がなくては」

 

 着物をはためかせて、彼女は駆けていった。ああ見えて相当興奮しているようで、何度もコケつつ遠ざかっていく背中を心配げに見送るムクゲ。すると、

 

「あぁっ、あいつでしょ、ぬえ!」

 

 声の出処を見つける前に、ムクゲは地面に押し倒されていた。石頭に突かれた胸が痛む。朝顔が煩わしさと若干の妬みをもって黒髪の少女を叩いている。その背中から生えたものは、青年と同じ形の翼だ。

 

「久しぶり」

「うん。久しぶり。寂しかったよ」

 

 ぬえを抱いたまま、視線を彼女の肩ごしに馳せる。そこに佇むのはいずれも妖怪たちだ。一人だけ線の細い僧侶が混じっているようだが、恐ろしいことに彼女が最も実力を持っていることだけは確かだった。

 彼女の横に立っていたセーラー服の水魔が、意味深な笑いを浮かべて二人を指差している。

 

「アレってアレですかね。外界で流行っているっていう」

「えぇ。ペアルック、ってやつですね」

 

 ムクゲとぬえはお互いを見つめ合った。言われてみれば確かにその翼といい、激戦の中で焼け焦げていった衣服は真っ黒で、青年の胸に誇らしげに咲く赤い朝顔はリボンに見えないこともなく。そのまま組んず解れつのポーズで固まった、どこからどう見ても恥ずかしい二人。歩み寄った僧侶が、こほんと咳払いする。

 

「ぬえ、一応伝えておきますが我々の命蓮寺において男女の交際は」

「いいじゃろうて。こやつらがいなければいまごろ、のう?」

 

 彼女のことばを遮ったのは化け狸だ。その姿が見る見る間に妖艶な美女となって、ムクゲの頬に指を這わせる。その手を払って、ぬえが威嚇するように唸る。

 

「まるで狂犬じゃ」

「うるさい。噛み殺してやる」

 

 そこに剣呑さなど微塵もない。二人は妖怪の馬鹿力でどつき合いを演じながらも、実に楽しげに笑う。腰に手を当て、ほうと息をついた僧と青年の視線が通う。こんなこと、彼女たちの間では日常茶飯事なのだろう。

 

「分かりました。こんな不束ものでもいいなら、どうぞもらってやってくださいな」

「すげえ、超許してくれた」

 

 その背後から後光が差しているように見えるのは、気のせいだろうか。

 

「命蓮寺はすべてを受け入れ、正しき道へと導くのです。たとえそれが、ただれきったティーンエイジの恋愛模様であったとしても」

 

 化け狸に羽交い締めにされたぬえが騒いでいる。これはオトナの恋愛だとか、ただれたってなんじゃい、とか。ムクゲは声を高らかに笑う。涙が流れるほどに笑う。ぬえは一人じゃなかったのだ。彼女の戦いを見守ってくれていたものたちは、確かにいた。

 

「よかったな、ぬえ」

「え? どうしたのさ、泣いたりしちゃって」

 

 水魔が百花境を見上げた。彼女の視線の先で徐々に星は崩れつつあったが、まだ勢いは落ちていない。何かが足りていない。この空の、主役が。

 

「さ、これが終わったらぬえにはじっくりと彼の紹介をしてもらいましょう」

「そうじゃの。久方ぶりに外の話も聞いてみたい」

 

 勝手なことばかりぬかしやがって、と毒づくぬえの隣でムクゲは翼を広げる。ぬえの手を取り、未だ手当を受け続けるケンゴを見つめる。

 

「見せてやるよ。世界がお前の思うほど、残酷なもんじゃないってことをさ」

 

 ぬえの仲間たちは次々と空へ昇っていく。ムクゲにも飛び方は分かる。あとはどれだけ戦っていられるかということ。世界は終わるかも知れない。すべての努力は、結局無に帰るのかも知れない。だが。

 

「お前に会えて、本当によかった」

「あなたに会えて、希望が持てた」

 

 煌びやかな戦舞台。その主役として、この瞬間だけは踊ることを許された。

 世界に光が満ちる。色とりどりの弾幕が空を埋め尽くし、その星を染め上げている。まるで無数の花々が咲き誇ったかのようだった。

 

 

 

第五章 『百花境にて』おわり

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