朝顔と鵺と虹と
季節を連れて行った雨はその夜のうちに降り止んで、翌日の朝は清々しいほどの快晴だった。すっかり肌寒くなった朝風の中、倒壊しかけた家屋の前、石段に二人の青年が腰掛けている。今回もまた、父を待っていた。
「でさぁ、あれだけ期待させといてゴマシオはねえよ」
「ありゃ意趣返しだろ。ほら、初めて会った時さあ」
「でも、マジで教授ってオトナゲないよなー」
最後の言葉を同時に発して、二人は苦笑した。遠くから青いセダンが近づいてくる。ハンドルを握るのはケンゴの父だ。ムクゲは腰を上げ、ケンゴの車椅子を押してやる。
「まだ色々、決着はつかないんだ。だから整理がついたら戻ってくる。そのときは」
「その時はまた、こうして話そう。俺はいつでもこの町にいる」
何の気なしにポケットへと手を突っ込んだムクゲが、例の標本を取り出した。
「そうだ。これを忘れるところだった」
「それ結局、何だったんだ?」
「これ自体に特に意味はないんだ。ただ、大事なことを思い出したってだけでさ」
ムクゲは得意げに笑った。
「お前が知らなくて、俺が知ってることだってあるんだぜ」
「おい、勿体付けるなって」
手を離して、ムクゲは宙に指を指す。それからすらすらとなぞり上げるのは、複雑な軌跡だった。それから間をおいて、ひどく簡単に一字を書く。牛の字だ。
「アサガオの種っていうのは漢方薬で、昔はそりゃ貴重なものとされていたんだと。手に入ると牛を牽いていって代金の代わりにしただとか、七夕の彦星の別称だったりとか」
「それが?」
「どちらも牛を牽くって字だ。ケンゴ、だよ」
キョウコの愛したその美しい花の名は。
「そんで、アサガオの花言葉は」
「あぁ」
ムクゲを見上げるケンゴの顔は、少しだけ陰が振り落ちたようだった。
「それは知ってるよ」
「そっか」
それきり交わす言葉もなくなって、車椅子の車輪がアスファルトを食む音だけとなる。停まったクルマの横で、アキラが待っている。ここからはケンゴ一人の物語だ。百花境なき今、能力も失われ、足もなくした青年は一人で歩んでいかなければいけない。
困ったような顔で一度だけアキラと目を合わせて、ムクゲは背を向ける。
「また会えるよな?」
返事はしない。ムクゲの戦いも、これからだ。
シャツの胸元でかさりと乾いた音がした。すっかり萎れて、枯れ果てた相棒の姿がそこにはあった。そして、その意味するところは。
「今度ばかりは遅刻したりしないさ」
腕時計を見る。まだ、二時間ほど残されてはいるはずだった。
◆◆◆
「じゃあね」
ぬえとの別れは、意外なほどあっさりとしたものだった。
「帰る前に最後の嘘をつきに行かなくちゃ」
「悪さはするなよ」
「しないよ。それじゃね、バイバイ」
前は彼女を捨て置いてさっさと歩く日々だったというのに、最後はその背中を見送る形になってしまった。しかし、あれだけやっておいてここまで味気のない別れが来るとは、さすがのムクゲもいささか拍子抜けである。
「別れのキスとは言わないけどさ」
彼女は妖怪で、自分は結局のところ人間ですらない。その指にはめられた銀の指輪に、自分自身の未練を見出すような気がした。
「ハグくらいはあってもいいんだぜ」
踵を返し、斎場に向けて歩き始める。そうすると頭上からフラッシュが浴びせられた。カラスが静かに飛び立つ。そして、電線の上に腰掛けていた少女も。
「ハグなら私がして差し上げましょうか?」
「文」
「はい。って、名乗りましたっけ、私?」
ただただ笑うムクゲに首をかしげつつも、彼女はその横に並び、カメラのレンズを自らに向けて、シャッターを切る。古めかしいカメラを使っているというのに、その姿がどこか女子高生の自撮りじみているのがおかしかった。
「あの激戦の最中、あなたの勇姿は腐るほど収めましたからね。これは記事ではなく、プライベート用ですよ」
「そうか。まぁ、お好きなように」
気の済むまで彼女の撮影に付き合って、文を見送る。空に昇りつつ、彼女は何度も何度も振り返ってはその度に手を振る。ムクゲが振り返す。
絶好のポジショニングにも関わらず、どれだけ目を凝らしてもパンツは見えなかった。そうしていると故も知らぬ突風が吹いて砂粒がムクゲの目に舞い込む。青年が顔を上げると彼女の姿は消えていた。
「バレてたか」
だいぶ肌寒いので、コンビニに足を向ける。肉まんと暖かいお茶、そして忘れてはいけないのが原稿用紙とボールペンだ。公園のベンチに腰掛けて頭を抱える。ぼんやりとした心の底からの声は、嘘をつくほど滑らかには出てきてくれない。
「参ったな」
と口に出しつつも、心強い助っ人の登場を確信していた。案の定息を切らせた少女が萌黄の着物を振り乱しながらやってきて、青年の隣に腰を下ろす。勝手にムクゲのお茶を奪い取って、ついでにペンも執る。
「うわ、こりゃなんですか」
「そ、そんなにひどいか?」
「あなたには一度、弔辞と小説の違いについて講釈してやらなきゃいけませんね」
「ほらその、ジョジョウ的で美しくない? ……ないか?」
もはやムクゲの声に耳を貸さずに彼女はさっさと添削を進めていく。しかし彼女の言葉に反して添削は基本的な文法の間違いであったり、意味の通らない箇所を書き直したりであったりで、ムクゲの書いたものを根底からくつがえすようなことはしなかった。
癖のあるムクゲの字の上を、滑らかな阿求の指と字が覆っていく。その様子を楽しそうにムクゲは見守っていた。
「はいどうぞ。死者も飛び起きるような、最高の弔辞です」
「ありがとう」
「お礼ならあの妖怪に言ってください」
「あの妖怪?」
「ほら、あそこ」
阿求の視線の先には三体の妖怪のシルエットが佇んでいる。言わずもがな一体は橙であって、彼女を抱き上げる妖狐が目礼する。幻想郷で過ごした数日の間に礼なら腐るほどされたが、そういえばムクゲから礼を返したのはほんの数回のことだった。
「なんだかんだ楽しかった。アンタたちのおかげだ」
白銀の髪を揺らして、スカートを恭しく持ち上げる『紫様』。その背後で大きな裂け目が現れると、三人の姿は消えていた。そして、阿求も。あとに残されたのは、白い日傘だった。忘れていったのか、それとも。
開いてみる。紫という大妖怪が握るには多少乙女趣味で、ムクゲが持つにはあまりに不釣合いな代物だったが。くるくると回していると、なぜか楽しくなってくる。
「そういえばあいつ、どうしたんだろうな」
日傘を差して朝の町を歩いていると、まるで視点が変わったような気持ちになる。交差点を埋め尽くすひまわりが静かに揺れている。彼らもこの先、無慈悲に切り倒されてしまうのだろうか。その守り手である妖怪はこの場にはいない。それもまた、彼女らしいとは思う。
「おっと」
目眩を覚えて、ムクゲはガードレールにもたれた。腕時計の時間を確認する。まだまだ、余裕はあるはずだ。
「どうしたの、色男さん」
「そろそろ来るとは思ってたよ――助かる。本当」
ムクゲに肩を貸して、レティはそのあまりの軽さにぞっとする。それをお首にも出さずに二人で坂を登っていく。ここまでの道のりで汗ばみ始めた肌には心地よい冷気があたりに漂っていた。
「せっかく私の季節が来るんですもの。なのに辛気臭い顔した男がいたんじゃあ、素直に楽しめないでしょ?」
冷気を振りまいているのはレティではなく、無数の氷精だ。外の世界に連れ出された彼女たちは興味津々にあたりを飛び回り、ムクゲにしがみついたりと忙しい。お世辞にも頭がいいとは言えない彼女たちの質問に答えるムクゲに、レティは微笑んだ。
「いい夢が見られたわ。ありがとう」
「え?」
気付けば坂の上。木立の先に斎場が見える。レティも氷精たちも姿を消し、冷気は徐々に退いていった。そして斎場の前、今度は幻想の人間ではない。
「なんだ、まだ出発してなかったのか」
「叔父、さん」
「そう身構えるなって。悪かったよ。殴ったりして」
二人は肩を並べて、町を見つめる。ひまわりの大半は駆除されていて、もとの灰色の寄せ集まりと化している。きらきらと輝く海の青が、かえって映えるように思うのは気のせいだろうか。
「俺はさ、お世辞にもいい弟じゃなかったんだ」
叔父の言葉に耳を傾ける。
「小さい頃にどこからか姉がやってきて、あっという間に家に居ついて。そのくせ俺よりもずっとずっと上手くやっているのが憎たらしくてたまらなかった」
キョウコの生まれは幻想郷だ。彼女の過去についての記憶は限られているが、ムクゲの思い出せる限り彼女と叔父はよい姉弟に見えていた。それだけに、これは予想外だった。
「大学に入って入った研究室には姉がいた。そんでアキラと知り合って、あいつらときたらロクに顔も出さないくせにしっかりレポートは上げていきやがる。それがまた腹立たしい。いつしか俺は姉ではなく、アキラを嫌っていた」
幻想郷の華々しい美しさはないが、この町もまた、美しい。今ならケンゴの母がこの世界で生きていくことを選択した理由がムクゲには分かる。彼女は愛していたのだ。町を、そして世界を。他でもない、彼女の息子を。
「俺は姉さんが好きだったんだろうな。いつの間にか、好きになっていた。本当、不思議な姉だったよ。キョウコは」
無数の愛を与え、無数の愛を受けてキョウコは行ってしまった。
「これから行くところも、こんな場所だといいんだけどな」
ムクゲが腰を上げた。叔父は見送らない。たとえ視線を馳せたところで、もう彼を見つけることはできないと知っていたからだ。
「本当、親子だよ。目を離した隙にいつもどこかへ消えちまう」
◆◆◆
青空の下、無数のひまわりが咲いていた。黄色と青の鮮烈なコントラストのもと、細道をムクゲは歩く。小石にすら足を取られながら、懸命に、日傘を杖にして。遥か前方には白い小さな家があって、その庭先には幽香が佇んでいた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
庭のベンチに腰を下ろして、ムクゲはシャツの胸元をめくった。
「こいつには悪いことをしちまった」
変わり果てた朝顔を見下ろす幽香。彼女はふっと笑うと、茶色に乾ききった花弁を優しく摘み取った。きっと悲しむと思っていただけに、ムクゲは彼女の行動にいささか面食らう。
「見て」
奇跡を目にした気分だった。ムクゲの小さな相棒は、その体いっぱいに。
「種だ」
褐色の小さな種子をいとおしげに掌で転がして、幽香はその幾ばくかを足元に蒔いた。そして、残りは彼女のポケットに仕舞われる。
「もう半分は幻想郷に。いつかの夏にあなたの生きた証が二つの世界に芽吹く。美しく、偽りなく、正しく、凛として」
幽香は日傘を受け取って、ドアを示した。年季の入った真鍮のドアノブに懐かしさを覚える。その腕に力をこめたムクゲは、肩透かしを食らったように家の中に倒れ込んだ。
「あ、れ……?」
目の前に転がった左腕に巻かれた腕時計は、いつの間にか膨大な時間を刻んでいた。猶予は残り少ない。だが、まだ十分ほど残されている。崩れ落ちた左腕を前に、片腕で立ち上がると、青年に手を差し伸べたまま足を止めている幽香と目が合う。
「……ムクゲ」
「俺に名前を、ありがとう」
ドアを閉める。幽香の浮かべた切なげな表情を振り払って、ムクゲは足を引きずりながら寝室を目指す。そこですべてが終わる気がした。たった一週間の幻想が。
「まるでセミだな」
いつもの軽口を叩いていると、気分も少しだけ良くなる。
記憶に刷り込まれた間取りをなぞっていく。それが作られたものかなど、この際気にはならない。
ばらばらと体の破片が散る。その思い出を汚してしまうことが少しだけ残念であった。
そこで足をとられることになるなどと、想像すらできなかった。音を立てて両膝が崩れた。スローモーションで床が迫る。今度こそ、粉々になっていた。
そこで、救いの手がさしのべられることがなければ。
「あ、なた、は」
もうムクゲの目はロクに役目を果たすことができない。ぼやけきった視界に映るのは、暖かな日差しに舞い踊るカーテンと、白い服を身にまとった女性の姿。そして、彼の体を抱きしめる手の、その指先に光る銀の指輪。
「キョウコ?」
そんな他人行儀な呼び方は必要ない。彼女の言う最後の嘘とは、きっとこのことなのだろう。その優しい偽りに、今だけは身を委ねておこう、とムクゲは思う。その顔は見えず、声は聞こえず、ただ懐かしい香りが。朝顔の香りがする。
「母さん、遅れてごめん。ずっと、謝ろうとは思ってたんだ。ずっと、お礼を言おうとは思っていたんだ」
震える指で引っ張り出した弔辞は読めない。だが、心に刻んである。ずっとずっと、頭の中で転がしてきていた。息を整える。まだ十分ある。
「ありがとう。母さん。聞いてくれるか」
向江ケンゴは控えめに言って――
『東方百花境』 おしまい