H市を襲った異変はすぐさま各地のメディアが取り上げた。異常気象が植物の生育に影響を及ぼしただの、近くの大学での研究サンプルが漏れ出しただの、果ては種まきお姉さんなる存在にまつわる珍妙な噂まで取り上げられる始末。
「なワケあるかよ」
たった一人、ケンゴは家でインスタントのラーメンをすすりながら乾いた笑い声をあげる。専門家の意見うんぬんというくだりでママチャリを傍らに教授が出てきたときは、さすがの彼も腹を抱えて笑った。
「突然変異、というと大げさなことに聞こえますが、自然ではままあることなのです。場合によっては、そもそもあらかじめ遺伝子に組み込まれていた仕組みが作動しただけ、ということもある。ひょっとすると、今回のヒマワリの大増殖は周期的な――――」
ライブ映像ではインタビュアーが教授の長話にいつ終止符を打とうかと悩みきっている。その後ろでは市の職員や自衛隊がこぞって草刈ガマを手にヒマワリの駆除に向かおうというところだ。煌々とライトに照らされ、夜中でもヒマワリが眩しく照り輝いている。
時刻はすでに午前二時。アサガオの被害はケンゴの自宅も例外ではなく、窓から陽の光を遮る蔓のために時間の感覚を失っていたようだ。もそもそとベッドに潜り込む。昼間の出来事はすべて忘れかけていた。ぬえと名乗る奇妙な少女のことも。もともとあまり長くは悩まない性質だ。母の死も、すでにショックは薄れかけている。
薄ぶとんを被り、天井を眺める。道を走るクルマがないおかげで、今日は静かだ。代わって聞こえるのは、何かが這いずるような音。ずり、ずり、という音はそこかしこから聞こえる。
青年は上体を起こし、壁に耳をつけた。やはり音は外から聞こえる。すぐ外だ。動物の立てる音とは思えない。ずりずり、ずりずり、と。その間も音は大きさを増して続いている。
アラームが沈黙をつんざいたのは、その時だった。
「うおあっ」
悲鳴を上げて、恐る恐る携帯を取り上げる。父からの着信、一件。今日は遅くなる。母さんのことについては、後で話そう、と。あまりにシンプルすぎる内容。苛立たしげに時代遅れの携帯を捨て置いて、ベッドに体を横たえる。気づけば、あの物音はもうしなくなっていた。
いくら神経を研ぎ澄ませても、音は聞こえない。
どことなく張り詰めていた緊張が解け、安堵の息をつく。
――天井に大穴が穿たれる。
瓦や木片が容赦なくベッドに降り注ぎ、ケンゴはすんでのところで体をよじり、ベッドから転げ落ちた。頭を抱えてしばらく震え、ようやくホコリが収まって顔を上げると、スチール製のベッドは重みでくの字にへし折れていた。マットレスに突き刺さった巨大な梁を、降り注ぐ月明かりが照らしている。
二階の屋根から一階部分まで突き通された大穴。そこからケンゴに殺到したのは無数の緑色の蛇。室内に達したそれはまずドアノブを破壊して退路を断つと、鎌首をもたげてケンゴの動きを追う。それらの頭部が一斉に開いた。そこではじめてわかる。それらは蛇などではなく、それぞれの太さがビール瓶ほどもある朝顔の蔓であるということに。部屋中に咲き誇る色とりどりのアサガオ。非現実的な光景に見とれていたケンゴの背後から一本の蔓が忍び寄ると、片足に巻き付き、そのまま床に引きずり倒す。
「いっ……ってえ!」
じゅっと音がして、足首から煙が上がった。表面から分泌される酸か何かが、容赦なく皮膚を侵しにかかる。無我夢中でサイドボードをひっくり返し、床に転がり出たハサミに手を伸ばす。しかし、その試みは無駄に終わった。
一本の蔦がハサミを拾い上げる。月光に輝く刃先がブレた。しゅかっ、という音と共に、ケンゴの鼻先一寸に突き立つ刃。すでに全身が巻き取られ、そこで蔦は一斉に動きを止めた。
鈴虫の声、ケンゴの荒い呼吸。酸の分泌はまだ始まっていない。いつ始まるかもわからない。その瞬間の激烈な痛みを想像するだけで、叫びだしたい衝動に駆られる。蔦をヘンに刺激したら終わり。待っていても終わり。
どうして俺が、こんな目に。
「つかまえた、わ」
月の下で日傘。
まるで中に舞う花びらのように重力を感じさせない動き。ローファーのつま先を鋭く打ち鳴らして、彼女は寝室の床に降り立った。
「私たちにはあなたが必要なの。勝手は困るわ。この子が先走っちゃったみたいだけど、許してあげて」
あなたが必要。聞き覚えのある言い回しだった。
「お前もぬえの仲間ってことかよ……クソ、痛え」
「はて、ぬえ? 聞き覚えのない名前ね」
日傘をたたんで、彼女はケンゴの顔を持ち上げるとあらためた。おおよそヒトのものとは思えない色をした頭髪。ウェーブがかった新緑の髪は彼女の持つ魔性と相まって、無数の蛇を率いたゴルゴンじみて見える。その目が、すっと細められた。
「あなた、どうしちゃったの?」
「あ?」
「アレはどこへ? まさか無くしちゃったなんて、言わないわよね」
彼女の口から放たれる言葉全て、謎めいている。それでも糸口が見えた。青年はイチかバチか。ウソを口にする。
「奪われた」
「なんですって!?」
ケンゴの顎を掴む指の、わずかな強張り。女はつとめて平静をつくろっているようだが、ケンゴには彼女の動揺が読み取れた。脈あり。
「今日、街を歩いていたらいきなり」
「相手は? だれ?」
「さぁ。ポケットからポロっといったスキに、横からかっさらわれた」
ぱっと、手が離された。支えを一瞬でなくしたケンゴは、顎をしたたかに打ち付ける。舌を噛んで悶絶する青年を前に、女性は心底呆れた様子で髪先を弄んだ。
「ポケットに入るようなもんじゃないでしょ、あれは。アンタの嘘ってのにはもううんざりよ。こんな時くらい止められないワケ?」
嘘にはうんざり、と確かに彼女は口にした。しかしケンゴがいくら過去の記憶を辿ろうとも彼女との面識はない。そこに拘泥している場合ではない。今は命の危機だ。必死に頭を働かせ、次の嘘を練る。空気を読むのも、いい嘘つきの条件。
「分かった。おふざけは無しだ」
「賢いわね」
「さっき、ぬえって言ったろ」
「えぇ」
「あいつだ。あいつが現れて、何もかも奪っていった」
「どうして彼女をかばうようなことを」
「アンタ力加減が下手そうだからな」
「だから、そういう場合じゃ――――待って」
それまでケンゴを見下ろしていた女性は、ずいと顔を寄せた。次の瞬間彼女の顔に浮かんだのは明らかな驚愕。
「違う。でもこんなことって。あなたは一体何者なの?」
「あんたのよく知るところの向江ケンゴだろうさ」
「いいえ、あなたなんか知らない」
「馬鹿にしてる」
彼女の中ではなにかの納得がなされたのだろう。ためらいがちに片手を持ち上げる。アサガオたちが、鎌首をもたげる。花々の先に灯る、剣呑な輝き。
「お、おかしいな。それは俺の知るところ、『下げたらやれ』の合図だよな」
「恨まないでね」
「……マジかよ。なぁ、約束する。何がしたいかイマイチ分からんが、アンタの恐ろしさは十分すぎるほど理解したさ。邪魔には決してならない。だからこの場は見逃してくれ」
「口先三寸が何を言ってもねえ。まったく信頼できないわ」
終わりかッ!
ケンゴは体をこわばらせた。きつくまぶたを閉じる。神経が鋭敏になる。焼かれた足首の痛み、そして羽ばたき。否応にもそれが獲物の死を待つハゲタカを連想させる。しかし、あまりにも大きな羽音だ。女が息を呑む音。青年は薄目を開ける。
「こんなところで、何をしているの?」
銀の光が天から降り注いだ。