「お前、どうして」
これほど生き物が早く動けるということを、ケンゴは知らなかった。
降り立ったぬえと、彼女の手によって人知を超えた鋭さと速さで振るわれる銀色の何か。すべてを粉々に引き裂いていく。ズタズタに切り刻まれていくベッドを背に、それでも襲撃者の女は涼しい顔で佇んでいた。全くの無傷だ。
彼女の指が、攻撃の命令が、静かに下される。
「驚かせてくれるかしら」
アサガオの花弁から、一斉に電撃が迸った。ぬえの前面で四散する。余波でケンゴの家はスポンジのように穴だらけにされたが、ぬえとケンゴは無傷だ。彼女が展開した何らかの障壁越しに伝わる熱波が、その攻撃の秘める威力を物語っていた。
日傘が宙を舞う。その先端で収束する光線。
「掴まって」
胃袋がぎゅうと締め付けられるような衝撃。
縦横に光条が走る。千々に裂かれる瓦屋根。穴からあさがおの蔓が這い出してくる。
気づけばケンゴは高空を舞っていた。左手でケンゴを鷲掴みにしたまま、ぬえはもう片手で無数の光条を放った。一見てんでばらばらの方向に散った光線が、空中で弧を描き、捻じれ、一本の銀の槍となってケンゴの家を貫く。
小規模な爆発。天井の穴からキノコ雲を吹き上げ、家は大きく傾いだ。
「俺の家が」
「あのさ、礼の一つも言えないワケ?」
高度二百メートルでの言い合いを止めたのは、朝日のようにまばゆい光だった。ケンゴには、その超自然的な光景がやけにゆっくりと見えた。
通りという通りが輝いていた。それはひまわりが放つものだ。やがて輝きがふたりの網膜を焼かんばかりになったとき、ひまわりが一斉に首をかしげた。
ケンゴの耳元。風切り音と地表の不気味な唸りを縫って、あの女の声が聞こえた。
――Over Drive
「やば」
それはぬえの耳にも同様に聞こえていたらしい。
本能的にこれから起ころうとしているコトの『ヤバさ』をケンゴは察知していた。生まれてはじめての二百メートル、生身での自由落下。焼かれた足首のことも含めても、あの輝きの前では霞んでしまうような恐怖体験であった。
――斉唱『レッドスプライト』
青年の脳裏に、諧謔的に笑う女と、死のイメージが交互に明滅した。
空気が震え、叫ぶ。
ひまわりの花弁から炸裂したものは無数の光弾。必殺の威力が隙間なく敷き詰められた反則級の一撃。音もなく迫る光弾の持つあまりの密度。それがめまいを引き起こす。あまりにも早すぎる夜明けだ。
ぬえはケンゴを抱えたまま、くるりと体を翻す。その意図するところは察しの悪いケンゴにも分かった。金属的な硬質の翼と、光を散らす障壁。あとはぬえの体でどこまで耐えられるか、ということだ。
「大丈夫」
彼女の押し殺した苦悶。
着弾は妙な感覚だった。ケンゴが初めに感じたものは、背後に回されたぬえの手がきつく握り締められる感触。そして、内蔵が置き去りにされるかのような落下感であった。
天地が何度も入れ替わり、全身の骨を粉々に砕かれるような衝撃。ケンゴの視界で星が散った。それをきっかけに、音も光も、すべてが遠くなる。
「きっと大丈夫だよ、ケンゴ」
信じられないことに、ぬえは笑っていた。薄く切れた彼女の頬に滲む血が、やけに鮮烈に青年の網膜に焼き付く。
燃える彗星のような勢いで落下したふたりは、地面に激突しても尚、アスファルトを削って転がり続けた。二人をつなぎ止めていた手が離される。空中にケンゴは投げ出され、束の間、焼け野原と化した建設現場を見た。
遠ざかりつつある、ぬえの顔。そこにケンゴはどこかの誰かの面影を見た。
「が」
走馬灯の世界から青年を引き戻したのは、鉄柱の強かな一撃だった。脳が揺れる。今度こそ世界は溶暗し、彼には何も見えなくなった。
彼が意識を手放す寸前、ひどく懐かしい匂いが鼻先を掠めた。