東方百花境(完結)   作:おぴゃん

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第2章 『虚構の王国』
1.親子


「いいかケンゴ。『いかに優れたレシピであっても、最良の材料を最高の料理人が使ってやらなければ意味がない』と。遺伝学の祖メンデルはかく言ったそうだ」

「へー、すごいっすね」

 

 二人の間には強烈な香辛料の香りを立ち上らせる大皿。よそわれた肉と豆のペーストを薄いパンで挟む。教授はいつも、研究室を訪れる者に豆料理をふるまう。それが彼なりにメンデルへ払う敬意らしいのだが、ケンゴにとっては研究で余った豆の処理に使われている気がしないでもない。

 

「だからこうしてウマいチリが食えることを、俺に感謝するべきだろうそうだろう。厳選した素材と人類最高のレシピ、そして俺」

「へー、すごいっすね」

 

 H大学の研究棟の一室ではケンゴと教授が顔を突き合わせて豆料理に箸を進めていた。扇風機の回る音。棚に並べられた大量の植物標本と古書の数々。床に敷かれたゴザの上にもそれらがはみ出してきている。学生が数人いればそれだけで手狭になりかねない空間。それでも妙に居心地がいいのはここの主の人柄ゆえだろうか。

 

「そういえばッスけど」

 

 勝手に冷蔵庫から取り出した炭酸水を飲みつつ、ケンゴは思い出したように口を開いた。

 

「うん」

「ぬえって言葉、知ってます?」

「妖怪だろ」

「そうなんスか?」

「なんだ、知らなかったのか」

「もったいぶらないで教えてくださいよ」

「おいおい、俺の専門は植物学だぞ」

「そうですけど。でも、教授頭いいから説明できるでしょ。教授だし」

 

 空になったタバコのパックを潰して、教授はちびた最後の一本を惜しむように吸い込む。しばらくして二、三枚のレポートをレターケースから取り出すと、携帯を並べてぽつぽつと話し始める。片手ではレポートの添削を器用に進めている。

 

「頭がサルで、体は虎、尾は蛇の化け物だ。ちなみに鳴き声はスズメの親戚のトラツグミに似ているとかいないとか。平家物語にも出るから、妖怪としてはワリと有名だし古参のほうだろうが」

「なんか、キメラみたいスね」

「確かにな。でも鵺をキメラと訳すると、少々名前負けだ」

 

 事実、鵺という妖怪は弱い。少なくとも、それほど肉弾戦には強くない。

 唯一の害が二条天皇を病気にしたことだが、これは鵺が毎晩のように庭に現れて煙をまき散らし、不気味な鳴き声を発したところ、

 

「何あの鳴き声。何あのきっしょい煙。もうね、朕ね、気になって気になって眠れない。夜も眠れなくて、昼寝」

 

 と勝手に寝込み始めたのがコトの真相なのであった。あまりにヘボい悪事であったが、二条天皇はなかなか目覚めない。そこで側近の一人がこう進言したという。

 

「弓あれば鵺なんてイチコロっすよ。強武器を強キャラに使わせりゃ、こりゃ勝確っすね」

 

 そして退治に頼政がやってくるなり煙を吹いて抵抗するも、矢の一撃で叩き落とされ、起き攻めのメッタ刺しであえなく昇天。古典の世界から姿を消すことになる。

 イタズラしていたらいつの間にか死んでいた。そこがぬえらしいとケンゴは思うが、この状況で笑えたものではない。植物を操り、怪しげな光線と高速移動で迫る相手との戦いにいくらの勝機を見込めるだろうか。ケンゴは思わずこめかみを抑える。

 

「つまり弱いんすね、めっちゃ」

「せめて未知数と言ってやれ。マナーだぞ」

 

 ただし、と教授は付け加える。

 

「この怪物、実は頼政の母だったという説もある」

 

 

 

 

 鵺は肉弾戦には強くない。

 だが、それはあくまで人類の規格外の存在を相手にした場合に限る。ちょっとやそっと鍛えたくらいの人間が野獣に勝てないのと同様に、グラウンドで繰り広げられた一戦も、妖怪と人間の圧倒的な差を見せつける結果に終わった。

 

「うむ、精進せよ」

 

 ラグビーボールを片手に、偉そうに腕組みするぬえの前方には全身をプロテクターに包んだ男たちが読んで字のごとく山積みになっていた。H大学の男子ラグビー部にとって暗黒の一時間はこうして終わりを迎えた。

 

『まーぜて』

 

 総がかりでたった一人の少女に片手で押し返された恐怖をバネに再起した彼らは、地獄の合宿やくんずほぐれつの部内恋愛五角関係を経て翌年のトーナメントで華々しい成績を残すことになるのだが、それは別の話。

 

「たっちだうん、だっけ。あれいいね。響きが」

 

 彼らから受講料としてせしめた五百円玉でアイスを買い、ぬえはグラウンドと売店をつなぐ石段に腰かけた。午後三時くらいになると、ここが良い木陰になる。教授の研究室でこっそりと暮らし始めて二日。もう、学内はぬえの庭である。

 

「今夜かあ」

 

 足元にすり寄った野良猫をあやしつつ、ぬえは木陰から差し込む日光に掌を透かして見る。

 初めは取り乱していたケンゴも、時間が経つにつれ落ち着きを取り戻していった。相変わらず口を開けばイヤミと皮肉、たまに恨み言であったが、ぬえはそれでいいと思う。それがぬえのよく知るケンゴだ。

 あとは何とかして日傘の女を倒せばいい。三日の猶予は無意味ではなかった。

 

「ちょっといいかな」

 

 ぬえの背後に立つ影。驚いた猫が小さく鳴いて去っていく。

 

「でか」

 

 大きな男だった。ぬえが小人に見えるくらいには。

 晩夏の日差しの中、スーツの上下をかっちりと着込んだ男は、出張帰りなのかこれまた大きなキャリーバッグを手に持っていた。汗の一つもかかずに。真っ黒な影法師のように佇む姿は、ぬえよりも妖怪じみて見える。

 

「道案内を頼みたいんだが」

「案内? いいけど。どこ?」

 

 男が告げたのは研究棟の一角。不思議そうにぬえは男を見上げた。

 

 

 

「平家への復讐を遂げたい。息子に華を持たせたい。そして、彼女の願いは叶った」

 

 息子に討たれることで武功をたてさせた彼女は、その手傷が原因で死んだともいう。

 母。ケンゴにとっては、すでに遠い存在の名前だ。ともすれば彼女の立ち居振る舞いも忘れてしまいそうなほどに。いつからここまで薄情な息子になってしまったのか、当のケンゴも思い出せない。ただ、頼政のことがどうしようもなく気にかかった。彼は自分が討った相手が母だと気づくことがあったのだろうか。

 殺した怪物の首を母とも知らずに高々と掲げたのか、

 それとも、涙を呑んで母だったものを粉々に切り刻んでいったのか。

 

 いずれにせよ、どうしようもなく空しい結末であったことに変わりはない。

 彼が目にしてきたぬえには、母の貫録など何一つなかった。ただの少女だ。どうやら妖怪であるらしい、という一点を除いては。

 

「ま、しょせん一説に過ぎないからな」

 

 しばらく机を引っ掻き回していた教授が小さく声を上げた。どうやら、買っておいて忘れたタバコのカートンを発掘したようだ。

 

「にしても教授、詳しいんスね。植物学じゃなくても食ってけるんじゃないスか?」

「いや」

 

 教授はそれまで手元に置いていた携帯を操作しつつほくそ笑む。

 

「ウィキペディア先生だよ」

「ひでえ。本当に教授か」

「信じられんよな」

 

 どちらからとなく、くつくつと笑い始める。笑いの発作が治まるまで、だいぶ時間を要した。 

 

 

「懐かしいっすね、なんだか」

 

 教授は手を休めた。

 

「お前がぶっ壊した標本、忘れちゃいないだろうな」

「そんなことありましたっけ?」

「悪ガキめ」

 

 渋い顔でレポートに判を押しつつ、教授の声色にも昔を懐かしむ響きがあった。ケンゴにとって、この研究室は幼少の思い出と切っても切れないものだ。仕事であちこちを飛び回りっぱなしの父。幾度も母に手を引かれてここに連れられてきた記憶。

 

「お前、はじめは泣いてばかりいたよな」

「だって教授ヒゲモジャで怖かったからさ。なんか悪いモリゾーみたいで」

「嘘こけ。寂しかったんだろ?」

「寂しかないスよ」

「あーあー、あの頃もそう言って強がっていたよな。でも、決まって夕方になると母ちゃん母ちゃんって言って俺に泣きついて」

「や、やめろー」

 

 教授のけたたましい笑い声と、ケンゴの半ば悲鳴と化した叫び。どっすんばったんと騒がしい研究室の様子は、他の研究室の学生たちが思わず廊下に顔を出すほど。当然彼らの視線はタオルを首にかけて研究室を目指すぬえと男にも浴びせられる。

 

「ねえ、キミあの研究室の学生さん?」

「へ、あぁ、まぁね」

「もうちょっと静かにしてもらっていいかな」

 

 今まさにその扉に手をかけようとしていたぬえを隣の研究室の学生が呼び止めた。要件だけ伝えてさっさと行ってしまう。どうして私が、と理不尽さに打ちひしがれながらドアを開け放つ。

 

「ちょっとアンタら――なに、してんの?」

 

 複雑な体勢で絡み合う野郎二匹を前に、ぬえの怒りは完全にしぼんでしまった。

 

「何って、コブラツイスト」

「おい、ちょっと。見てないで助け」

 

 ケンゴの視線が、ぬえの後ろに佇む男を捉えた。あまりに大柄すぎる男は、窮屈そうに身をかがめて研究室の様子をうかがっている。そして、ケンゴと男の視線が交錯した。

 

「ケンゴ、町を出るぞ」

「今さらどのツラ下げて出てきやがった」

 

 教授を振りほどいて、ケンゴは男を攻撃的に睨み付ける。鋭い舌打ちに、ぬえがわずかに目を細めた。

 

 

「オヤジ」

 

 

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