ぬえは目を細めた。なまじ日傘の女と相対したときよりもイヤな空気が、この親子の間には充満している。そろそろと壁伝いに移動し、流しに向かう教授の隣に立つ。蛇口からちょろちょろと流れ続ける水はそのままだったが、泡にまみれた食器を持つ彼の手は止まっていた。
「しーっ」
ぬえを脇目に、彼は唇に指を当てる。
その仕草はぬえがもといた世界ではあまり一般的なものではない。ので、聞いた。
「それどういう意味?」
「ちょっと空気読もうなお嬢ちゃんって意味さ」
「あぁ、なるほどね」
気の抜けたようなやり取りを意に介せず、巌のような男はキャリーケースを床に降ろす。何が入っているのか、それだけで板張りの床が小さく軋みを上げた。
「荷物をまとめてこい、ケンゴ。この町を出る」
ケンゴが父と呼ぶ人物は静かに繰り返した。
「……今さら出てきておいて、何抜かしやがんだ」
ぬえは驚きを隠せない。これまでと同じように、相手が悪ければすぐに屈するものと思っていた。それか、嘘でその場を取り繕うことを試みるか。大柄な父に臆さず立ち向かうケンゴの目には、ただ、ぎらぎらと怒りが燃えている。
「時間が無い。すぐ町を出る。お前に見せたいものがある」
「ふざけんなよ」
ぬえからはケンゴの背中が良く見える。掌に食い込んだ爪が、真っ白になっているのも。その首筋を流れ落ちる、大粒の汗も。教授は肘でぬえを小突いた。不満げに鼻を鳴らしたぬえに、ケンゴから目を逸らすよう顎をしゃくった。
「なぁ、母さん死んだぜ。知ってるか?」
「当たり前だ」
「こりゃ意外だ。葬式にも出ないくせに、ずいぶんと耳ざとい」
「外せない用事があった」
同じだ。追いつめられた時の嘘でさえも。
気づいて、ケンゴは一層きつく拳を握り込む。
「キョウコがいなくなって辛いのは俺も同じだ。気持ちは分かるが、
誰かに当たったところで何も解決しないぞ」
「それが俺と母さんを放ったらかしにしたヤツの言葉かよ。ありがたくて涙が出るね」
「いつだってお前たちを大事に思っている」
「この大ウソつき野郎が」
ケンゴは冷笑した。ぞっとする笑いだった。馬鹿にするような気色の裏に、諦めたような響きがあった。
「でも、よかったなオヤジ。アンタのガキは父親似だ。つくづくな」
ふらりと歩み出た青年を押しとどめようとして、父はやはり道を譲った。
肩をなするように父親にぶつけると、ケンゴは西日が突き刺すように照らす廊下へと出ていった。後に残されたのは父と教授、ぬえと、居心地の悪い空気。
バツが悪そうに、大男は教授に頭を下げた。
「挨拶が遅れました。お久しぶりです」
「アキラ、お前変わらんな」
鬼瓦のような男の顔に、一瞬懐かしむような表情が走った。
「それにしても、よくここが分かったもんだ」
「彼女に道案内を頼みまして。ここの学生さんですか?」
「あぁ――そうだよな。な!?」
いつの間にか研究室のドアに手をかけていたぬえは、教授の大声に肩を震わせて振り返った。教授は微かにかぶりを振った。
「それにしても随分急じゃないか」
「別に引っ越すわけじゃありません。ただしばらく、この町を離れるだけです。最近のひまわり騒動で家もやられてしまって」
「大変なんだねえ」
収束する銀の槍。キノコ雲。
視線を泳がせ始めた妖怪を怪訝そうに一瞥すると、アキラはトランクケースを開けた。大きな包みを取り出す。かすかにガラスの触れ合う音がする。
「長崎の土産です。仕事で蔵を見に行ったので、そのついでに」
荷をほどくアキラの背中越しに、教授は廊下を一瞥した。
「ケンゴは。追わなくていいのか?」
「ま、いいでしょう。あれはあれで、何か考えがあるはずだ」
教授は眉をひそめた。
「だろうが、お前の息子だろう」
「教授、あなたはずいぶん変わられましたね」
「そうかね」
ええ、と。短い返事。
「どうも今日は都合が悪い。また日を改めて伺いますよ。キョウコの話は、その時にでも」
心持ち大股に去っていく男の背中を見送って、教授はゴザに腰を下ろした。ポケットから煙草を取り出し、ライターを口元に運ぶ。もじゃもじゃの髭が赤く照らされる。気づけば、研究室は薄暮のかげりに閉ざされている。
「おっかね」
「教授、もう行ってもいい?」
「ダメだ」
「どうしてさ」
「そもそもお前、ケンゴの何なんだ?」
教授は標本を手に取りつつ、浮かんだ煙の形を目で追いかける。ゆるゆると螺旋を描きながら天井に渦巻く煙。
「親戚でも、恋人というわけでもない。だが何かあいつとの間にある。なんというか、腐れ縁みたいなものが」
「デリカシー、ないね」
「お嬢ちゃんが何者だろうが構わんがね。せいぜい、ケンゴと仲良くしてやってくれ」
「じゃあ行かせてよ」
「ああいうのはしばらく放っておいてやれ」
そんな場合じゃない。ケンゴの時間は限られている。
さっさと飛び出していこうかとぬえが悩んでいると、これまた大柄な影が廊下から現れた。不思議そうに廊下の先を見つめつつ、彼は問う。
「センセ、あいつどうしたんだ」
ケンゴの叔父だった。
「怒らせちった」
「やれやれ。せっかく三人で酒が飲めると思ったんだがな」
教授が肩をすくめると、叔父は清酒の瓶を掲げた。アキラの置いていった包みの中身も、色とりどりの酒瓶だった。ぱっと、ぬえが顔を輝かせる。
「お酒! まぜてまぜて!」
「お、飲めるクチかい?」
「キミ、どう見ても未成年だろ」
「お前とアキラだって一年目からさんざ飲んでたじゃねえか」
「ねえねえ、どうせ一人足んないんだし、いいでしょ?」
それじゃあ一杯だけな、と叔父が注いでくれたのはグラスの半分もいかない量。一方氷を浮かせたグラスになみなみと酒を躍らせながら早くもあたりめを炙り始めた二人を恨めしげに見上げる。
「けちくそ」
ケンゴは一度だけ研究棟を振り返ると歩き始めた。大学の構内は昔から知り尽くしている。やたら熱を入れて練習に打ち込むラグビー部を尻目にぶらぶらと歩く。シャツの上からアサガオを探る。細い蔦が襟元から伸びてくると、邪険にその手を振り払った。
「ふざけやがって」
はじめは引きちぎって踏みにじってやろうかとも思った。
だが、日傘の女がみすみす手下を死なせるようなことをするとも思えない。このアサガオは、その気になれば人間の一人や二人、簡単にねじ伏せるだけの力があるのだろう。
「ねえ?」
すれ違った一団の最後尾、萌黄の着物を纏った女生徒に呼び止められる。
墨の香りがした。脇に抱えられた膨大な巻紙と筆の束。書道でもしているのかもしれない。彼女を置いて、先を行く二人はずんずん進んでいく。特に小柄な影。その足元に、数匹の猫が遊んでいる。
「そんな暗い顔して、どうしたワケ?」
「ほっといてくれませんか。生まれつきなんで」
「面白いね、キミ」
片手で椿の髪飾りを直しながら、彼女は膝を使って器用に紙巻を整えていく。
「もうちょっと楽しそうに生きてみればいいんじゃない」
「そういうあなたはどうなんです」
「もちろん楽しんでるわ。命短しナニせよ乙女、ってね?」
別に今日明日死ぬわけじゃないでしょ、とくすくす笑って女はその場を後にした。つくづく余計なお世話だと思う。ヘタを打てば明日の朝日を待たずに死ぬ身にとってはなおさらに。