ある朝だった。
あまりに静かな夜明け。学校は休みだ。九歳の少年は考えた。今日は何をしようか、そういえば夏休みはそろそろ終わりだ。まとめてアサガオの観察でもしようか、なんて考えながら居間へと降りていく。そうだ、オヤジに頼んで、プールを出してもらう。
「オヤジは?」
「あぁ、うん。出ていったよ」
少し困ったように、母は笑った。こんな時でも嘘はつけないのかよ、と。ケンゴは今さらながらに思う。まぶしい縁側と、明後日の方向に風を送る扇風機が、やけに記憶に残っている。
「きっと、うまくいくさ」
はじめの一週間は何も変わらなかった。朝は好きな番組が見れた。気が向いたときは学校を休んで、母と一緒にいろいろな場所に行った。楽しかった。とにかく、町はずれの遊園地がお気に入りだった。
露天の綿飴がまぶしかった。母に贈れば、幾ばくかの笑顔を引き出せるとは思ったが、小学生にとって、それはまさに雲とおなじくらい遠い存在だった。
「なぁケンゴ」
すべてが変わったのは、しばらくしてからだ。
おそらく当時は一番仲の良かった友達だったと思う。足が速かった。それ以上に、彼の口から吐き出されたウワサは早く走った。彼はある日の昼休みに、とてとてと走ってきて、歯の欠けた口でひどく残酷なことを聞いた。
「お前の父ちゃん、どこ行っちゃったんだ?」
困ったなぁ、と思った。
それ以上に困ったことになったのは、十七の晩夏のことだ。母が死んで、見知らぬ少女がやってきて、日傘の女に死刑宣告され、おまけに胸に殺人アサガオを植え付けられた。おおよそ常人なら詰みと評すほかない状況。
「もう少しぬえが使えるやつだったらな」
と、ぼやいたところで状況は好転しない。ついに見捨てられたか、とも思う。ケンゴは肩を落として町をさまよった。不思議なもので、こうして破滅へと緩やかに続いている時間を階段のように上っていると、もう一段先があるのかもしれない、と思ってしまう。そして、その天頂ではだいたい派手に足元を狂わせることになる。
死にウソは通用しない。
『いつだってお前たちを大切に思っている』
父の言葉。
『アンタの息子は、オヤジ似だよ。つくづく』
己の言葉。
『きっと大丈夫だよ、ケンゴ』
ぬえの――言葉、だったろうか。
軽く首をひねって、ケンゴはバスに乗る。特に理由は無い。だが、自分の死に場所だけは決めておきたいような気がしていた。埃臭いシートに腰かけると、乗客は自分一人だった。妙に冷房が心地よい。夕日に目を細めるだけで、速やかに眠りは訪れた。窓の外を流れるひまわり。そして、入道雲。
◆◆◆
「あぁ。シュッチョーってやつ。アメリカ行ったんだよ、オヤジ」
「へええ!」
そいつ、今となっては名前の思い出しようもないケンゴの旧友は、目をまん丸にして驚いた。それからはいろいろとうるさかったことだけは覚えている。アメリカってコーラが水道に流れてるんだぜ、とか、オレにもお土産あるかなあ、とか。
もちろんケンゴの語るアメリカも、友人の語るアメリカも、実在はしない。
「なら」
なら、お前のオヤジもアメリカに行っちまえばいいのにな、と。
口を飛び出しかけた言葉を押しとどめて、小さな嘘を吐く。
「なら、オヤジに頼んでみるよ」
ケンゴは月曜日の訪れがイヤでイヤで仕方がなかった。学校に隕石が落ちろと思った。金曜日だ。階段はまだ、三段残っている。よしよし。
で、泣いた。
階段はもう、上りつくした。目の前には千尋の谷が口を開けている。どれだけ目を凝らそうとも、もう一段が見えてこない。
夜ごとに家の前の段差に腰かけ、近づくヘッドライトに胸を高鳴らせた。手を振って飛び出す。たいていは通り過ぎるか、クラクションを一つ鳴らして通り過ぎる。止まった車があったかと思えば叔父で、地蔵のように頑として動かないケンゴを力づくで風呂に入れ、力づくで床に放り込むと、長いこと居間でキョウコと話していたようだった。
「分からず屋め」
「うるさいな」
「思いつめるんじゃないぞ。ケンゴもいる」
「考え過ぎだってば」
夜明けも近くなったころ。叔父の車のテールランプが坂の向こうに消えたのを見て、幼いケンゴは親指を下げた。そうするとカッコいいし、胸がスカッとするような気がする。が、叔父が万一見ていたら怖いので、小さくやった。
布団を抜け出して、居間を横切る。彼の母はもう寝たか、出かけたのか。
再び段差に腰かけて、父を待つ。夜が明ける。月曜がやってくる。
学んだ。この世には神も仏も、優しい父親もいないのだということを。そして、
「大丈夫」
母だった。背後から回された手に頬を寄せ、母の匂いを吸い込む。
「きっと大丈夫だよ。ケンゴ」
泣いているのかも、起こっているのかも、笑っているのかも。母の声からは察しようもないことだった。
ケンゴは学んだ。もう父はいらない。そして、母を、自分を守れるのは、自分だけだということに。
――――そうだろ?
だから、嘘を吐くのさ。
「おい、嘘つき」
背中に突き刺さった言葉を意に介さず、微笑みすら浮かべてケンゴは振り返った。歯の欠けた口が邪悪にねじまがって見える。数人の取り巻き。
「お前の家見てきたけど、父ちゃんの車、なかったぞ」
「それは」
「うるせえな。俺のおみやげ、どうしたんだよ」
ばかだのあほだの、足がくさいだの、投げかけられる言葉をケンゴは甘んじて受け続けた。ずっと笑っていた。そして、唐突にくずおれる。くずおれて見せた。しばらく号泣し、クラスメートたちの注意をひきつけ、そいつにとびかかり、胸ぐらをつかみ上げる。
何度も練習したセリフを、ぶちまける。
「俺のオヤジ、死んじまったんだよ!」
この人でなし、と叫んだような気がした。叫んだ。
「飛行機が落っこちて、オヤジは黒焦げだ。お前のおみやげとやらも全部燃えたさ。なぁ、満足か? これで、満足、か!?」
「お、俺」
だれかに取り押さえられて、廊下を引きずられていく。耳元で何か言われていたが、そんなことはよく覚えていない。ずっと、笑いを押し殺していた。
ひとでなし、と。背後から聞こえる。
意味は分からずとも、その言葉のもつリズムの良さだけは、すぐに広がっていった。
ひとでなし、ひとでなし、ひとでなし――
輪の中心にいるのは、あいつだった。
嘘をつけばいくらでも強くなれる。
翌日からそいつの机は教室の端へ端へと追いやられていって。掃除用具入れのロッカーが席になる前に、そいつはいなくなった。夕日の中、そいつの机に刻まれた文字をなぞりながら、最後まで足の速いやつだ、と思った。
それからスキップして家に帰って、それから遊園地に行くことを母にせがんだのだ。
◆◆◆
きついブレーキが青年を揺り動かした。外はすっかり暗く、泡を食ってケンゴは腕時計を確認する。時刻は午前二時。約束の刻限まで、まだ一時間ある。とにかくバスに乗り続けというのはよくない。乗車券をねじ込んで、ステップに足をかける。
「お客さん」
運転手が差し出したものを見て、ケンゴは面食らった。
「忘れものですよ」
ふかふかの、作り立ての綿飴だった。
「あぁ」
素直に受け取って、降りる。まじまじと見つめてもどうしようもないので、一口つけてみた。甘い。脳の芯に響くようだ。
振り返ると、そこには宵闇の中に無数のひまわりが揺れているだけ。日傘の女が撒いたヒマワリのおかげで、未だに交通は滞っているというのに。そもそも、深夜の二時に走る市バスなど、聞いたこともない。
ケンゴは無意識に綿飴を口に含む。
やはり、甘い。
めまいがするほどに。
◆◆◆
遊園地に行って、母とサーカスを見る。何とかという海外の有名な曲芸団が来ていて、みんなステージに釘付けだった。もちろんケンゴも夢中で曲芸を眺めていた。ステージ脇、謎めいた扉に気づくまでは。
重い鉄扉を押し開けると、そこはまさに魔法の国だった。魔法の国はメンテナンス通路と呼ぶ。後々知ったことだったが。
とにかく、ぼんやりとした照明を頼りに歩くうちサーカスのことなどどうでもよくなった。そのうちに扉が見えたので、開ける。メインストリートに顔を出した瞬間、魔法は解けた。
だが。第二の魔法が待っていたのだ。通りには多くの露店が並んでいたが、ケンゴは植込みの影。おまけに、すべての露店の背後にいた。完全なる死角。目の前には綿飴。なので、盗んだ。
「これ、どうしたの?」
母はケンゴの差し出した綿飴を前に、目をぱちくりさせた。
「もらった」
三つ目の魔法。
「そう」
その晩、母が泣く姿を初めて見た。
それからしばらくして父が帰ってきて、ケンゴの家は元通りになった。クラスメートたちに、落ちた飛行機は別の便で、黒焦げの男も別人だったと言うと、喜んでくれた。
よかったね、と。ひどく滑稽に思えた。
それからも、魔法は使い続けた。
「 」
「母さん、俺、カノジョができたんだ」
「オヤジにほめられたよ」 「信じなくてもいいけどさ、俺」
「 」
「ごめん、財布、落とした」
「三者面談、日付が変わってさ」 「 」
「外せない用事があって」
「 」 「俺だって予定ってのがあるのさ」
「マジで感謝してるよ、母さん」
母は泣いていた。ずっと、泣いていた。