叔父がつぶれていた。教授は長いこと彼の上に腰かけていたが、研究室の端でちびちびと日本酒を進めるぬえに気づいて、腰を上げた。叔父が小さく呻いた。教授は散らばった缶や瓶で足元をもつれさせつつ、冷蔵庫の扉を開ける。
「やめときなよ、もう」
開きかけた扉を、ぬえは足を使って器用に閉めた。
「お前こそ、そんなに飲んで、どうする気だ」
扉に頭を挟まれたままの教授の、くぐもった声。
「勢いをつけてる」
「なんの」
「ちょっと、ケンカしなきゃいけないから」
「ケンゴか」
教授は声を上げて笑った。ぬえは無言で次の瓶に手を伸ばした。彼女の傍らに並べられた瓶は相当な数で、それでも彼女は平然と瓶を干していく。酔っていない、というよりは酔えないという風であった。
「ちがう」
「お前から見て、ケンゴはどんな男だ?」
「すっごくイヤなヤツ」
また、教授は笑う。また、ぬえは次の瓶を開ける。
「なんなら金輪際会わなければいい。そういうもんだろ」
「そんなに簡単なもんじゃないよ」
それに、とぬえは呟いた。
「なんかさ、私と似てるんだよね。あいつじゃないとどーしようもない問題があるっていうのも、大きいんだけどさ」
「似てるう?」
「なんとなくだよ。なんとなく」
彼女は時計を見た。ケンゴのもとに日傘の女が現れるまで、残りわずかだ。ケンゴの言葉を信じるとするならば、だが。
日傘の女が途方もない力を持っていることは分かる。従う花々と、なによりこの世界から愛されているということも、なんとなくは。それに比べて、ぬえが持てるものは、並外れの頑丈さくらいだ。
「教授、知恵が欲しいんだけどさ」
「言うだけ言ってみろ」
「ノミが象を倒す方法ってある?」
げっぷを一つ、教授はぬえの隣に腰を下ろす。
「お前らさ、俺の専門分野外のことばかり聞いてくんのな。そういうところは似てると思う――――相手が象なら、そもそも戦わないべきだろう」
「じゃあ、じゃあ、家があったとしようよ。ノミの大家族。象の足元に、家族がいる」
「背中が痒くなってきた。なおさら死んでほしいね」
彼はとどめのような一言を放ってから、どことなく思いつめた様子のぬえに気づいたようだった。
「チマチマ攻撃したんじゃムリだろうな。でもノミにだって強みはある。強力な毒があるかもしれないし、伝染病を媒介するかもしれない。大事なのは搦め手だ」
「そもそも牙が通らないかもしれない」
「いくら象でも皮膚の薄い部分ならいくらでもあるだろう。それに、家族はどうしてるんだ。奴らを動員しろ。目を突かせろ、鼻を詰まらせてやれ。ヤツらをおとりにして、急所を見分けろ。で、その時が来たら一気に畳みかける」
「本末転倒だよ」
「全滅よりはいい」
時間の流れが遅い。壁の時計と隣の教授を交互に見つめつつ、ぬえは瓶に手を伸ばし、そして、止める。叔父のいびき。静まり返った窓の外。かすかなアサガオの香。
「教授から見て、ケンゴはどんなヤツなのさ?」
「めっちゃイヤなヤツ」
「はは」
雨の日。研究室を訪れたキョウコの隣に、黄色い合羽を着た少年がいた。疲れをおして、精一杯のスマイルを形作って手を振る。少年は伸び放題のゴマヒゲを指さし、
『きったね』
ただでさえ論文添削で追い込まれているところに、その一言は効いた。
『クソガキぁ』
デスクチェアを振り回して少年を追い掛け回すこと小一時間。気づけば学校前のバス停。筋骨隆々の体育会系たちに取り押さえられ、大学の方から鎮静剤を手に満面の笑みで駆けてくる保健委員を茫然と見つめていた。
遠巻きにコトの顛末を見守る野次馬の列、黄色い合羽を見付けるのは容易かった。指を差して笑い転げる少年を見付けた瞬間、大男たちが空を飛んだ。キョウコが頭を抱える。
――あの瞬間論文とかどうでもよくなった。とにかくその場であのガキを捻り潰すのが地球人類としての俺の義務だし、ノーベル平和賞への近道だと思ったね。
と、のちに教授は語ったという。
翌年二月に発表された彼の手による『向江ケンゴを懲らしめる11の方法』は珠玉の出来であったが、彼の専門分野とはまったく関係のないものである上、極度に感情的な内容であると評され、差し戻された。
それからもうしばらく、彼は准教授の座にとどまることとなる。
「思い出したら腹立ってきた」
冷蔵庫は依然としてぬえが抑えている。空瓶の底にたまったしずくを集めて飲もうとする教授だったが、いかんせん酔っぱらいの腕では高い酒をゴザにこぼすのが関の山だった。
「ケンゴの嘘はさ、いつから始まったの?」
ぬえは教授をちらりと見る。
「あいつの家がちょっとゴタついた時期があって、」
「ゴタついた?」
「アキラのやつが――ま、どんな家庭でもある問題だろ。とにかくしばらくはケンゴにとって辛いことばっかだった、みたいだな」
「家庭ね」
生きた時間だけで考えるならば、妖怪の少女は歴史を見てきたと言っても過言ではない。近しい人間も、妖怪も、数多く得てきた。それでも、家庭というものは未だによくわからない。大抵は通り過ぎるように、皆消えていった。
「よくわからないや」
「ガキが一丁前に何を言うんだか」
「こう見えても応仁の乱の前から生きてるんですケド」
「……水、飲むか?」
「酔ってないわい」
脇腹に突き立った矢と、寸断された四肢の感覚が、ぬえが眠りに落ちる前の最後の記憶だ。もはや何のために戦っていたのか、どうしてそうなったのかも覚えてはいないが、ただただ痛かったことだけは覚えている。
『やべえ、死ぬ』
断末魔は情けないものだったが、内心は複雑だったのだ。
『おいおい、ヨリマサ。本当にヤるわけ。そりゃひでえわ』
『気安く俺の名を呼ぶな、アバズレ』
『誰がアバズレだ、誰が』
死にかけた怪異と、神の腕を持つ男の会話もどこか気が抜けていた。ぬえはそれでいいと思った。男は地に伏せった怪異の姿を一瞥して、鼻を鳴らす。
『ふざけた姿だ』
『強そうだろう』
『見た目だけはな』
『上辺だけでどうとでもなることだってある。そんで、それは世の中のほとんどすべてだ』
『哀れな奴』
『うるせえよ、反則野郎』
『天地天明に誓って、正直に生きてきた。これは結果だ。単なる』
『正直に生きたくたって、生きられないやつだっているんだぜ』
『なら、生きるべきではないのかもしれないな』
『吐き気がするくらい、アンタ正直だな』
男は光を放つ弓を畳むと、家来を呼んだ。ものものしい戦装束に身を包んだ男が駆けてきて、邪悪な鋸歯を配された薙刀を振り上げる。
『そういや、お前の正体ってどんな姿なんだ?』
『花も恥じらう乙女になんつーことを言いやがる。見せてやるかってんだ』
『乙女、ね。悪い冗談だろ』
『さっさと殺せよ。なるべく痛まないようにな』
ぎらりと薙刀が光る。男は着物の裾を直しながらゆるゆると歩いて行って、近くの庭石に腰をかけた。家来の男に、顎で指図する。
『隠されると気になるタチでね。幸い、時間はいくらでもある』
気づけば地下百尺に埋め捨てられ、いつ解けるとも知れぬ封印がぬえの頭上にのしかかっていた。封印から覚めると数百年が経っていて。いけ好かない男はさっさと勝ち逃げしていたことを知る。
家族という言葉から、千度殺しても気が収まらないほどの怨敵である彼のことを思い出すとは。ぬえはふっと笑って、天井を見上げる。
――親とか子とか、家族とかさ。そういうのは、よくわかんないんだけどさ。
「でもさ、ケンゴのことは分かるよ」
確か、どこかの化物も、そうだったと思う。
「強くならなきゃいけない時がある。強く見せなきゃいけない時がある」
一部の隙もなく嘘を体に巻き付けていく。自分のついた嘘で自分を焦がし、己をいぶす黒煙の中に身を隠す。つき続けた嘘で、すでに自分が何者であるかも見失っているというのに。それは、まさに。
「わたし、行くよ。お酒ありがとね」
「おいおい、こんな時間に」
すでに彼女の姿は消えていた。室内にはつぶれたオジンと、もうすぐつぶれるオジンが二人きり。ついに華はなくなったか、と新しいビールの缶を開けようとして、教授は耳をそばだてた。
「――――トラツグミの、鳴き声?」
大学の中庭を望む唯一の窓。その外でひどく大きな何かが身をひるがえし、飛び去った。
◆◆◆
ひまわりに見つめられながら、バス停からの長い道のりを歩いた。
そして今、ケンゴは遊園地を前にしている。
廃園が決まったのは、丁度一週間ほど前のこと。母との思い出は、母と共に眠りにつこうとしているのかもしれない、なんて。どうしようもなく感傷的になりながらゲートを乗り越えた。
「あぁ、そうだな」
人のいない園内を歩き、あそこに綿飴屋があったな、などと考えながらテントを目指す。
時計の針は二時半。女との約束まで、まだ時間がある。
「そうだろうとも」
にごったプールと、死んだように頭を垂れた馬たちのメリーゴーラウンド。割れたティーカップの脇をすり抜ける。ケンゴが幼心に見る遊園地は魔法の王国だったが。安っぽい電飾が無ければ、しょせんはこんなものだ。
「葬式に行かなかったんじゃない。行けなかったんだ。母さんの死に顔が恐ろしくて、見れなかったんだ」
つぶれた家から持ち出した、擦り切れたバッグ。弔辞の原稿を取り出し、棄てる。すべて白紙だ。
母は、ケンゴが嘘を吐き始めてから泣くようになった。それだけのことだ。
久しぶりに訪れたサーカスのテントはボロボロで、ところどころで天幕がはがされている。むき出しになった鉄骨。まるで、腹を食い破られた死体のようにも見えるのは、やはり、感傷のためなのだろうか。
テントに入ると、日傘の女はすでに、そこにいた。
「ずいぶん準備がいいな」
「ここだろうとは思っていたわ」
「どういうことだ」
沈黙。
客席にひとり座る女の横を抜け、ケンゴはステージに腰を下ろした。ちょうど、お互い向かい合う構図になる。天幕のところどころ外された頭上からは、スポットライトのように降り注ぐ月明かり。女の日傘が、まるでユウガオのように照り映えている。
ケンゴは女を見つめる。女もケンゴを見つめる。日傘の作る暗がりで、赤い瞳が輝いている。
気が抜けたように、ケンゴは吐息を漏らした。
「疲れた。殺してくれ」
と。
「今度の命乞いは、随分と変わっているわね」
かすれた笑い声。その視線は、歪み切っているのにまっすぐだった。
「お前らが来てから、嫌なものを見せられすぎた。好きにしろよ、もう」
「身勝手ね」
「なら、生かしてくれるのか」
「とんでもない」
「だろうな」
ケンゴが顔を上げると、女は目と鼻の先にいた。花の香り。人の外にいるものが持つ、不気味な美しさ。死神は手を振り上げた。彼女の瞳を見る。赤い瞳。そして、半月の笑う空、その一点に生まれた陰りを。
テントが揺れた。女とケンゴの上に、大小の塵が舞い落ちる。
「ケンゴから離れろ」
月光に照らされた天幕。影絵じみて映し出されたものは、異形の怪物だった。日傘の女はいつもと変わらぬ様子で、
「彼、死にたいってさ。無粋はあなたよ」
天幕の隙間、ちらりと覗いた邪眼が、探るようにケンゴを見つめた。
「だけど、私はケンゴを死なせるわけにはいかないんだ。私の、私たちの幻想郷を救うためには」
「待って。あなた、一体どこまで知って――」
直後、天幕を引き裂いて現れたものについて、説明するのは難しい。おびただしい黒煙を纏って現れたそれの全体像は見えない。頭は猿。体は虎。尾は大蛇。であったように思われる。正体不明の魔獣に常識は通用しない。
煙の中から切れ切れに見える部位が、邪悪な呪詛を唱えながら日傘の女に狙いを澄ましていた。背後のケンゴを一瞥して、吠える。
「そう。やるのね」
客席に降り立った怪物は尾で椅子を蹴散らし、黒煙を吹きあげる。もうもうとした煙の中に爛々と光る眼光が軌跡を描いて女に迫る。
振るわれたものは鋭い牙と爪だ。
コンクリートがゼリーのように削り取られ、破片が飛び散った。日傘がはらりと宙を舞う。月光を浴びて、女の細身が宙に踊り出た。女の手から散弾のように光が放たれる。その度に、黒煙から血しぶきが上がる。
「もういいんだ。もう」
抑揚のない声でケンゴは呟いた。
「痛いだろ、それ?」
ヘビの頭が飛んだ。強烈な毒を含んだ体液がぶちまけられる。鎌首は数度バウンドして転がると、真っ赤な目をぎょろつかせて息絶えた。濁った目の先では、体液を被った天井の鉄骨がじくじくと泡を吹いている。
光弾がケンゴを掠める。今では、死の実感すらあいまいだ。
ただの嘘つきを救うために命を燃やす怪物に目を向ける。
青年がきいた限りの鵺が持つパーツは、ほとんど命を失いテントの中に転がっていた。黒い煙の塊の中には一体、何が残っているのだろうか。
「粘るわね」
傘を日本刀のように振るう、独特の動き。先端から発せられた光刃が黒い煙を切り裂いた。真っ二つに断ち割られた虎の胴体がどさりと落ちる。しかし、片割れは天井高く飛び上がっていた。
日傘の女の動きは冷静だった。襲い来る煙にめがけて日傘を突き出す。先端からは光刃が。
衝撃。
女の日傘を赤い血が伝っていく。
煙が急速に退いていく。頭から背中までを突き抜かれた怪物が、その無残な体を露わにした。湿った音。くずおれる巨体。
返り血を払ってブラウスの襟元を緩めると、日傘の女は踵を返した。
「さて、ケンゴ――何か、気の利いたセリフでもあるかしら?」
ゆっくりと顔を上げて、そして青年は見た。日傘の女の背後に躍り出た、見慣れた姿を。怪物の肉体を切り捨てたぬえは、血まみれの顔にこれまでにないくらいの凶悪さを張り付けていた。
女の反応が一瞬遅れる。女の背に馬乗りになり、ぬえは高らかに吠えた。
「タッチダウン、だ!」
天井。そこにいつからあったのか、巨大な鉄杭が見える。
転がったヘビの頭。ケンゴには、すでに生気を失しているはずの異形が勝ちほこった笑みを浮かべているように見えた。毒牙から、毒の一滴がしたたり落ちる。床は一瞬にしてボロボロに腐食し、切り立った断面をのぞかせる。
女は驚愕に目を見開いた。
「あなた、正気!?」
「まさか!」
もがく女の首筋に、ぬえが鋭い牙を突き立てる。女が絶叫する。ケンゴが腰を上げる。
二人の頭上で揺れる鉄柱。その頼りなさすぎる付け根で、小さく火が点った。ぬえの目がケンゴを捉える。傷だらけの少女は。
――――きっと大丈夫だよ、ケンゴ。
ケンゴは走り出す。鉄杭が落ちる。今さらになって、やっとわかった。彼女を見るたびに脳裏をよぎる面影。その正体に。
鉄杭が深々と突き刺さる。地面が揺れる。戦いの余波で破壊されつくしたテントは内側に飲み込まれるように崩れていき、最期の一息のように黒煙を噴いた。
◆◆◆
しばしの静寂。そして、はるか上空で月を背負って浮かぶ日傘の女。首筋に指を這わせて、ぬえの噛み跡に触れ、顔をしかめる。だがそれは傷の痛みが引き起こしたものではない。
「……あなた、本当に何者?」
向江ケンゴ、と名乗る青年が放つ圧倒的な違和感。
彼女の知るケンゴは、あの土壇場で飛び出すことなどしなかったろうに。誰も彼をも犠牲にして、犠牲者たちの上で両手をついて命乞いをするような、生き汚さ。だからこそ、あの行動にいささか面食らった。
「追いつめてあげる」
首。一筋の赤を残して、もう傷はふさがっている。
「もっともっと、激しく追いつめてあげれば、その化けの皮もすぐ剥がれるかしら?」
ふわりと、彼女の手からきらめく粒が振りまかれた。それは種だ。彼らはこの廃墟で静かに芽吹き、そして地中深くへと根を伸ばす。