黒に染められた天蓋にばら撒かれた砂粒のような星々は、無限のように広がり、衣にその姿を晒してくる。
衣に宇へぶちまけられた光のつぶを、繋げ合わせる知識はない。衣はただそれを実感なく眺めるだけだ。別館テラスに備えられたテーブルに突っ伏しながら、うつらうつらと星を見つめている。
星の姿に変化はない。時刻はすでに数刻も時を刻んだはずだ。それでも衣には、そんな世界の変化を感じ取れずにいた。
この場所にいるのも、宇のスクロールが、衣を時の流れに誘うことを期待してのものだったのだが。
――衣の住まう時間は些か牛歩気味のようだ、宇の変化を目ざとく察知することは出来ず、衣は退屈そうにあくびを漏らした。
眠気も十分に、衣を支配しているように見える。
(……月は、どうだ?)
何の目的も持たず揺らしていた視線をそっと意思を持って移動させる。変化はそこにあるだろうか。見ただけで解るものではないにしろ、月は衣そのものといってもいい、ならばその存在は?
(文はやりたしか書く手は持たぬ……か。
――光がかざされぬわけではない、月は今もそこにある。しかし新月であるならばともかく、満月であるならばともかく。今宵の月は言葉にしがたい三日月だ。
手を伸ばせば届いてしまいそうな、――手に取れてしまいそうなそんな月の光に、衣はそっと手をかざす。
だがそれも、すぐに飽きたのか引っ込めると、また脱力気味に地を見るように突っ伏した。衣の手が介さなくとも、月は雲隠れ気味にその姿を雲流と雲流の間に置いている。
(月が陰り、衣の中から幻影のように消えていっているようだ)
衣の中に巣食う怪物、狂気的という形容を持って表されるそれは、チカラを失い地に伏している。麻雀という舞台において、自分の打ち方を身につけた衣と“それ”はすでに寄り添ってはいない。だからこそ、衣はそんなふてくされたような怪物に、思わず苦笑する。
(衣の中の感情は、結局のところ人の子に収まる範疇だった、ということなのだろうな)
思案げに暗闇を眺めて吐息を吐き捨てる。
悩ましの少女、思いあるがゆえに、人らしく、人として悩む者。それはきっと、衣にとってどうしようもなく、人らしい部分だった。
とはいえそれを、どうこうする気はまったく覚えないのだが。
(……ふむ?)
白プラスチックのテーブルに押し付けられたもち肌を浮かせて、ふと衣はあることに気がつく。それは人の気配だ。それも、少しばかり他人とは違う“チカラ”をまとって気配。
されども、衣の思い描く異様ではない。微弱な、人の魂によって地に伏せられ眠らされた、衣のそれともまた違う何か。
(――龍、か)
すぐに思い至った。どうやらテラスの入り口、階段によって室内とつながったそこから、衣の元へ向かってくるものが居るらしい。
その者の名を認識したからこそ、衣は振り返る。同時にポツリと、それが漏れた。
「――――透華」
龍神、その名を関する一族の者。衣にとって、透華の異常はそういった認識で片付けられる。
「マダ起きていたんですの? もう外は真っ暗でしてよ? 消灯もしましたし、あまりこんな場所に一人で居るのは感心しませんわ」
暗がりの階段から、足音を響かせて月明かりに透華がその身を晒す。衣は少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべるも、すぐにそれも消え去っていく。
浮かべてわかった。今の自分に、何時ものような強さのある笑みは浮かべられない。
気弱さを押し隠すかのような臆病な笑顔。見ていた透華が呆けているのが、そんな笑みの証左だ。
「随分笑みに張りがありませんわね。衣らしくないですの」
「……眠いんだ。それになれないことをして、睡魔が衣を殺そうとしてくるのだ」
ぼやぼやとした衣の声は、現状の衣を違いなく透華に伝えてくれているようだった。クスクスと透華はおかしそうに笑うと、それを見咎めるのか、衣がなんとも言えない微妙な表情をする。
本人としては不満を最大限に表しているんどあろうが、ジトッとした衣の目つきは、子どものそれにしか透華には映らない。
「何か、悩み事をしていますのね?」
「衣はこの間迄、久しく悩むということをして来なかったのだ。……迷いなら、あったのだがな」
――それはきっと麻雀のことだろう。迷いと衣はいう。いいことだと、透華は笑った。悩んで悩んで悩みぬいて、最善と思う答えを選ぶ、それが麻雀の醍醐味なのだから。
「先輩のことですの?」
水穂が“また”例のアレを起こしたことは透華はすでに聞いている。そしてそのことに衣が一言割ってはいろうとし、瀬々に止められたことも。
――瀬々は言っていた。自分が止める、と。彼女の行動は、自身の感覚からくる正しさだけではなく、そんな思いも秘めていたのだろうと、透華は推量する。
「……そうだ」
沈黙、答えづらい言葉を躊躇う子どものように、気まずげに衣は声を漏らす。世界の違いを認識している。それが故に理解しなくてはいけないことを知った。――けれども衣はそれを受け入れられないで居る。そんなところだろうか。
少しだけ衣が気を重くしているのは、透華の言葉が怖いからだろうか。
ならば、そんな不安は即刻取り払わないと。
「衣は、何も間違っていませんのよ?」
「……? それは、どういうことだ?」
「簡単なことですの、間違っているのは水穂先輩。衣はむしろ、正しいことをしようとしたのですわ」
そうだろうか、と衣は首を傾げる。瀬々は衣の行動を止めた。それはきっと、瀬々の正しさからくるものであろうに。
――そうやって熟慮する衣の思考を見透かしたかのように、透華は続けざまに言葉を放つ。
「瀬々が止めたのはタイミングの問題。言葉によってもたらされるチカラは、そのタイミングによって大きく変質致しますの。今回のことも、結局はそれに尽きるのですわ」
「……時機――か」
えぇ、と頷き透華は優しげに吐息を漏らす。柔らかな真綿を思わせるような物腰に、少しだけ衣の顔がほころぶ。
「衣はな、瀬々も水穂も大好きだ。面白い打ち方をするし、いろいろな世界を教えてくれる」
一、二と、ぐっと握った手のひらのその先に伸びる指を開きながら、衣はそれを月夜にかざす。床に顔を伏せながら、腕を組んで、楽しそうに体を震わせるのだ。
「無論透華や一達もそうだ。だがな、あの二人は透華のように強くはないし、一のように真っ直ぐで、そして柔らかくない」
どこか生き方が不器用なのだと、そう思う。瀬々は自身の生き方に疑問を思ってしょうがないし、水穂はどこかでずれている。
「そうかしら。私も一も、至らないところはあると思いますわ。それこそ、衣が羨ましいくらいに」
「衣だって羨ましいさ。それにな、瀬々はすこしずつだけれども変わろうとしている。きっとそれは正しいことなんだろう。それに瀬々が変わることは衣も嬉しい、新しい瀬々を見ることができるからな」
瀬々は不思議な少女だと衣は思う。――衣は瀬々の生き方を知らないが、それでもどこか矛盾するそのしたたかさは、瀬々だからこそ持っているものに違いあるまい。
ふわぁ、と、衣が大きなあくびを漏らす。もう眠気は限界まで来ているだろう。それでも席を立たないのは、透華との会話に飽きが来ないためか、否、それだけではない。
「もう寝ませんの? 随分無理をしているようですけれど」
「眠いよ。衣はもう寝たい。でも、ここで寝たら明日の朝スッキリ起きられないだろう? 瀬々のことも、水穂のことも、透華のことも一のことも、頭から離れなくてしょうがないんだ」
「そうですの……それでしたら、少し昔話をいたしましょうか?」
それならば、透華は思案し、話題を取り替えることを選択する。今にも衣が睡魔に崩れ落ちるのは見て取れた。それならば、子守唄のように、そんな話を聞かせてみるのも悪くはない。
「――それは一人の寂しい女の子の話、短いけれど、がんばって、がんばって、がんばって生きてきた、そんな昔語りのお伽話ですわ」
「…………いいのか? 衣にそんな話をして」
「むしろ衣だからこそ、知る権利があるのだと思いますわ。だから――よろしくおねがいしますね? あの子のこと」
ちらりと、流し目は龍門渕家別館の館内、すでに消灯により暗がりに静まり返った一角へと向けられていた。
考えるまでもない、瀬々のことだ。衣はそうやって言葉を受け取ると、目を細めてポツリ、こぼした。
「……あぁ」
小さな肯定。
「――では、どこから話しましょうかしら。そうですわね、それはもう十年ほども前のこと――――」
朗々と響き渡る透華の声。透き通る透明な鐘楼の音は、ゆっくりと、宇へ、曇り空の月へと広がっていく――――
♪
少女が“それ”に気がついたのは、初めて記憶を持ったその時だった。少女の記憶は、自分自身の“チカラ”と直接、始まりを同一にしていたのだ。
最初の時は、少女が生まれてから数年の時がたった頃、言葉を話し始めて、自分なりにものをふかく考えることができるようになって、それから少女は、気付かずにそのチカラを使った。他でもない、両親に対してだった。
少女はそのことを“言ってはいけない事”だったと回想しているが、それ以上は語ろうとはしなかった。彼女自身記憶があやふやで、強烈に刻み込まれた両親の顔だけが、こびりついているのだろう。
透華はその後、両親の仲が不和になっていないことから、両親共通の秘密であると推測しているが。
それからの少女の生活は悲惨というにたるものを持っていた。外面上は穏やかな家族、両親の仲が“共犯”という繋がりによって更に強固にならざるを得なかったためか、対面としての仲の良さは周囲に羨ましく思われるほどだった。
しかし、その実態はまったくもってその反対、親の愛情を受けられなくなった彼女は、両親からの虐待に、少しずつ追い詰められていったことは疑いようがない。
家族としての体裁を気にする両親により、保育、小学と少女は人並み通りの成長を行うことになる。しかしそこでも、少女にとっての不幸が待っていた。
少女のチカラが、少女の中にあった小さな正義感とともに発露したのだろうか、思わぬ形で、教師の不正を暴くことになってしまったのだ。
それからの学校での扱いは酷いものだ。一人だけ教師からのけものにされるのは当たり前、給食など、偶然周囲からの寄付でありつければいい方、時には担任自ら、事故のように振舞いかき集められたそれを地にぶち撒けることすらあった。
唯一の救いは、その少女が学友たちの事を語らなかったこと。これは透華の希望であるが、当時から両親の外面の良さを真似し、周囲からの受けは良かった少女は、学校事態から嫌われることは会っても、児童から嫌われることはなかったのだと推測できるためだ。
無論、それが正しいかどうかはさておき、少女の世界は少しずつ狂い始めていた。両親の経営する会社の経営悪化などが原因となり、両親の少女に対する虐待は過激化の一途をたどっていた。
ついには遠く、車で数時間もの道のりを要する場所に、少女を置き去りにしてしまったのだ。
♪
「置き、去り……?」
「そうですわ。その女の子は一人、どこともしれない土地に捨てられてしまいましたの。よほどその父母も極限状態だったのでしょうね。聞いた所によれば、もうあの二人はこの世にいない可能性が高いですわ」
――世間的には失踪として扱われているそうだが、すでに失踪から数年もたち、捜索も端から行われていない。瀬々を捨てた少し後に、会社が潰れ、本人たちも何処かへと消え失せてしまった。
「瀬々、あぁいや、その女の子を捨てたのは、……少女を守るためだったのではないか?」
「いえ、それはないと思いますわ。正確に言えば、あの子が捨てられた当時、その両親はすでにあの子を嫌ってはいなかったそうです。むしろ恐れていた、のだとか」
その訳は直ぐに合点が行く、両親の暴かれてはいけない秘密は、例えば少女が通う小学校で暴かれたような、不祥事と呼ばれるものだったのだろう。
それを世間に暴かれるのを恐れた両親は、暴力によって少女を鎖に停めていたのだ。
「悪化する経営のために、生活を萎縮させなくてはならなかった状況下で、少しでも食い扶持を減らそうとしたのでしょうね。まぁ、それで今までどおりの贅沢をしていては、締める財布がないのですけれど」
「きっと、その親眷にとっては、己が稚児のことなどどうでも良かったのだろうな。自身にかかわらないのであれば、どうでもよい、と。……その稚児には力があった。齢十のほどでも生きていけるだけの、チカラが」
そうですわね、と透華は頷く。恐らくは、それが両親に残されていた最後の良識だったのだろう。――良心ではない。あくまで一般的な、してはならないだろうという認識だ。その上で、彼らはこう考えた。
“むやみに人は死ぬべきではない”と。とはいえそれも、今となっては単なる憶測にすぎない。
外道の持つにはふさわしくない、社会の心がそうさせたのか。外道と名乗るにふさわしい、悪鬼の心がそうさせたのか。それは、瀬々にすらわからないのだから。
「それから、あの子は家に戻ろうとしたそうです」
それから、それから。続く言葉を透華はなんとか搾り出そうとした。此処から先、これ移行のことは、その少女の生い立ちを明かすなら、絶対に語らなくてはならないことだ。
しかし、言葉が出ない。
『――――無いんだ』
(…………ッッ!?)
ふと、脳裏に浮かんだ光景。
それは間違いない、過去の出来事、そのフラッシュバックだ。――もはやトラウマのように透華の中へ刻み込まれた、刹那の記憶。
その正体は、自身の過去を語る瀬々の姿。
――嗤っている。
瀬々はその時、笑みを浮かべていた。それは頬の筋肉が、そっくりそのまま消え失せてしまったかのような、チカラのないものだ。
見れば吸い込まれてしまいそうな、そんな危うい化け物じみた笑み。きっと人はそれを、不気味と評して、遠ざけるのだろう。
――哭いている。
瀬々はその時、涙を流してていた。止めどなく溢れる濁流は、唇を伝い、首元へと流れていく。枯れるという事を知らない源泉は、笑みというミスマッチを伴って、不気味をどこまでも増長させた。
光を伴わない瞳。きっと、その時の瀬々はどこまでも人らしくなく、
『
――人形のようだと、透華は語った。
♪
沈黙は、何時まで続いただろう。衣はその昔話を、未だ呑み込みきれていないように、顔を伏せ、暗がりに沈ませる。
同席する透華に、その顔を見せたくは無いようだった。
「なぁ、透華。……なぜ瀬々は今、笑っていられるんだ? 衣の知る瀬々は、素直に笑うぞ? 面倒だと嘆息しながら、衣と一緒に行動してくれるぞ?」
渡瀬々。どことなく胡乱げな雰囲気を持ちながらも、人当たりはよく、その素の表情も面倒くさがりという一面を持ちつつ、世話焼きのような一面も持つ。
外面がいいというのは、これまでの付き合いからよく知っている。そしてその心の中も、決して善良でないとはいえない。
だからこそ、衣は不思議ではならない。
「あの時……あの子が過去を語ってくれた後、言っていましたわ。その時自分は答えを喪った。しかしチカラまでもをなくしてしまったわけじゃない。今の自分は“答え”によって再構成されている、と」
帰る家を喪った後、少女は自身が生きていくための後見人が必要であるという結論に至った。その後見人が龍門渕透華だったのだ。
少女は語った、自分の過去を話すのは、ひとつの交渉カードである、と。不幸な自分が、これからさらに不幸になるのを、龍門渕透華という善良なる人間は、見逃すのか――と。
応えるほかなかった。その時の彼女は、透華には言い表し用のないほど、小さく震えていたのだから。
「――――これは、私の単なる想像ですけど、けっして的はずれな考えではないと思いますわ」
渡瀬々、少女にはそういった不幸に対して耐えうる莫大かつ強靭な精神力があった。――何もおかしな話ではない。透華はこう考えているのだ。
「“チカラ”があるあから瀬々なのではない。
生まれつき、瀬々にはそういった精神性があり、それ故に瀬々はチカラを行使することが出来た。それはつまり、瀬々だからこそチカラを使えたのであり、瀬々がそれを扱えるだけの精神力を持っていたからこそ、チカラは瀬々に宿ったのだ――と。
「普通、あらゆるものの答えなんてしれたら、人生はつまらないと思いません? そうでなくともそんな答えが右から左から、あらゆる方向から入り込んでくるなんて、
「……そうか、衣は少し不思議だったのだ。不幸に生きた瀬々が、なぜ幸福を享受することを躊躇うのか……と。そうか、そうだったんだな、瀬々には
なるほど、面白いと感じるはずだ。
衣が広い世界に飛び出して、初めて共に居たいと思った相手。それはそんな、どこか神秘的な強さを持つ、少女だったのだ。
「さて……透華、衣はもう眠るよ。早起きがしたくなった」
「無理だと思いますわよ? 衣のお寝坊さんは昔も今も変わっていませんから」
「む! そんなことはないぞ! 衣だって少しくらい成長したんだ、ただ寝ている方が気持ちいいからそうしてるだけで……」
「惰性を覚えたことを成長とは言いませんわ、堕落と言いますの」
――会話はそうして少しずつ終幕へと向かう。
きっと、瀬々のことも、衣のこともそうなのだろう。少しずつ変わっていくのだ。瀬々が変わりゆく強さを持っているように、衣が一つの出逢いによって、そのあり方を大きく変じさせたように。
「――おやすみなさい、衣」
「あぁ、また明日。きっとあしたは、いい日になるぞ」
そうして少女たちは、明日に続く世界へと思いを馳せて、眠りの底へと墜ちていく。
――月に陰りは見られない。雲の合間に隠れた侘しさも、きっと今は、そんな少女たちの祝福に変わるのだろうと、宇を想うものは、その願いを馳せるのだ。
瀬々過去回。そりゃなんでも答えがわかるんじゃ、ばかみたいな精神力無いとだめだよねって話。
まぁそれでも透華に見せたのも嘘ではないので堪えてはいる様子。
次回は瀬々対水穂、そして水穂本気モードお披露目です。