雀士、依田水穂。
他人とは少し違う変わったチカラと、卓越した副露センス、デジタルとしての確かな打ち筋を併せ持つ実力派女子高生雀士。
――人は、ある一点にルーツと呼べるべきものを持つ。出生、出会い、別れや成長。あらゆるものが人のルーツ、原点となり、その人物を作り上げていくのだ。
ならば、水穂という少女の、雀士としてのルーツは一体どこにあるのだろうか。
それは今から十年近くも前の話。水穂の両親はどこにでもいるそれなりに仲のいい夫婦だった。そしてそのどちらも、麻雀のファンであった。
人並みに麻雀をたしなみ、そんな両親の娘であった水穂も、小学生に上がった頃から麻雀を始めるようになった。
とはいえ水穂は一人っ子である。彼女が麻雀を習ったのは両親ではなく、とある麻雀教室だった。
当時、世間は麻雀小学生ブームとでも呼ぶべき流行が到来しており、とにかく麻雀教室というものが濫発していた。時には
水穂の通う麻雀教室もその一つだった。別々の団体によって設立された麻雀教室が、とある中学の一室を借りて開かれていたのだ。
そこで水穂は麻雀を知った。牌を握ることの楽しさを、どんな打牌をすればいいのか、ひたすら悩む麻雀の難しさを、時には負けて、ムキになって勝ちを取ろうとする賢明さを。
麻雀教室は、水穂にとってのすべてだった。毎日、教室に通う時のことを考え、在る時はこうしてみよう、だとか。あるときはこれならどうだろう、と当日での風景を思い描いた。
楽しそうに、両親へ語ったりもした。――何よりも、その教室で出会った友達と、麻雀が打てることが何よりも至福の時間だった。
光り輝いた日々があったのだ。何よりも幸福な時間が、あったのだ。
――――だが、それも長くは続かなかった。
ある時から水穂達の教室は施設を貸し出していた中学から水穂達へ、ある苦言が呈されるようになった。
というのも、水穂達が貸し出された施設に対して幾つもの嫌がらせじみたいたずらをした、ということになってしまったためだ。
無論、水穂達にとっては寝耳に水もいいところ、そんなことをしている事実はなかった。――問題は彼女たちではない、もう一つの教室にあったのだ。
その教室に通う子どもたちが典型的な問題児であり、また子どもながらにずる賢さをもった子どもたちであった。
彼女らは自身の犯したイタズラの罪の“半分”を水穂たちにかぶせたのだ。それにより、水穂たちには在らぬ疑いがかけられることとなった。
その後、中学からある方針が打ち出された。近くある大会に両教室のメンバーが団体で出場し、よりよい成績を残した教室のみを存続させる、というものだ。
――どちらにも問題があるのなら、優秀な方を残せばいい。今起こっている問題も、半分までなら十分に許容できるし、優秀な教室が結果を残せば、その教室は更に成長する、それを狙うだけの資質がアレば、目を瞑ることも納得がいく。
そう、考えたのだ。
結果、水穂達の教室も、問題児たちの教室も等しく大会を勝ち抜き、二つのチームは決勝で激突することとなった。
先鋒、次鋒、中堅、副将。そこまでの四戦は水穂達教室の有利でことは進んだ。――問題が起こったのは、大将戦。水穂が務める最終局面での事だった。
序盤、対局は何事も無く進んだ。水穂と問題児、その実力差は明らかだった。しかし、中盤。
《この牌は通る。通るに決まってる》
『ロン。――国士無双。……48300』
三巡目での事だった。国士無双十三面、イカサマではないかとすら思えるほどのそれを、回避すら出来ずに水穂は激突した。
完全な事故、和了った側すらバツの悪そうにそっぽを向いてしまうような、そんな和了り。罪はない、水穂のそれは本当に誰にも責のないものだった。
『――あれは、水穂のせいじゃないよ』
仲間たちもそういった。
『――水穂は、何も悪くない。あれは、事故だったんだから』
誰も水穂を責めることはなかった。責められるわけがなかった。その瞬間、一番泣きそうだったのは、一番つらそうだったのは、他でもない、水穂自身だったのだから。
――だが、それが水穂をより一層追い詰めた。
無論、ただ責め立てるだけでも、それはそれで水穂のトラウマを深くさせるだけだっただろうが、それでも、何か。何か一言、水穂に対して“慰める”以外のことができていれば、きっと水穂は、ここまで歪むことはなかった。
――無論、すべてのいたずらを水穂達に押し付けられていると勘違いしていた問題児達の教室が、受け皿のなくなったことによりすべての悪事が露呈したとしても。それによりその教室もまた、消滅したとしても。それはきっと、意味のないことだ。
『――――
そうやって、泣きそうな顔で別れを告げるだけでなければ、水穂はきっと、自分だけを責めることは、無かったはずなのに。
――それから、
それからも水穂は麻雀を続けた。一時期は牌を握れなかったために麻雀から離れていたが、それでも、“もう二度とあんな思いはしたくない”ということを実感するために。
何よりも、“自分はもうあんなことはしない”というように、ムキになって。
それはきっと、ムキになるほど負けがこんだ雀士が、一層泥沼にはまって、不調の渦に呑まれていく時のように。
自分が負けたから。そんな“あの大会”直後の教室消滅に寄るトラウマを抱えたまま。
――それからだ。水穂の思いが、雀牌に直接たたきつけられるようになったのは。
ならば水穂の背負った思いは、水穂の一つの始まりであった。――しかし、水穂の麻雀は、麻雀を
――水穂は今も麻雀を打っている。
だが、その始まりは、今もマダ停滞したままでいる。
消え失せてしまった想い出とともに、“あの”麻雀教室に、置いてけぼりに、なってしまったままなのだ――――
――南二局、ドラ表示牌「中」――
(……息を吹き返した先輩は、まぁ無敵なんだろな)
迷彩、そして直撃、一気に親ッパネを放銃したことに寄る失点は、そのままそっくり水穂の支配にダメージを与える――はずだった。
しかし結果は水穂の倍満和了、開け放したはずの点差は、たった一つのツモ和了で、あっという間に水の泡とかして消えてしまった。
(やっぱり強い、先輩は龍門渕の誇る三年生――なん、だけどさ)
――瀬々手牌――
{一三五六七八②②345北白} {九}(ツモ)
(今の先輩は、なんか怖いな)
瀬々/打{白}
打牌を終えながら、ちらりと指先、そしてツモ山へと視線を這わせる。すぐにそれは見えてきた。――黒ずんでいる。そう捉える瀬々の感覚は、果たして間違っているのだろうか。
――そこは陽だまりの春先には相応しくない、
(やっぱり先輩は、過去に起きてしまったことに引きずられている――いや)
瀬々の思考に、すぐさま感覚が否定の意思を伝える。それを受け取り、納得の上、瀬々は言葉をすげ替えた。
(――
麻雀部に入部してからひと月近く、その間に見知った水穂の性格、あの大沼秋一郎とのやりとり。そして水穂のチカラの出処、それらを重ねあわせれば、瀬々は水穂の過去を、詳細に、とは言わないまでも、理解できる。
/打{西}
/打{9}
水穂/打{7}
(今の先輩は、とにかく感情というものに過敏になってるんだ。一つの感情、ひとつの思いが、かつての楽しかった記憶と重なって、先輩を責め続けてる)
ツモの支配が、なぜそこまで水穂の調子に左右されるようになったか。その詳細は語るまでもない。水穂にはかつて“幸せだった”という感情があった。それが今の“幸せでない”自分がどうにも悔しくてたまらなくなる。
(先輩? どうだ? 今の世界は、先輩にとってどう感じ取れる? 暗くて、寂しいか? 寒くて、辛いか? あたしはわかんない、そんなの絶対に、わかんない)
――瀬々はそんな辛い世界を、苦しいと思ったことは会っても、引きずりたいと思ったことはない。そんなもの、あくまで瀬々にとっては“過去でしかない”のだ。
だから
(頼むよ、先輩。もう少しだけ、もう少しだけあたしに、先輩の麻雀を――――)
瀬々/自摸切り{9}
「――ロン」
(……え?)
発声、水穂のものだと、すぐに認識できた。直ぐに、水穂が瀬々をぶちぬいたのだと、理解できた。
パラパラと、水穂の手牌が開かれる。
――水穂手牌――
{一二三七八九⑦⑧⑨78
「……12000」
(山――越し? いやそもそも)
――水穂捨て牌(「」手出し)――
{「一」「7」}
(全部、
ダブル立直による二翻、自摸でなくとも倍満に出来たはずだ。なのにそれを、水穂はしなかった。それどころか、
(――ハ)
乾いたように、壊れたように。
(――――ハハ)
瀬々から少しずつ、笑みが漏れだした。――同時に、点棒を収めるケースを瀬々は開いた。
(――ハハハハハッ! ――――ッアハハハハハハハハハハッッ!!)
ぐっと握り込んだ点棒を、勢い良く水穂へ突き出す。――空白に似た黒の感触が、未だそこには漂っている。ただ、そうやって崩れ落ちるように顔を伏せる瀬々を、どこか哀れんだように見ている。
――
(――違う)
否定する。顔を伏せたまま、瀬々はそんな水穂の感情を感じ取って、否定する。水穂の中の感覚が、あらゆる答えが一斉に、“No”のサインを瀬々へ掲げる。
(あたしは絶対に、もう壊れたりなんかしない!)
ガバっと、顔を上げた。――暴力的な、笑みと敵意を引き連れて。
渡瀬々は、依田水穂を見ている。ただ、負けないという意思だけを顕にしながら。
――南三局、ドラ表示牌「{南}」――
「――――ダブルリーチィ!」
この局も、水穂がすぐさま先手を取った。
――
(……狙ってるつもりですか? 先輩)
瀬々はすぐさま打牌を切り出す。水穂の宣言牌は「{西}」、それと同一の、水穂の現物。
結局その局、だれも水穂に振り込むことはなかった。
――当然だ。次巡水穂のツモ巡、すべての勝負は決していたのだから。
「ツモ! 3000、6000!」
――水穂手牌――
{横南}(ツモ) {南南一一二二二677889}
瞬間。黒が漏れ出た。
水穂の内から生まれでた、あらゆる鎖が、楔が、卓を、世界を、覆うかのように、爆発的な噴出を見せる。
瀬々の下家、対面――対局者たちがヒッと悲鳴を漏らし、顔をのけぞらしてそれを避ける。――瀬々は、右頬をかすめるそれを、右目だけ閉じて動じずやり過ごす。
ちらりとそちらへやった視線を戻して――改めて水穂を見れば。
――ナニカが、ワラって、いた。
――ナニカが、ナイて、いた。
(……先輩、やる、つもりですか!?)
瀬々は少しだけその圧迫感に辛そうな吐息を漏らしながら、考える。――水穂のチカラの最終段階。感情をすべての外へと追い出した、“麻雀”ですらないナニカ。
水穂は、自身の最高潮に向かうたびに、自分の中のナニカをすり減らしているのだ。
当然だ、水穂のチカラの根源が、かつての想い出への妄執であるのなら、水穂がその過去へと、和了のたびに近づいているということになる。そしてそれが、極限まで過去に近づいたのならば、水穂は一体、どう考える? どんな感情を覚えるというのだ?
そんなの、ただ辛いという思いに決まっている。もはやかつての過去なんて、思い出せない位遠い話になっているはずなのに、そんなものを思い出したって、一体何が楽しいというのだろう。
そんな物、もはや意味も意思もない。あるのはただ、麻雀へと取り付いた、水穂の妄執だけ。――そんな到達点、水穂のチカラの到達点は、麻雀において、たった一つの和了りしかない。
(――
もはや麻雀を打つ楽しみも、何もない。
人生にたった一度の幸運として、そんな和了りを、天からもらえるというのなら、それは正しく天の和了り、幸福としてかみしめてしかるべきもの。
だが、それを人の力で成すというのなら。それはもはや、麻雀ですらありはしない。
駆け引き、ツモの調子。一つのツモに一喜一憂し、一つの技術に心胆を震わせる、そんな麻雀はどこにもない。
あるのは、ただ機械的に点数を申告し、半荘を終える。――それだけの作業。
(衣がチカラだけで打っているのが、まだ生易しいくらい。――今の衣は、そんな単純な打ち方は、しないんだけどさ)
衣の持つ支配、それを生かした機械のような麻雀。勝利だけを確かめるような打ち方――それすらも超越している。
――今、黒のナニカが回した賽が、止まろうとしている。
賽は投げられた。その先には、もはや一つの結果しか残らない。浮かび和了る牌の山。
(――頼む!)
瀬々はただ願う。麻雀牌を掴む手に力を込めながら、一つの結果を、請い、願う。
(麻雀は、そんなツマラナイものであっていいはずがない。だから、答えてくれ。麻雀はもっと、楽しくてしかたのないものだろう?)
見つめる先の、その先に、少女の瞳が一対、浮かんでいる。依田水穂は、何を思い、牌を握るのだろう。
解らない、解るはずがない。それは瀬々が“生まれた”時から、わからなくてもいいと、切り捨てたものなのだから。
だからこそ、今瀬々は、どうしようもない楽しさに、打ち震えているのだから。
(――だから、もっとあたしに、そんな楽しい麻雀を……打たせてくれヨォッッ!!)
そして、水穂は最後の牌を握る。十四番目、和了を決める一打となる牌。
それがそうして、水穂のもとに、現れる。
掴んだ牌の先、瀬々が願い、水穂が見つめる、その先や――如何に。