ざわめく室内、前局までの水穂の和了は、部内全体をざわつかせるには十分なほどだった。――慌ただしく言葉が行き交い、対局を行なっていた卓も、もはやその体を成さなくなっている。
「――静まりなさい! 対局者は全員対局へ、観戦者も、あまり対局をしているものの気を散らしては行けませんわよ!」
そんな透華の怒号が響きわたってようやく、周囲も一定の音量へと言葉のトーンを落としたようだった。
静寂、とは言えないまでも、整然とした部内へと状況は帰還する。
「……とんでもないことになったね、二連続地和未遂、しかも片方はリーチをかけずに瀬々を狙い撃ち、か」
「逆転、厳しくなって来ましたわね」
現在水穂と瀬々の点差は41000点。どちらも収支でいえばプラスに近い側に立つというのに、その差は歴然としている。
これでは三倍満のツモ和了でも届かない、役満ツモか、三倍満直撃でなければ、水穂の点棒には決して届かない。
「――これでは、水穂先輩を瀬々が超えるどころか、先輩の先鋒がポジションとして決定的になってしまいますの」
――水穂に、こんな麻雀を打ってほしくはない。きっと誰もが、彼女の化け物じみた姿を感じ取って、そう思っているはずだ。
そうやって不安げに視線をかわして、ふとあることに気がつく。
「……衣? どうしたの?」
そんな中で唯一人、あの喧騒の中でも、小さな会話の中でも沈黙を貫くものがいた。――天江衣は何事か、険しい表情をしながらモニターへ食い入っている。もうすぐ最後の一局、オーラスが始まる。
トップ目の水穂が親である以上、これが正真正銘最後の一局、これを逃せばもう、瀬々は水穂に追いつけない。
その運命を決する一局に、衣はある感情をぶつけていた。
――ふざけるな、と。
水穂の最終到達点、それをこの龍門渕高校麻雀部の中で、読み取ったものは二人いた。対局者である渡瀬々、そしてこの少女、天江衣である。
彼女もまた気がついていた。もしも水穂が、チカラの極端に到達してしまったのなら、その時の起こってしまう事態、その概要を。
瀬々という答えを知るものを除き、唯一、衣は水穂のオカルトの深淵に、たどり着こうとしているのだ。
(――止めろ、止めてくれ。もし、もし水穂がそれを和了ってしまえば、もうア奴は麻雀を打てなくなる――!)
かつての感傷をすべて引き剥がしてしまった水穂は、もはや麻雀牌を握れなくなってしまう。自分の中にあったトラウマを完全燃焼し、また、改めて何の解決もなく滲み出させてしまうのだから。
燃え尽きて、牌を持つ意義を失い。傷ついて、牌を持つ意思を消し飛ばす。水穂に、もう麻雀と呼ぶべき存在は、一片も残らない。
それだけは、それだけは絶対に、してはならないことなのだ。
(――止める? いや、それは出来ない。瀬々があの卓にツイている。瀬々が続行を望んでいるのなら、衣はもう止めることなんて出来るはずがない!)
ギリっと歯噛みしなら、自分の中に生まれたジレンマを、吐き出そうとして、吐き出せずに唾として衣は飲み込む。
(あんな、楽しそうな瀬々を、衣が止められるはずがない――!)
ならば、どうする?
――天和は、誰かのチカラによって止められるものではない。それはもはや、それこそ天に、神に祈る他に道はない。
衣は思い切り顔を天頂に突き上げ、睨みつける。
(――神よ! 見ているか、この半荘を!)
祈る、そして引き寄せる。
衣のチカラは、神に愛されているが故のモノ。衣はかつて、それを自身の意思で衣のモノへと取り替えた。だが、今この瞬間だけは、それに頼る。
自身のうちにあり、そしてなお誰かのものである魔物の感覚に、衣はただ訴えかけるのだ。
(真にオマエが麻雀を愛しているというのなら、止めてみせろ! 牌を握ることをやめようとしてる雀士を、オマエの手で、止めて麻雀というものを、教えてやれ――!)
だから――
(だから……頼む! 水穂を、救ってやってくれ!)
そうやって、祈る先にあるのは、一つではない。神と、麻雀牌と、そしてもう一人、衣が知った初めての別世界、浮沈のごとく聳え立つ、一人の少女にして、雀士。
「――
言葉に漏らしてすら、そうして叫ぶ。
消え去るようなそれは、誰かに伝わることもなく、一人の少女と、卓にツク、一人の少女の元へと、消えてゆくのだった。
――オーラス――
――ドラ表示牌「{白}」――
――そして、その時は否が応にも訪れる。
少女が望み、少女が託した、最後の一つ。それを握ってようやく――水穂は世界へと、帰還した。
(……あ、れ?)
――手牌を見る。
――組み替える。
(……なんで、これ)
――ごくりと、唾を飲む。
ありえない、こんなこと、ありえるはずがない。――こんな、こんな手が、許されていいはずがない。
――天運とは、まさしくこのことを呼ぶべきなのだろうか。
(――ない)
――何が? 答えは、すぐに現れる。
(――――和了って、ない)
――
――水穂手牌――
{三五七②⑦⑨⑨368西北發} {③}(ツモ)
(嘘、嘘、嘘嘘嘘――! なんで、なんで私が和了れないの? ダメじゃない、これじゃあちっともダメじゃない)
先程まで、二度も地和を逃したものの配牌ではない。依田水穂というモノが、この状況で手にしていい配牌ではない。
そうやって、迷って、怯んで、戸惑って、
――やがて、ある者から、声をかけられる。
「どうしたんですか、先輩。
渡瀬々。まるで図ったかのように声をかけて、思わず彼女が何かをしたのかと意識を向ける。――だが、そんなはずはない、瀬々にはそんなチカラはないし、何かイカサマのようなものができるはずもない。
ならば、なぜ?
なぜ依田水穂は、和了れなかった?
「……まさか天和とか、そんなわけないですよね」
瀬々は続ける。
――意識をずらすような不可思議な言葉、そう認識して、水穂はそれを追い払おうとした。だが、出来なかった。
なぜ? 簡単だ、耳を傾けたくて、仕方のない自分が何処かにいたから。
――瀬々は答えを知っている。だから、そうやって言葉をかけた、そう思えてならない、自分が何処かにいてしまうから。
「そうですよね、だって麻雀は
「――ッッ!?」
瀬々の言葉は、まるで雷雲を切り裂くかのようなものだった。水穂の中に、今まで感じていた重苦しい感情以外の、何かがそっと、広まっていく。
パキン。
何かにヒビが入る音がした。
――たまらず水穂は問いかける。そうしなければ、瀬々の言葉は引き出せない。
「……何を、行っているのかな。あんたと私の点差はもう四万点を越えてる。ここからどうやって逆転する気? それとも、二位で満足して、その点棒を守るつもりなの?」
違う、そんな訳はない。
わかっている、わかっているのだ。それでも水穂は問いかける。問いかけずにはいられない。
「――あたりまえじゃないですか。先輩とあたしの点棒なんて、三倍満でも直撃させれば一発でひっくり返りますよ。まだ、ゲームは終わってないんですから」
パキン。
また、何かが少しだけ、崩れる。
「……へぇ、面白いこと言ってくれるじゃない。無理に決まってるのに、こんな点差、ひっくり返すことなんて、できるはずない!」
「そう思えるから楽しい。――麻雀ってのはそんなもんですよ」
即答だった。
楽しいと、瀬々は重ねて、そういった。
「どれだけ最善を目指しても、どれだけ言葉を知っていても、決して勝てるだけのゲームじゃない。一つの結果に一喜一憂して、ツモを悩んで打牌を選んで、そうやって、勝利を望むのが、楽しいんじゃないですか」
――崩れ去る、黒。
――水穂の中に巣食っていた何かが、溢れ出ていた暴圧が、ようやく、崩れ去ろうとしている。
瀬々の言葉が、水穂の手牌が、端的に、水穂の心を切り裂いている。
「先輩、先輩にとって、麻雀ってなんですか? なんで先輩は、麻雀を打ってるんですか?」
――あぁ、そうか。
(……忘れてた。麻雀をするってこと。気付けなかった。麻雀を楽しむってこと)
――でも、持っていたはずじゃないか。
――麻雀牌を握った時、誰かと卓を囲んだ時。
――あの時、かつてもっていたあの瞬間、自分が感じていたもっともたる感覚が、あったはずじゃないか。
(解ってる。解ってるんだそんなこと、――ムキになりすぎてたんだな、私)
楽しもうとして、悔しもうとして、――そんなチカラに振り回されて、一番大切なことを忘れていた。
(――決まってる。私の答えは、決まってる)
真正面から、瀬々は水穂を見ていた。待っていた。水穂の答えを、わかりきった、あまりにも簡単な答えを。
「勝ちたいんだ。勝って麻雀を、
はっきりと、言葉にした思いは、すんなりと自分の中に収まった。
――瀬々は少しだけ顔を伏せる。長い髪の隠された口元には、それでもきっちり笑みが浮かんでいた。
目を閉じて、水穂は少しだけ、過去のことを回想する。
昔、水穂は敗北し、過去の想い出を捨てざるを得なかった。そんな過去があったから、ムキになって麻雀をして、必死に何かを求めてた。
その間も、それより昔も。何一つ、変わってなんか居なかったのだ。
(――私は、勝ちたかったんだ。あの時も、あの瞬間も、いつも、昔も、――――これからも)
ならば、目の前にある、勝負はなんだ?
決着の着いた消化試合か? 否、これより雌雄を決する、依田水穂が求めた答えを手にするための、最後を飾る大舞台ではないか。
それならもう、感傷はいあない。昔を欲して、今を怖がって、そんな自分は――もう、いらない。
そう思えば、目を開けた先の視界は――いつもとはっきり、違って見えた。まるで世界が、一変したかのように。
そんな世界で水穂は言う。己が言葉で、然と言う。
「ごめんね、待たせちゃって。――それじゃあ皆、麻雀を、打とうか」
――空は、快晴。
青空に満ちた、どこまで澄んだ空が、広がっている。
♪
(――配牌はクソみたいだけど、ツモは調子いい)
――水穂手牌――
{三五七②③⑦⑨⑨368西發} {4}(ツモ)
水穂/打{西}
(多分、私のチカラは、別に失われたわけじゃない。ただ単純に、私の心が、最後の一歩で、踏みとどまったんだ)
――水穂手牌――
{三五七②③⑦⑨⑨3468發} {⑧}(ツモ)
水穂/打{發}
(――いや、私じゃない何かが、私を止めるために、こんな手をつくったんだろうな)
――水穂手牌――
{三五七②③⑦⑧⑨⑨3468} {1}(ツモ)
水穂/打{1}
(……あ、六筒が三枚切れた。それに九筒もちょっと怖いし、単騎の方が待ちは広いな)
――水穂手牌――
{三五七②③⑦⑧⑨⑨3468} {四}(ツモ)
ちらりと、視線を瀬々の河へと送る。
――瀬々捨て牌――
{②8六⑥}
さすがにまだ聴牌というわけではないだろう。しかし警戒に越したことはない、態々たった二枚しか場に出る可能性のない牌よりも、単騎の方がよっぽど待ちも広くなる。
水穂/打{⑨}
――そして、
水穂/自摸切り{9}
水穂/自摸切り{二}
――自摸切り、自摸切り、自摸切り。
誰も牌を鳴くものはいない。
ただ、打牌の音だけが聞こえて、それから、瀬々がそこで、牌を曲げた。
「リーチ」
(――オリろ、ってことかな)
――瀬々捨て牌――
{②8六7⑥1}
{23三⑨横東}
(まぁでも、オリないよ。自摸られるかもしれない、他家は絶対に出さない、そうなったらツモできっと、私は負ける)
――水穂手牌――
{三四五七②③④⑦⑧⑨346} {6}(ツモ)
(絶好の聴牌、ただの単騎待ちみたいな手に、私の両面が負けてたまるか)
リーチは、必要ないだろう。
これで仕留める。たかだか役満をテンパイしたくらいで、勝った気になっては困る。瀬々を蹴落とし勝利する。それは間違いなく、水穂以外にいないのだから。
(――通らば……!)
水穂/打{七}
その時、水穂はある感触をうけとった。
(――あ、これ、まず)
そう思ったのだ。
しかし、もう遅い。
「――ロン」
その時には、瀬々はもう、牌を右手で倒しているのだ。
(――あぁ)
思い出す。かつて、そして今、自分が負けた時の感情を。
届かなかった時の感傷を。
「リーチ、一発」
昔はそうだった。その感情を、水穂は次につなげていたのだ。それを思い出している今だからこそ、思う。
「混一色、チートイ」
本当に、心の底から、丹念に練り上げた、言葉でもって。
「ドラ2、――裏2」
(――――悔しいなぁ)
「……………………24000です」
勝敗の分かれ目を、感じ取るのだ。
――瀬々手牌――
{一一七九九南南西西
・渡瀬々 『26000』→『50000』(+24000)
・依田水穂 『67000』→『43000』(-24000)
――ありがとう、ございました。
――ありがとうございました。
――そうやって、言葉を交わして、少女は願う。
次こそは、自身の勝利を。
――そう思うことへの、楽しさを、噛み締めながら。
♪
――かくして、四月、龍門渕高校麻雀部内リーグ戦は終了、レギュラーが正式に発表された。
<大将:天江衣>
龍門渕最強の雀士は、自身のモチベーションなどを考慮、大将に座った。
どんな点数で大将に回ろうが、必ずトップを取って帰る、そのための布陣。
<副将:龍門渕透華>
部内ランキング四位、卓越したデジタルのセンスからこの選出となった。
また、理想のゲーム運びとして、先鋒、中堅での稼ぎをそのまま大将へ回すことも期待されている。
<中堅:依田水穂>
自身の調子が大きく闘牌に作用される彼女は、実力なども加味され、中堅へ座ることとなった。
先鋒で稼いだ点を更に稼ぐか、失った点を取り戻すか、どちらにせよ大将がまだ残されているという強みが、彼女を支えることとなる。
<次鋒:国広一>
部内ランキング五位であり、ストレートな闘牌スタイルを持つ彼女は、守備に優れる。そのための配置。
また、彼女には若干のブレがあり、それが悪く働くこともあるため、リカバリーの効く位置への配置となった。
<先鋒:渡瀬々>
部内ランキングこそ二位であるものの、エースポジションを任せられたのは紛れもない彼女である。
エースとしての派手な稼ぎと、他校への牽制が望まれる。
――かくして、龍門渕高校は夏の高校生麻雀大会へと挑む。
四月の風は止み、龍門渕に、新たな風が入り込もうとしていた――
というわけで四月編終了。5月・6月は駆け足で、7月はオールカットで進行します。
インハイ全国開始まで五話か六話予定ですが、県予選決勝の文量によってはもうちょっと伸びます。