――南三局、親衣、ドラ表示牌「{南}」――
(……まぁ、言うまでもありませんわね、衣のあれは、私達への挑発でもありますわ)
衣は言った。
瀬々と衣の闘いは、瀬々に麻雀を楽しむことを教えるためのものだ、と。――そのために、衣がする方法は、たった一つの明確なものでしかない。
自身の闘牌を見せるというのだ。衣が、瀬々に、魅せつける。その瞬間を、瀬々は絶対と感じてもらう。
そのために、衣の闘牌を理解させる必要がある。――当然、衣の闘牌を理解している透華や一にとっては、それは単純な宣戦布告にほかならない。
それが、衣の闘牌スタイルに関わっているのだから。
(わかっていますわね? 一、ここでこの一局、和了るのはこの私ですわ。瀬々に麻雀というものが何たるものか、しっかり理解させるんですの)
――当然、それに対して透華は真っ向からの闘気を吐き出して見せる。続き、自身の付き人たる一へと意識を向ける。目的は――
(わかってるよ、ボクが和了ればいいんだね? じゃあ、ちょっと本気で行ってみようか)
――一に対して、挑発めいた茶々を行うためだ。この場で一が透華の意図を理解したとして、馬鹿正直にそれを叶えるほど一は素直な性格をしていない。
それに一がここにいる目的は、一が全力で麻雀を打つため――本来は魔物たる衣との直接対決に必要なメンツであったために、そうであるのだが――なのだから、わざわざこの場で、透華のオーダーを理解しない理由はない。
(――どうやら、透華も一もやる気になったようだ。善き哉、麻雀とは一人で打つものではない、――四者で囲み、そして自分自身がその中の勝者になるために打つのだ)
そのために、この局においての本気を、衣は引き出す必要があった。麻雀とはタイミングのゲームである、どれほどの強者であろうと和了れない時はあるし、その一瞬を、麻雀のすべてであると思ってほしくはない。
――だからこそ、衣はその真逆、誰もが和了ろうと、直線的に和了を目指す状況こそが、衣にとってもっとも楽しい麻雀の瞬間だ。
(人は麻雀をする時、まず自分が勝とうと思うだろう。衣が誰かと戯れる時、その誰かはきっと衣に敗北する。衣が負けたくないからだ)
――衣にとって、麻雀とは勝つものだ、自分の麻雀で、勝って、勝って、勝ち切ることだ。
(……ならば、衣は誰かをきっと、全力で倒す。そのために……衣は、衣は自分の麻雀を、貫いているのだ…………!)
ならば、こそ。
――衣手牌――
{一三六九⑧⑨11268
その一打は――ひらめきを生む。
衣/打{1}
一/打{
(……わかってるさ、衣のチカラは、全力で誰かを倒すためのものなんだって)
透華/打{2}
――天江衣、闇夜に紛れた
衣には本来、この半荘を支配するほどの絶対的なチカラがある。やろうと思えば他家をテンパイさせないことも、自分の和了を自在に変化させることすらできるのだ。
衣の思うがままに、半荘は手のひらで転がすことが、できてしまう。
(それをきっと、衣は麻雀だと思ってないんだろうな)
思っていないからこそ、衣の麻雀は、ここまで異様に変質を遂げた。それと同時に、衣の臨む勝利へ最も正しいと思う方向へ。
(衣はそんな絶対的な麻雀を“攻略”された。衣自身が、只の人間としか思っていなかった相手に)
その人物――否、人物達はそれほどまでに人間の極みへ至った者達だったのだろう。衣が持つチカラのほんの少しのゆらぎ、例えばその支配力が、王牌にまで及ばないという事実だとか――
――誰もその半荘に、鳴くものはない。
卓は至って変化の乏しい状況で、しかし激しい凌ぎ合いの末進行していく。
最初に動いたのは一、前局の和了をなした勢いのまま、六巡目に勝負を仕掛ける。
「――リーチ」
静かな宣言だった。気取ることはない、ただ、おのが闘志を隠すため、自分自身へ活を入れるために、心のなかでだけ、その意志を燃やすのだろう。
(……衣は、極限まで自分自身の弱点というものをすり減らした。それを討たれないために、自分の中で抱くものを、慢心から闘志へと変えるために)
調べてみればすぐに解った。衣の打ち方は昭和の麻雀が円熟し始めたころの玄人の打ち筋だ。両親をなくした衣が、老人――おそらくは祖父母夫婦あたりだろう――に引き取られ、そのものたちと麻雀を打つようになった。そこで衣は“敗れた”のだ。
だから、それに憧れた。他家に晒す打ち筋に、極限まで自分を殺し、他家の意識が向かない場所から自分の力で出和了りをもぎ取る、そんな打ち筋に。
(衣はそこに、自分の保つ力による、オカルトの支配を持ち込んだ。……衣は作っているんだ、自分の力で意図したオカルトの流れを)
そうすることで、衣のチカラは衣の手を離れる。流れを知る衣であればある程度はその流れを操れるだろうが、それ以上ではなくなる。衣の力ではなく“麻雀のチカラ”になる。そうすることで、衣は自分が突かれるはずの闘牌スタイルによる弱点を、極限まで減らした。
――討ち取られる側から、討ち取る側へと、スタイルを変えることで。
――すぐさま、衣は安牌を切り手牌を回す。直線を向かう一の横で、ゆっくりと険しい遠回りをするのだ。透華は動じない、自然な動作で安牌を切る、不要な牌だったのだろう、手を進めたようにも見えた。
そんな中で、瀬々の手は進まない。
(知ってる、流れってやつだ。今、この対局であたしは和了れない。いや、和了ることはできる。あたしの答えに和了れないなんていう選択肢はない。でも、遅すぎる)
これもまた衣の計略。瀬々の弱点を他者へ晒し、瀬々の和了による流れを、他家にすべて奪わせていく、点棒を得るためではなく、あくまで瀬々の流れを断つために。
――麻雀を教える、そういった。だがそれ以上に、衣はこの半荘で、自分がトップをとるために対局を進め続けてきたのだ。
だからこそ、
(……すごい。ほんとに)
それから一巡後、一発を伸ばした一の打牌の直後、透華も動く。ここまで、流れは瀬々への直撃を打った最新の相手である一と透華にある。
だからこそ、
「――リーチ!」
衣はそれを、暗夜の中を駆け抜け、追う。
――透華の打牌は{4}、衣も対応してそれを切り、現物で巡を変える。打牌は、{三萬}。
続く打牌、ここで一は動かない。その手は、彼女の和了牌ではない。――少なくとも一も、そう簡単に和了れるものでないことくらい、わかっている。
瀬々は、ツモ切りだ。彼女のツモは、決して彼女を前に進めるものではない。
彼女の心が、ひとつ跳ねる。
その上で、それがそっと、変質していく。
衣の打牌、無理は無い、透華のリーチ後に切りだされた牌であり、一のツモ切り、いわば当然、合わせ打ちということになる。――打ったのは、{二萬}。
――そこに、透華と一の笑みが加わった。
軽快に続く打牌のリズム。――瀬々のそれが、ゆっくりと荒く尖ったものへと変質していく。その顔が、少しずつ、少しずつ沈んでいく。
勝負に対し、全く臆することなく踏み込んでいく一と透華、両名は対向するもののリーチを単なる好機としてしか見ていないことくらい、瀬々にもわかる。
更にはそれが、衣を縛り付けることにもなるのだから、なおいい。
(……ふざけんじゃない。なんだよそれ、楽しそうにしやがって。おかしいじゃないか、あたしって割りとつまんない人間だから、そんな輪の中に入っていくのは、別に苦でもないんだぞ。…………それは、あたしの処世術だったんだ)
牌を握る手に力がこもる。止めるにも止められない。瀬々はもう、感情が噴出すのを止められない。
――衣のツモだ。
{三萬}、{二萬}からの現物両面落とし、これで衣の手は更に遅くなっているはずだ。――不要になったドラを切った、それにより、打点まで下がっている。
一も透華も、そのツモに、何ら感慨を抱こうはずもなかった。
自身の勝利を、その瞬間まで疑わなかった。
――彼女たちの目は、衣を見つめている、ノーガードに成り下がった勝利宣言者の隙を、今か今かと待ちわびている。それはまさしく、獲物を狩る獣の眼光だ。
そしてその視線が向く先に、瀬々の姿はない。
(――バカにすんな、バカにすんなよ! あたしの生き方を、答えを誰かが、バカにすんじゃない!)
その言葉は、誰に届くものではない、自分の中に、ただ消えていく言葉だ。自分だけが、理解している言葉だ。
牌を叩く音がする。何かに、軽快なステップで叩きつける音。それの意味を瀬々は理解している。していないはずがない。
それでも瀬々は、顔をうつむかせていた。そのまま、上げることはなかった。
「――ツモ」
天江衣の声だ。
一瞬の隙を待ちわびていた、両名の狩人を軽々と踏み越えて、剣を振るう、絶対の強者、違うことなく、そのツモを晒す。
――パラパラと、手牌が開く音がした。
――衣手牌――
{一七八九⑦⑧⑨123789} {一}(ツモ)
「純チャン、三色ツモは――6000オール」
・天江衣 『48300』(+18000)
↑
・国広一 『17000』(-6000)
・龍門渕透華『13600』(-6000)
・渡瀬々 『20800』(-6000)
驚愕に近い目線を、そこに在る、他者を認めた実直な目線が、卓上を行き交う、――それを浮かべ切れていないのは、ただ一人、渡瀬々、ただ一人。
激しく響く鈍い音――卓を少女の右手が叩いた。――六千点、その分の点棒が和了を終えた衣の目前へと吐き出されている。
「……ふふ」
すました笑みに、いよいよそれを成したもの、瀬々の顔が怒りに染まる。激しく敵意だけを浮かべた目つきで、衣の顔を睨みつけるのだ。
「――よく、わかったよ。よぉくわかった」
ずいっと、顔を少しだけ寄せる。
「そいつは授業料だ、もってけバカヤロー。だから――――ふざけんなよ」
それから、彼女はただ言葉を上げる。
「何が麻雀を教えてやる、だ。ふざけんじゃない、バカにすんなよ! 何が麻雀だ、何が勝利だ、こんなものが、こんな糞つまらないものが、麻雀なんかであってたまるか!」
――彼女の怒りは、つまるところひとつの宣言だ。
そこにあるのは怒りであり、その原点は結局――
「――なら、抗ってみるか? 麻雀を、楽しんでみるか?」
「ジョーうとうだ! あんたらがあたしのことをバカにした分、きっちり全部――ツケとしてあたしに払わせてやる――!」
戦いたい、この瞬間に交わりたい。
そんな、純粋な勝ちを求めることの――憧れであったのだ。
――瀬々の顔に、ようやく闘いの意志と呼ぶべきものが宿る。――半荘は南三局、連チャンにより、それはひとつの本数を数える。
衣は向かい合う瀬々との視線を尻目に、手を動かす。そこにあるのは、握られた供託。
「――倍プッシュだ、もう一度見せてやろう。……こんどはお前のような小娘だろうが――まとめて全部、くろうてやる――――ッ!」
賽の目が、回転を始める。
衣の手からこぼれ落ちた火蓋が、そっと火種となって――麻雀卓に広がろうとしていた。
「――さぁ、一本場だ!」
――南三局一本場、親衣、ドラ表示牌「{①}」――
「私、実は三麻とか割りと好きなんですの、暇つぶしに少し触れるくらいなら嗜みみたいなものですわ」
「ボクとしては打牌が大雑把になりがちだから、あんまり好きじゃなんだけどね」
好きなように言葉をたぐりながら、一打、二打。――瀬々の宣戦布告があったとはいえ、彼女たちのやることは変わらない。
(……好き勝手言ってくれんじゃん、点棒殆ど無いくせしてさぁ!)
言葉には出さずとも、ここで鋭く打牌を切り出すのが瀬々だ、見えている状況から、最善といえる手の構築を選択し、打牌する。
しかし、
「チー」 {横657}
衣がすぐさまそれに反応する、――衣の鳴きだ、速度も和了るだろうが、瀬々の手を狭めるための泣きであることなど疑いようもない。
光を伴った剣閃が、瀬々の牙城、無数に浮かぶ選択肢を的確に撃ちぬいていく。
(……ずらされた、でも答えの方は変わらないな。――変更だ! 選択肢の一から派生の三、あたしを舐めたままで終わらせるかよ!)
――激しい衝突の衝撃と、剣のその眩さ故に、軽く手で顔を覆い、そしてそれを払う。――浮かび上がるパネルに、新たな道程が表される。
迫る剣筋、それを、瀬々は紙一重のまま避け――奔る。
――瀬々手牌――
{一三五六八
(ずれたって、ツモれる牌は似たようなもの、手牌というスタートから絞った答えが、そうそうずれることはない!)
それは、これまでの沈黙でもわかっていたことだ。
だというの、にそれが成せなかったのは、単に対応の前に撃ちぬかれ、対応しようと手が届かず、出和了り以外の方法で和了れなかったがためのことだった。
だからこそ、この手を背かずつくり上げる。
――打牌、{西}、迷うことなく、次へ進む。
(――鳴かれるってことは、こっちの手は遅くなるし、相手の手は早くなる、だから普通ならそれは弱点ってことになる。当然だ、その間に相手に和了られるんだから……けど)
一巡、二巡となって衣の手が再び動く。
瀬々/打{⑤}
「チー」 {横⑤⑥⑦}
不要故に切りだされたそれを鳴く。静かなスライドが、その手の奥にあるはずの、衣の姿をブレさせる。湖畔のゆらめき――水の渋く音が、牌のたたきつけられる音と同一に聞こえてくる。
(それでも、鳴くことがあたしの弱点だけになってるわけじゃない。――いわゆる手作りには、人の感情ってものが働くんだ、だからあたしには相手の手牌を読むチカラはない)
たとえば、瀬々のチカラは答えをしるチカラ、打牌から手牌の姿形を予測することは不可能ではない。切り出しが、そのまま手牌の情報になっている。
しかしそこに、人は感情を込める。見通しを聴かせるとでも言えばいいだろうか、高い手を作りつつ、防御を考えた手牌にするのであれば、防御に選ぶ牌は、きっと人の感情によって選ばれる。三枚切れの字牌が、どちらも自風となっているものの安牌である場合、切るのは個人の感性だ。
だからこそ、瀬々の感覚にブレが生じる。人の心は複雑怪奇、瀬々は自分の理解できない答えを理解しようとしてもできないわけだから、瀬々は手牌を読み取れない、というわけだ。
それが、副露という形で晒された牌には、まったくそれが適用されなくなる。――公開された手牌は、結局のところ単なる情報でしかないのだ。感情など絡まない、だから瀬々の感覚からノイズが消える。
(あたしを止めようと無茶をするたびに、ノイズが消えて、あたしの視界はクリアになっていく。これは他人もそうなんだろうけどその二副露で、衣――あんたの手はスケスケだ!)
――{五}―{六}―{七}の二副露、この時点で誰もが喰い三色を警戒する、そして瀬々は、更にその上を行く。
鳴きにより衣の手は狭まった、これにより余剰牌として残された――遊んでいる牌は消え、衣の手からノイズも消し去ることができる。
河から読み取ることのできる情報、ノイズの消えた衣の手牌、そこから見えてくる衣の待ち。
――{二萬}、{七萬}のシャンポン待ち。
(手牌が見えないからこそ、一副露程度じゃ私も振り込む、そこはまだ改善点、でも二副露でその手は透ける。十分だ、来て見なよ、あたしが点棒、もぎ取ってやるからさぁ!)
見えている。だからこそ瀬々はその手を作り上げる。自身の全霊を持って、前をゆく、彼女たちに少しでも追いつくために。
手を伸ばす、つかむのは可能性、希望と言う名の第一歩、引き寄せる手が風を生む。そっと、誰かを撫でるような、そんな行動の残滓。
それが、
――瀬々/ツモ{二}
その手にチカラを引き寄せるたび、強くなる。少女たちに――前をゆく者達に近づいてゆくたび、そっと、そっとその勢いを増してゆく。
そよ風――疾風――――爆風ッ! ――――竜巻ッッ!
――瀬々手牌――
{一二三四五六八九
(――できた)
そっと浮かべる笑みは、きっと誰に伝わるものではないだろう、伏せた視線、瀬々の流した長い髪は、彼女の顔を、遠くぼやけたものへと変える。
それに、
――手を掛ける。無論、宣言のため、それは――瀬々の勝利宣言がため。
(……リーチ、っとね)
そこで瀬々は一枚の牌、{⑦}へと手をかける。
それが、
(なぁんて、そんなわけないだろ。この手は、つまり――そういうものじゃない)
「――リーチ!」
――瀬々/打{⑧}
――ここで、瀬々が{⑦}を打てば、彼女の手はメンピン一通のドラドラで、ツモらずとも跳満が確定する。しかしそれでは、現在トップをゆく衣には届かない。
それに、
(衣はさっき親番で跳満を和了った。あたしはその前に親番で満貫を和了ってるから、なんか衣に“上を行かれた”気がしてくる。しかも、ここで跳満を和了ったら、それは衣の親ッパネに届かないし、衣の二番煎じにしかならない)
振り上げたリーチ棒、まるでそれを、その場に突き立てるかの如き勢いで、瀬々の手が振り下ろされる。
衣にこのリーチ棒だけでは届かない。遠い、遠く、遠く、遠く手に届かない。
だから、だからこそ。
(――それで、終わらせるわけには行かないだろうが!)
その時、衣の手が止まる。
一瞬だけ思考を加え、そして手牌をじっと眺める。――ふっと、そんな思案気な顔を、緩めて笑い。
手牌を伏せた。
打牌はツモ切り、衣の手には一切手の加わらない、単なるノイズにほかならない。
ならばこそ、衣が瀬々の前で、立ち止まる。その一瞬に、衣は動かない。
そして、
「――ツモッッ! 一発ツモ、リーチ一通ドラは――――」
――裏ドラ表示牌「{①}」
――瀬々手牌――
{一二三四五六七八九②②⑦⑦} {②}(ツモ)
「6100――――12100ッッッ!」
・渡瀬々 『46400』(+24300)
↑
・天江衣 『39500』(-12100)
・国広一 『8600』(-6000)
・龍門渕透華『5500』(-6000)
瀬々のチカラは、この一瞬を作り出す。だからこそのリーチ、だからこその勝利宣言。瀬々の手が、衣の元へたどり着いた。その場に、瀬々は在ったのだ。
――オーラス、ドラ表示牌「{南}」――
長かった対局が終わろうとしている。
瀬々の闘牌、それが再び衣を捉えた、この状況、優勢であるのは間違いなく瀬々だ。――彼女が、衣をこの一瞬、上回っているのだ。
ならば、衣を象る月はどこにある?
衣とは、すなわち月をもたらす絶対の天衣無縫だ。いつであろうと、どこであろうと、関係はない。ただ、形ある。完全なる個、繋ぎ止めるものも、つなぎ合わせるものもない、絶対の“壱”。
ならば、その衣は、どこに在る?
無論――考えるまでもない。
(おいおい、おいおいおいおい。――ふざけてやがるな、あいつ。あたしは隣に並んだんだぞ? だったら、だったらその――)
ただ、そこに在る、
(――馬鹿でかい気配、ちったぁ引っ込めやがれってんだ!)
浮かび上がる幻想の月、ただそこに在ることをあらわにしながら、たそして絶対を象る象徴のそれ。
衣の月が、おぼろに霞む空に、ゆったりと浮かび上がっているのだ。
それは例えるなら、幻影により生まれ出るもやにより、海の底を思わせる水面に揺れる月。その姿をあらわにしながら、その場にはない、月。
(まぁ、そうだよな。あたしは衣に追いついた。確かに間違いなく、追いついたんだ。――でも、それだけじゃあ行かない。追いついたなら、
――瀬々手牌――
{一三四八⑥⑦⑧577東西發}
(いやしかし、微妙なもんだ。これをこのまま追い越すためには、出来ればテンパイに持って行きたいもんだが……遠いな)
瀬々/ツモ{9}・打{一}
最初の打牌、ここから手を作っていくには、まず一段目では間に合わない。だとすれば、どうなる?
(……嫌な想像なんて、するもんじゃない。まずはひとつ、手を進めてやるさ)
力を込める、そこに自身の根本、打牌の右手が在るのを感じながら。
そして、対局は六巡目。
(ようやくここまで、って感じでは在る。が、まぁ不気味だな)
――瀬々手牌――
{三四五④⑥⑦⑧5779東西} {②}(ツモ)
(衣の手牌が、ノイズにまみれすぎてやがる。どんな手を作ってるんだ? どうやればそんな“何も見えない”状況が作れんだよ)
瀬々の感覚を持ってして、他家の手は覗き見ることはできない。副露によって手を晒した場合という例外を除けば、瀬々は他家の手に答えを持たない。
それでも、ノイズまみれの情報の中から、他家の手がどれほど進んでいるか、程度ならわかる。根本がわからない以上、今の瀬々に振込を回避する方法はないのだが。
そして、今の衣には、そんなノイズによる手の察知ができないほど、手が乱れている。
(――意味がわかんねぇ、答えも出ねぇし、あたしの中に情報が足りなさすぎる。だったら、今はなんとかここから和了を目指す他はねぇ)
瀬々/打{東}
それが、
衣の袂から、閃きを生む。
瀬々が手から牌を放った瞬間――そこに爆発的な光が灯るのだ。
「ポン」 {横東東東}
(――ん?)
衣の鳴き、それが流れる流星のように、閃いた衣の手のひらに誘導され、卓の角にたたきつけられる。爆発気味に、多量の光が卓上へ漏れる。
――目をくらませながら、瀬々は思考を回す。
(……意味が無いように見える鳴き。――てことは鳴きじゃなく、手牌に何か意味がある。――けど、今はわからない、問題は、今きにスべきはそこじゃない)
再び瀬々へと回るツモ、しかし、それは瀬々の望んでいた牌ではない。当たり前だ、瀬々のツモ番がずれたことにより、理想としていたツモが、そこにはない。
瀬々/ツモ{2}
(ムダヅモ、けどここから和了るなら、この牌は絶対に欠かせない。だったらそれを、残すのが正解だ)
瀬々/打{9}
卓上が、ゆっくりと不可思議に動き出す。
一巡――二巡、そこに変化は生まれない、がしかし。
一/打{西}
八巡目、一がそこで初めてのドラを切る。瀬々が手にしていながらしかし、今まで何がしかの感覚か、切らなかった牌。
それを、一が切る。
再び――閃光。
「――ポン!」 {西西横西}
ひたすら流れるような、川を奔る水流のように、一瞬にして光が瀬々の目線の先をゆく。――衣の姿が揺らめいた。
しまったという一の顔、しかしそれももう遅い。――彼女自身、止まるつもりはないだろう。すぐさま視線を挑戦的なものへと戻す。
(……ラス親だから、しゃーないとはいえ、ちょっと不用意じゃないかな。なんて打牌の巧拙をあたしは品評できないわけだけど……嫌な予感がするな、ここまで衣は、字牌しか鳴いていない。――そうでなくとも、ドラ3確定の状況から、この鳴きで作れる手牌は、ろくなもんじゃない)
嫌な予感に少しずつ手に嫌な汗を浮かべながら、瀬々は自分のツモへと手を掛ける。確かめるように向けた視線が、そのまま歪み、苦痛に変わる。
(――ぐ、嫌なときに戻ってくるなよ)
――瀬々手牌――
{二三四五②④⑥⑦⑧2777} {8}(ツモ)
ここから{8}を残せば和了やすい形での一向聴に手変わりができる。しかしそれは、通常の場合だ。
(もともとフリテンだし、この手でこの{8}はツモれないんだよ、これを残して、手を進めても、いつか切らないと手詰まりを起こす。いらないよ、全くね)
ツモ切りだ、{8}を切って、叩きつけるように河へと晒す。
それを、
「ポン」 {横888}
(――なぁっ! 衣の、やつ!)
再び、爆発。
三度目の閃光が衣の手から放たれる。
(そう、か――狙ってやがったな? あたしがツモるはずだった{8}、そこに自分がすでに自摸っていた{8}を“合わせた”あたしに気取られないよう、手牌をノイズで満たしながら――)
三副露、それをしてもなお衣の手牌は姿がしれない。――それでも、衣の手は考えればわかる。衣の手は対々和のために必要な対子と、それ以外の不要な遊び牌によって構成されている。
二枚もノイズがあれば瀬々の手は狭まる。
――瀬々が手を晒した場合に読み取ってくることを想定した上での、打ち回し。それを衣は、すべてわかりきった上でやってのけたのだ。
(こいつ、化け物とか、魔物とか、そんなちゃちなもんじゃねぇ。あたしだって普通の生き方を、人間らしい生き方をしてきたつもりはない。けど、こいつは、さらにその――上だ!)
瀬々の打牌、そこからは三連続の{7}だ。それだけが、衣が鳴くことのできない牌――それ以外は、全て一枚切れ以上には至らない、その状況で。
ゲームが進む。
(――完全に、手が止まった。これ以上は、多分
瀬々、手を選ぶ、――衣の姿は、すでに明白なまでに形を帯びていた。――おびき寄せられたのだ、彼女の世界に、彼女がその手を大仰に振るうことのできる空間へ、引き寄せられたのだ。
それが、
瀬々/打{⑧}
それは瀬々が配牌時から手にしていた衣の現物、衣が晒した一枚の牌。それを、衣が、
「――
衣の創りだした空間。――それが、ついにその場へ露となる。
(……嘘、だろ? あたしは、全力で衣に挑んだんだぞ? なんでだよ、なんで衣はもう、こんな場所にいるんだよあたしの前に、いたんじゃないのかよ)
「――瀬々」
その空間で、衣が瀬々に問いかける。
――あとはもう、ただのツモ切りが続くだけ。だれも、瀬々ですら、自身の手を和了へ持っていくことはできない。衣のチカラが――流れと変じたそれ自体が、衣の元へ収束しているのだから。
――月にもう、一片の陰りすらない。瀬々はそれを、その両目と、感覚全てで見て取った。
「どうだ? 麻雀は、楽しかったか?」
「……さぁね、まだ何も終わってないんだ、そんなの聞くべきときじゃない」
「はは、よっぽど楽しかったと見える。――往生際が悪いぞ、ことに集中している証拠だ」
「――っ!」
思わず、息を呑む。カラカラと衣が笑ったから。その言葉に、すべてを見透かされたような気がしたから。――瀬々の頭上に浮かぶ月、天江衣という昼すらも照らし尽くす絶対者、彼女を見上げ、彼女に見つめられるその瞬間に、どうしようもなく、渡瀬々という人間が、引き寄せられたから。
「ならば一つだけ教えてやろう。麻雀を楽しむのなら、まずは負けを知ることだ。どれだけ全力を尽くしても勝てない、そんな
……わかっている。
言葉にせずとも、そんなことわかっている。
瀬々は完膚なきまでに叩き潰された。――どれだけ持ってしても、衣は瀬々の上を行く。と成り立つのではない、瀬々が奔るその上を、凹凸に満ちた荒野の上空を、悠々と一人、翔けて征くのだ。
そんな存在を、瀬々は初めて知ることになった。
――自身の敗北を、瀬々はこの瞬間、知ることになる。
(――クソッ! クソッッ! チッキショウ! 何か、なんかないのか? この状況を、一発逆転にして、衣に赤っ恥をかかせられるような――そんな状況が!)
心のなかで、反芻する。
答えをわかっていながら、理解していながら、それでも思い浮かべる必要の在った、勝利への執念、それを浮かべる。
瀬々を照らす月光の、その先に手を伸ばすために。
「――さぁ、これでこの対局は終了だ。衣のツモ、最後のそれで全てが終わる。――だからこそ、見せてやろう」
――このオーラス、衣が瀬々を出し抜くためには、瀬々の手を少しでも止める必要があった。それはつまり鳴きによるテンパイ和了の阻止、である。
しかし、ただ手を進めるのでは瀬々にテンパイを察知され、待ちまで完全に知られてしまう。瀬々に向いた半荘の流れは、瀬々に当たり牌を“使わせる”だろう。そうなってしまえば、衣は瀬々に対して和了での逆転が不可能となる。
つまり衣が瀬々の手を差し止めた上で、テンパイにまで持っていく中で、一度も有効牌を使わせない形は、現在のこの形――つまり、対々和ドラ3単騎待ち以外に、方法はなかったのだ。
それは、衣が最後にこの場を支配するその瞬間にのみ、表すチカラ。
――対局の最後、その終着にツモる牌は、俗に海底と呼ばれる。
「――――対局の間際、海底牌にその和了を委ねることで、ある役がつく」
手にするは、最後の希望。勝利という結果。
衣は、その笑みを深く、深く攻撃的なものへと変える。
「その意味は――――海面に移る月を、すくい取る!」
――一瞬が、牌を叩きつける、刹那へと変わる。
どれほどまでに、それは他者へ移る意識があっただろう。瀬々の手が、一の手が、透華の手が、ただ空に映る月を、引きださんとする手が、
光宿す月の円環が、忽然と衣の頭上に現れる――ッ!
「――――ツモ、――――――――海底撈月」
――衣手牌――
{①} {①}(ツモ) {横⑧⑧⑧} {横888} {
「対々和ドラ3は……3000、6000!」
それこそが、始まり。
うつむく瀬々の顔。これが終わったのだと、――長く、そして楽しさの余韻をのこす半荘が、終わってしまったのだと、
・天江衣 『51500』(+12000)
↑
・国広一 『2600』(-6000)
・龍門渕透華『2500』(-3000)
・渡瀬々 『43400』(-3000)
――始まりを告げる物語、その終わり、その最初の一つを、感じ取りながら。
渡瀬々は、入れ替わった順位を――衣が手にしてたその月を――浮かび上がった月を――見上げるのだった。
――最終結果――
一位天江衣 :51500
二位渡瀬々 :43400
三位国広一 :2600
四位龍門渕透華:2500
衣VS瀬々決着! 最後の跳満和了に海底をつけたのは、衣が一番支配のない状態で干渉しやすかったから。
というわけで次回からいろいろなこと書いていけたらなと思います。