四月の千里山女子麻雀部は、一年で最も活動が盛んな時期だ。というのも、入部したての新入部員は三桁に及ぶため、それら全員がレギュラーを目指しランキング戦に励むのである。
最終的には、六割残れば数としてはいい方なのだが、とかく。
その四月終わり、ランキング戦が終了した。レギュラーが決まり、合宿に県予選にと忙しく動きまわる時期である。
そんなレギュラーの発表段階で、ひとつの波乱が千里山で起こった。
この年、レギュラーにおける先鋒ポジション、行ってしまえば華のエースポジションに座るのは三年、蔵垣るう子と目されていた。元来千里山は三年生エースを先鋒とするためであり、実力的にもそれが妥当と思われていた。
しかしそれに待ったをかける部員が現れたのである。二年、江口セーラだ。スプリングでは大将を務め、あの宮永照とも対決している。そしてそれがいい刺激となったのか、四月のランキング戦における成績を猛烈に上げて、蔵垣るう子に匹敵するほどの実力を持つに至った。
結果として、エースは江口セーラ。るう子は先鋒から大将までをつなぐ中堅の立ち位置につくこととなった。
そんなある日の、ことである。
「――先輩」
るう子にふとかけられた、耳慣れた後輩の声に反応し、るう子はさっと振り返る。元より気品のある少女だ。ただ振り返るというだけの立ち振舞も、どこか幻想的で、人に見させるチカラがある。
蔵垣るう子が、孤高とされる要因だった。
「セーラさん、どうかしましたか?」
江口セーラ。インハイにおいてのエースとして決定した、新生千里山の二年生エース。少しだけ所在無さげに視線を揺らしてから、恐る恐ると言った様子で、るう子に対して問いかけた。
「あの、こういうのを先輩に聞くのは、ちょっと違う気もするんですけど、でも部長が先輩に聞け、いうたんで、聞かせてもらっていいですか?」
使い慣れていない、と言うよりは少しの緊張が混じった声音。るう子はなんとなく、それだけでこの先の内容がうすうす知れた。
「……先輩にとって、エースってなんですか?」
「エースですか。少し、私には縁のない話ですけれど……そうですね」
――蔵垣るう子がエースをしていた期間は秋季大会からスプリングまで、負けても失うもののない、挑戦だけを考えて臨める大会だ。無論強豪校としての最低ラインはあるが、それさえ守れば後はどこで負けてもいい、そんな大会だ。
るう子が意識したのは、勝つために必要なエースの仕事、ただそれだけ。責任は部長の緋奈に任せきりだし、一人でいることの多いるう子に、責任というのはピンと来ない。
とはいえ、思うことは語っておくべきだろう。自分のエース出会ったという立場が、彼女の築く栄光の、些細な礎になるというのなら。
「絶対に勝って帰ってくるのが仕事ではないでしょうか。エースはその高校の顔ですから、まず勝たなくては」
「それは……まぁそうですけど、でもそれって、スプリングで大将をやってみてわかったんですけど、“大将の仕事”なんですよ。その高校の顔とかなんとか関係なく、勝敗の責任は全部大将が負いますから」
なるほど、と頷く。
今まで、中堅ばかりを務めてきたるう子には少しピンと来ない部分だ。
「それに、先鋒っていうのは“一番負けていい”ポジションだと思うんです。後の四人で取り返せば、よっぽどのことがなければ負けませんし」
先鋒が、いつまでも勝ち続けられる訳ではない。そしてその先鋒が、大将のように勝敗そのものに結果をもたらすような、責任を負ってしまうわけでもない。
であれば先鋒とは? エースとは? いよいよ解らなくなってしまう。セーラ以上に、エースを任されるという重責を感じないるう子には、判断のつかないことだった。
それでも、思い描いた言葉の群れを何度も何度も編み上げて、自分の言葉へ、セーラに向けた激励へと変えていく。
「でしたらこういうのはどうでしょう。エースとは、その高校で“最も強い”存在である、と」
「そのままやないですか」
「そうでしょうか。確かにそうかもしれませんが、それ以上に、自分が競り負けたら、後は“自分よりも弱い相手”に全てを託さなければならない存在。どうでしょう」
思い切った言葉の物言いだ。
確かに成績上、るう子はセーラに劣っている。しかし今年が最後のインハイであるるう子の覚悟と、後一年が残されているセーラでは、強さに対する重みが違う。
その覚悟が麻雀における一時の優劣をつけるなど、ままあることだ。
「ですからどうでしょう。エースはむしろ後ろにいる自分より弱い相手に全てを任せなければ行けないと、傲慢にも思うべきです。そして同時に――」
続けざまに、るう子は言った。セーラは大いに意識を傾けながらそれを聞く。聞き入るように、立ち尽くしていた。
「――自分の成績に全ての責任を負う。誰かに対してではなく、己自身に。それがつまり、」
一拍、るう子の言葉は空白へ散った。
「――エースである、ということではないでしょうか」
自分が負ければ、全てが終わってしまう。そのくらいの気持ちが必要である、と。るう子は考える。
蔵垣るう子は他人とはどこか、一線を画するような雰囲気を持つと良く言われる。それがゆえで孤立を招くこともあるが、それを孤独であるとるう子が思ったことはない。
とはいえそんな、孤高のエースが如き言葉を浮かび上がらせる自分は、少し悪い人間なのかもしれないと、苦笑する。
納得したようなセーラに、満足気に頷きながら応える。
それが四月終盤、千里山レギュラーのエースと元エースの間で交わされた、短いながらも意識に残る、会話だった。
♪
南三局一本場が白糸台のチートイツツモで流され、オーラス。
ここで勝負に出たのは千里山と臨海女子。どちらもリーチをかけ、片やノベタン、片やシャンポン待ちでの勝負となった。
ツモ切りを繰り返しながら、少しだけ昔のことを回想したるう子は、それを飲み込むように考える。
(中堅としてのポジションが定位置になっている私は、エースとしての言葉をセーラに伝えることはできませんでした。あの時セーラに伝えた言葉は、第三者としての蔵垣るう子が、第三者の目線で語った言葉にすぎません)
無責任かもしれないが、結局はそうだ。エースなんていうものを理解したことはないし、スプリングにおいてるう子は、かつべきところは勝ち、負けるような試合は負けるしかなかった。――端的に言えば、第二回戦までを千里山は問題としないし、アン=ヘイリー率いる臨海と激突した準決勝以降では、思うように稼げなかった。
何かができたと思うには少し、経験が少なすぎたのだ。
(それでも、なんとなくは解ります。大将はチームの勝敗を一手に担う、“チームの責任”を背負う存在。そして先鋒は、自身が象徴となることでチームを引っ張る“自分の責任”を背負う存在)
その中間に、この中堅というポジションはある。
姫松のような特殊な編成にならない限り、中堅は、あらゆる意味で先鋒と大将をつなぐ存在になるのだ。
(私はたとえ一人であっても、それを違うと否定する。孤高と連帯が同居した、このポジションで戦うことが、やはりしっくり来るのですよね)
伸ばした右手。
ツモによる和了は――ならなかった。ハンナの現物だ、当然すぐさま切り出していく。そして直後。
「ロン!」
宣言は、るう子から。
さえずるように呟いて、牌を倒した。
――前半戦、終了である。
♪
「……いやはや、完全にマズイかなこれは」
――依田水穂:三年――
――龍門渕高校(長野)――
――86300――
気がつけば、だろうか。
何もできずに半荘戦が終わっていた。あっという間のことであり、意識をする暇もなかった。そのせいか、一度休憩に入って、冷却期間を終えてようやく自分が参ってしまっている事に気がついた。
「これじゃあ、配牌も悪いだろうな。後半戦が大変だ」
椅子に座り臥せったまま、天井を仰いで考える。後半戦、どうすれば良いか。
少しだけ考えて、すぐに答えを出すのは諦めた。だす必要もないことだと、いまさらのように思い出したのだ。
「……こういう時こそ、私の“技術”を見せるところか」
なるようになるだろう。一つでも上手くピースがハマれば、どこまでも強くなるのが依田水穂という雀士だ。それは今も昔も、変わらない。
――と、そこに、やってきた人影がひとつ。
「よろしくお願いします!」
――彦根志保:三年――
――白糸台高校(西東京)――
――65300――
どうやらそろそろ対局開始の時間であるようだ。白糸台の彦根志保だけではない、遠くには、千里山、そして臨海の選手の姿も見える。
――ハンナ=ストラウド:三年――
――臨海女子(東東京)――
――144800――
「それでは――」
――蔵垣るう子:三年――
――千里山女子(北大阪)――
――103600――
「――――始めましょうか」
♪
席順。
東家:蔵垣
南家:ストラウド
西家:彦根
北家:依田
――東一局、親るう子――
――ドラ表示牌「{③}」――
想定したとおりではあるが、水穂は配牌の瞬間に、ため息をこらえるのに苦労せざるを得なかった。
それほどまでに、その配牌は酷いものだった。
――水穂手牌――
{
(これは……なんか、聴牌を狙うのすら苦労しそう。海底バックとか……? イヤ、ナイナイ)
水穂/打{南}
(役牌は、一枚だけじゃ正直掴むのは難しいか……とにかくここは、)
「チー」 {横二一三}
(少しでも前に進んでおかないと……!)
水穂/打{④}
せめてもの救いは、上家がこの中で最も練度の低い白糸台である、ということか。絞りという概念は、少し白糸台には難しいかもしれない。
加えて、たとえ防御に徹するとしても、現状ツキが最悪の水穂よりも、イケイケの千里山、臨海の二校を意識することだろう。
水穂/ツモ{③}
(ありゃ……いや、これも好機、めげたら終わり何だから、私のツモの性質上!)
水穂/打{5}
(この卓に着いたメンバーのうち、二人が門前派で助かった。速度で上回るのは、そんなに難しいことじゃない)
「ポン!」 {西横西西}
(そのためにも、白糸台には自沈してもらわないと。さぁ、オタ風の副露だ。当然役牌を意識することくらいは、するはずだ)
役牌など、攻めに転じる上で打牌に歯牙などかけないものだ。しかし、守りに入ると決めたのなら、徹底的に絞って、泣かせないのも王道である。
(……さて)
――るう子捨て牌――
{1八東(西)}
(第一打{1}だし、多分手牌には真ん中の索子が入ってるはず。{3}が一枚、ってところか。あまり期待はしてないけど……)
{九}はハンナが一枚打牌。水穂の見立てでは山の中にまだ{七八九}はごっそり残っている。バラけていればそれまでだが、バラけた糸を手繰り寄せ、手牌とすることも可能かもしれない。
直後、水穂は{九}、{1}を連続で引き入れ、更に白糸台の打{2}を副露、イーシャンテンとする。
――水穂手牌――
{七九79東} {横213} {西横西西} {横二一三}
(捨て牌に、{七八九}は一枚ずつ。対して{789}は一枚もなし。そこから考えれば一見{七}を切るべきにみえるけど、私はここで、こっちを払う)
水穂/打{7}
{東}である必要性は――? 聴牌まで、{東}は抱える必要がある。白糸台に少しでも手牌を萎縮サせるためだ。そして、もしも{東}が重なった場合、二翻も見えてくる。最高の打点と、最大の牽制を同時に行える以上。嵌張二つよりも、この{東}は強い。
そして、
――水穂/ツモ{八}
(――聴牌!)
最後に切るのは、{東}。ここまでていない牌であるということは――
直後、白糸台が{東}を切った。水穂のツモ切りを挟んでもう一度。対子にしていた{東}を払ったのだろう。
――当然、水穂が{東}を払わなければ出ていなかった牌だ。
四枚目は千里山がツモ切った。水穂のツモれる場所に、{東}は一枚もなかったということになる。
そして最後。和了はそれから三巡後だ。
「ロン!」
千里山からこぼれた{9}を即座に掬い上げ牌を倒した。元より、チカラの特性上ベタオリがしにくかった上に、{8}が壁となったのだ。
とりあえずこれで一つ和了。
感触を確かめるように、点棒を受け取ってそれを少し弄んだ。
――東ニ局、親ハンナ――
――ドラ表示牌「{四}」――
「決まったぁー! 東発の大事な緒戦を制したのは、絶望的と思われた配牌を掴まされた依田選手――!」
実況室と、それから会場中。対局室を除いたあらゆる場所に、アナウンサー、福与恒子の声が響き渡る。
「かなり苦しい形でしたが上手くハマりましたね、イーシャンテンの際に嵌張を外したのは、ハンナ選手の手牌に{8}が三枚あることを見越していたのだと思います」
健夜が冷静な声音で言う。対照的な両者だが、ピースが嵌ったようにこの二人の実況解説は心地よい。さすがは名の知れた名コンビといったところか。
「今回はちゃんと特急券の入ったいい形だ! このまま連荘で巻き返しはなるか――!」
「依田選手は一度連続で和了すると、そのまま手が付けられないほど勢いを付ける選手です。二連続で和了したとなれば、十分警戒に値すると思います」
その健夜の言葉通りといったところか、先ほどの和了をそのままツキに変換した水穂は猛烈にツモを加速させる。
最初に{發}を鳴いた時点で、勝敗は決しているかのようだった。
決着は六巡目。
『ツモ!』
――水穂手牌――
{四五六③④77横②} {横三一二} {發横發發}
『500、1000!』
「決まったぁ! グイグイと攻めるツモが心地よい! コクマを騒がす長野の雄! 依田水穂ここに完全復活ゥ――!」
「雄!?」
――そうして対局は東三局。後半戦も、折り返しにさしかかろうとしていた。
――東三局、親志保――
―ードラ表示牌「{九}」――
ここまで連続で和了して、しかしそれでもまだ手牌には陰りが見られる。
先ほどのドラ一ツモはまだツモが驚異的であったから助かったものの、此処から先は未知数の領域だ。
(喰い三色にタンヤオが見える。これを鳴いて行かないと――)
機会は即座に来た。役牌を“重ねられない”るう子は攻めに転じる場合、それを切り出さなくてはならない。本来であれば歯牙に掛ける必要はなかろうが、ギリギリまで粘って、六巡目に飛び出した。
「チー!」
直後のツモ。
ドラの{一}を引き入れる。ここまで誰も切っていない、おそらくは誰かが対子にしているであろうと水穂は見るがそれでも――
(悪くない!)
更に二つ、水穂は鳴いた。白糸台もおそらく、この親番攻めに転じるような手を引き寄せたのだろうが、それでも、
――水穂手牌――
{一一一八九} {横五六七} {横⑦⑤⑥} {横657}
水穂/打{九}
そこからは、水穂も志保も、二度ずつ無筋をツモ切った。そうして三度目のツモ、水穂の手牌に動きが見えた。
――水穂/ツモ{一}
このドラ{一}、カンをすれば跳満も見え、ドラが乗るかもしれない、そんなツモ。しかしそれを水穂は切った。
あくまで他家を、誘い出すために。
(この局で跳満を自摸れば、それは確かに大きなアドバンテージとなる。けれども、それじゃあ意味が無い。連続で和了れる私の場合、次の手牌につながる可能性の高くなる、この選択が最善となる!)
今の一局だけは見ない。次の局、そのまた次の局で、自分がいったいどんな立ち位置にあるか、それをしっかりと予測して、麻雀を打つ。
水穂なりの、必勝法だ。
そして、
「ロン!」
読み違えた千里山が水穂に放銃。
三連続和了、ようやく軌道に乗り始めたのを、水穂は心底実感していた。
――東四局、親水穂――
――ドラ表示牌「{⑧}」――
ようやく迎えた優位な状況での親番。こうなってしまえば、もはや水穂を止められる手立てはそうそうない。
「リーチ」
――四巡目。
高速での聴牌に、他家の顔がそれぞれ歪む。特に厳しいのは、これまで二度も放銃を許し、ベタオリが難しいるう子だ。対子ができない以上、オリに徹するのが難しい、――故の中堅起用なのである。
(今年の春に新生した龍門渕。私が引っ張ってきた県の強豪なんていう小さな肩書から逸脱したポテンシャルを持つチーム。未だに実感がわかないっていうのは、少しあるかな)
水穂の思考。
周囲の変化に自分は追いついているのか、いないのか。もしもこのまま何もできずに終わってしまえば、それこそ意味のない闘いだったと言わざるを得ない。
変化のない闘いなど。
――あの時のことを思い出して、なお思う。
悪化して、今の世界に閉じこもることも、改善して、新たな世界に足を踏み入れることも、今後の自分にとって、必要なことなのは間違いないのだ。
(どちらにしろ、やるしか無い。勝つか負けるかしか終わりがないというのなら、私は勝って、変えるだけだ!)
先ほどまでの不調。それが精神的なものか、技術的なものかはさておくとして、水穂はようやく取り戻したのだ。
元エースとして必要な全ての条件を。勝利のための、自分自身を。
「――――ツモ!」
――水穂手牌――
{三四五六七⑧⑧234567横五}
「メンタンピン一発ツモは――4000オール!」
宣言、そして直後。積み棒を取り出して、揺らめかせながら、所定の位置に置く。瞳が潤むように揺れ、焔とかして、燃え上がる――!
「――一本場!」
――東四局、一本場――
――ドラ表示牌「{⑤}」――
かつての自分が何を失い、今の自分が何を手に入れたのか、水穂はよくわかっていない。かつて失ったことで手に入れたオカルトは、今も水穂のチカラとなっているし、ようやく取り戻した、麻雀を好きだという気持ちが、昔のそれに劣るとは思わない。
――振るわれた右手。断頭台の斧が如き、宣告の一撃は、ただ牌を叩きつけるというそれだけの動作に、必殺の意味を十分込める。
そう、
「――リーチ」
ダブル立直である。
この一本場、先制リーチを水穂が決める。
満を持して。
龍門渕高校元エース。依田水穂が、その右腕を大いに触るう。
「ツモ!」
水穂の和了宣言となった。
――水穂手牌――
{横四一二三五六七八九44777}
「――6100オール!」
ここに来て、ようやく。
龍門渕高校は先鋒戦終了時の点棒を上回る。依田水穂がそれを――怒涛の連続和了によって為したのだ。
かくして中堅戦、東四局は一本場を終え、二本場へと移る――