咲 -Saki- 天衣無縫の渡り者   作:暁刀魚

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『思いの行き着くシュウチャク点』中堅戦③

「リーチ」

 

 

 ――東四局二本場、親水穂――

 ――ドラ表示牌「{3}」――

 

 

 一巡目、またしても水穂のダブル立直が炸裂する。反応を見せたのは白糸台、蔵垣るう子のはなった役牌を、即座に喰らいつき牌をずらす。

 

 そしてハンナ=ストライドもまた、ズラされ流れてきた牌を抱えながら、水穂をみやって意識を強く集中させる。

 

(一発がずれて、これでいつ牌を自摸るのかが解らなくなりました。おかげでこっちは当たり牌を掴まされたけれど、使い切れないわけじゃないですね)

 

 ハンナ/打{1}

 

 言うまでもなく、これ以上龍門渕の爆走を許す訳にはいかない。これ以上は、現在臨海が築いたトップという立場も、危うくなるだろう。

 

(多少、無茶でもいい。なんとしてでも私の和了で龍門渕を止めてしまいましょう。あまり負いたは許しませんよ……と)

 

 ――ハンナ手牌――

 {一三六lil()八②②⑦⑧⑨689} {(ili)}

 

 ハンナ/打{六}

 

(本当は先に{九}が欲しかったのですけど)

 

 志保/打{①}

 

 水穂/ツモ切り{東}

 

 るう子/打{7}

 

 すでに完成形を見ている水穂を除き、全員が手を進めてくる巡目、流れが静から動へ移ろい始めているのだ。

 しかし続くツモ。

 

 ハンナ/ツモ{2}

 

 不要牌。しかし問題はそこではない。――これは水穂の危険牌だ。

 彦根志保の副露によって引き入れたのは{8}つまり待ちは、{2}―{5}―{8}が濃厚。普通に考えれば{5}―{8}だが、勢いにのる水穂の場合、三面張は十分に有り得る。

 

 しかし、これを有効に活用することは不可能だろう。すでにハンナは一向聴。ここから回り道をするのは、すこし無理がありすぎる。

 

(――当たるか、当たらないか)

 

 判断することは、おそらく不可能。

 単純な賭けの問題になる。水穂の当たり牌は三面張か、両面か。もしも外れれば、親満クラスは覚悟し無くてはならない。

 

(……でも、きっと逃げてはいられない!)

 

 ハンナ/ツモ切り{2}

 

 逃げる訳にはいかないし、立ち尽くすわけにも行かない。進むしか無いのだ。そうでなければ、きっとハンナは――

 

 そうして直後。

 水穂は手牌に手を伸ばし――――それを開けることはなかった。確定である、水穂の待ちは{5}―{8}の両面待ちだ。

 

 更に巡目は進み。

 

「――リーチ!」

 

 ――ハンナ手牌――

 {一三六七八②②⑦⑧⑨68lil()} {(ili)}

 

 ハンナ/{横9}

 

(追いつきましたよ――!)

 

 思わずといったふうに、ハンナはじろりと水穂へ敵意を向けた。瞳に宿った執念のような炎が、水穂の姿を陽炎のように揺らめかせる。

 

 ――水穂は、どこか笑っているように見えた。超然と、しているように見えた。

 

 

「ロン」

 

 

 そして、宣言。

 

(――、)

 

 ハンナはそれから沈黙した。顔を伏せ、髪がゆらめき瞳を覆う。覆われた視界からは、水穂の姿はもう見えない。

 

 

 ハンナは――笑っていた。やり遂げたような、満足気な笑み。

 

 

「――――5200の二本、5800!」

 

 

 宣言は、ハンナ。

 まくりあいの末、水穂に直撃を突き刺したのだ。

 

 

 ――南一局、親るう子――

 ――ドラ表示牌「{⑥}」――

 

 

 叩きつけられた牌が、爆音を拭きあげて顕とされる。

 

「ツモ! 1000、2000!」

 

 ――水穂手牌――

 {二三四⑦⑦56横7} {五横五五} {横345}

 

 一度勢いに乗った水穂は、一度の直撃程度で止められるわけでもない。たとえ手牌が“少し”悪くなろうと、それを有に超える聴牌速度でなければ、止めることはかなわないのだ。

 

 無茶をしなくては、そう考えていたのは決してハンナだけではない。白糸台も、千里山も同様だ。しかしそれは隙となる。全員が前に進もうとした時、浮き上がる牌を最も釣り上げるのは鳴きを得意とする水穂なのだから。

 

(――一体どこから、そんな副露のたねを持ってくるのです! こっちは、ひとつの鳴きすら苦労しているというのに!)

 

 この局。元より配牌の悪いハンナを除き、全員が副露での聴牌が非常に容易な手を用意していた。だというのに、副露できたのは水穂だけ。六巡という合間の間。一度でも手牌を短くできたのは、水穂の他にいなかった。

 

 思わず下唇を噛むほどの勢いで水穂を睨みつけるハンナ。――先ほどまでは、アレほど沈んでいたはずなのに、どうしてここまで精神を前向きに持ってこれるというのか。

 

 依田水穂は一体どこまで、その強さを心底に秘めているというのか。

 

 わからなくなるほど、見つめ返してきた水穂の瞳は、深く――そして澄み切っているようだった。

 

 

 ――南ニ局、親ハンナ――

 ――ドラ表示牌「{6}」――

 

 

 単なる速攻による前傾でもっても、水穂を打倒することはかなわなかった。完全に水穂とそれ以外の一騎打ちが同時に三つ存在するような戦場とかした中堅戦。

 一度の失敗で冷静さを取り戻したのか、若干速度よりの方策をとってはいても、打牌自体は慎重なのが、千里山と白糸台。

 

 しかし、臨海女子、ハンナ=ストラウドはそうも行かない。彼女はその特徴的なツモにより、ある一定の選択を取らざるをえないのが彼女だ。

 

 そんな彼女が無茶をするとなれば必然的に、“一定以外”の選択は、相応以上の危険を伴うということだ。

 

「――ポン」 {發横發發}

 

 ――ハンナ手牌――

 {一三六六九④lil()南北北} Σ{發横發發}

 

 ハンナ/打{7}

 

 この対局。――どころか、インターハイでハンナは初めて副露を宣言した。追い詰められている、と言って良いだろう。運に見放された自分が、わざわざ副露で手を前にすすめる方法を取るなど。

 正攻法と、言ってしまうような副露をするなど。

 

 通常では――ありえないことなのだ。

 

 だが、この一瞬、この手牌においてはありうる。ハンナの狙いはむちゃな染め手、バカホンと言うやつだ。当然、通常よりも“運に見放された”ツモになる。

 そこがハンナの狙いである。

 

 たとえ――

 

 

「ポン!」 {7横77}

 

 

 龍門渕にドラを喰い取られたとしても、ハンナのツモは、ある程度戦えるだけのツモであるのだ。

 

 ハンナ/ツモ{二}・打{④}

 

 普段なら、ここまで自然に嵌張が埋まることはあまりない。もっと重厚に、粘って、粘って、粘って、気がつけば完成している、そんな後ろ向きの手牌であるというのに。今は違う。むしろ前に前にと、グイグイツモがハンナに応える。

 本人の無茶を引き換えにしながら。

 

「ポン!」 {④横④④}

 

 捨て牌から、水穂は対々和が濃厚だ。多少特殊な役だが、それでも十分なほどに、彼女のツモは強いはずだ。

 おそらくはもう、この副露で聴牌である。

 

 続くツモ、ハンナはツモ切り。水穂は盲牌だけをして、意識すら向けずツモ切り。直後に{南}をハンナが引き入れ、これで一向聴。そして、

 

「ポン!」 {六六横六}

 

 {六}を鳴いて、聴牌にまでこぎつけた。水穂はそれを歯牙にも欠けずツモ切り。ハンナもまた、水穂の聴牌など気にするつもりもなかった。

 

 和了はハンナの手牌から三巡後。

 もどかしくなるほど響いた打牌の音が消え、代わりに幾分か強さをましたハンナの牌が、卓を踊って跳ね上がる。

 

「ツモ! 2600オール!」

 

 引いたのは、休め。それでも十分だ。――十分すぎるほどに、ツモはつかめた。

 

 

 ――南ニ局一本場、親ハンナ――

 ――ドラ表示牌「{西}」――

 

 

 臨海女子控室。珍しく――と言って良いだろう。アン=ヘイリーが、心配そうな顔つきでハンナの対局を見守っていた。

 それに目敏く気がついたタニアが、少しだけ意外そうな顔でアンに一言言葉をかける。

 

「珍しいね、アンがそこまで他人に気をかけるなんて」

 

 軽口、ではあるものの、どこか人の気を抜くような声音だ。むっとしたようにするアンも、どこか安心したようにそれへ言葉を返す。

 

「私にだって他人との付き合い方の違いはありますよ。私の知り合いは、そこまで心配の必要がない人が多いだけです」

 

「まぁ、それはそうかもしれないけどさ」

 

 言いながら、モニターの向こうで牌を握るハンナへとタニアは意識を移す。彼女を知る人間であれば、今の彼女が相応に無茶をして、相応に危険であることは解るのだ。

 

「しょうが無いとはいえさ、大丈夫かな、ハンナ」

 

「あの娘は、弱くはないのですけどね……最低ラインに対する最高ラインが、少し他人より低いのですよ」

 

 精神的に、“これ以上は駄目だ”というものに対する耐性は、ハンナの中であろうとも、“これが最高だ”という意識はハンナの中ではまだ薄い。

 幸せ以外のものを喪いながら、悪運によって手に入れた最低ラインの幸福を、実感することができないでいる。

 

「本当に、不器用なんですよ、ハンナは」

 

 無茶はしてほしくないとは思う。今のハンナはチームの勝敗以上に、別の何か――その何かは、きっとシュウチャクとでも呼ぶべき、何かなのだろう――によって牌を握っている。

 大崩れはしないだろうがそれでも、些細なミスが致命的なエラーを呼びかねないのはまた事実。

 

「そうせざるを得なかった、ってのはあるだろうけど、それでもやっぱりあと少しだけ、ハンナには強くなって欲しかったけどな」

 

 そのほうが、ライバルとして越えたくなるだろう。タニアはそんな風に言う。仲間としては、別に文句はないのだろうが。

 

「何にせよ、まだハンナは勝っていますし、ここで大きな一撃をもらおうと、ハンナの優位は変わらない。どちらにしろ彼女は“負けていない”んですよ、彼女の精神が折れていないのと同様に」

 

 漏らすように、つぶやく。

 タニアはよくわからない、とそういった。

 

 やがて決着は水穂の和了によってもたらされ――

 

『ロン、12300!』

 

 振り込んだのは、臨海女子、ハンナ=ストラウドだった。

 

 

 ――南三局、親志保――

 ――ドラ表示牌「{7}」――

 

 

 親番、しかも後半戦の南三局というこの場において、白糸台の彦根志保は思わず息を呑む配牌を得た。

 

 ――志保手牌――

 {四②③④⑤⑤⑥⑦⑨19發西(横④)}

 

(こ、これって……親満? 親ッパネ? いや、清一色に行ければ親倍もある。とんでもない手牌だ……!)

 

 上を見れば、見るほど攻めに転じられる牌。鳴くか? いや、両面の多い手牌だ。鳴かなくてもすぐに――

 

 

(――よし)

 

 

 ――聴牌できる。

 七巡。それだけの速度で志保は手牌を仕上げた。

 

 ――志保手牌――

 {②③④④⑤⑥⑤⑥⑦⑦⑨發發(横⑨)}

 

 もはや手牌がよく解らなくなってきてしまったがために、面子ごとにバラすという、初心者のような真似すらして、志保は手牌を作り上げた。

 聴牌である。問答無用に親満になりうる手が作られた。

 

(できた、できたできたできちゃった! 出和了りで、しかもダマでも高め親満。十分すぎるくらい。……けど、ほんとにそれでいいの)

 

 満足を持って受け入れられる手牌。しかし、それでは惜しいとも、思考の何処かで自分が告げる。悩みに悩んで、考えを巡らせる。

 

(一通にも、一盃口にも、すぐに変化しそうな手。それに、清一色にだって迎えるし……むしろ七巡目なら、清一色のほうがいい気さえする)

 

 ちらりと視線を落とす。

 見えるのは、自身の点棒状況。最下位だ、間違いなく、見間違うような隙もなく。

 

(どうするの? 少しでも和了って高い点棒で弘世さん達に回すべき? それとも無茶をせずに手を作っていくべきなのかな……わかんない、わかんないよ!)

 

 視界がぐるぐると回り出す。意識が複雑に回転を始めたのを自覚する。どうしよもなく考えを覆う異様なまでの感覚に、言い様もない不快感すらも浮かんでくる。

 

(選択肢が多くなればなるほど、それを考慮した結果、最善と呼べるものが解らなくなってくる。わかって入るけど、ちょっとばかりそれを決定するのは、難しすぎるよ――)

 

 ゆっくりと、志保の瞳が閉じられてゆく。眠気をごまかすようなそれ。ないしは、寝ぼけに身を委ねるようなまどろみの瞳。

 すぐに瞠目は見開かれた。

 

 

 だが、その時志保の眼に刻み込まれていたのは、困惑でも、思索でもなく――色のない空とでも呼ぶべき景色だった。

 

 

(―――――いや、それはだめだ。この手は、リーチはかけないし手変わりも考えない。ダマで、確実に高め出和了り、ないしはツモ和了を狙う)

 

 決断した。まるでそれが最善であることを、志保ではない何かが直感するかのように。――それは、志保の中にある最低限の最善を見つけ出す、直感的な探知機のようなものだった。

 

 この局。この親満でも十分に出和了りが望める。

 なぜならば、すでに水穂が聴牌しているようだからだ。しかもおそらくは跳満か、最低でも満貫以上。ドラを対子で副露しているのである。

 

 であれば、おそらく水穂は親満までなら勝負にでるはずだ。跳満以上はさすがにリターンが見合わないだろうが、親満ならまだ、めくりあいになる可能性はある。

 

(だからこそ、ここで選択は間違えない。私のできなかった仕事は、白糸台の後続達がこなしてくれる。――何せ、弘世菫と宮永照は、“最強”、白糸台のエースなんだから)

 

 志保/打{⑨}

 

 たっぷりと、というほどではないにしろ、悩みに悩んでの一打であった。当然周囲に聴牌は知れる。構わない。元より水穂以外からの出和了りは考えるつもりもない。

 必要なのは、可能性。水穂から和了れる――水穂を止めうるという、可能性なのだ。

 

(さぁ、後は私が自摸るか、龍門渕が掴むかだけだ)

 

 水穂/打{2}

 

(――出ろ!)

 

 志保/打{東}

 

(――出ろ、出ろ!)

 

 水穂/打{一}

 

(――出ろ、出ろ、出ろ!)

 

 志保/打{9}

 

(――――出ろッッッ!)

 

 水穂/打{發}

 

「――ッ!」

 

 一瞬、言葉が詰まって、しかしどうしようもなく感情が溢れだし、それだ志保の両手を突き動かすのだ。

 

 

「…………ロンッ!」

 

 

 感極まった勝利の宣言は、果たして誰の耳にも、届いていた。

 

 ――続く南三局、一本場。オカルト的な法則のない志保の手牌は、つづくツモにまでは響かない。当然のように失速したものの、堅固な守備で他家の有効牌を全てカット。

 結局和了したのは、そんな中でも的確に牌を拾い上げた水穂。

 “なんとか流した”とでもいうような様子で、三翻を和了った。さすがに二度の直撃は彼女の速度をソグには十分で、今の和了も満足の行くものではなかったのだろう。

 

 そして、オーラス。

 

 

(――負けてしまった。そんな気分ですね)

 

 一人、ごちるようにるう子は思考した。ここまでのマイナスで、前半戦の稼ぎも大きく逸して閉まっている。点棒は最下位でこそないものの、此処から先、厳しい戦いがあることは予想するのも難しくない。

 

(そんな老体に、ムチを打つようなこの配牌。他家のリーチがかかっているとはいえ、多面張ですか)

 

 ――るう子手牌――

 {二三四五六七九②③④234(横八)}

 

「リーチ」

 

 るう子/打{九}

 

(不思議なもの、といったところでしょうか。負けているのに、何も得られていないのに、この配牌は、少しばかり温かい)

 

 その理由は、きっと感慨にあるのだろう。

 三年間の集大成、終わってしまう一つの祭り。後悔するのも忍びない、小さな小さな、想いの行方。

 てっきり自分は血も涙もない冷血な人間であるとばかり思っていたが、振り返ってみればそれ以上に、誰かにかけた言葉も多い。

 

 世界がひとつではない以上。

 何かにつながっている以上、どんな人間であろうとも、少しくらいは、善と悪を両立させているのだろう。

 

「――ツモ」

 

 前半戦も終わる半ばに、なぜセーラとの会話を思い出したか。

 それがなんとなくわかった気がする。自分の中には、一人でありたいという思いと、そうありたくないという思いがあった。

 

 きっと誰だってそうだろう。

 

「メンタンツモの三色は――裏なし」

 

 るう子は絶対にエースではなかったが、エースになりたくないと思ってはいなかった。結果として、こうして半荘二回を終えて、マイナスという収支で対局を終えて――

 

 わかったことがある。

 

「――2000、4000」

 

 少なくとも蔵垣るう子は、自身があげるエースの最低条件を、満たしているということになる。

 

 

『――中堅戦、終了ッッ!!』

 

 

 ♪

 

 

 中堅戦まで、六回の半荘で多少なりとも明暗はわかれたようだった。

 

 最下位は白糸台。

 

 ――白糸台高校(西東京)――

 ――59000――

 

 こちらは副将戦、ついに白糸台のポイントゲッターである弘世菫と宮永照が登場する。巻き返しが始まる、というわけだ。

 

 三位は千里山。

 

 ――千里山女子(北大阪)――

 ――88600――

 

 先鋒戦、中堅戦に登場した千里山のスコアラーが敗北、かなり厳しい位置につけている。それでもまだ、千里山の三番手、穂積緋菜は健在だ。

 そして、

 

 二位、龍門渕高校。

 

 ――龍門渕高校(長野)――

 ――121500――

 

 次鋒及び中堅戦前半で失速したものの、後半怒涛の追い上げ、収支トップすら奪っていった。一度は臨海女子を上回り、トップに立ったほどである。

 

 そして、

 

 トップは臨海女子。

 

 ――臨海女子(東東京)――

 ――130900――

 

 後半戦はマイナスだったものの、全体を見てもプラスの成績。

 その立役者、ハンナ=ストラウドは一人、どことも知れぬインターハイ会場の廊下に佇んでいた。

 

 意識が上向き、どこか呆然としているのは、その姿から見て取れた。

 

「――ハンナ、ここにいたのですか?」

 

 声をかける者がいる。アン=ヘイリー、ハンナのことを最もよく知ると言って良い親友だ。

 

「……どうしたのです? そんな、途方に暮れて、まさか後半戦の負けを気に病んでいるのですか?」

 

「それは……」

 

 そうだ、とはいえなかった。後半戦で敗北したことは、アンもまたそうであるからだ。頷けばきっと、そのことをやり玉に上げて宥められる。

 ハンナの悩みも、有耶無耶になってしまうだろう。

 

「……心配はいりませんよ」

 

 そう、考えてはいたのだが、しかし。アンはハンナを抱きとめるように、肩から体の後ろへ手を回した。

 あっ、とハンナの悩ましい吐息のような声が漏れる。

 

「私にとって、ハンナはたった一人の存在です。確かに瀬々や、タニアやシャロンは私のライバルであったり、友人であったりします。けれども、」

 

 続ける。

 

「“心配することができる”私の親友は一人しかいません。ハンナ、貴方だけなのですよ。私にとって、ハンナは絶対に替えの効かない、ただ一人の存在なのです」

 

 ――それこそ、父や、母のように、ただ一人しか、自分に存在することの許されない存在。それがハンナなのだと、アンは言う。

 誰よりも、大切な存在。

 口の中でそれを、繰り返すようにハンナは転がした。

 

「だから、心配しないでください。するならたっぷりと、自分ではなく無茶をする親友、アン=ヘイリーのことでお願いします――ね?」

 

 茶目っ気を含ませたウィンクをするアン。

 

 思わず吹き出した吐息は、笑みで、安堵で、感傷で。

 

 ――安心と余裕を取り戻したその時ようやく、ハンナは自分の闘いが、インターハイが終わったことを、自覚するのだった。


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