『回帰の時』
衣の手が伸びる。周囲の気配が異様に緊張を帯びたのを、瀬々は感触で理解した。ここ数日の大決戦。幾重にも刻まれた経験値が、それを瀬々に解らせたのだ。
三倍満で捲られる。それはかなりの点差ではあるものの、衣にとってその点差を覆すことは児戯に等しいだろう。
たとえ三倍満でなくとも、満貫か、跳満か。どちらにせよ次のオーラスを優位に進めるためのツモであることには変わらない。
とはいえ衣にそんな手心はないはずだが――
『――ツモ』
――衣手牌――
{三四五③④④⑤⑤34588横③}
――ドラ表示牌「{④}」
『……え?』
『…………は?』
下家から、瀬々と同じような声が漏れた。衣が一瞬きょとんとしたが、それでも解らなかったのだろう、即座に続けて点数申告をする。
『4000、8000!』
直後。
暗夜に転じていた室内の照明が、途端に明るいものへと変わる。
『試合、終了――!』
そう言われて、一番呆けたのは、きっと衣だったのだろう。
『……あー、衣?』
『――――何故だ? 何故瀬々との嬉戯が終ってしまったのだ?』
『いやいや、衣ってば熱中しすぎだろ。……飛んでるぞ、下家』
わなわなと、瞳に涙を溜めた衣は、さながら小学生程度の子どもにしか見えないが、今それを言ったら、溜まりに溜まった感情が、すべてそちらへ向けられることは必定といえた。触らぬ神に祟り無し、だ。
――結局、最後まで衣は泣かなかった。しかしその代わり、今も――インターハイ個人戦を終えてすら、夏休みが終わり、新しい学期が始まる今日に至ってすら、どこかふてくされているような風であったのだ。
具体的に言えば、どことなくツーンとして、人と目を合わせようとしない。
――――“インターハイ個人戦”長かった団体戦の後に行われた一人と一人の意地の激突の最中。具体的に言えば本戦第一回戦において発生した瀬々対衣の対決は、非常に不完全燃焼なまま、瀬々の勝利という形で幕を閉じた。
結局その後、瀬々は順当に勝ち上がったものの、宮永照との激しい死闘に敗れ個人戦優勝を逃した。とはいえ、一年生ながらに個人戦二位という記録は、同じく三位に付けた荒川憩とともに、輝かしい成績ではあるのだが。
因みに、同じ長野勢は衣が一回戦敗退のため十七位。そして県予選個人戦で水穂を破り三位で全国に進んだ福路美穂子が十四位という結果になった。
かくしてこれが、今年度インターハイ個人戦、渡瀬々を取り巻く結果の顛末である。
♪
(気まずい……)
言葉にするでもなく、瀬々はそう思った。
現在、瀬々は龍門渕高校の教室にいた。長野の休暇は短い。夏休みも終わり、八月下旬最初の登校日。瀬々と、同じクラスであるところの衣は現在渦中の人であった。
というのもあるが、やはりここに来るまで、ずっと隣にいた衣が、どこかぼんやりしていたのも気まずさの原因だろう。
「瀬々、おめでとー」
級友の一人がにこやかに挨拶をする。懇意にしているというほどではないが、お互いに趣味程度ならば把握している間柄。
「ん、ありがと」
何気ない様子で返すが、心中は非常に複雑だ。ここからの展開が、容易に予想できるためだ。
「すごかったよ個人戦。あのチャンピオンにあと一歩だったもんねー!」
「あー、うん。惜しかった」
どちらかと言えば、二位で終わった個人戦のことよりも、宿敵であるアンに勝利した団体決勝先鋒戦のことに触れて欲しいのだが、さすがにそうも行かないだろう。
一般人にとって、あの団体戦は照と衣が最も印象に残っているはずなのだから。
「衣ちゃんも、団体戦優勝おめでとう! すごかったね!」
――明らかに、瀬々よりも衣を取り囲んでいる人の数が多い。これは、このクラスにおいて衣がマスコット的立ち位置にいるためだ。
しかもその衣が、団体戦決勝で見せた闘牌は、多くの者の心に刻まれている。所詮は個人戦二位でしかない瀬々とは、些か格が違うというものだ。
ただし、本人はどうにも不満気である。
普段であれば本人も楽しんでマスコット扱いを否定するのだが、今日はどうにも上の空。無理もない、未だに個人戦の事を引きずっている以上、団体戦を褒められても、あまり嬉しくは感じられないのだろう。
「あー、でもやっぱ衣は個人戦楽しみにしてたからな。それがあの終わり方だとどうにも……」
周囲に、衣には聞こえないよう諌めると言った体で瀬々が囁く。個人戦、瀬々対衣はさながら団体決勝の再来とも呼ぶべき内容であったが、結果は不完全燃焼。それを直接見ていたものは、あぁといった風で納得していた。
「……
ふと、衣がそんな言葉を漏らした。
「…………瀬々、翻訳」
最初に瀬々に話しかけてきた友人が、いつもどおりの様子で瀬々にそれを投げ渡す。ポリポリと頬をかいて、困ったように瀬々が言う。
衣が時折使う
「あー、すっごい後悔してるんだって、衣のやつ」
熱中しすぎるあまり、自分と瀬々の点差にしか意識が向かなかったことの後悔。麻雀は四人で行う競技である以上、一騎打ちの形になっていても、邪魔をされる時はされるものだが――例えば、いつぞやの大沼プロと衣の対決に瀬々が割り込んできたような形だ――水を刺したのが自分自身というのであれば、誰かを責めるに責められない。
「まぁなんつーかさ、そういう時もある。不幸だったんだってアレは」
周囲を代表するように、瀬々は言った。いい加減、衣と会うたびに誰が悪いでもなく微妙な雰囲気になる状況は何とかしたかった。
だが、何とか出来るとは思えない自分もどこかにいた。――なぜか、までは判別が付かないが。
「そういうわけではないのだ、瀬々よ。これはまだ、瀬々には解らん感覚かもしれないが、悔しいのだ、大舞台での闘いがああやって不完全燃焼に終ってしまうのは」
「……まぁ、そうかな」
よくわからない、としか言い様がない。周囲も小首を傾げている物が多い。大舞台に慣れていない、大舞台へのあこがれがない。
――それはきっと団体戦決勝、アン=ヘイリーの感傷を瀬々が理解できなかったことと同じなのだろう。
「瀬々もそのうち解ると思うぞ? 瀬々、衣にはそういう瀬々の姿は、どこか自信なさ気に見えるぞ」
「それはどうなんだ? あたしは結局何を言っても、よくわからない、としか言えないぞ? 衣の言うことにも、自覚なんて無いしな」
「わからないからこそ、だ。……まぁ瀬々は衣の大切な友達だ。だからこそ信じて保証する。いつかわかる時がくるよ」
そんなものか、とは思いはするが、それでも“そんなもの”としか瀬々は思えない。
それからぐいっと大きく伸びをして、衣は大きな嘆息を一つした。そんな仕草一つすら愛らしいのだろう、即座に反応を見せた少女たちが衣に群がっていく。
「……ってこら、衣の頭を撫でるな! なんで急に撫でてくるんだー!」
そういう衣の声音には、先程までの雰囲気は無い。どうやら、意識を切り替えたのだろう。――いや、それ以上に、どこか衣の様子が変わったように思えた。
まるで、何かを察知したかのように。
「――それに」
「……?」
ふとぽつり、漏れた衣の言葉に、瀬々がちらりと衣を見やる。――直後に、感覚が自身にうったえている何かを感じた。
これは――透華だ。しかも、麻雀に意識が向いているのか、オカルトらしい気配が周囲を支配している。
「失礼します。――瀬々、衣。すこしよろしいかしら」
一礼し、瀬々達のクラスに透華がやってくる。その手には、何やら書類が握られていた。
「――それにな、瀬々。衣には予感がするのだ。これは、決して悪い予感ではなさそうだ」
そんな衣の言葉が、透華が持つ書類とともに、瀬々の心に引っかかるのであった。
♪
「……国民麻雀大会? あー、そういうのもあったっけな」
――国民麻雀大会、通称“コクマ”。日本で最も大きい“アマチュア向けの”大会だ。それはインターハイどころの規模ではなく、日本中すべての――正確には中学生以上の――雀士が参加権を有する大会だ。
資料へと目を通す。
参加条件は九月に行われる選考会を勝ち抜いた者、ないしは九月までに大きな大会で目立った成績を残した者。合計十五名を選抜し、県の代表とする。
大会形式は原則個人戦であり、この原則が崩されたことは今まで一度としてない。
ルールは喰い断ありの赤なし。一発裏ドラ槓ドラありと基本的には今年のインハイに準ずる。
予選の選考会は東風戦五回、東南戦三回の八回戦で成績上位数名を。
目立った成績を残したものは基本的にインハイないしは“インカレ”に進んだ者、及び県予選で“面白い”闘牌をした者の中から選ばれる。
「今年は、我が龍門渕のレギュラー五名と、風越の福路が選ばれましたわ。インターミドルで優勝した原村和という中学生も選ばれています」
瀬々、衣、そして水穂は当然として、透華と一も、というのは少しばかり意外ではある。まぁ決勝まで安定した闘牌ができる雀士なのだから、当然といえば当然か。
――他は、風越のレギュラーから数名、そしてインターカレッジの成績優秀者数名が選ばれることになっている。
「コクマか。……やはり衣の予感はあたっていたな」
「個人戦だもんな。今度こそ、変なとこで衣と当たらないといいんだけど」
インハイ個人戦。本戦に上がってきた雀士とはいえ、衣や瀬々――日本の高校生雀士というくくりに置いて五指に入るほどの実力者相手では格が違った。
衣の“ミス”は、衣自身が原因ではあるが、その要因には間違いなく、決勝戦であたるレベルの選手が一回戦であたってしまった番狂わせがあったことは指摘するまでもないことだ。
「その心配は薄いのではないかしら」
透華が、上機嫌に言った。ここ最近伏せがちであった衣の顔が、今はちょうど前を向いているのだから、さもありなんと言ったところか。
「個人戦は本戦が一回戦、準決勝、決勝とありましたが、コクマは第一次予選、二次予選とあり、本戦に進めるのは全部で十六名ですから、たとえ本戦で激突したとしても、その脇には日本最強の十四人から選ばれた雀士が座るのですわ」
そして、コクマの大会形式は少し特殊だ。
まず、第一次予選。これはコクマに参加するすべての雀士をランダムに割り振り、その収支によってランキングを作成、上位128人が勝ち上がることとなる。
そして第二次予選。こちらは第一次予選を勝ち抜いた128人を八つのブロックに振り分け、八回戦の東南戦を行う。そしてそのうち上位二名が本戦への切符を手にするというわけだ。
本戦はセミファイナルとファイナルと呼ばれる二つのステージがあり、これらはすこしばかり特殊なルールでもって行われる。
簡単に言えば、それはインハイ団体戦と同様『十万点持ち越しの複数回戦』というルールだ。セミファイナルステージは三回戦。ファイナルステージは五回戦、といった風に。
「いやそれにしても、本戦に出場できないことには大舞台での、とはいえないだろ」
「あら、随分弱気ですわね、インハイ個人戦第二位の渡瀬々さん」
「おいバカ、その呼び名をやめろ。あたしは納得してないんだぞ。あと一歩だったろ、最後のアレ」
――即座に、透華の言葉を瀬々は否定した。そんな瀬々へと帰ってくる透華の言葉は、といえば、瀬々の想定外、やわらかな笑みを伴ったものだった。
「――ふふ」
「いや、何がおかしいんだよ」
「ははは」
衣もまた同様だった。楽しげに手を叩いて笑って、それからもう一度、透華と視線を交わしてニヤリとした。
「だから……」
「まぁ、そりゃあわからないだろうな。だが、いつかは必ず解ることだ。……なぁ瀬々よ」
「……なんだ?」
「――まっているぞ」
何故か、衣はそんな物言いをした。どことなく小憎たらしい物言いで。なんとはなくふんぞり返った風で。
よくわからない、とは思った。ただそれでも――
「……あぁ」
――否定する気には、ならなかった。
一拍。両者の間に生まれた言葉に出来ない緊張のようなものが晴れると、瀬々は思い出したように問いかけた。
「そういえば、コクマって大学生やなんかも出れるんだよな?」
「えぇまぁ。ですが実は高校生ですごく強い人はたいていプロに行きますわ。ですので実際、コクマに出てくる大学生はさほど強くはなかったりしますのよ」
「だろうね。大学から麻雀を始めるっていうのも珍しいだろうし……」
瀬々が引き継いで続けようとした。しかし、透華はそんな瀬々を遮った。
「――ですが」
そう、前置きをして。
「ですが?」
「プロには行かず、超人的な雀力を持つコクマの女王と呼ばれる方もいらっしゃいますの。その方、インカレの時期は何でも忙しいから出れない、だそうですので、コクマにしか出場しない人ですの」
「そやつなら知っているぞ。……コクマに出るというのなら、そのうち邂逅することになるだおるな」
衣ですら知っていると言った。ただ、瀬々は衣が知っているのは、単に知り合いだからだということをなんとは無しに理解していた。
でなければ衣が知っているワケがないという思考と、感覚による補強がそれを確定させる。
「それにな、もう少しいるぞ?」
「……もう少し?」
「そうですわ。今年のコクマ、長野からは高校生が七名が選出されましたの。そして大学生枠は五名。まぁ選出枠の内訳は毎年変化致しますからたまたま今年がそうなっただけの話ではありますが。そのうち三人は、大学生ながらに、今大会の“優勝候補”でもありますわ」
朗々と透華は語る。ちらりと瀬々は衣を見遣った。どうにも違和感があるのだ。まるで先ほどの“よっぽどな相手”よりもこちらの方が重要であるかのような。
「ふふ、瀬々も聞いたことがあるだろう名で語って見せよう。聞いて驚け、活目せよ!」
インターハイにおいて彼女たちは全国トップレベルの実力を発揮した。当然プロとして活躍が期待されたものの、それを蹴って大学へ進学。
昨年までの長野を代表するプレイヤーであり、昨年のインターハイ団体ファイナリスト。うち一人は、個人戦における決勝ファイナリストでもある。
その名は――
「――――三傑。風越を伝説へ導いた、雀士達だ」
――名を、“赤羽薫”。
――“小津木葉”。
そして――“大豊実紀”。
「……、」
理解した。確か、衣からその名前を聞いたことがある。
そう、確か彼女たちは風越の三傑である。そしてもう一つの顔があった。――それは、
「そして、薫、木葉、実紀はな。衣が――“引き取られた先”で出会った、――親友でもあるのだよ」
衣が麻雀を楽しめるようになったのは、大沼秋一郎を始めとしたオカルトだけではどうしようもない雀士の存在と――そして、
彼女たち、同年代の“強者”がいたからこそなのだ。
(……つまり、その人達は衣にとって、ある種ルーツみたいな人、なんだな)
まぁそれは、本命だ。
――まだ良くわからないが、どうも衣は、大舞台での闘いというものを好んでいるようだ。瀬々だけではない、過去の因縁浅からぬ相手が、同じ舞台に敵として現れる。
興奮も、ある種納得といえば、納得であろう。
「――ん?」
と、そこで。
「メールだ」
ケータイを取り出す。宛先は……
「……アン? 何でこんな時に?」
――友人の名。宿敵の名。好敵手の名。どう読んでも構いはしないだろうが、ともかく。瀬々にとっては、数日ぶりに見るその名が、ケータイには表示されていた。
エクストラステージその1、五話あります。
決して更新を忘れていたなど……