なんかバッドエンドしかないキャラに転生したようです。   作:あぽくりふ

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BAD END

 

 

 

 

「やぁおめでとう。此処に来たのは君で二人目(・・・)だ」

 

 

 

 呆然とする()の前で、その男はコーヒーポットを傾けながら淡々と告げる。

 

「そこに掛けるがいい、新川恭二君。私は個人的にも君に興味があるんだ」

「お、お前は......」

 

 上も下も左右も白く、遠近感の狂いそうな世界でその男の周辺だけは正常だった。半径十メートルの範囲で再現された研究室の内装、しかしその縁はぼやけて白へと溶けている。

 

「確かに君と私は顔見知りとは言い難い。というより、私が一方的に知っていると言えば正確かな? ......ふむ、こういうときは自己紹介をするのが一般的だったね」

 

 何処か浮世離れしたような印象を受ける男は、よれよれの白衣を揺らして此方へと振り向く。

 

「初めまして、新川恭二君。私の名前は茅場昌彦(・・・・)......ソードアート・オンラインを作り出し、桐ヶ谷君に"ザ・シード"を託した、しがない研究者兼犯罪者さ」

 

 そう告げて、死んだ筈の男は悪戯が成功した小学生のように笑うのだった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「......へぇ、そうかい。あんたが茅場昌彦か」

「意外だね。もう少し取り乱すかと思っていたが」

「わけわかんねぇ事が連続し過ぎてな、一周回って逆に落ち着いたわ」

「そうか、賢明だね。現状把握は実に重要なことだ」

 

 そう言うと、茅場昌彦を名乗る男は指を鳴らした──同時に俺の目の前に椅子が出現する。その不可思議な現象に眉を顰め、勧められるがままに座った。

 

「では、何から聞きたい? 此処が何処か、心意システムとは何か、君の意識は現在どのような状態にあるのか。............もしくは、君が知りたいことが他にあるのならばそれでもいい」

 

 そう、例えば──。

 

「死銃の正体を知りたいのかい?」

「......知ってるのか、あんたは」

「いいや? 私は何も知らないさ。知っているのは君だよ」

 

 何もかもを見透かしたような眼だ。もし神がいるのならばこいつのようなのだろう、と何となく思う。このろくでもなさそうな雰囲気と人を苛つかせる物言いが特にそんな感じだ。

 

「分かっているんだろう? 君は聡明だ。それこそ、私ですら予想も出来ない特異な能力を使う程には」

 

......未來視(ディヴィジョン)も知っている、か。そう言えば昔サトリという妖怪の話を聞いたことがあるが、実際に相対すればこんな気分なのだろうか。

 

「現実逃避に思考を利用するのは止めたまえ。私の正体についても薄々察しているのだろう」

「......クソ、わかってるよ」

 

 ガリガリと頭を掻き、俺は喉の奥から唸りにも似た声が漏れるのを必死に抑える。考えたくはない。考えたくはないが──。

 

「死銃は......ザザ(ZaZa)の本名は新川昌一。......俺の、兄だ」 

 

素晴らしい(Congratulations)──正解だ。彼は正真正銘君の兄、新川昌一だよ」

 

 おどけるようにそんな事をのたまう茅場を睨む。

 

「ふざけてんのか?」

「まさか。だが双方共に素晴らしかったと、制作者として称賛を送っておこう」

 

 空虚な拍手が偽りの研究室を満たす。俺は口の端を歪めた。

 

「ハ──神様気取りで上から見てたってか? なぁ、死んだ筈の茅場昌彦さんよ」

「神か......創造者という意味においては、確かにそうなのかもしれないな。だがそれはさておき、話を戻そうか」

 

 随分と傲慢なことだ、と鼻を鳴らす。だが次の言葉で、俺は思わず眼を見開いた。

 

「君は兄を倒した。心意システムの暴走という形とはいえ、アレ(・・)の右腕とも言える存在を単身で打倒したんだ──これは大金星と言っても過言ではない」

「待て。何の話だ?」

「私の、桐ヶ谷君の......そしてこれから君の"敵"となるであろう男の話さ」

 

 全くと言っていい程に話の中核が見えない。要領を得ない言葉に眉をひそめた。

 

「アレは私とはまた違ったベクトルに才能が特化した怪物だ。他者の行動を誘導し、侵食し、駒として扱うことに長けている。そうだね、君の形式に習って【心理掌握(マインドジャック)】とでも呼称しようか」

「マインドジャック......?」

 

 マインドジャック──【心理掌握(マインドジャック)】。何となく意味は察せられる。

 

「過剰適合に伴って稀に発現する異常な能力──【心理掌握(マインドジャック)】も恐らくそれらに分類されるのだろうな。些か変則的ではあるが、現実では不可能な事象を仮想世界で体現しているのだからそうカテゴライズする方が自然だ」

「......お前、説明が下手だってよく言われるだろ」

 

 或いは説明する気がないのか。そう言うと、茅場は薄く笑った。

 

「ソードアート・オンラインは私が造り上げた箱庭であると同時に、ある社会実験の側面も持っている──それも国家規模の社会実験だ。そう言えば、君は信じるかね?」

「…………」

 

 話は聞く。その姿勢を見せるように目を向ければ、満足そうに茅場は頷いた。元々研究者だ、こうしたご高説を垂れるのは領分なのだろう。

 

「私を支援してくれた組織の目指す終着点は、人類の新たな社会形態を担う存在の創造。つまり、桐ヶ谷君を始めとするSAO生還者(サバイバー)......いや、仮想世界過剰適合者(Virtual Reality Over Adapter)の実験的生成が目的だった。人類が産み出した電脳空間を意のままに御する新人類(ニュータイプ)、それが彼らの夢想する"大いなる目的"とやらだった。まぁ、私を含め各々の目的で利用していただけの連中が大半だがね」

 

......予想以上に内容が濃い。あのラノベにこんな重い裏設定なんてあったか?と言いたくなる程に。というか組織って何だ──財団Xとか黒ずくめの組織でも関わってるとでも言うのだろうか。

 

「桐ヶ谷君を筆頭とする過剰適合者(オーバーアダプター)はソードアート・オンラインによって創られたもの──だが君は違う。人工的な要因──長時間のフルダイブによる適性変化もなく、君は機械が造り出す仮想世界に対しての適性が異常に高い。言うなれば選ばれた人間、天然の過剰適合者というわけだ」

「......ちょっと待て。過剰適合者(オーバーアダプター)って何だよ」

「そのままの意味さ。仮想世界とはそもそも情報だけで構築された機械の産物、それに脳を接続するとなれば何らかの形で拒否反応が生じるのが正常な人間だ。だが、君は違う。剣の才能、射撃の才能とも違う──体質(・・)とも言うべきかな。君は仮想世界との親和性が異常に高いんだよ、新川恭二君」

 

 それこそフルダイブの時間を引き伸ばせば、さらに適合率は跳ね上がるだろう、と茅場は予想を述べた。

 

「そして君が過剰適合において獲得した能力は"情報処理特化"──仮想世界においてのみ未来予測すら可能とする異常演算能力、つまりはその【未來視(ディヴィジョン)】とやらなのだろうね」

 

 例えば、桐ヶ谷和人が二年間ものフルダイブによる調整(・・)によって【超反応(ハイパーセンス)】と【第六感(シックスセンス)】を得たように。或いは、とある殺人鬼が【心理掌握(マインドジャック)】を発現させたように。

 新川恭二という少年は、数値で構成された仮想世界においてのみではあるが、完全に近い予測能力を──【未來視(ディヴィジョン)】を得た。

 

 其が過剰適合によるものなのか、或いは生来の記憶能力が結果として過剰適合に繋がったのか。それはわからない、とかつて聖騎士(ヒースクリフ)を自称した男は苦笑する。しかしそれだけではなく──。

 

「加えて尋常でないフラクトライト出力による心意操作とくれば、まず連中は放っておかないだろう。人類を新たな段階へと引き上げる、と素面で言うような奴等だ。生まれついて仮想世界に愛されている君をどんな手を使ってでも手にいれたがるに違いない」

「......んで、それを俺に言ってあんたはどうする気だ?」

 

 悠然とコーヒーを啜る男を睨む。危機感を煽るだけ煽り、何を要求するかはわからないがろくでもないことには変わりないだろう。

 

「そうだな、取引をしようじゃないか。私は"ザ・シード"のネットワークを利用して政府高官の協力者に君の保護を依頼しよう。その代わり、君は私の手駒になって貰いたい」

「手駒、ね。随分とストレートな表現だな」

「下手に誤魔化しても逆効果なようだからね」

 

 そう言って肩を竦める。

 

「私はね、この世界を愛しているんだ。だからこそそれを汚すものは断固として許さない。人類の進化? 電子適合計画? 馬鹿な話だ。現実があってこそ、仮想は存在を許されるというのに──」

 

 そこで口をつぐみ、今さら詮の無いことだ、と呟いた。湯気の立つコーヒーが机の上に置かれる。

 

「アナログの肉体を捨ててしまった以上、今の私には現実世界に対しての干渉能力が大幅に制限されてしまってね......そこで実力も高く、奴等の心意制御にも対抗可能な唯一の人材に目をつけたというわけさ」

「それで手駒ってわけか」

「ああ。だがいきなりこんな話をした所で君は信用しないだろうね」

「......よくわかってるじゃねぇか」

 

 こんな意味不明な話を鵜呑みにするやつがいたら、それはただの思考停止したアホか真性のバカくらいのものだ。

 

「君と私の間には"信用"が足りない。だからこそ、投資の意味をこめて一つ良いことを教えてあげよう」

「......なんだよ?」

「現実世界において約十二秒後、君は為す術もなく死亡するだろう」

「は?」

 

 突拍子もない話に眉をひそめる。

 

「冗談等ではないさ。このままでは──今はこうして体感時間を実験的に加速させてはいるから問題はないが、それでも君は死ぬ。君の兄(・・・)によって、どうしようもなく──死ぬ」

「......なんだそりゃ」

 

 根拠はわからない。どうして死ぬのかもわからない。第一全くもって信用ならない。

 だが、直感的に恐らくこの男は嘘は言っていないのだろう、と理解する。

 

「そんな死ぬ事実だけ言われてどうしろって言うんだ、茅場昌彦さんよ」

「無論、方法はあるさ。君が私に協力するのなら、だが」

「......ハ。結局脅しか? 芸がないこったな」

「どうやら勘違いしているようだが、これは脅し等ではない。君にそんなものが通用しないことはよくわかっている。ただ、君がこのまま彼らの手に渡るくらいであれば見殺しにした方がメリットが大きいというだけの話さ」

 

 それに。

 

「君は死ねない。いや、少なくとも自ら死ぬ気はなくなったのだろう?」

「............」

この世界(・・・・)は君が知っているより、ずっと複雑で歪んでいる。勧善懲悪などなく、きっと唾棄するほどに無慈悲で理不尽な物語なのだろうな」

「っ、な──」

 

──その言葉に、思わず驚愕に目を見開く。まさか、この男は。

 

「世界というのはどうしようもなく残酷だ。無慈悲なだけならば良い。絶望しかないのなら、まだ諦めもつく。だが──悪意が吐いて棄てるほど転がっている中に、僅ながらも光を放つものがあるのもまた事実。故に人は希望を捨てきれず、盲目の希望を燃料に世界は廻る」

 

 何を言っているのかはわからない。だが、再び意識が白く染められる寸前──。

 

「私は愛してくれた人を棄て、人間性を棄て、肉体を棄て、世界(全て)を棄てた結果として此処にいる。......新川恭二、君は私のようにはなる(間違える)な」

 

 その男は、薄く笑っていた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──っ」

 

 目を覚ませば、口の中に広がる鉄の味と脳を侵食する鈍痛に思わず顔を歪めた。喉の奥に流れている血の原点は鼻孔だ。つまり鼻血である。毛細血管が破れたのだろうと勝手に予想をつける。

 ゆっくりと上体を起こし、しかしそれでも揺れる視界に溜め息を吐く。

 

 

 そして、目の前で目を見開いて驚愕している男に告げた。

 

「こうして直接顔を合わせるのは何年ぶりかね──兄貴」

「恭、二」

 

 兄は殺人鬼へと堕ち、弟は自殺志願者になった。異常に過ぎる兄弟はこうして数年ぶりにお互いを認識する。

 

「俺を殺したいのか?」

「............ああ、そうだ。オレはオレのために、恭二──お前を殺したい」

 

 そうか、と呟く。少し前の俺ならばそれもまた良いだろう、と受け入れていたに違いない。

 だが今の俺は......漠然とだが、死ぬことに然程魅力を感じなくなっていた。それは原作とまるで関連性のない"展開"に対する興味なのだろうか。

 

──それとも。

 

「............」

 

 あの男が最後に寄越した警告(・・)を思い出すと同時に、ある少女の顔が一瞬ノイズのように過る。思わず苦虫を噛み潰すような顔になるが、口の中に広がるのは鉄の味だけだ。

 

「悪ぃが、今のところ死ぬ気はさらさらないよ。......クソみたいな世界だとは思っていたが、俺の知らないことが予想以上にあるらしいんでね」

「恭二ッ......」

 

 兄の瞳が一瞬揺れる。しかし、それも一瞬だけだった。

 

「──お前の意思は聞いてない。此所で死ぬんだ、新川恭二ッ!」

 

 無針注射器を手にして突っ込んでくるその姿は、酷く遅い。だがそれよりも遅い自分の肉体の反応に自嘲する。仮想現実で如何に戦えようと、やはり現実では何のパラメーターにもなりはしない。

 

 だが、わかりきっている素人の動きを避けるくらいなら、演算が使えない俺でもできる。

 

「ぐっ......!」

 

 急激に体を動かしたせいか、頭痛が一層激しくなる──が、新川昌一の攻撃をかろうじて回避する。反吐が出そうな酩酊感と眼窩を突き刺すような苦痛が襲いかかる。

 そんな最中、血を分けた兄は歯を剥いて吠えた。

 

「何故、お前だったんだ!」

「はぁ!?」

 

 声がガンガンと頭に響き、突拍子もない問いに苛立ちながらそちらへ目を向ける。

 

「何故あの場にいた!? 何故大人しく負けない!? SAO生還者(サバイバー)でもないのに──いや、そうだとしても心意さえ使えなければ、オレは!」

 

 再び突進してくるのを横に転がるようにして避け、半開きの扉の外へと出る。無駄に広い廊下が今ばかりは有り難い。

 

「んな事、俺が知るかッ! 心意だぁ!? あんなもん初めて使ったわ!」

「初めて使って、あれだと......?」

 

 兄の目が更に剣呑さを増す。

 

「......恭二。お前は危険だ、だから此所で!」

「危険なのはテメェだよヒキニートォ!」

 

 扉を盾にして凌ごうかとも思ったが、恐らく体格差に準ずる身体能力の差で押しきられる。直感的にそう判断し、階段へと身を翻した。

 

──だが。そこで俺は致命的なミスを犯した。

 

「つぅッ!?」

 

 激しい頭痛に苛まれている状態でこうも急激に動けば、三半規管が狂ってもおかしくはない。しかしこのタイミングでまさか足を滑らせるとは──まさしく素晴らしく運がない。自分自身に殺意が湧いた。

 

「死──ね!」

「クソったれが!」

 

 降り下ろされる注射器を、寸前に腕を掴むことでどうにか逸らす。だがそもそもの体格差と体重差を考えれば押し込まれるのは時間の問題だろう。さすがに大学生と、成長途中の高校一年生では明確な隔たりがある。

 

「死ね、死んでくれ恭二......でなければ、オレはあの人に......!」

「......"あの人"、だって?」

 

 ギリギリでの力の拮抗によって、カタカタと揺れる注射器が生理的恐怖を煽る。中身は恐らく筋弛緩剤だろう。透明な薬液がゆらゆらと揺れる中、その向こうで兄の瞳は狂気と恐怖(・・)に染まっていた。

 

「誰だよ、そいつは。そいつが俺を殺せって言ったのか!?」

「そうだ! あの人の計画に、不安要素は必要ない!」

「なんだよそりゃ、ふざけんじゃねぇぞ......!?」

 

 憎々しげに見下ろす目を、負けじと殺気混じりに睨み返す。

 

「尚更殺されてやるわけにはいかねぇな。理由もなく殺されるなんざ真っ平ごめんだ......!」

「理由ならある! お前は危険なんだ、恭二!」

「......ざっけんじゃねぇぞクソ兄貴ィ!!」

 

 吠える。反射的に怯むその顔に、俺は言葉を叩き付けた。

 

「あんたの意思は何処にある!! 他人の都合を、命令を──あたかも自分のものかのように吐くんじゃねぇよ......!」

 

 何に苛立っているのかもわからない。いや、恐らく俺は自分の幕引きがまさかそんなあやふやなものでもある、ということか許せなかったのだと思う。

 

......いや、誤魔化すのは止めよう。これはきっと同族嫌悪なのだ。今吐いた言葉は何処までも俺に突き刺さる。俺は一体どうしたいのか。最終的に何もかも中途半端に終わって、切り捨てたはずなのにたった一つの警告でいとも容易く未練が甦る。

 仕方がないと、本来あるべき物語に自分の居場所などないと言い訳し続けてきた。否定してきた。クソみたいな世界を盾にして、全て見ない振りして突き進んできて......その結果がこれだ。

 

 俺の意思は──何処にある?

 

「殺すなら、あんたの意思で殺せ。他ならないあんたが殺すんだ。笑う振りして誤魔化して、責任転嫁するのはもうやめろ」

 

 俺は、結局──。

 

「あんたは結局......どうしたいんだ?」

 

「......、どうしたかったんだろうな」

 

 どうしたかったのだろうか。

 

「どうすれば良かったんだろうな」

 

 俺は、どうすれば良かったのだろうか。

 

「オレも、お前も──どうして、こうなっちまったんだろうな」

 

 新川昌一は、そう掠れた声で呟く。全くだ、と俺は同意した。本当に、どうしてこうなってしまったのやら。

 

「......恭二、オレと一緒に来い。あの人に頼み込んでやる」

 

 その言葉に、無言で新川昌一の顔を見上げる。そこには先程までの、まさしく洗脳されたような狂気はなく、よく見知った兄の顔があった。

 

「オレたちの仲間になれ。世界を変えるんだ、一緒に」

「......それが、あんたの意思か?」

「そうだ。オレはお前を殺したくない。だから一緒に行こう、恭二──」

 

 新川昌一自身の意思によって吐かれた言葉に、俺は一瞬だが思考の海へと沈む。俺にとって最善はどれなのか。真実を知るには誰が最も適しているのか──。

 

 

 

 

 

 

 だからこそ、俺はその僅か一瞬で背後まで近付いた人影に気付けなかった。

 

「あら、駄目ですよ昌一様。それは貴方の領分ではありません」

「っ、ぐ、ゥ......!?」

 

 兄の頭が弾かれたように壁へと叩き付けられ、蛇のようにして伸びた腕が露となった首筋へと何かを突き立てる。

──空になった無針注射器。床に転がるそれを認めた瞬間、俺の体は凍りついた。

 

「兄貴ッ!?」

「何、故......"黒羽"......!」

 

 綻びのない、まるで普段と変わらない完璧な笑みを浮かべたハウスキーパーが口を開く。

 

「お役目を果たしてくれないと困りますよ? 貴方は弟の恭二様を殺し、そして後を追って自らに筋弛緩剤を投与して眠るように息を引き取る............そういう筋書きだったでしょうに」

「な、ぁ......!?」

 

 新川昌一が驚愕に目を見開くが、最早その体は痺れたように動かない。心臓が停止し、血液が回らなくなり、酸素の届かない脳が機能を停止するまで残り数十秒──。

 

「貴、様ァ!」

 

 迷った。

 死に体の兄の体にすがるべきなのか、この女へ拳を振るうべきなのか、何もかも捨てて逃げるべきだったのか。綻びかけた仮面の向こうで、俺が途方に暮れたように呆然と立ち尽くす──。

 

「......やはり、子供ですね」

 

 兄の手から拾い上げた無針注射器を手にして、黒羽と呼ばれた家政婦は嘲笑う。そして滑るように近付いてきたと思えば、俺の腕がぐっと引っ張られたと同時にプシュ、と小さな音が響き渡る。

 

「貴方のせいで兄は死んだ。そして次に貴方も死ぬ。......気分はどうですか? 分不相応な能力を手にして、現実で何も出来ずに死んでいく気分は?」

 

──嗚呼、そうか。

 

 世界が憎い、とは思ったことがある。だがそれはとぐろを巻く蛇のようにして仮面の奥に巣食うもの、俺の心意の原点とやらは何処か冷たい性質を持っている憎悪だ。

 だが、これは全く違う。偽りのものでない、かぶり続けた仮面を内側から砕くように流れ出すこの奔流こそが。

 

「殺して、やる」

 

 成る程。これが──この感情が、俺自身から溢れだすこれこそが、本物の殺意なのだ。

 整った顔に浮かんだ嘲笑に身を焦がすような殺意を抱く。真に自分を理解してくれたかもしれない、そんな可能性を目の前で殺したこの女が、どうしようもなく憎い。

 

「殺してやるッ......!」

 

「それは無理ですね、ここで貴方は死にますから。では来世でもお元気で......さようなら、"シュピーゲル"」

 

 にこりと微笑み、そしてご丁寧に俺の手を踏みにじって黒羽は──"黒羽時雨"は悠々と階段を降りて去っていく。よく見ればその手には白い手袋が嵌まっており、綿密に計算された殺人であることを理解した。

 

「畜生......」

 

 体が震える。指の感覚すらなく、緩やかになっていく鼓動と共に意識も朦朧となっていく。だがこの殺意は忘れない。十年以上に渡って被り続けてきた仮面を内側から灼き焦がす、俺自身の感情が吠え猛る。

 

「........................兄、貴」

 

 俺達兄弟は、一体何処で間違えたのだろうか。

 

 頬を濡らす何かに気付かぬまま、俺はそう自問自答を繰り、返

       し

         て──────

 

──────────────

 

   ──────────────

────────────────────────

     

   ──────────────────

──────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『まだ、終われない。......そうだね? 恭二』

 

 

 







 誰?と小首を傾げた人は読み返して下さい。一応序盤の方にちょろっと登場してます。


 どうせみんないなくなる(*´ω`*)

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