Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) 作:どっこちゃん
堆積し始めた闇の濃さは黄昏時のそれを通り越し、既に夜の色をしていた。
新都側の未遠河口には海兵公園から港へ抜ける倉庫街があった。本来。この時間ならば人通りも絶え、物言わぬプレハブ倉庫がひっそりと影を連ねるだけの閑散とした場所である――はずだった。
しかし、その褪せたような静寂の中を、常人とは思えぬほどの速度で疾走していく一団があったのだ。
その数は十を超える。それぞれが並々ならぬ体術を身につけた男たちなのはすぐに見て取れた。だが、彼らは異様なまでに歪んだ形相を憚りもせず露にしている。
その顔には絶望と恐怖だけが充満している。彼らは逃げ惑っているのだ。どうしようもない恐怖に見舞われながら、必死で足を動かすことだけが己の精神の崩壊を押し止める手段なのだとでもいうかのように。
此度の儀式において、この街で行われるサーヴァント同士の破壊の痕跡を隠蔽するのは監督役であるテーザー・マクガフィン。ひいてはサンガールの血族たちがその責を負う訳だが、なにせあらゆる外部勢力。つまりは聖堂教会や魔術協会にもほぼ見通達で始められた、大規模でゲリラ的な魔術儀式である。
当然の如く、それを傍観することを良しとしない者たちは直ちにこの事態に介入すべく一路極東の地を目指したのであった。しかし今現在のところ、その目的を果たすことが出来た勢力は皆無であった。
いま海に向けて敗走する彼等は急遽かき集められた聖堂教会のエクソシストたちであった。彼等は本来ならばこのような極東の地にわざわざ足を運ばされるような、凡俗な使い手たちではないのだ。
彼等は実際に怪異の現場に赴き直接的に魔と対峙するためのエクソシスト。通称『代行者』と呼ばれる、魔に対する実働部隊である。本来ならただの調査や怪異の確認ために現場に赴くことなど有り得ない。
しかし、この街の調査に向かったのは実は彼らが最初ではないのだ。彼らよりも先にこの地に足を踏み入れた信徒たちは、皆一様に連絡を絶ち、消息をくらませてしまった。その事実が、が彼らほどの手練れをこの地へ呼び寄せる故となったのだ。
もはや容赦はない。神罰の代行者たる彼らは調査でも闘争でもなく、ただ一方的な殺戮だけをもくろみ、この冬木の地へと足と踏み入れた。
だが!
甘かった。彼等はようやくことの重大さを認識するに至ったのだ。
意気込んでこの地に到着した筈の彼らは、既に壊滅の憂き目にあっていた。無論、この儀式に関する情報は事前に通知があった。今この街にひしめいているのは物質化した英霊。それがどれほど驚異的な怪異であるかは十二分に解かっていた筈だった。それゆえの準備も怠ってはいないはずだった。しかし、それでもなおその予想は甘かったといわざるを得ない。
英霊と戦うということが一体どういうことなのか、彼らは身をもって知ることとなったのだ。あんなモノに勝てるわけがない。あんなものを止められるわけがない。神の名の下に誓った筈の狂信者たちの矜持が根本からへし折れてしまうほどに、それは圧倒的だったのだ。
そして必死の敗走を続ける彼等は、ついに港に辿り着いた。そこには彼らが隠匿していたしていた黒塗りのボートがある。それに乗り込めば逃げ切れるのだ。
しかし、彼らを追い立てていた影はそこで追い足を緩めた。
「……行くがいい。そのまま去るならば追いはしない」
そう言って褐色の貴影は海に向かう一団を見送る。出来ることなら殺したくはないのだ。自らこの地より去ってくれるというのなら是非もないことだ。
儀式の間、この冬木の地を外部の勢力の干渉から守るガーディアン。それがこの冬木の擬似聖杯戦争におけるアーチャーのサーヴァント、化身王ラーマに課された命題であった。
ゆえにイレギュラーを除いて他のサーヴァントとの戦闘を禁じられているアーチャーであったが、その間何もしていなかったというわけではない。彼もまた魔術の隠蔽や外部勢力へのカウンターとして、言わば舞台の裏方を一手に引き受けていたのだ。
『――空しい』
だが、今王の胸の内に吹き荒ぶのは寂寥の念だけであった。それは事態の裏方を押し付けられることになったことではない。むしろそれについては当然の行いだと彼は考える。
個人の欲望のために、どうして無辜の人間を撒きこむことが出来ようか。
それでも、それでも思わずにはいられなかった。今の己の有様には自嘲の笑みさえ浮かんでこない。
昨夜、あの銀色の騎士王が放った言葉が彼の胸に幾度となく去来する。
『己の道を違えてまで戦うな。それが英霊の在り方か!』
手心を加えたつもりなど毛頭なかった。それでも、無意識のうちに最善でない戦法に甘んじようとしたのは確かだ。対峙する相手を対等だと認めるなら、敵の弱点を突くのは是非を問うまでもないこと。それを破ったのは――つまるところ、己の行動そのものを肯定できていないという心理によるものだ。その慙愧が己の拳を鈍らせていたのだ。
あの時、言い返す言葉を彼は持ちえなかった。応える言葉を持ち得なかった。詫びる言葉さえ、持ち合わせてはいなかった。
浅ましき己の願望にしがみつき、魔術師の思惑の通りに動かされているという事態。
何より彼を静かに懊悩させるのは、その総てを理解しながらいまだに己の望みを捨てきれない己自身の心胆。その是弱さであった。
彼は今になって始めて知ったのだ。人の理想を極め、王として生きることを苦とも思わなかったこの神の化身が、胸の内に抱く人としての齟齬を御する術を持たぬとは……。
だがアーチャーが己の惰弱さに憂いの溜息を漏らしたとき、辺りに海を割るかのような炸裂音が響き渡り、一路外洋まで逃げようとしていた代行者たちの前方に天を貫くかのような白亜の巨壁が忽然と姿を現したのだ。そうして見る見るうちに壁は彼らを飲み込んでしまった。
「これは……」
突然の事態にさしものアーチャーも瞠目した。急ぎその壁に近づこうとしたが、さながら白波が渦を巻いて逆立ったかのようにも見えるその壁の前に、古風な傘をさした一人の人物を見止め、足を止めた。
「何奴!」
「そこまででいいよアーチャー。君にばかり手を煩わせるもの心苦しいからね」
「……正規の参加者か」
そこには一つの華奢な陰があった。
「その通り。僕の名はオロシャ・ド・サンガール。此度の後継者争いの儀式ではライダーのサーヴァントを統べる。正式な候補者の一人さ」
謳う様な声で、白い貌の青年は告げた。
「……して、その候補者殿が何の用があって某の邪魔をするか」
「邪魔をする気はないんだ。ただ、忙しい君の手伝いを、と思ってね」
青年――オロシャは余人を蕩けさせるような双眸を闇間に煌めかせ、ラーマを見据える。異様な視線は光を孕んでいるかのようにも感じられた。
「気遣いは感謝しよう。だが手出しは無用! その者たちはこちらに引き渡してもらいたい」
歪むような美麗な笑いが、闇の隙間から、その巌のような問いに応じる。
「悪いんだけど、そうはいかないんだよ。アーチャー。こっちも遊びじゃないんだ。実を言うとちょっと手駒が足りなくてね」
アーチャーは気付いていた。挑発とも嘲笑とも取れる微笑を浮かべるこの青年の背後。白い巨壁の向こう側から幾千の針の如く撒き散らされている、明らかな殺意の波動。
サーヴァントがいるのだ。あの白き巨壁の向こうに。
「君はもういいよアーチャー。
磁器のような美貌を歪ませて笑う男の言葉には、一遍の誇張も嘘もない。この男は本気でそう思っている。
「……それとも、力ずくで取り返すかい? 監督役との約束を保護にして、僕のサーヴァントと争ってまで」
「……ッ!」
巌のように押し黙るしかなかったアーチャーは、ひたと目を閉じ踵を返す。
引き下がるしかなかった。どの道、今サーヴァントと戦うことはできないのだ。彼自身の望みが、苦悶の責め具となってその神与の肉体さえをも縛る。ひたすらに無念を噛みしめ、剛体は声無き断末魔の如く崩れ霧散して、夜気に掻き消えるように去っていった。
「――君はどう思う?」
一人闇に取り残されたオロシャは振り返る。背後に滑るような視線を向けながら。
すると水柱は潮騒の香る霧雨を残して消失した。その中に囚われたはずの代行者たちの姿も見当たらなかった。あとに残るのはバラバラに破壊された黒塗りのボートの残骸だけだ。
「どうだろうか、サー。彼は僕らにとっての障害になるだろうか?」
――さてな、あのザマでは捨ておいても問題はないかもしれん――
声ならざるその声は、真っ黒な波間のしじまから漂うように聞こえてきた。
「そうは言ってもね。アレを――あんなものを無視するのは賢明とは思えないよ。……君ほどではないにしろ、あれは強大な英霊に違いない」
すると剥き出しの鋼塊のようだった気配が実体化し、やにわにおどけたような声を上げる。
「いやいや、マスターよ。見え透いた世辞はやめてもらおう。ケツが痒くなる。……強いとも。現界したサーヴァントの中でも、アレは別格のバケモノだ。どれだけ腑抜けようとも、いざ対峙したならこのオレの勝機は千に一つか万に一つか……」
実体化したのはオロシャよりもはるかに上背のある偉丈夫であった。この男はその金属のような視線を器用に歪ませ、何故か心底から喜悦を持て余すかのように、己の劣勢を諳んじて見せる。
「……笑いごとではないよ、ライダー。ならばなおさら、アレは確実に排除しなくてはならない。僕には一か八かの選択など許されないのだから」
「おやおや、マスター殿はバクチの機微はご存じないと見える。勝ち目がないときほど、熱いものだがな、バクチも――戦も」
時として異様なほどの沈黙を良しとするこの益荒男が、今宵ばかりは酒瓶片手に実に芝居がかったそぶりで裾をひるがえす。さて、何がこの怪人の琴線に触れたのか。
オロシャは作り物じみた顔を歪めもせず、銀の髪を揺らして、しばし考え込んだ。
「……悪いのだけれど、僕には君の言わんとするところが理解できない。運否天賦に身を任すなど論外だ。考慮にさえ値しない。我が末には確約された勝利以外は不要だ」
抑揚のない青年の言葉に、サーヴァントは苦笑を返す。
「ククッ――『確約された勝利』とは、これほどつまらなそうな戦もない。が、――まぁ、御所望とあれば是非もない」
「では、方策は有ると? 勝機は万に一つと聞いたけれど?」
「おやおや、マスター殿は本当に寡兵の戦に明るくないと見える」
アイロニカルな態度を崩さぬサーヴァントに、オロシャも苦笑を返す――否、それは苦笑しているのではない。苦笑の真似らしきことをしているだけだ。一見して美しいその白蝋のような皮膚の内側は、きっと膠で塗り固められたように凝り固まっているに違いない。
それは表皮の代わりに、白い線虫の群れが無機物の上をのたうち回るかのような光景を連想させた。
「実際、考えたこともないね。僕にとって、闘争とは常に圧倒するだけのものだったのだから。魔術師になってもそれは何も変わらない」
そんな、主の器物めいたグロテスクな美貌を前に、しかし眉の一つも動かさず、このサーヴァントは何処からか取り出したグラスに手持ちの酒を注ぎ、慇懃な皮肉を添えて主に差し出す。
「それはそれは、さぞや退屈な生であったでしょうなぁ」
「どちらでもいいことさ。詰まる詰まらないは、問題ではない。僕が求めるのは勝利だ。それについては、――ご教授願えるかな。サー」
杯を受け取りひとしきり弄んだあと、オロシャは改まって
「かしこまりまして、マスター。――なぁどと、ハッ! 言ったところで!!」
しかし真摯に慇懃な声は、一転して今度は爬虫類のように様相を歪ませた。ライダーは再び喇叭でも吹くようにして酒瓶を煽り、ヤジでも飛ばすような奇声を張り上げる。
「難しいことなど何もないッ! 強者を下すにはどうすればいいのかだと? ――答えは簡単だ。弱らせればいいのだよ! どんな強者も常にその強さを維持できるものではない。戦う以前に、こちらよりも敵を弱らせればすむ話だ! 当たり前の道理だッ! ああ、クソッタレ!」
「――なるほど」
歌劇めいて豹変するライダーの様を、少女のように目を丸くして観ていたオロシャは、実にゼンマイ仕掛けめいたマイペースさで首肯した。
「確かにそうだね。そのためには――」
「ああ、敵を知ることだ。情報を集め、ヤツの力を削ぐのにはどうすればいいのかを考えれば、ハッ! それでよろしい。万事は上手くいく。――多分な」
「なるほど。――なるほど確かに簡単だ。さすがだよ、サー。僕には無い発想だ」
喝采も何の変哲も、ヤジすら無い。つまりはおもしろみの欠片も無い返しに、サーヴァントは一時萎んだように肩を竦め、しかしまた一変して今度は重苦しい声色で告げる。
「やれやれ。しかしな、――契約を違えるなよマスター。オレはそんなことをしに出てきたわけではない」
「……構わないよ。それが解ればアーチャーと監督役の方は僕のほうで手を打とう。幸い、良い駒が手に入ったことだしね。そう、それに。例の八人目のサーヴァントとやらも上手く使えれば……」
「マスター」
「ああ、解ってるよ。とりあえず、明日は予定通りに君の要望に応えよう。アーチャーの事はさて置いて、まずは狩れる相手から狩っていくことにするよ。君の出番だ。好きだなだけ船を駆ってもらって構わない」
「よかろう! 浅瀬なのが不満だが、陸で燻ぶるよりはいくらかマシだ! まったくクソくらえだ! 女王陛下万歳!!」
濁声で吠え、気を吐き、すべての下賎を謳歌して、ライダーは空の酒瓶を投げ捨てる。そして次の瞬間には呵々と潮風めいた哄笑と共にその存在は掻き消え、跡形もなく漆黒の海原へと消え失せていた。
「さて。それではそろそろ開幕の時間――いや、閉幕の、というべきかな」
英霊の消失とともに舞台からの灯りは落ち、伽藍のような暗がりに一人取り残されたオロシャは、蝋人形めいて一人闇の中にひずみながら、仰いだ琥珀色のグラスを闇色に変える。
「会いに行くよ、カリヨン。最後の夜を楽しむといい。それだけが、君に残された役目なのだから」
芒とした眼光だけが闇間に閃いた。その灰色の奇妙な光がLEDめいた人工的な無機質さを孕み、増大し、収束して、そして――不意に消えうせた。
跡に残るのは、藻屑のような夜の残骸ばかり。