Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) 作:どっこちゃん
――そのときの私には総てが曖昧だった。総てが、である。
私は空白だった。中身の無い容器だった。それまでの私というものを構成していた筈の総てを、私はまるで濃霧の中に放り出されたかのように見失っていたのだ。
ただ、その空の容器の底に、こびりつくようにして一つだけ残っていたものがあった。それは私の芯をなしているかのようなもので、虚ろな私の存在の中で唯一確かで、安息ににも似た確信だった。
その安堵が、安心感だけが私を証明していた。それはきっと自分の安全のことではなく、何か別の――大切なことを成し遂げたかのような達成感に近いものだった。
そうだ。私は何か、大事なものを護ったのだ。ただ、それが嬉しくて、誇らしかった。それだけで、私は己の存在を肯定できた。
それだけが、そのときの私の持ち物だった。
後は全てが用を成さない、かすれたような雑多な記憶の欠片で、それが不協和音のように私の中に沈殿していた。
その大事なものを護った代わりに、他のものが全部崩れて霞が掛かったように薄れていた。
もう、その大事なものがなんだったのかも思い出せない。それでも私にとってそれだけが事実で、大事なものだったのだ。私はその思いだけを抱えて私以外の全てを埋め尽くしていた
それまでの記憶の連続が「私」というものを形づくっていたのだとするのなら、それが断絶してしまったそれまでの「私」は確かにそこで死んだのだろう。
そして、それが同時に今の私の「始まり」だった。
最初は、そこが何処なのかわからなかった。もっとも、今でも正しく理解しているわけではない。
そこはひどく清浄で、簡素な牢獄を思わせる場所だった。前後不覚に陥っていた私は剥きだしの寝台の上に無造作に投げ出されていた。
身体を満足に動かすことも出来ない。まるで浜辺に打ち上げられた軟体動物のようだった。それが人間の姿に見える者は居なかっただろう。
もっとも、周りに居たやつらにとってはそんなことなど、どうでもいいことだったらしい。
それがどういう連中なのかを知っていた私は、大して訝ることもしなかった。
「魔術師」なんて連中の考えることが、私に分かるはずもなかったからだ。とはいえ、いわゆる、魔術師などという輩について確かな知識があったわけじゃない。「仕事」の経験上、何度かそれらと闘ったり、殺したりしたことがあったので、そのときに最低限の知識を与えられたに過ぎなかった。
それが誰に与えられたものかはわからなかったけれど。
だからやつらの思惑については予測なんてできない。――が、行動は予測できた。
殺す気ならとっくにやっているだろう。
やつらは面白い武器を拾ったので、それを使えるようにしたいらしい。
ともかく、微動だに出来ない体ではこんな思考も意味を持たない。私はそこで思考を切り上げ、傷の回復を図るべく眠りについた。
そのときの私はよほど消耗していたようだった。まともに人の形をとれるようになるまでしばらくかかった。
目覚めてからしばらくは、案の定「糸」のことなどを聞き出そうとする輩がいたが、私は取り敢えずは恭順しながらも沈黙していた。
しかし、それも私がようやく人の形を取って歩けるようになった頃には、ぱったりと途絶えた。
そのころには 私の記憶はある程度固まっていた。やはりほとんどの記憶を失っていたようだけど、あまり気にならなかったし、哀しいとか、寂しいとか、そんな感情がともなうこともなかった。
だから多分、持っていてもあまり意味ない記憶ばかりだったのだろうと思った。
名前はテフェリー。セカンドネームもミドルネームも思い出せない。もしかしたら最初からないのかも知れない。
私は己を武器なのだと断定した。なぜなら、私が思い出すことは戦うことについての知識ばかりだったからだ。
にもかかわらず、戦う理由についてはまるで欠片すら思い浮かばない。つまり私はそれまで誰かの命令にしたがって敵を殲滅する一個の自立兵器なのだと推察されたのだ。
そう思うと、妙に落ち着いた気分になった。なるほど、私は武器だったのだ。私はようやく己というものについて一応の認識を得ることができた。
しばらくの間、その魔術協会とかいうところにいた。そして多分、一年ほど経ったあとだったと思う。極秘扱いで一度も外どころか部屋からも出されなかったが、ある日いきなり出ろといわれた。
どうやら新しい運用先が決まったようだった。
それを聞いた私は内心で安堵していた。これはたとえ記憶が無くとも、大前提として理解していたことだったのだろう。
私は人ではなく「道具」であり、「武器」であり、一本の「剣」だった。在り方も、その用途も用法も。そういう意味では私はサーヴァントと近しい存在なのかもしれない。
だから、安心していたのだ。
そのまま破棄されるというならそれでもよかった。それで終わりならそれでもよかった。それについての恐怖は抱かなかった。ただ、生きていたなら生きていたで、使用されないことは率直に怖かった。
使用されない武器は存在する意味を失う。だから、例え誰であっても、捨てられた自分を使用するものがいることは救いだった。
無論、誰が使うかなどとは考えもしなかった。己が誰に使われるかなど、武器の判断が及ぶ範疇ではないからだ。
そこを――いわゆる魔術協会の総本山であるという「時計塔」なる場所を出る際に受けた説明では、後継者を失ったというとある魔術師が己の秘術と研究の集大成である魔術刻印を受け継がせるための代用品として私に適正があるらしい。
意外だったし、自分の知識では理解できない部分も多かったが、そう決まったのなら是非もない。道具の使い方は持ち主の自由だ。
その日、外を出歩いても騒ぎにならないよう、それらしい格好をさせられた私は表面上は徒弟として、その魔術師の元に向った。
初めて目にする都会の風景もそっちのけで、魔術師の敵は魔術師なのか、それとも別の何かなのか、その場合はどう戦えばいいのか、そんなことを考えながら車に揺られていた。
別段、私は戦うのが好きなわけではなかった。ただ、それがなくなれば自分の存在意義は消滅する。今思えば、その恐怖心が強い強制となり私を動かしていたのだ。
しかし、奉公先で私は生まれて初めて肝を抜かれることになった。
私の予測は圧倒的に甘いと言わざるを得なかったのだ。そこでの生活は想像を絶するものだった。
途方にくれるというという言葉の意味を、あれ程までに噛み締めた経験はあとにも先にもありはしない。
率直に言えば、私は自由だった。
静かな郊外の豪邸の中で自分の新たな所有者の老人と、ただ二人だけの生活。聞かされていたような魔術師になるための鍛錬だとか、敵を排除するという本来の役目も命じられない。
命じられたのは屋敷の管理や雑用だけ。
たしかに、道具をどう使おうともそれは所有者の勝手ではある。しかし、本来その用途の使用を前提としていない道具を別のことに使うというのは、あまりに非効率的だとしか言いようがない。
剣で畑は耕せないし、盾は鍋の代わりにはならないのだ。
しかし、やれと言われれば是非もなかった。
この手の雑務など経験したこともない私には、当たり前の炊事や掃除でさえ困難極まりないものだったが、幸いにも私は弱音を吐くという行為を最初から知りもしなかった。
それが良かったのか悪かったのかは未だ不確定だったが、とにかく私は与えられた仕事を愚直にこなした。いや、愚直に失敗をし続けた。
結果が伴っていないことは明白だったが、なぜかその老人は私の運用法を変えようとせず、私が失敗するたびに一言二言、「次はうまくやるように」とだけ告げるだけだった。
そのまま幾許かの時間が過ぎた。
しばらくすると、こんな私でも何とか形だけは仕事をこなせるようになった。
しかし、そこでまた大きな問題が表層化してきたのだ。私は暇が出来れば別の仕事が与えられるとばかり思っていた。
そうすれば本来の用途での使用があるかもしれない。前にも言ったが、別段それが好きだったわけではない。しかしそちらの仕事ならうまくやれるという確信があったのは事実だ。
今思えば、それは私がそれまでの人生で獲得した唯一の矜持だったのかもしれない。
だからこそ、空いた時間を『好きに過ごせ』といわれたときの衝撃と困惑は、ある意味新鮮であったとすら言える。
もはや途方にくれる余り、私は生まれて初めて所有者に対して抗議らしいことをしてしまった。すると主は『ならば本を読め』とだけ言って、膨大な書庫から抜き取った一冊の古びた本を渡してきた。
魔道の修練のためのテキストだろうか?
なるほど、そちらが先だったか。それも思い当たる節がある。マスターが私を引き取ったのは確かそういう理由からだったはずだ。
私は勇んでそれの読解に取り掛かった。
一応、字を読むことは出来たが、実際に本を読んだことのなかった私にとって、それは難解な作業だった。しかし、私は庶務の合間を縫って脇目も振らずにそれに没頭した。
降霊か、薬学か、錬金術か、世界に秘匿されるべき御業の末端に触れようとする作業である。生半可な覚悟ではつとまるまい。
しかし、そのうちに妙なことに気付いた。おかしいと思ってさらに読み進めると、それが「調理の基本」についての本なのだとわかった。
人生で二度目の深い落胆を味わいながらも、合点がいったことは確かだった。私の作った料理は何とか実用に耐えるというレベルで、品質がいいかと問われれば首を振るしかないというものだということは自明だったからだ。
『……はぁ』
私はそこでおそらくは人生初であろう溜息をつきながら、ようやく理解していた。どうやら、ここでの私の用途はあくまで「
適正がどうであれ、そう求められるならそうするほかない。それが道具である。
そこで、またもや人生初の諦観をすることにした私は、良き使用人になるため、あらためて料理の基礎の本に没頭しはじめた。
……以来、七年ほどになる。大きなお屋敷の中でマスターと二人、膨大な書物に囲まれての、本当に静かな生活が続いた。
慣れてしまえば、それは存外に穏やかで想像していたほどの困難もない生活だった。
ただ、ひとつだけ、自分がマスターの役に立てているのかだけが気がかりだった。道具としてここに来たはずの私は本当に期待されていたほどの成果を挙げることが出来ているのだろうか? と。
だから――此度の機会を私はチャンスだと捉えている。詳しい事情は知らなかったが、今度は私でも役に立てるかもしれない。
何せ、これは私の本来の用途だ。戦場に投入されればその真価を披露することも出来る。そのはずだ。
それだけはよくわかるし、憶えているのだ。誰かが、おそらくは以前の私の所有者が、繰り返し私をそのように使用していたことを。
そう、この戦いでなら、きっと――
『どしたァ、マスター。何か気付いたか?』
彼女を浅い、けれどどこか鮮やかな色彩の追憶から引き戻した声は聴覚ではなく、意識に直接波紋を落としていくような響きだった。
彼女、テフェリー・ワーロックはその決して不快ではない漣の音を、「糸」を伝って聞こえてくる樹幹の囁きのようだと感じていた。
辺りには彼女以外の人影はない。在るのは唯一人、しなやかな痩身を高級そうな白亜の外套で包み込んだ女性、いや、少女が佇んでいるだけだった。
長い艶やかな黒髪は鋼の如く煌めき、耳朶から顎先にかけての蝋のように白く柔らかな輪郭をいっそうに際立たせている。
その、まるで色が抜け落ちたかのようなモノトーンの色調はしかし、決して華やかさと無縁の凡庸なものではなかった。
彼女の容姿をひどく印象深いものにしているのは、その大粒の瞳だ。殊更に色彩を強調するような、もはや人のそれとも思えぬ
「いえ、何でもありません。けれどランサー、何度も言いますがあなたのマスターは私ではありませんよ」
辺り一面は、真っ黒に焼け爛れていた。
ここ何日かの間、ここ日本国は冬木市郊外で広範囲においての火災が連続しているのだった。
この場所は昨夜発生した、もっとも新しい焼け跡であった。新都郊外の雑木林を原因不明の火災が襲ったのである。
その規模や立地、状況などには共通点は見られず、個々の火災には何の関連性も見受けられないという。
解かっていることといえばその火種の原因が一様に不明であるという点だけである。ここまで出火の原因が特定できないというのも珍しい。目下、不可解な手段で行われている連続放火ではないかという線で調査が続けられているが、今のところ有力は手がかりはなく、消防や警察も頭を悩ませているという。
だが彼女は知っている。この時勢にこの土地で連続する不可解な不審火。
この火災が偶然に起こっているものである筈がない。その意図までは計り知れないが、これは誰かが人為的に引き起こしているものなのは間違いない。
既に戦端は開かれているのかもしれない。彼女――テフェリー・ワーロックは焦燥に駆られる気持ちを押さえつける。
いくら調べてみてもここは本当にただの焼け跡のようにしか見受けられなかった。それらしき痕跡、つまりは魔術を行ったような、作為的な形跡は何も見つからない。
敵もそう馬鹿ではないということか。少なくとも証拠、痕跡の始末は徹底しているようだ。これでは一般の鑑識では手に負えないもの当然だろう。
テフェリーは嘆息した。言いつけを破ってまで出てきた割には、微々たる成果だといわざるを得ない。
彼女の主は明日の払暁にもこの極東の地に参ずるという手はずだ。出来ればその前に何らかの戦果を挙げておきたかったのだが……。
『んー。まァそう、気ィ落とすなマスター。あたしとしても甚だ不満ではあるが、戦は功をあせりすぎてもだな』
人形のような白い顔は微動だにせず精緻な無表情を崩してはいない。が、それでも目に見えて意気消沈する少女の気配の傍らで、守護霊の如くつきしたがっていた陽炎が気遣わしげな口調で声をかけてくる。
もっともそれは先ほどと同じように耳ではなく、直接彼女の頭に響いてくる甘美な波紋であったが。
闇の中でも光り輝く双瞳が、揺れる鋼色の髪の間から何もありはしない虚空へ向けて鮮やかな二色の視線を送る。
「わかっています、ランサー。ですがあなたのマスターは――――っ!?」
言いさした刹那。緩み、
訳もなく、ただ殺されると確信したほどの不可避なる殺意の波動。それは彼女に向けられたものではなかった。いわば押さえきれずに零れただけの殺気の余波でしかなかった。
振り返って見れば、傍らの暗がりに凶貌が浮かんでいた。
虚ろに浮かぶだけのそれには牙を剥く獣の笑みが張り付いている。そしてその虚ろな面貌が次第に厚みを帯びていく。
沸き上がる陽炎の如きうねりが実体を獲得し、たしかな
まるで、そこだけが夜を置き去りにしたかのように煌めき、光彩を放っていた。
夜闇を払うほどに輝くそのヒトガタは、獣と呼ぶにはあまりにも美しすぎた。
実体化した美獣は
「――確認したぞ。喜べマスター、どうやら手柄は向こうのほうからやってきたらしい」
そう言われる頃には、テフェリーも既に状況を把握し準備も整っていた。
にもかかわらず、感歎が彼女の反応を僅かに鈍らせる。改めて耳から伝う、その現の声色のなんと甘美なことだろうか。陶酔に似た甘い色が視界に滲みだし、機械人形の如き少女の調律を狂わせていくようだ。
幼少の折から魔に対する兵器として運用されてきた彼女の魔力抵抗は、常人の比ではない。
にもかかわらず、テフェリーもその魅了の魔力を跳ね除けることが出来なかった。否、それは魅了の魔術とは別種のもののようだった。
相手の意思を捻じ曲げることなく、ただそこに美しく在る。それだけであらゆる人間の心を雪いでしまうような。そう、それはまるで戦場に咲く一厘の華のような……。
「……ええ。異論はありません、初めましょう、ランサー。これが初陣です。……ですが、何度も言いますがあなたのマスターは、」
なおも先と変わらぬ文言で事の是非を訂正しようとする彼女の台詞を聞き終わるより先に、再び実体を失ったその気配は夜気に秘しきれぬ灼熱の残影だけを残し、主を先導して月下の薄闇に溶け込んでいった。