Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ) 作:どっこちゃん
「マスターッ!」
老紳士の身体から無造作に引き抜かれた怪腕が、ぬらつく朱色の粘膜を纏って目下の少女を見眇める。
しかし、その爛れたような殺意の視線すら意に解することなく、二色の瞳の少女は怪人の足下に投げ捨てられた主に駆け寄ろうとした。
それを許さぬかのように、怪人の左腕からは数本の特殊警棒が放たれる。まるで特大の釘のようにさえ見えるそれらは、鈍いダイヤモンドコーティングの輝きを閃かせて虚空に弧を描く。
しかしその必殺の意思は果たされず、テフェリーは糸で主の身体を捕まえていた。その鋭角の飛来軌道の間に身を捻じ込んだ影があったからだ。
それはカリヨンだった。咄嗟に、考える暇もなく、彼の身体は超加速してテフェリーとその怪人の間に躍り出ていた。
虚空から掴み取った特殊警棒を投げ捨て、少年は戦慄く四肢を踏ん張り怨敵の前に立つ。――が、巨大な爬虫の如く首を傾げた怪人は、その存在を邪魔な
それが未だ未練がましく逡巡を繰り返していた少年の思考を切って落とす。もはや迷っている暇など、一刹那としてない!
カリヨンの知覚する総ての動体が、一気にマイクロセコンドにまで凝縮されていく。そして、跳んだ。兄にそうしたように、超加速された拳打を無貌の仮面の向こうに見舞おうとして。しかし、弾丸以上の速度で虚空を駆け上がろうとしたカリヨンの視界を、何かが覆った。
直感のスキルを手にいれていなければ、そのまま頭蓋を砕かれていただろう。超加速したはずの彼にさえ目視を許さぬほどの速度で、鉄骨のような開掌が少年の眼前に突き出されていたのだ。
意思に反して、少年の細い身体が捩れる。超加速に先んじた超反応は、それの直撃を避けることを可能としていた。しかし、そこから緩やかに薙いだ剛腕が、僅かに彼の身体に掠った。
それだけ。たったそれだけで、カリヨンは自分の身体の所在を見失った。尋常でない振動が全身に奔り、五感が意味を失った。彼の身体は、まるで小荷物か何かのように、虚空を舞っていたのだった。
超加速していたために辛うじて受身が間に合ったのだが、アスファルトを転げながら全身を何かが這い回るような痺れに苦悶を声を上げそうになる。――それでも、少年はノータイムで立ち上がった。
なぜなら、初めてではないから。
この男に、気の遠くなるまで打ちのめされたことは初めてではない。同じことを繰り返すことだけは出来ない。こんなところで、またあの時と同じように蹲っていることだけは出来なかった。
痺れる足と頭を引きずり、少年はもう一度この怨敵に立ち向かった。
マイクロセコンドで行われたその攻防を、凛は目視出来てはいなかった。それでも、この敵の危険度を見抜くのは容易なことであった。彼女は先の少年の初動と時を同じくして横合いからガンドの集中砲火を浴びせていたのだ。
もっとも、その最初の魔弾が到達する頃にはカリヨンは幾度かの攻防の末に、あらぬ方角の地に叩きつけられた後だった。しかし、それが逆に功を奏した。己と同様に超加速するカリヨンにしか注意を払っていなかった怪人は、それゆえに通常速度で飛来するガンドの乱射を認識していなかったのだ。
期せずして虚をつく事となったガンドの魔弾は怪人の全身に着弾し、設置されたアミュレットの群によってある程度反射、軽減、相殺されたが、それでもすでに綻んでいたスケイル・アーマーを貫き、幾らかの紅い飛沫を虚空に播いた。
攻撃は通じる。そう判断した凛はすぐに追撃を放たんと身構えたが、しかしこの怪人――D・Dはそれでも構うこともなく一直線にテフェリーの元へ向かって進んでいく。
「行かせる――もんですか!」
彼女の魔術を嘲笑うかのような挙動。凛はそれを感情よりも理性から――「是」と判じた。反撃がないなら、こちらも好きにやらせてもらうだけのことだ!
「
即席ではあるが、紡がれたのは重圧と束縛の攻性結界。しかし、それでも男は前進を止めない。今あの怪人の身体は幾重もの枷を掛けられ、茨の檻に入れられているも同然なのだ。
にも掛からず、総身から血を流しながら、モザイク柄の怪人はそれでも無人の野を行くがごとく、真っ直ぐに標的とする少女に向かっていく。
「――ッ! こんな
凛は手にする石材の
持ち前の装備といえば、無論彼女の場合は己の魔力を移し変えた宝石がそれに当たる。それらのバックアップなしでは、どうしても詠唱が長くなり。効果も薄くなる。
今彼女の手元にあるのは見知らぬ魔具、それも彼女が平時使うことの無い陰性の呪物ばかりであった。それもそのはず、先ほどまでの彼女は彼女であって彼女ではなかったのだから。
故に、その魔術理論も裏表のようにかけ違えられたものとして変化していたのだ。それに合わせた一見凡百と見える青石の呪物は、いまの彼女の魔術理論とは相反するものでしかない。
しかし、そこは父たる先代に奇跡とまで言わしめた魔道の鬼才。その石を使って咄嗟にここまでの結界を作り上げたのは、流石の手並みと言うべきものだっただろう。
そこで不意に奇妙な音が聞こえた。まるで骨の砕けるような、生木のへし折れるような音だ。それは眼前の怪人の五体から続けざまに聞こえてきた。凛は不可解なものを感じて、はっと息を呑んだ。
そう、この即席の結界が不完全なのではない。むしろ思いのほか強力に作用し、強固に敵の五体を縛っている。にもかかわらずあの男が前進をやめないのは、ひとえにヤツが己の保身を考えていないからなのだ。
「
――結局はただのやせ我慢か? 兎角、今はそれを訝る暇はない。凛は男の必死を吉兆と取り、更なる加重に訴える。真蒼のドレスの裾を翻し、魔術刻印を最励起させて、ありったけの魔力を結界につぎ込んだ。
と、次の瞬間。流石に現界だったのか、男は無貌の仮面の下で疎ましげに舌を鳴らすと、凛に向けて無手の筈の右腕を振るった。いよいよ生木の裂けるような音を発し、その鉄骨のような怪腕が、まるで鱗ごと皮膚をめくり返されるかの如く裂け崩れ、紅い鮮血が弧状に宙を舞った。
「――あ、――ぐッ!?」
途端、血霧の洗礼を受けた凛の身体は、体幹に鉛の棒を突きこまれたかのように弾け、次いでそのまま逆に芯を抜かれたかのように地に崩れ落ちた。結界が破砕されたことにより、その衝撃が逆流して彼女自身を襲ったのだ。
凛は立ちあがることもままならず、荒い息を漏らすことしか出来なかった。もはや呼吸というよりも嗚咽に近い。何をされたのかは判別できなかったが、おそらくは力任せに束縛結界を引きちぎったのだ。
およそ魔術師にとっては慮外の手段であった。あの男、サーヴァントでもあるまいに、なんという力技であろうか。しかし何よりも彼女自身が限界だった。もとより精神に高度の外科手術を連続して施されたに等しい状態の彼女には、戦闘に耐えるほどの余力は残っていなかったのだ。
それでも、事此処に及んで彼女が思考をめぐらせていたのは、この男の行動の不可解さだった。この男が自分を含めた外敵に構おうとしないのは、自分たちを脅威と考えていないからではない。この男自身にも、もう余力が残っていないからなのだ。
つまりは最期に燃え盛る蝋燭の末火のようなもの。この男は、ここに来るより以前にすでに手負いであり、最初から決死の覚悟を抱いていたということになる。何故、そこまでして……?
一方、テフェリーは糸で引き寄せたワイアッドを抱きとめた、そのままの姿で放心していた。
わかってしまったのだ。もう傷を縫い合わせても遅い。どうしようもない致命傷なのだと。
そして呻くように、腕の中のワイアッドが何かをいっているのが聞こえた。
「……馬鹿らしく、なって、な。…………あの時、……急に、」
「マス、ター…………?」
こんな時を、想像したこともなかった。
「……お前を、はじめて、見た時に、……本当、に……急に……な」
だから、どうしていいのかわからない。だから、どうしても、唇が戦慄くのだ。
「……魔術。……魔道、家門の行く末……己の目指していたもの……総てに、優先すると……信じて、疑わなかった、……それが」
「駄目です、ダメです、マスター、だめ……」
喋るたびに、中身がどんどん零れていってしまう。だからやめてほしかった。けれどそれ以上何もできなかった。
わかるのは、きっと何をしてももう駄目だということ。自分に出来ることがないのだということ。
そしてそれは、もう自分に何かをする理由がなくなってしまうのだということ。それが他の思考を圧迫するかのように、彼女の中で際限なく膨らんでいく。
「とるに足らぬ……、と……な。………………それで、何とか……しようと、しては、みたが……」
声が声にならなかった。震えるそれを止める手段がわからない。どうすればいい? いっそ、この身体の全てを糸で縫いとめてしまえばいいのだろうか、それで本当にこの悪寒が止まるのなら、いくらでもそうするのに――。
「マスター…………」
「……すまんな、何も……してやれなんだ」
叫びたかった。そんなことはないのだと、全力で言いたかった。伝えたかった。知ってもらいたかった。でもそれが最後になってしまいそうで、それがこわくて、必死で口をつぐんでいた。
カリヨンは再度加速して怪人の背後に廻った。今はとにかく少しでもテフェリーからこの男を引き離さなければならない。その一心で。
しかし、男は、この怪人は彼を見ない。気にも留めない。無貌の面の下から、唯うずくまるテフェリーを見据え、そして突如として雄叫びを上げた。そしてカリヨンに先んじて爆発的に「加速」した。
カリヨンも加速する。彼の異能は対象者の能力をほぼそのまま写し取ることができる。この「加速」の能力自体の精度に、それほどの差はないはずだ。体格、体術の差は、「直感」や「勇猛」「魔力放出」等のスキルの相乗によって覆せるはずだ。
むしろ、これだけの能力を同時併用できるカリヨンのほうが優位に立てると考えても、おかしくはない。にもかかわらず、現状としてカリヨンの甘い目算は雨中の砂城が如く瓦解を余儀なくされていた。
必死に敵の動きに喰らい着こうとするが、まるで相手にならない。速度の領域が明らかに違うのだ。どうして? 同じ能力のはずなのに……その上、加速に加え複数の能力を統合している筈なのに、まるで手も足もでない!
心中で叫びながら、手に詰まったカリヨンは形振り構わず一気に奴の前に躍り出た。そして新たに得たばかりの怪眼光を発する。兄オロシャから獲得した「創造」の能力を使おうとしたのだ。
しかし、それも無駄に終わった。眼光は寸分たりとも怪人の足を止めることなく。カリヨンはそのまま打ち倒され、今度こそ路端の石のように転がされてしまった。
有無を言わさぬ絶望が、血を吐いて仰臥するカリヨンの手足から力を奪い、心を覆い尽くし始めていた。やはり、こいつには勝てないのだろうか?
なぜなのかはわからないが、コイツは以前見たときとは、まるで比較にならないほどに強くなっているのだ。自分が強くなった分だけ、コイツも強くなるというのだろうか? そんなバカなことがあるのだろうか?
突きつけられた不条理に、少年は意識を手放しそうになる。やっと手に入れたはずの力が、まるで通用しないこの現実に、少年の心は否応なく挫けようとする。
それでも――それでも、それでも! カリヨンは身を起こす。敵わないからなんだというのだ。たとえ殺されても、このままテフェリーを殺されてなるものか! 二度と、二度とそんなことはさせないと、ずっと思い続けてきたのではないか。今が、そのときなのだ。立て、立て。立て!
そして少年は何度吹き飛ばされても、また同じように怪人の前に立ち塞がった。
一方、何度も繰り返されるその光景をおぼろげに見つめるテフェリーの脳裏に、膨大な
そうだ、前にもこんなことがあったのだ。あのとき、――あのときとはいつのことなのだろうか。
そして未だに霞かかっているようなそれを思い出しかけていた。その光景を思い出していた。そうだ。あのときも、自分を助けようとした少年がいた。
カリヨン。彼女より少し年下で、いつも自分に会いに来てくれた。初めての、友達――――。
瞬間、あらゆる記憶を押しのけて、ある感情が沸き起こった。それは危機感だ。あのときと同じ、否、既智であるが故により致命の危を告げる、おぞましき焦燥感であった。
あのときもそうだった。あの時も、あの、雪の降る夜も、この男は最初から自分を狙っていた。そのせいでカリヨンが危ない目にあったら大変だから、自分がこの男を何とかしなくてはいけないと思ったのだ。
そうだ、思いだした。今の自分が持っていた一番古い記憶。あのときの安堵感。アレはあの日、カリヨンを、とても大事なものを護ることが出来たという安堵から来ていたのだ。
そして今、再び同じ危機が彼に迫っている。マスターを護れず、またカリヨンを危険に晒すのか? 喪失の恐怖は劇薬の如き嗚咽となって彼女の内腑を抉る。
どうして、この男は私を狙うのだろう? どうして、どうして、どうして……。
カリヨンはまたもや吹き飛ばされた。今度は顎先を殴りつけられたのだ。少年は今度こそ、その場で動かなくなった。それを確認して、怪人はようやくテフェリーの元まで歩み寄ることができた。
総身から血を滴らせながら彼女を見下ろす無貌の男は、無言だった。これから殺そうとする少女をただ無言で見下ろしている。男は右手に大型の特殊警棒を取り出した。ここまでの道程で捻じ曲がり、もはや折り畳むことも出来ない。むしろ今にもへし折れそうな代物だった。
しかし、それがまるで追い詰められた獣の顎のように余裕の無い冷酷な光を発していた。
そのダイヤモンドコーティングの「刃」が届く位置にまで歩み寄ってきた男を、テフェリーはぼんやりと見上げた。
「……どうして?」
テフェリーはまるで子供のように問うた。どうしてこんなことになるのかわからなかった。だから、ただ問うた。でも、それで何かがプツリと切れてしまったように感じた。
まだ、戦うことは出来る筈なのに。なのに、もう銀色の手足が言うことを聞かなかった。斬糸はその一本一本がまるで鉛のように感じられ、もはや本当にそれを動かせるのかさえ定かではなかった。
「どう、……して?」
もう一度、問う。途端に心細くなってしまって、ふいに声が上ずってしまった。
「どうして? ……どうして、こんな……」
その言葉に、びくり、とモザイク柄の巨躯が震え、数瞬の間だけ駆動が滞る。
視線が合う。仮面越しに。
次の瞬間、テフェリーの双瞳の瞳が血に染まった。不意に奔った鍵爪のような指先が彼女の両目を裂いたのだ。
「ああぁ!?」
テフェリーは横倒しに転がった。痛みより視界を失った事の方が恐ろしかった。そして手放してしまった主を手探りで探す。
「なんで……っ、どうしてッ…………。マスター……どこ……マスターッ! マスターァァッ!」
どうしても震えが止まらなかった。自分だけではなく、全てのものが不確かに揺れている。まるで手から零れてしまうみたいに。瘧のように震える事をやめない世界の中で、何も縋るものの無い幼子が泣いているようだった。
男は何を思うのか、唯その光景を見下ろしている。
「……許せ」
かすれるようなその声を、テフェリーの耳は果たして聞きとめていたのだろうか。
手負いの牙が、まるで引き絞られるように振り上げられ――――――しかし、そこで制止した。
テフェリーの眼には捉えようのないことだったが、そのとき動きを止めた男の胸からは、不可思議な光陵が垣間見えていた。
「――――ッッッ?!!!」
そこから突き出していたのは槍の穂先だった。人の手によるものとはとても思われぬ、煌めきの輝器。
その体躯を貫いていたのは、見間違えようもないアメシスト色の鉱石の刃。
そこでテフェリーもようやく馴染みのある霊体の気配を感じていた。そして世界を照らすかのような眩い光彩が、今この現実に具現する。
「謝るくれぇなら……」
「キ……サ、マ」
「
男が背面を伺い、敵の存在を確認した時には、ランサーは引き抜いた槍を掲げて反転、棒立ちの男の身体へ横薙ぎに叩きつけていた。
凄まじい炸裂音が轟き、男の体は彼方へ吹き飛んだ。それで残った魔力が尽きたのか、手にしていた輝槍は砕けて砂のようなって散華した。
「……ランサー?」
ランサーの長身がその場に崩れ落ちたのを察したテフェリーは、手探りでランサーの姿を探す。
その手を掴まえ、ランサーはテフェリーに身体を預けるようにしてもたれかかってくる。しかしその身体にはもう実態と呼べるほどの重さは備わっていなかった。
「ハハァッ、――どうだァ! 借りは、返してやったぞ!」
にもかかわらず、ランサーはひどく満足そうな
「ラ……ンサー、か……」
主の声に、テフェリーが声を上げる。
「マスター!」
それでもなお輝きを失わないランサーの光が、老紳士の体を包んでいく。その宝具「
さすがにサーヴァントであるセイバーほどの効力は見込めないが、それでも致命の傷を押しとどめる程度には充分な効果を発揮したようであった。
「……ぃよう、生きてたかジジィ。存外に、しぶてェようでなにより」
「こっちの台詞じゃ。まったく、口の減らん……」
「ハッ、――訊かんでも、元気そうだ」
「ランサー……」
だが、そう言って笑うランサーの身体はもはや、つぎはぎつぎはぎにすらなっていなかった。その宝具の摂理は変わらない。万人の傷を癒し鼓舞するはずの輝光の効力は、しかしその光を放つ本人にだけはまるで効果を及ぼすことがない。
その事実に戸惑うテフェリーへ、ランサーは何も変わらぬ声音で語りかける。
「悪ィな、テフェリー。遅くなった。……眼は開くか?」
ランサーは重さと実体感を失った手でテフェリーの頬を撫でながら言った。彼女の目蓋が開いていればその傷もすぐに塞がるはずなのだが、これではそうも行かない。
「ランサー、でも、……私よりも貴女の方が」
「なァに、軽いもんだ。気にすんな。それにな」
ランサーは満面の笑みを浮かべながら、そのままテフェリーの両の頬をむにむにとつまんだ。
「……ラン、ヒャー?」
「あたしはもう十分だ。やるべきことをやったし、確かめたいことも確かめた。最期に借りも返したし……それに、言うべきことももう言った。そうだろ? 忘れてねェだろうな? 忘れてないなら、……これからはもう少し、己の望みに正直になれよ」
ランサーの体は、とうとうその末端からくすんだ金砂のようになって崩れ始める。それが解かってしまって、テフェリーはランサーの手を掴まえようとする。
「そんな、ランサーッ! 待ってくださいッ……まだ」
「もう休め、テフェリー。もう、お前が戦う必要はないんだからな……」
ランサーがそう言ってテフェリーの首に手を当てると、彼女はそのままゆっくりと気を失ったように崩れ落ちた。ここまでの道程によって彼女自身もすでに現界を超えていたのだろう。
その体を抱きとめたランサーは、身を起こしたワイアッドのもとに歩み寄り、テフェリーの身体を預けた。
「良いのか」
「女の涙ってのァ、苦手でね。さァて、そういう事で、一応契約は果たしたってェことで、いいな?」
見下ろして来るサーヴァントに、ワイアッドも深く、深く息を吐く。
「そうじゃな。まあ、そういうことになるかの」
「そうかい。ならいい。……もう、放すなよ」
「わかっておる……」
カリヨンが何とか意識を取り戻し、身体を起こしたのはランサーがD・Dを吹き飛ばした後だった。そんな、事の成り行きを見る事しかできずに佇むカリヨンを見つけて、ランサーは朱色の微笑を向けながら歩み寄ってくる。
「よォ、酷い顔だなガキんちょ」
交差する視線。不意にカリヨンは体が軽く感じたような気がした。
「……あの橋での敵には、勝てたんだな」
カリヨンが言うと、ランサーは途端に何とも言えない微妙な顔をした。
「さァてな、勝ったのかどうなのか。勝たせてもらったのか――あるいは勝ちを譲られたのか。あの髭男め、最後の最後であたしを庇いやがった。まったくムカつく話だ」
事の仔細は知れなかったが、そんな愚痴のような台詞を吐きながら、これから消え行くはずのランサーがこの上なく晴れやかな顔をしていることが気になった。
「それでいいのか? 勝てなくてもいいのか? 満足なのか?」
「あァ? まぁ、――ムカつくがな。……なんつーか、勝ち負けは、さほど大事なことじゃあないってェことだ。それは結果でしかないからな。他人とあたしを繋ぐものだが、結局はその程度のものでしかない。
戦士にとって大事なのは、そこに辿り着くまでの過程、己の求めた道筋だ。そこに妥協がないなら、……まぁ、それでよかろうさ」
カリヨンにはよくわからなかった。彼もまた勝てなかった。またあの敵にあの時同じように成す術もなく打ちのめされただけのことだった。
それでも、今、テフェリーは生きている。あの時とは違う。どれが過程でなにが結果なのだろうかとカリヨンは考える。
しかし、ランサーの満足そうな横顔を見ていると、なぜか自分の身体も楽になっていくような気がして、いつもなら頭を抱えそうな困惑でさえ、どうでもいい事のように思えた。
テフェリーが生きている。なら、それで総てがそれで良いようにも思えた。
「あたしは……やっと、
「そうか……」
口には出さなかったが、同意する気持ちがあった。カリヨンも今夜のことに一片の悔いもないと思えた。確かに勝てなかったが、それでもなんの悔恨も今の彼は抱いていなかったから。
そして、ランサーは最後に真剣そうな眼でカリヨンを見つめた。
「……テフェリーのことが好きか?」
「……」
カリヨンは無言で、ただしっかりとランサーの真紅の瞳を見据える。
「なら、これからはお前が守れ」
頷く。迷いはなかった。しかし、ランサーはここで意地悪そうに笑って、少年の小さい肩を掻き抱いた。ほぼ全裸のランサー自身に密着され狼狽える様子のカリヨンを、しかし意にも介さず、本人にはわからぬようにワイアッドと、その腕に抱かれたテフェリーを指し示して、
「なァにせ、老い先短い爺だけじゃぁ、心もとねェからな。……ただ、嫁にする気なら気をつけろよ。見てくれの通り、なかなか頑固な爺がついて来るわけだからな」
「んなッ……」
そう言って子供のようにひひひと笑い、言葉を失うカリヨンを見てダメ押しに哄笑したあと、
「ま、精々がんばれ。……それと、出来ればセイバーに伝えてくれ。約束を果たせぬことを許してほしい、とな……」
最後にそう言い残して、まるで光の粒子に包まれるかのようにランサーの身体は消えていった。
まるで星のように空に舞い上がっていくランサーの光の粒子を、カリヨンはあっけにとられるようにして、最後まで見上げていた。
背後では、地に突っ伏していた凛の声が聞こえていた。
「……来てたの、士郎。……ボロボロじゃない、怪我は?」
助け起こされた凛は驚きの声を上げた。彼女も朦朧とした意識の中でランサーの姿を見つけていたのだろう。致命的なダメージを負ってはいないようだった。
「ああ、一応大丈夫だ。ランサーのおかげで。……けど、どうしたんだ? その格好は」
「は……はへッ!? え? あ――――――な、何も聞かないで。解らないことが多すぎてこっちが聞きたいくらいなんだからッ」
穴だらけになってしまった深蒼のドレスの裾を、両手で隠しようもなく持て余し、凛は恥ずかしそうに声を荒げた。
「……と、とりあえず。その、に、似合っては、いる。と、思うけど……、何時もとは違って」
「に、にあ!?――――――よ、よよ余計なこと言わなくていいからッ。ほら、士郎は何か足になるもの探してきて。このままじゃ人目に、つくから! ほら!」
「遠坂……大丈夫なのか?」
指示をしながらも、彼女自身は身体を起こしただけで肩を上下させている。その顔が蒼褪めて見えるのは、決して暗青色の化粧のせいばかりではないようだった。
「大丈夫よ。……セイバー、は、どうしたの」
「……後で話す。今は楽にしててくれ」
士郎は袖口で凛の白い額に浮いた玉のような汗を拭った。
「大丈夫って言ったでしょ。……これでも、けが人の治療くらい出来るわ」
そう言ってふらつきながら立ち上がろうとする凛を、士郎は半ば抱きかかえるように支えた。
「ちょ、――――」
確かに、こういうとき黙って休めといっても言うとおりにはならないことは、とうに知れている。
「わかった。とにかく早くここから移動しよう。だから、無茶はしないでくれ」
「……なんか、いつもと逆ね」
「そうでもないだろ、こっちだっていつも心配してるんだ。今回の事だって……」
「……ごめん。さすがに単独行動は調子乗ってたわ」
「……」
それ以上は何もいえなくなって、士郎はテフェリーたちの下へ凛を送り、自分は近くの駐車場に向かった。
それに手を貸しつつ、カリヨンは空を見上げた。そこは芒と白み始めていた。長かった夜が明けたのだ。
しかしそれは夜の終わりではなく、これから始まる長い夜の前触れのようであった。それから視界を巡らせて先ほどあの怪人が吹き飛ばされたあたりを探ったのだが、いくら眼を凝らしても、その姿は何処にも見当たらなかった。
オロシャ・ド・サンガールは湿った路地の暗がりを這っていた。這って。這って、這いずって。何とかあの悪夢のような理不尽な戦場から逃げ出そうとしていた。
そして、ようやく己の血と汚物にまみれながらも死地からの離脱を果たしていた。それは、もはや生に対する執念とでも呼ぶべき渇望からの行動だった。体中を切り刻まれてなお、それでも生きる事を諦めない。
――いや、この男にはそれを諦めるという発想がそもそもなかったのだ。そんな事を、今までの生涯において一時たりとも考えたことがなかったのだ。あるいは、この男は己もまた死ぬのだという当たり前の理さえ、認識せずに生きてきたのかも知れなかった。
故にナメクジのように這いずりながら、彼の心の中にはいまだ希望があったのだ。まるで子供の夢の中のように、何の理由もなく世界に愛されるかのような夢想。
自分だけは死なない。総ては己の思い通りになる。それが当然、それが当たり前の世界を、両の眼窩の裏に描き出しながら、男は考える。
これはちょっとした試練なのだと考える。これは物語がクライマックスに向かうための布石なのだと。ここから、ここを乗り越えれば、物語りは一気に最高潮を向かえ、栄光は当たり前のように自分の掌に落ちてくるのだ、と。
そして不意に、気がついた。さっきまで這いずっていた筈の自分が、いつの間にか二本の足で立って歩いているではないか。そして改めて気が付けば、引きずっていたはずの体が妙に軽く感じるのだ。
見れば、なんと体中の傷までもが次々に再生し、襤褸布の如く穴だらけだった身体が癒着していく。
「は、――はははッ。す――ばらしい! なんだこれは?」
みなぎる力。自分でも、己の身体が再生されていくことが信じられないほどだった。これならば、いける。
そして「ああ、やはり」と思うのであった。サーヴァントがいなくなったことくらい、自分にとってはどうでもいいことなのだ。
そうだ、やはりこれはきっとクライマックスを演出するための序奏に過ぎないのだ。クライシスだ。それが深遠の如く深ければ深いほど、クライマックスへの絶頂は劇的になるのだ。
そうとわかれば、なおさらに激烈な復讐劇を用意する必要がある。さぁて、どうする? まずはまた駒となる私兵を集めなければならない。何処でもいい。とにかく大勢人がいる場所を選び、一気に手に入れてしまえばいい。
ねぐらと兵力とを一挙に手に入れるのだ。ふふふっ 忙しくなる。しかし、これほどの窮地に陥っているというのに、なんなのだ、この高揚感は? すばらしい。これが、これこそが、真の創造の根幹なのではないだろうか? そうだ。これこそが求めていた、求め続けていた生の実感。創作の源なのだ。
渦巻く歓喜が、その瞳に誰に向けるでもない灰色の輝きを宿し始める。もう彼は足を引きずることもない。再生された身体はもはや十全を通り越して人知を超えた力を彼に与えていたのだ。
そこで彼は路地を抜けた先の、開けた車道の反対側に立ち尽くしている人影を見つけた。
ローブ姿の小柄な男。いや、女か? ――まさか、テーザー・マクガフィン? 馬鹿な。
しかし、まぁ、どちらでも構わない。どの道あれは最初の獲物だ。距離を詰めるまでも無く、オロシャの両眼から凄まじいまでの光が溢れた。
その膿んだような輝きは、もはや以前の比ではない。それまでのように至近距離で視線を合わせる必要もない。
彼は今や、己の異能が以前とは比較にならないほどに強化されていることを実感していた。もはやこの距離で、一度に何人でも同時に「造り変える」ことが可能になったのだ。
彼の歓喜が最高潮に達したとき、ふいに、目の前からその人物が消えたのに気がついた。今の今まで、幾何かの薄闇の向こうに、確かに見えていたはずの姿が見えない。
それに、なんだか景色もおかしい。不可解だ。――ああ、そうだ。これでは見える世界が上下逆ではないか。
それを理解した瞬間。彼はようやく自分の身体が上下に両断されているのだという事態に気がついた。
しかし、わかってしまえば、どうということはない。なんだ、切り離された自分の上半身がさかさまになってそいつのあしもとにおちていただけだったのだ。なんだ……そんな………ことか…………そ……………ん…………………な………………―――――――――――。
そこで、未だに幸福の残滓を貪ったまま、彼は終わった。
黒いローブ姿の女は、もはや物言わぬ物となったそれに歩み寄り、無造作に手を突き入れた。そして小さな陶器の欠片のようなものを取り出した。
ねっとりとした粘膜に塗れたそれが引きずり出されると、その肉塊は途端にさらさらとした色のない灰錆のようなものに変じて、崩れてしまった。オロシャ・ド・サンガールの生きた痕跡は、全く砂塵の如く消え失せた。
「……これがライダーの分か、もらっておくぞ、次兄殿」
ローブを目深に羽織った姿は、その耳触りで奇怪な声は間違いなくテーザー・マクガフィンのものであった。しかしおぼろげな街灯の明りに照らされて垣間見えたその素顔は、
「これで二つ目……か。いいぞ、はやく戻ってこい。我が半身たちよ」
まるで別人の如く妖笑する、――伏見鞘のそれだった。