Fate/after Silent Noise (フェイト/アフター サイレント・ノイズ)   作:どっこちゃん

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五章 高位受容「ノエマ・フィードバック」-1

 昨夜の激闘の記憶はいまだ褪めることなく、諸所に堆積した疲労の澱は特大の枷の如く身体と精神から自由を奪っていた。

 

 それでも空の天蓋は澱むこともなく旋転し、今にも泣き出しそうな空にはふたたび夜の前触れとなる濃い黄昏の色が滲んでいる。

 

 衛宮士郎は高級そうな絨毯張りの感触を感じながら、古めかしい調度品に囲まれた部屋で一人昨思案に耽っていた。耽らざるを得なかった。もはや、時間の猶予はないというのに。――

 

 ここは深山町の住宅地の一番高いところにある洋館。代々二百年に渡ってこの地を管理する魔術師の一門、遠坂家の誇る工房にして同時に拠点でもあった。

 

 彼等は昨夜の激闘の後、衛宮邸ではなくよりセキュリティー面で秀でたこの遠坂邸に居を移していたのだ。既にカリヨンやキャスターに場所を知られている衛宮邸よりも秘匿性を考慮した結果だった。ともかく、今は一時的にでも安全性に敏感にならざるを得ない状況だったのだ。

 

 現在、普段使われていない空き部屋にはワイアッドとテフェリーをそれぞれ休ませてあった。本来は徒弟や使用人が詰めているような部屋だとの話だったが、一時的に休息をとるくらいならば充分すぎるくらいの拵えであった。

 

 士郎は随時それらの部屋に足を運んで負傷者達の看病に従事せざるを得なかった。それ自体が苦痛だったわけではないが、やはり、気は沈みこむように重い。

 

 ランサーの宝具効果によってその一命を取り留めたものの、一時は間違いなく致命傷を負っていたワイアッドは完全には回復しきっておらず、しばらくは安静にしておくより他なかった。

 

 対して、テフェリーのほうも同様に休ませてはあったのだが、彼女にはさして重篤な負傷があるわけでは無く、幸いなことに潰されたかに見えた両目も実際には目蓋を傷つける程度の傷だけですんでいたので、簡易的な治療を施しただけで大事には至っていなかった。

 

 しかし問題なのは精神のほうだった。昨夜の死闘の後、意識を失ってしまった彼女は現在まで一度も目覚めることなく昏倒し続けていた。状況が状況だっただけに事態の解明もままならず、今も依然として意識が回復する兆しは見えない。

 

 今もまた一通り各部屋の異常がない事を確認した士郎は、居間に戻る途中でもう一箇所、別の一室に足を運んだ。扉を開けると、そこには寝息を立てているもう一人の少女の姿があった。

 

 ここはこの邸の主である凛の寝室だ。そこに横たわる青白い顔は痛ましげな汗に塗れていた。

 

 実際には彼女もランサーの宝具効果を受けていたので負傷については充分に回復していた筈なのだが、カリヨンの話によると彼女は怪異なる敵の異能によって精神に強制的な人格改造の操作を施されたのだという。

 

 その点についてはすでに処置済みだということだったが、それでも彼女の精神は大手術をうけた肉体の如く疲労の極みにあり、今は休ませるしかないとのことだった。

 

 士郎は苦しげな凛の顔を覗きこみ、額の汗を拭ってやる。時折、うなされるように白い眉間に皺が寄り、苦しげに湿った息を洩らすのは、自身の疲労以上に案ぜられる事柄があるからであろうか。

 

 昨夜、彼女自身の令呪によって何処かへ飛ばさてしまったセイバーの行方は未だ不明なままだった。その時の彼女は彼女であって彼女でなかったのだ。自らの預かり知らぬ間に行使された指令の内容を、今の遠坂凛は知り得ない。

 

 昨夜とは真逆の状況だった。無論のこと、士郎もそのことについては凛にも負けぬ程に心痛を感じてはいたのだが、ほとんどの人員が負傷や疲労に苛まれているこの現状を鑑みれば、まさか自分が単独でセイバーの捜索に乗り出す訳にもいかない。

 

 それほどに、今の彼らには余裕というものがなかったのだ。

 

「セイバー……」

 

 何よりも疑問なのは、なぜセイバーは自力で戻ってこないのかということだった。それが己のあずかり知らぬ彼女の思惑によるものならともかく、もしも戻ってこれないのだとしたらどうだろう? どこかに囚われていたのだとしたら? いや、そもそも本当に未だ存命しているのかどうかさえ……。

 

 否、それもあの伝説の騎士王に限ってそのようなことがありうるはずもない。と、己を叱咤しつつ、それでも心痛は積もるばかりであった。

 

 結局のところ、今の自分には手をこまねいていることしか出来ないのだろうか。士郎は己の無力さを噛み締めながらそっと凛の髪を撫で、静かに家主の寝室から応接間に戻った。

 

 そこでまたソファに重い腰を降ろし、一人暗鬱と思案に耽ろうとしていたそのとき、音も無く扉が開いて誰かが部屋に入ってきた。

 

「大丈夫なんですか? ワイアッドさん」

 

「世話をかけたようじゃな」

 

 部屋に入ってきたのは過労と負傷のために寝入っていた筈のワイアッド・ワーロック翁その人だった。

 

 身なりは既にきっちりと整えられており、その装束もすっかりと元の古めかしく隙のない洋装に変わっている。相変わらず何処に出してもおかしくない、整然とした空気を纏う老紳士の姿にはいささかの衰えも見受けられない。

 

 ――が、いくら外面上そう見えても、あの負傷がいきなり回復するわけもなく、

 

「とにかく安静にしていてください。傷は軽くない筈です……何か食べますか?」

 

「ああ、立たんでよろしい」

 

 ワイアッドは席を立とうとしたシロウに手振りでそれを制し、向かい側のソファに自分も腰を降ろした。その所作に視線を這わせてみれば、具合が好転していないことは優れない顔色やぎこちない動作の諸所から窺えた。

 

「結構じゃ、構わんでおいてくれ。今は喉を通らんのでな」

 

 虚勢を張るでもなくゆっくりとそう言うと、ワイアッドは一つ咳をして一言付け足した。

 

「しかし……そうじゃな、紅茶を一杯貰えると助かる」

 

 士郎は首肯して、手早く紅茶の用意に取り掛かった。その動作には微塵の淀みもない。

 

 それを見つめていたワイアッドは、幾分調子の上がった声で言った。

 

「……どうやら、遠坂嬢とは懇意にしとるようじゃな……」

 

「あ、いや、そんな……」

 

 唐突なその言葉に、この実直な少年は謙遜というよりは不意を突かれたかのように狼狽して応えた。

 

 実際彼は幾度となくこの屋敷に、魔道の教練という名目で足を運んでいたのであった。

 

 もっとも、それだけなら衛宮邸でも問題はないのであり、ここに来るのはやはり他人の眼を気にせずに二人きりになれるというのが大きな理由であったのだろう。

 

 それゆえに彼にしてみればこの屋敷のティーセットの配置くらいは勝手知ったるものであった。

 

「いや、かまわんとも。魔術師といえども人であることには変わらん。魔術師は人から外れたものではあるが、人である事をやめてしまえばそれは魔術師ではなく、ただの魔でしかなくなる。

 ……それが、一流などと呼ばれる魔術師ほど、わかってはおらんものでな……わしもそれがわかるまで随分と手間を掛けたものだ。……」

 

 含みを持たせたような、嘆きの篭る言葉に、士郎は何らかの事情があるのを感じた。直感的に、それはテフェリーのことと関係があるかのように思われた。彼はすでにあの銀色の四肢を見知っている。

 

「うむ、悪くない……」

 

 ワイアッドは出された紅茶をゆっくりと含んで深く息を吐いた。

 

「テフェリーの煎れるお茶と比べてどうですか?」

 

 沈黙を嫌ったか、それとも元から待っていた問い賭けをする機を得たと思ったか、士郎はそれほどの間も置かず声をかけた。

 

「……アレも悪くはないのじゃがな。たまに温すぎ、時たま熱すぎ……まあ、外れも多い」

 

「あの、手のせいですか」

 

 不意に、声の調子を変えて尋ねた。不躾な問いだが、聞かずに捨て置けない事柄だと思えたのだ。

 

「……そうか、見たか」

 

 ワイアッドも士郎が投げかけようとしている問いの内容を察したようだった。

 

「昨日、俺たちを助けてくれた子供がいたんです。まだ十四・五歳くらいの」

 

 ワイアッドは据わりを正した。真っ直ぐに士郎の視線を受け止める。

 

「名前は確か、サンガールのカリヨン……テフェリーことを知っていました。でも彼女の方はなにも知らないようでした。……いったいなにがあったんです? 貴方たちの過去に」

 

「……知らぬ」

 

 自白でもするかのように、重い言葉だった。しかし、それは(つか)えることもなく出た。長い間吐き出そうとして、出すに出せずに喉元で問いかけを待っていたかのような、そんな巌のような重苦しい言葉だった。

 

「本当に知らぬのだ。アレを保護した時には既にあの身体だった」

 

「……」

 

 士郎は黙したまま、零れだしてくる巌のような言葉を静観した。

 

「あの礼装は脊髄や脳幹にまで達しておってな。時計塔の魔術師を見渡しても取り除ける者はおらなんだ。……わかっとるのは、生きとるのが不思議だということぐらいかのう」

 

 ワイアッドはゆっくりと、しかしろくに息もおかずに言葉を続けていく。

 

「……アレは、かつてはサンガールの居城にいたらしい。それ以外のことは本当にわからん。忘れていてくれているなら、あえて知る必要もないと思ったのでな、魔術で聞き出すこともせなんだ。

 ……それ以来、何とか普通の生活というヤツの真似事をしてきたのだが、さてうまくいっとるのかどうか……」

 

「大丈夫ですよ。いい()だと思います。とてもお爺さん想いの」

 

 色眼鏡の奥の方眉が不意に上がった。

 

「ランサーか……」

 

「貴方の望みはテフェリーだとも」

 

「まったく、口の軽い英霊もあったもんじゃな……」

 

 苦虫を噛んだような想を浮かべたワイアッドに、士郎は真摯な面持ちで語りかける。

 

「だから、あまり無理はしないでください。テフェリーはランサーにそう言われたとき、……それでもあなたを助けに行くときに言いました。『自分の望みもただひとつだ』って」

 

「……ワシの願いはそんなに美談にするべきものでもない。どちらかといえば贖罪のようなものじゃ。人生をしくった老人の最後の足掻きみたいなものよ。ワシは、あれが何処で生まれたのかも知らんのだ」

 

 ワイアッドは色眼鏡をはずした。それを見て士郎も眦を見開いた。そこにあったのは確かに薄い緑と茶色の、色違いの瞳だった。

 

「ただ、一目見て解かった。己の血筋のものだということはな……」

 

「……俺なんかが口を挿むようなことじゃないのかも知れないけど、多分あの娘が一番辛いのは貴方が必死に足掻くのを手伝えないことなんじゃないかと思うんです。一人で戦おうとするのは止めてください。それに、俺も目の前にいる人に手伝うなって言われてもつらいだけですから」

 

 再び色眼鏡で表情を隠した老人は、なにやら口の中で物を吟味するように貌をしかめていた。

 

「……やれやれ。ワシは君をただ非常に親切な性質の人間なんだと思っとったが、どうやら過分なお節介やきの間違いだったようじゃな」

 

「ええ、よく言われます」

 

 士郎は笑い、ワイアッドもようやく微笑のようなものを疲れた貌に浮かべた。

 

「ならば、早々に手を打たねばなるまい。ヤツは、速ければ今夜にでも来る」

 

「ヤツ?」

 

「昨夜君らが戦ったというあいつじゃよ」

 

 士郎の脳裏を介して総身の皮膚の裏側に、あのモザイク柄の怪人の脅威がさめざめと蘇った。

 

「アイツが!? どうして……そういえば何で俺たちを狙ってきたのかも……」

 

「ヤツの狙いはテフェリーじゃ」

 

「いったいどうして……」

 

 その問いには答えず、ワイアッドは窓の外、爛れたような緋色の空を見据えて独白するかのように言葉を紡ぐ。

 

「兎角、迎え撃つしかあるまいな。あやつはまたテフェリーを狙ってくる。そういう男じゃ。最後まで己の意志を通そうとするはず……」

 

「……知り合い、なんですか」

 

「知己じゃよ。……よく、知っとる……」

 

 その語尾に重苦しい拒絶の色を感じ取り、士郎はそれ以上の言及を避けた。

 

「……でも、どうやって」

 

 士郎は再び昨夜垣間見た、あの怪人の驚異的な強さを反芻して身を震わせた。またあの男と相対することになるというなら、はたして彼らはその身を護りきることが叶うのだろうか。

 

「なに、ここで待ち受けると言うなら、手はないこともない。悪いが遠坂嬢を起こしてきてくれんか? 少々、準備が要るのでな」

 

 切迫した声を漏らした士郎に向けて、向き直った老翁は眦を決して鋭い視線を送ってきた。その眼光はすでに一流の魔術師のそれに変じていた。色眼鏡から垣間見えたその二色の双眸に、怜悧な刃の輝きが揺らめいた。

 

「いい機会じゃ。君も勉強するといい。魔術師の真価とは、要撃戦(ようげきせん)でこそ問われるものなのだからな」

 

 夕日が去る。空の色が、ティーカップに残った緋色のそれとは似ても似つかぬ漆黒に澱もうとしていた。

 

 

 

 

 この新都の街にふたたび夜が訪れた。

 

 先日まで日が落ちるとともに吹き荒んでいた、目も開けられぬほどに荒々しくも冷たかった風は今日に限って去り、代わりに空恐ろしいまでの凪いだ空気が街を覆い、まるで世界そのものが丸ごと弛緩させられてしまったかのように感じられた。

 

 それが、逆に奇異だった。今宵に限り、風がないことが逆に恐ろしかった。住民たちは理解を超えて震える心胆で感じ取っていた。

 

 この凪いだ夜こそが、何にも増して恐ろしいものだということを。

 

 

 

 何処からともなく流れ来るガムランの調べはどこまでも妖しく、夜の天蓋を頂く篝火の移ろいはどこまでも艶かしく美しい。

 

 そこにあるのは簡易なサークルと少量の香と呪物だけ、複雑怪奇な術式陣などどこにもありはしない。有るのはただ舞い続ける女の艶めかしい肌だけだ。

 

 上気し、息を弾ませながら、細い顎先から雫を滴らせ髪を振り乱して、人ならざる「魔」を模倣するかのように、柔肌がうねる。どこまでも官能的で際限のない静かなる熱狂。遮るもののない、月さえ見えない夜の中で、舞い手は振るう。ただ舞い狂う。舞い狂う。――

 

 ここは新都で一番高い場所。天に連なるが如き塔の上、センタービル屋上である。そこで妖しく舞い続けているのは魔術師のサーヴァント、キャスターであった。

 

 今、彼女は手にとる白布意外は何の装飾品も身につけておらず、その裸体を夜気に晒し躍動しながら見るものの視覚をその芳香で惑わすかのように魅惑の舞踏に酔いしれている。

 

 かれこれ、四五時間ほどこうして舞い続けているだろうか、常軌を逸したその振る舞いは古の神事や神降ろしの儀式を連想させる。しかし、今宵この魔女がこの(うつつ)に呼び集めようとしているのは、神などという生易しいものでは断じてない。

 

 彼女の舞台となっているその塔の周りには、うっすらと奇怪な靄がかかっている。赤みを帯びたオレンジ色の靄だ。やがて靄はそれ自体の重みに耐えかねたのか、高層ビルの表壁を伝って雪崩を打った。

 

 靄は舞い降りる。靄の所々に斑が生じる。その斑は次第に色みと厚みを増していく。それらは次第に数を増す。それらは次第に寄り集まる。それらは次第に引き集められる。それは、既に澱みに似ている。

 

 それまで目には見えなかった闇の澱みが、蠢きながらやにわに何かの形を獲得していく。

 

 腕を得る。

 

 足が見える。

 

 五体がそろう。

 

 (しか)して、それは人にあらず。人の如き、人もどき。――化生。地中深くから沸き起こる汚泥のごときそれらは、悪霊ならぬ怨霊に他ならない。

 

 煌々たる赤光の靄に引かれるように、雲間の闇から、山裾から、川原から河口から、集まる畸形胎児の如き異形の群れ。赤黒色の体、真紅の目、中には虎の如き、牛の如き異形の影までもが見える。

 

 その様、まさしく百鬼の夜行。

 

 路上には、ビル軍の隙間には、公園のベンチには既に目には見えぬ何かが腰を落ち着けていた。オレンジの光に包まれ、かろうじて人の視覚を侵さぬそれらは、既に触れられるまでに厚みを帯びていた。

 

 じっとりと濡れそぼつ影の群れは群雲に架かった月が貌を出すかのように、その姿を次第に鬼の群れへと変転させていく。

 

 魔帯が歓喜する。化靄が打ち震える。魑魅魍魎が踊り狂う。その総数たるや如何ほどか、幾千幾万の赤み掛かった靄が新都一帯を包み込んでいく。

 

 そう、今宵は祭りだ。灯篭に引き寄せられる羽虫の如く寄り集まったしじまの住人も幾幕間(いくまくま)のロンドに酔いしれる。

 

 その様、まさしく百鬼の舞踏。

 

 この地で幾重にも繰り返された闘争の末に、この地に積み重ねられた屍が怨霊・亡霊として地表にあふれ出してきたのだ。それらは澱んだ虚の中で次第に貪り合い溶け合って、次第に嵩を増やしていった。

 

 奇怪なる妖光に煽られる女はたおやかな肢体を上気させ、いっそうに振り乱される柔肌は幾重にも艶を増していくようだった。

 

その裸体には渦を巻く血色の紋が踊り、うねる柔肌の上で闇の中に芒と浮かび上がる。それはのたくる蛇にも見え、見るものの視線をその肌の上に絡めとってしまうかのように思われた。

 

淫らに上気した頬を燻らせ、妖女が笑う。

 

『――――さあ、今宵は無礼講。どちら様も、漏れなくお招きいたしましょう――』

 

舞手は狂う。舞い振るう、舞い狂う。――

 

 

 

 昨夜、成り行きでテフェリーと同行することになり、ついで、とでもいう形で宿敵でもあった兄オロシャを打ち倒す僥倖にあやかったカリヨンはその後、彼らとともに一度衛宮邸に向かった。

 

 出来ればそこで最後まで意識を失ったままのテフェリーを看ていたかったが、空が白むのを見て、そこにい続けるわけにも行かず、朝も明けてからこの場所に帰ってきたのだった。

 

 さんざんに打ちのめされた彼の負傷はテフェリーのそれよりもよほどひどいものだったが、最後にランサーが彼に掛けた末期の言葉が、幻灯の如き不確かな熱波となって敵であるはずの彼の疲労と傷を癒してくれたのだ。

 

 説明もつかないし確証もないが、それでも確信が先にたったのだ。あの時、彼等は敵同士でも、ただの協力者でもなかった。少なくともカリヨンは彼女を敵だとは思っていなかった。

 

 今考えても不思議だが、あの時彼らは間違いなく掛替えのない同志だった。テフェリーを護りたい、という一念のもとに彼らは同じ想いを抱く者だった。

 

 そして改めて思う。託されたのだ、と。あの時あのランサーにテフェリーを、テフェリーの味方であり続ける事を、護り続ける事を。

 

 そこでふと、彼は考え至る。そも、敵とはなんなのだろうか? そして味方とは。

 

 改めて考えても見れば、よくわからない。敵だ、味方だということなど彼は考えたことも無かったのだ。ただ漠然と、周りにいた人間は総て己の敵なのだと考えていた。

 

 それは、多分、自分を気にかけなかった人々なのだ。己を慮ってくれなかった者達なのだ。しかし、彼等は別にカリヨンに向けて直接害意をぶつけてきたわけではなかったではないか。

 

 では、敵とはなんなのだろうか? 自分は誰の敵で、誰の味方なのだろうか……。

 

 分からない。ただ、ひとつ分かるのは、ここに来て分かったことは、きっと自分はテフェリーの敵にはなれないのだということ。きっと彼女が望むなら聖杯を差し出すのも苦にならないかもしれないという事。

 

 それはきっと、これまでの人生で、彼女だけが彼の味方だったから。

 

 敵、といえば。そうだ、自分はあの兄に勝ったのだ。にもかかわらず、驚くべきはそのことをたいして嬉しいとも感じていないということである。勝ったのだ、あの怪物のような兄に。なら、もう少し喜んでもいいものかと思うのだが、考えるのはテフェリーのことばかりだった。

 

 主だという老人の安否を気遣い涙まで流した彼女を見て、心からそれを嬉しいと感じていたのは事実だ。

 

 彼女が安堵に微笑む様をどれほど夢に見たのだろう。笑えるようになっていてくれたなんて、これ以上の喜びが他にあるのだろうか――でも、同時にこの心をかき乱す何かがあるのだ。

 

 それはまるで、ひとりだけ置いていかれてしまったかのような心細さであった。疎外感と言ってもいい。亡くしてしまった過去にすがろうとするのではなく、未来を見据えて生きているテフェリーの姿を見て思ったのだ。

 

 きっと、彼女にはもうカリヨン・ド・サンガールは必要ないのだと。だって、結局自分だけがあの日から一歩も前に進んでいないのだから。それが、改めて突きつけられた、カリヨンにとって認めたくもない現実だった。

 

 思わず、抱えていた膝頭に顔を伏せる。

 

 するといきなり頭上に何かをかぶせられた。いきなりのことに驚いて顔を出すと、してやった、といわんばかりの鞘の笑顔が有った。

 

「風邪引くよ。子供はすーぐ身体、冷えちゃうんだから」

 

「……」

 

 そして仏頂面のカリヨンの脇に座ると、なにやら知った風な顔で笑いながら肘で小突いてくる。

 

「な……なんだよッ」

 

「いや~、随分真剣にみてるからさ~~」

 

 意地悪く笑いながら鞘が指し示す先には、舞い踊る女の豊かな裸体が淡い月光の靄に照らし出されながら、たおやかに波打っていた。

 

「――――なっ!? はぁ!? なんッ」

 

 泡を食って抗議しようとするカリヨンの言葉を、分かってる分かってる~~、と遮り、鞘はヒヒヒ、とこの上なく意地の悪そうな笑いを漏らして手にしていたコーヒーをカリヨンに手渡した。

 

 肌寒いのも当然といえば当然であった。彼等は夜の寒空の下、その空を見渡すセンタービル屋上にいたのである。その中央で踊り狂いながら儀式を執り行っているのはキャスターである。

 

 彼女はいま大魔術の行使に全精力をつぎ込んでいるのだ。その光景は妖艶にして限りなく淫らでありながら、生命の瑞々しさに満ち溢れていた。

 

 既に話しかけることもできない。トランス状態での舞いは既に架橋に差し掛かりかけているのだ。

 

 その間無防備になってしまう彼女の護衛、兼見張り、と言うのがこの二人に課せられた使命である。

 

「まーだ、朝のことでむくれてんの?」

 

「……」

 

 昨夜、カリヨンが完全に夜が明けてからこの仮初の拠点に帰ってきたときのことである。おそるおそるキャスターの元に出て行くと、当然鞘は既に自力で戻ってきており、彼女を探しに行っていたという言い訳の仕様もなかった。

 

 カリヨンは仕方なく出て行くしかなかったのだが、そこで予想だにしなかった絶対零度の針の如きキャスターの視線にさらされ、怯えるのもかまわず盛大に叱責を受ける事と相成ったのである。

 

 その上、これ以上勝手に出歩くなとまで言いつけられてしまった。多少の叱咤ぐらいは考えていたのだが、あまりに予想外の対応にカリヨンは大いに肝を抜かれ無条件降伏を余儀なくされたのだ。

 

 しかしそれは同時に新鮮な体験でもあったのだ。考えても見れば面と向かって誰かに叱られるというのは、始めての経験だった。

 

 それについて、脇で(笑いを噛み殺しながら)見ていただけの鞘は言う。

 

「アレはね、本気で心配してたの。君の事をね」

 

「……解かるのか、そんなこと」

 

「理屈じゃないんだよ~。そういうのってさ~」

 

 別に話したくはなかったが、他に相手もいない上にからかわれる可能性も大であったが、どうにもその気持ちを言葉にして誰かに伝えたいと言う欲求に駆られ、鞘にそのことを話した。すると案の定知ったような回答が帰ってきたのだった。

 

 護衛兼見張りとはいっても、特になにがあるわけでもなく夜は滞りなく更けていくのみだ。残りの参加者はどのくらいいるのだろうか? 兄オロシャが倒れたいま、カリヨン達に抗い得るのはイレギュラーのセイバーぐらいのものではないのか?

 

 D・Dはサーヴァントを失った筈だし、それに正直彼女たちとは、いや、テフェリーとは戦いたくなかった。今宵のキャスターの狙いは残りのサーヴァントだけで、マスターに危害は加えないということだったが……。 

 

「ときに少年、好きな人はいるかい?」

 

「な、なんだ突然! いきなり! 唐突に!」

 

 渡されたコーヒーに口をつけるでもなく、その湯気に魅入っているかのように俯いていたカリヨンは再び泡を食って声を上げる。自分が浴びせた言葉で、彼がうろたえるのを、爛と光らせた目で見初めて、サヤは言う。

 

「悩んでいるのはそういうことだと見ました。ズバリ、恋煩いに違いない!」

 

 ビシッと両手の指でカリヨンを指す。

 

「なにが「違いない!」だ。……別に、そういうんじゃ、ない」

 

 多分、――ではあるのだが、その辺りのことはまだカリヨン自身にもよくわからないのだ。

 

「じゃあさ、君は今までのことで後悔してることってある?」

 

「なにが、じゃあ、なんだよ。繋がってないぞ、話が」

 

「いやさ、昔その好きな子のことでちょ~~っとヤなことがあってそれをぐちぐち後悔しちゃってるのかな~~と」

 

「ちがう!」

 

「ほうほう。左様で~」

 

「……」

 

 無視する。付き合っていられない。

 

「ま・ま・ま。怒んないできいてみなさいよ」

 

 実を言うとキャスターが儀式を始めてからというもの、暇をもてあました鞘は、幾らかのインターバルを挟んで喋りっぱなしだった。

 

 どうしたところでじっとしていられない性分は変わらないようで、一方的に続けられる会話はほぼ彼女の独壇場と化していたのであった。

 

「いやぁ、なんかさー、先のことを悲観してばっかいるのは前にあったことを後悔しているからなのではないかしら、と思ったのですよ」

 

 ウムっ。などといっている。こいつ本気で暇なんだな。とは思いつつ、カリヨンもちらりほらりと相槌くらいは返していたから、話しは余計に弾むのである。

 

 実際、彼も暇をもてあまし気味であったのだ。昨夜の激闘の後で気がゆるんでいたとも言える。

 

「……ふつう、するだろ。自分のやってきたことにひとつも後悔しないなんて何にも考え

てないのと一緒だ」

 

「あ~、見たとこ君は後悔ばっかりしてるかんじだねぇ」

 

「……」

 

「でも大変じゃない? これまでのことを後悔して、先のことを悲観して心配してさ、生きてて楽しくないじゃない?」

 

「じゃあ、どうすればいいって言うんだよ。そうしないで生きてく方法なんてあるのかよ!」

 

 それまで何のこともない相槌を返していたが、このときばかりはちょっとむきになって応えた。

 

「おおっ、食いついてきましたね~」

 

「……ッ!」

 

「あー、ごめん、ごめん。まぁ簡単な話なんだけどさ、考えないってのも大事なことなのよ。大事なのは今。今どれくらい夢中でどれくらいドキドキできるのか、それを考えて生きてけばさ、その連続でできてる人生なんてのはあっという間に終わっちゃうんじゃない? 今までとかこれからとか、考えてる暇があれば今を大事にするようにしなさいってこと」

 

「……」

 

「君がその子を好きならそれでよし、たとえ嫌われても君が好きならずっと好きでいればいい。君の気持ちを決めれるのは君だけで、その子の気持ちを決められるのはその子だけなんだから?」

 

 ――なんだ、えらそうに。

 

「そういうんじゃないっていってるだろ。……大体、……その、人に何か言えるくらい悩んだことなんてあるのかよ……その、そういう、好きなやつ、のことで」

 

 ばつが悪くなったのか、カリヨンはそっぽを向いたまま声を引っくり返した。こんな会話を人としたことなどない。

 

「そりゃあ、ありますよ」

 

「え?」

 

 予期していなかった反応に、思わず鞘に向き直って呆けたような声を上げてしまった。

 

「え、え――と、その、いたのか? そ、そういう」

 

「いたよ~。大好きだったし、今も好き」

 

「……」

 

 カリヨンは再び俯いて押し黙る。別にそれほど慮外な返答でもない筈なのだが、どうにも鞘の普段の言動からは、それがイメージできなかったのだ。

 

「一緒にね、世界を回ってたんだ。私、冒険家だっていったでしょ?」

 

「……何でそんなことするのか、解からないな」

 

「えー、何でよ」

 

 適当な相槌のつもりだったが、問い返され、つい、口が滑る。

 

「知らない世界になんて行ったところで、自分は結局自分じゃないか、何処にいったって自分が変われるわけじゃないんだ。それは……逃げてるだけじゃ、ないか」

 

 やめろ、と言葉を続けながら思う。こんなに本気になって言い返したところで、また茶化されて終わりに決まっている。自分は何をそんなにむきになっているのだろうか。

 

 しかし返答がない。視線を上げると、サヤは始めてみる表情でカリヨンを見ていた。というより睨みつけていた。カリヨンは思わずおののいた。始めてみる表情だ.怒らせたのだろうか?

 

 しかし、サヤは大きな溜息をひとつ吐き、両手でカリヨンの肩を捕まえて近づけた眼を猫のように大きく見開いた。

 

「ちょッッ、ち、近、近い……」

 

 小さく悲鳴を洩らしたカリヨンに、サヤは真剣な貌と声を向けた。

 

「いいから、ちょっと聞きな!」

 

「……ッ?」

 

「いい、人はね、世界が変わるから、変われるんじゃないからの、自分が変わるから、いつだって新しい世界を見れるんだよ」

 

「は……はぁ?」

 

「不思議なもの、綺麗なもの 世界は想像するよりもずっと広くて、なんだってある、なんだって出来る。でもね。それは自分が自分のために望むから見れることだし、できることでもあるんだよ。いい、それを君がいらないって言ってしっまたら、もう誰にもそれを見せてもらうことはできないんだよ。

 

 だから、出来ない、なんて言うのはだめだよ。自分に何が出来るのか、出来ないのか、それは自分次第なんだよ 世界は自分次第でいくらでも大きくなる。いくらでも変化する。変わっていく。君がそれを望むことを誰も制限なんて出来ないんだよ。君が決めて行動するのも自分」

 

 返す言葉もないカリヨンに、そういってサヤは笑う。

 

「だからさ――、君が望むなら、この世界はそういうふうに形を変えてくれるものなの。解かる?」

 

「……」

 

 なにも答えられない。ただ呆然と、鞘の真剣な顔を見つめる。

 

「要はね、君次第ってこと。「世界」なんて結構そんなものなのよ」

 

 魔術師にとっての、魔道においての「世界」とは、そんな単純なものじゃない。と、ここで主張することは、しかし憚られた。

 

 言っても鞘には解からないことだろうし、それにそれを声高に語れるほど、カリヨンは魔術師として揺るがぬ根幹を持っていない。そんな借り物の言葉で、この一点の曇りもない鞘の瞳を受け止めることは出来ないと思った。

 

 だから、カリヨンは黙っていた。黙って、ただ、そのいつもは軽薄そうな言葉ばかり吐いている口から出た、目新しい言葉を受け流すこともできずに、ただ身を強張らせた。

 

 どうして――こいつはそんなにも真っ直ぐに世界を見ることができるのだろう。

 

 望めば、世界は己の欲するままにその姿を変える。そんな、まるで魔法のようなことが何故できると、このただの一般人にしか過ぎないはずのこいつが、どうしてこんなに信じて疑わずにいられるのだろうか。

 

「……ッ」

 

 何か言わなければ、と思う。しかし彼の中からは何の言葉も湧いては来ない。二人が向かい合ったまま、沈黙が過ぎる。

 

「あ、デジャ・ビュだ」

 

 そして唐突に、カリヨンの応答を待つことなくサヤは首を捻ってカリヨンの肩を放した。

 

「は?」

 

「既視感てやつだよ! 『そういや、前にも誰かにこんな話したかな?』って思うやつ。あたし誰かにもこんな話したことあるかも」

 

「…………ああ、そう…………」

 

 相変わらず一人で居てもやかましいやつだなと、改めて思いつつ、カリヨンは、そのマイペースさに妙な落ち着きを感じて、大きく安堵の息を漏らした。

 

 いきなり真剣な貌をしたり、思い出を語る鞘の貌はなんだか別人みたいで真っ直ぐ見れなかったのだ。

 

「うん、そのときもね、そういう話をして、それで……ずっと三人で一緒にって……その人と…………」

 

「三人?」

 

「はれ? うん、……あれ? いや、誰かもうひとりくらいいたような……」

 

「……」

 

 さて、こんな記憶回路のネジのゆるそうな奴の言葉に多少なりとも身を入れて聞き入っていたことを手早く後悔、反省、忘却しながら、カリヨンは適当に相槌を返した。

 

「じゃあ、何でいまは一緒に居ないんだよ」

 

「あ~~。どこにいるのかわかんないんだよね~~。ホント、何処行っちゃったんだか……」

 

「……どんなやつなんだ?」

 

「ん~~、どんな、か~~、君に似てるかも。いろいろと難しく考えすぎちゃって悩んでばっかいてさ、あたしがいてやんないと辛そうな顔ばっかしてるんだよ。髪は茶色で生まれたのはなんとかっていうイギリスの田舎だとかなんだとか……」

 

「まったく要領を得ない解説だよな」

 

 え~~、といいながら鞘は眠そうに眼をこする。

 

「……そんで、と~~っても綺麗な眼をね、してるの。とっても綺麗な、い……ちが……いの……ふあぁ~~」

 

 欠伸のせいでかすれるようにしぼんだ言葉尻は良く聞こえなかったが、鞘はそれきり言葉を切って押し黙ってしまった。気まずくなったカリヨンはうなだれるようにしてまた膝を抱えた。

 

 まぁ、ようとして素性の知れないこの女にもいろいろとあるのだろう。

 

 だが考えてみれば、自分は世界というものをどれほど知っていると言うのだろうか、自分の知りえる世界がほんの一つまみなのだとしたら、残りの世界とは未知の物で溢れていることになる。

 

 それこそ、魔術師の家門を継ぐ事も、生死を賭けた戦いに勤しむことも、初めて出会う人間と挨拶をするということですら、それらは同様の未知なのだ。その探求こそが鞘の言うように人の生きる意味なのだとしたら、世界とは意味で溢れていると言うことなのだろうか。

 

 どういう道を歩むかではなく、どこを向いて生きるかが重要なのだと言うのか?

 

 だが、それを真理だと受け入れてしまうには、この少年の心はまだ成熟していない。だから認められない。そんな言葉で自分を慰めてなんになるというか、と思いに捕らわれてしまう。

 

 そしてふと今しがた聞いたばかりの言葉を反芻して、あることに気付いた。鞘は偶然にこの儀式に巻き込まれた部外者だが、そういう人間が聖杯戦争に呼ばれる場合、その人物は魔術的な素養のほかに、確たる願いを持っていることが多いらしい。

 

 それに聖杯が反応するのだという。では鞘の願いとはなんなのだろうか? もしかしたら、今彼女が語った内容こそがそのヒントになるのではないかと直感的に察せられたのだ。

 

 愛する者との邂逅、――再会。

 

 そうなのかと、それを声に出して問い返そうとして、あわてて少年は黙り込んだ。そんなことを聞いて、もしもそうだといわれたら自分はどうするつもりなのだろうか。鞘の願いのために聖杯の奇跡を譲るとでも言うのだろうか?

 

 自分の願いを犠牲にしてまで……いや、しかし彼には最初から確固たる願いなどないのだ。叶う筈がないと思っていた願いは既に叶ってしまった。後は……時期当主となって森羅万象に、世界に向けて胸を張るだけなのだ。

 

 なら……鞘の願いを聞いてやるくらいはいいのかもしれない。けれど、しかし、でも……。

 

 惑う心は少年の柔な胸中で暗転を繰り返す。

 

 胸に不可解な熱を感じながら、逆に耳は冷えて痛いほどだ。どうしてなのだろう。静か過ぎるのがいけないのだろうか?

 

 いや、そうではない。カリヨンは立ち上がり、見知らぬ街の夜をこの頂から一望する。この見知らぬ夜はどこか騒がしい。それは今この街を行く満もの魑魅魍魎が闊歩しているからではない。

 

 それ以前から感じていたことだ。顔を上げる。街の、――人里の夜は森の中のそれとは違うのだと、彼はここに着てから始めて認識していたのだ。

 

 そういえば、ここはかつて渇望した筈の、あの箱庭の外の世界だというのに、見るもの聞くものが目新しい筈のこの場所がどこか、味気ない……。

 

 それは、きっと、彼女が此処にいないから…………。

 

 思いつめるあまり、カリヨンの視界はくらくらと混濁してきた。これというのもいつもは騒がしい鞘が黙り込んでいるからである。

 

『いつもはうるさいくせに、こんなときだけ……』

 

 しかし、盗み見るようにして振り返ってみれば、鞘は一人静かに寝息を立てていた。

 

 カリヨンは肺から絞り出せる限りの息を溜息に変えて吐き出した。独りで悩んでいたことが心底馬鹿らしい。

 

「やれやれ……どっちが子供なんだよ……」

 

 さっき手渡された毛布を掛けてやった。普段の騒がしさとは対照的に死んだように静かに眠る鞘の寝顔は、まるで別人のように見えた。

 

 

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