真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜   作:霜焼雪

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――――朧月夜にしくものぞなき


大江千里


第一部
第一帖 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の――――


 

 人という存在には限界がある。

 

 それは誰であろうと例外ではなく、高みを追い求めるにあたり必ず立ちはだかる、限界を示す壁。通行禁止の場に敷かれるバリケードテープのように、上限値を示唆してくる一線。

 人間としての身体能力の向上、拳の強さも然り、足の速さも然り。何事も上を目指すにおいて、壁にぶつからないことは人間である以上有り得ないのだ。それは勿論身体の性能だけに言えた事ではなく、頭脳や性格にもしっかりと限界が設定されているのであるが、限界点が異なるためにそれは置いておく事にしよう。

 その限界を越えんと欲し、その壁を越えんと望み、人はたゆまぬ努力と事故研鑽を怠ることなく、遥かなる強さを手に入れんとする。

 しかし、その人間の限界である壁を突破するということは、まず並の修行や努力では不可能。網目の細かい(ふるい)にかけられ、さらにその中から選ばれた一握りの人間に、その壁を越える権利とも呼べる才能、“天賦の才”が与えられる。

 天賦の才として与えられた権利は正に至高の財。金で手に入れるような無粋な真似は出来ず、後天的なものではなく先天的なものであるために、権利がない者は容赦なく切り捨てられる。その極上の才能を腐らせず磨きあげることにより、超越者、マスタークラス、“壁を越えた者”として扱われるようになる。世界最強の一角として認められる存在へと昇華するのだ。

 その壁を越えた者となった人物は世界に十数人しかいない。まだ壁の上に立ち一線を越えていない原石や、僅かに力足らずに壁の前で立ち往生してしまっている者もいる。そして中には、果てしない研磨の結果に体の一部だけがその領域に到達するといわれている者がいる。

 武道家はその壁を越えた者の強さを目指し、日々苦行に堪えているのだ。

 

 

 

 ――――では、その限界を造ったのは誰なのか。

 ――――では、その壁を設置したのは何なのか。

 

 

 

 これは、その限界という高き壁を人間に賦与した存在と、そこから入り乱れる人間関係の奇譚。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 川神院。それは高尾山、成田山と共に関東三山に数えられ、その名が市の名前に使われるほどに強大であり、その寺院の力は無敵と讃えられる景勝の寺院。

 多くの武人がより高みを目指すためにそこへ入り修行僧となる。そこの師範代ともなれば世界有数の実力者、さらには壁を越えた者として昇華できる者もいる。

 そして、そこの総代を務める者も壁を越えた者。さらにその中でも最高級の強さを備え、武の総本山の頂点として世界に畏敬の対象とされている。

 

 

 その名は、川神鉄心。

 

 

 彼は現代で間違いなく最強クラスの武人、そして至高の指導者である。

 しかし、そんな彼ももう老体、日清戦争を目の当たりにした生きた化石。普段は茶を啜りながら自室に鎮座していたり、散歩を兼ね修行僧に武人としての志を教えたり、学園の学長として教育に精を出したりと、緩やかに生きつつも強さを維持することにしていた。

 そんな鉄心にとっていつも通りの日常、もう桜が散り切った時期から物語は動き出す。

 

 

「やあ御老体」

 

 

 鉄心が修行場に足を運ぼうと自室から出た時、鉄心の右側から揶揄するような声が聞こえた。鉄心がそんな安い挑発のようなものに乗る訳もなく、移動速度を速めることも遅らせることもせず、ゆっくりと首だけで右を向いた。

 そこには鉄心の想像とは違う人影があった。鉄心の予想は年老いた翁、自分と変わらないような老人が声をかけたと考えていた。しかし現実は違う。そこにいたのは、まだ十歳に満たないような外見をした中性的な少年。純白と漆黒が八対二で混ざりあったような綺麗な灰白色の髪を、踝までいい加減に伸ばしており、服装はどこかで見たことがあるようなスタンダードな紅白の巫女服で、異質なほどに輝く金目銀目(ヘテロクロミア)で鉄心の全てを射抜くように凝視していた。

 姿を見るまでの鉄心も僅かに警戒はしていたが、その両目を見た途端に鉄心の本能が警告信号を全力で響かせた。この存在は危険であると。

 

 

「お、まだ僕は見ていただけなのに、よく警戒できたね。流石“壁を越えた者”。重畳重畳」

 

 

 鉄心の威圧をアダで感じ取った少年は、莞爾(かんじ)として笑いながら鉄心を褒め称えた。目上の者が目下の者に褒美を与えるように拍手を加えて。その容姿とは真逆の行為が二人の間で行われていた。

 

 

「何者じゃ」

「んん? そう身構えるなよ。ぼくは戦えないし、戦わない。いきなり襲う蛮族のような愚行は犯さないよ。ただぼくは、鉄心とやらと腹を割って話したいだけさ。近現代ではぶっちゃけるというのかな? まあ、その気になれば無理矢理に吐かせることもできるけど、壁を越えた者に対しては中々に疲れる。特に目がね。携帯電話を四時間見続ける位に疲れるのさ」

「何者じゃと、聞いておる」

「おいおい、そんなにビリビリと殺気を向けるなよ。思わず手を出しちゃうじゃないか。立ち話もなんだし、お茶でも出してくれよ、お茶請けつきで。今は“(おぼろ)”とだけ名乗っておくよ」

 

 

 自らを朧と名乗った少年は笑顔を絶やさなかった。その笑顔から読み取れる明白な事実はなく、鉄心はこの得体の知れない存在に従うしかなかった。しかし決して警戒心は解くことはなく、鉄心は川神院の奥の一室に朧を招き入れた。その際に修行僧の一人にそれなりの茶と茶菓子を持ってくるように命じた。修行僧は朧が異質に思えていたが、総代の命である以上従順に、何も聞かずに茶と茶菓子を持ってきた。

 朧は巫女服姿でありながら正座をする訳でもなく、ドカッと大きく胡座をかく訳でもなく、まるで仏のような結跏趺坐(けっかふざ)で座布団の上に座していた。

 朧は茶を手に取り、一度匂いを鼻孔へ招き入れてから啜る。

 

 

「……京の上質な玉露、いいものを持ってる」

「まあ無下に追い払うことができんのじゃから豪勢に。どうせ追い払ってもまた来そうな気がしての」

 

 

 正直に自分が今自棄であることを宣った鉄心に、朧は目を屡叩かせてから大きく息を吐き出し笑い出し、自分の膝をバシバシと強く叩き出した。

 

 

「わっははははは、正鵠! 確かに、幾度となく現れるつもりだったよ。まあ流石に時間帯は慮るつもりでいたけど。それで、何が聞きたい? 壁を越えた者、川神鉄心くん」

「壁を越えた者壁を越えた者と喧しいのぅ。そこまで壁を越えた者に拘るか、朧とやら」

「くくっ、ああ拘るさ、固執するとも。何せぼくの目的は目下それ、壁を越えた者に感想を聞き たくてね」

 

 

 朧はまだ笑いが抜けきっておらず、腹を押さえながらもお茶請けに差し出された蕎麦饅頭を乱雑に貪り出した。品性の欠片もないような食べ方であるはずなのに、それに鉄心はそのような感情を一切感じない。朧の所作、仕草、一挙手一投足が流れるように美しかったがためか、むしろ気品や優雅さが滲みだしてくる、そんな奇妙な空間がそこに発生していた。

 外から聞こえてくる修行僧たちの気合の入った掛け声が幽かに聞こえてくるが、朧はその声をまるで夏の風物詩である蝉を嫌うように顔を顰めていた。しかし、蕎麦饅頭が旨かったのかそんな小さなことを気にすることをやめたようだった。

 蕎麦饅頭をしっかりと味わい、ズズズと音を立てて緑茶を啜り、朧は本題へ移った。

 

 

「ぼくが作った冗談みたいな遊びを攻略した感想さ」

「何じゃと」

「だからさ、壁だよ壁。人間の限界として敷いておいた壁を越えた感想」

 

 

 突拍子もないことに鉄心は半分呆れていたが、強ちそれが嘘に思えない空間がここにある。目の前の朧という少年の正体が未だに掴みきれない鉄心は、朧がそういう存在だと言われても完全に否定ができないのだ。もし朧が神だったとしても、鉄心は驚きもせず朧と会話を続けることができるだろう。それ程までに朧という存在は異質なのだ。鉄心が生を受けてから百年以上の間、このような類の存在に鉄心は出会ったことがなかったほどに異常なのだ。今こうして会話が成立していることを、鉄心は驚愕し慄くほどに。

 しかし、そのように戦慄することは川神院の総代として、太古の神々を具現化し自らの攻撃として使用している鉄心として、怯え萎縮することはあってはならないと自身に喝を入れてから朧に問い返す。

 

 

「自分は神だと、そんな世迷い言を口にするのか」

「うーん、若干の差異があるね。齟齬をきたしている。ぼくは残骸だよ。君らがご自由に崇拝している神様のね。まあ化身とは言い過ぎ、かといって仏門の坊主はお門違い。曖昧模糊で説明のしようがない」

 

 

 朧は二つ目の蕎麦饅頭に手をつけた。先程の食らい付くような食べ方とは違い、今度はまるで供え物の団子を食べるように丸ごと口に投下した。その饅頭を口に一杯にして頬張る様子は、冬に向けて食糧を蓄える野栗鼠のようであった。

 口の中が餡で満たされた朧は、水分摂取と口の渇きを癒すために茶を含み、口の中に残っていたもの全てを飲み込んだ。

 

 

「ぷはぁ、信仰され尊敬され崇拝され毀誉(きよ)され褒貶(ほうへん)され畏怖され排斥され忌避された結果、意思を持った虚。欲望と切望と野望と希望と絶望と羨望と渇望と熱望が入り交じってできた、奇々怪々な何か。要するに、ぼくは人間の醜悪さの寄せ集め、捌け口の終着点。言うなれば、野良猫に近い」

「野良猫に近いは冗談じゃろ」

 

 

 初めて冗談らしい冗談が出て鉄心にも軽い笑みが零れるが、どうやら朧は至って真面目だったようで、そんな茶化しに対しても真剣に返す。

 

 

「いや? これが言い得て妙でさ。野良猫程に個々によって見方が変わる物はないし、野良猫程に人間が羨む物はないのさ。何千何万年と君ら人間を見てきた、天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくの保証付きだ」

「ふむ、その自称野良猫擬きが、神と呼ばれるに相応しい存在じゃと?」

 

 

 鉄心も乾きを潤すために茶を喉へ流し込んだ。以外にも緊迫していた雰囲気が一度崩れたことにより、鉄心に若干の余裕ができたのだ。

 それを見た朧はつられて茶を啜った後、口の端についた餡を指先で拭い取り、卑猥な舌使いでそれを綺麗に舐めとった。指先と口を繋ぐように唾液が糸を引いている光景は実に艶かしい。

 

 

「神様とは似て非なる、これもまた的を射ているのさ。日本には八百万の神がいると、帝紀だの旧辞だのに書いてあるだろう? あれらの欠片の詰め合わせがぼく。天地開闢から始まりアニミズムを渡り、今の多種多様な宗教の坩堝と化した日本国に至るまで、神として見なされた物の集合体さ。ぼく自身が神なんじゃない、神とされた物たちがぼくなのさ」

「今一つ、要領を得んのう」

 

 

 鉄心は長々と伸ばした自慢の髭を優しく右手で触りながら首を傾げた。そして、それは当たり前だと云わんばかりに朧は頷いていた。

 

 

「無理もないさ。初めから理解してもらおう、などというご都合主義な考えは抱いちゃいない。だから話が通じそうな君から訪ねている訳さ」

「他に誰が壁を越えたのか、お主は全てを知っておるのか?」

「? そりゃそうさ。ぼくが作ったルールに基づいたゲームだ。製作者であるぼくが参加者を管理していなかったら無意味じゃないか」

 

 

 何を言っているんだ、そう逆に責められた鉄心は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。目の前にいる少年は、世界全ての人間の強さを把握していると、そんな夢物語なことを平然と口にしたのだから無理もない。

 そして、この人生がゲームと仄めかした朧が少し気に入らなかった鉄心であったが、ここは暫く堪えようと黙っていることにした。得体の知れない存在に無暗に勝負を吹っ掛けるほど、鉄心は落ちぶれていないし早計でもない。

 そんな鉄心の考えにに気づいていないのか、気づいていながらも気付いていない振りをしているのか、からから笑いながら朧は構わずに話を続ける。

 

 

「ヒューム・ヘルシングとやらは強いな。あとは川神百代、ここも間違いなく最強の部類だけど、この二人は自信家と戦闘狂過ぎて会話の成立が難しい。口よりも拳が先になるのが目に見えてしまう。そこでキミさ、川神鉄心くん。恐らく、いや間違いなく現存する武道家で真っ先に壁を越えた者となった強者、時代が二十世紀となる前から生きていた老練家。会話なら老獪な奴に限る」

「なるほど、確かにその二人よりはワシの方が話しやすいのも頷けるわい」

「解って頂けたようで何より。それで、感想を聞かせてくれるかい?」

「――――お主、まさか今の話だけで信じろと申すか? そりゃ些か無理というもんじゃ。何かやってみせい、神の残骸よ」

 

 

 鉄心が朧に食らいついた。反撃の場を窺っていた鉄心からすればようやくといったところだろうが、話の流れを掴むには十分な抵抗だった。

 反撃を食らったとは考えていないが、朧は一筋縄ではいかないなと、頭を軽く掻き茶をまた一度啜り一息ついた。そして朧は何かを思いついたように微笑を浮かべた。

 

 

「ふむ、やはりそうくるか。しかしね、ぼくは戦えないし、戦わない。何を見せればキミの得心いく所となるのかな」

「そうじゃな……ならば、ワシの背後を取ってみよ。戦えぬと言っても、それぐらいは雑作もなかろう」

「何だ、そのくらいでいいのか」

 

 

 意外と容易いな、朧はそう付け足して残った茶を全て飲みきり、その外見に見合わない親父臭い息を吐き出し、空になった湯呑み茶碗を手のひらで踊らしていた。

 

 

 

 

 

 

「そんな児戯、立つまでもないさ。座ったままできる」

 

 

 

 

 

 

 朧が不敵な笑みを浮かべた刹那、瞬き一回にも満たない時間で“それ”は終了した。鉄心の目の前から朧が消えたのだ。しかもそれだけではない。朧が気に入っていた蕎麦饅頭、ころころと玩具のように遊ばれていた湯呑、二人の間に挟まれていた卓袱台、その全てが鉄心の目の前から霧のごとく消失していた。鉄心は数瞬完全に硬直してしまったが、即座に自分の背後を振り返った。そこには消えたと思われた朧や家具の数々がしっかりと存在していた。それに気付いた鉄心の体が再び硬直した。部屋に入ってくる風だけが鉄心の髭や衣服を揺らす。鉄心は身動き一つとれなかった。

 

 

「おい茶が切れた。お代わりを所望しよう」

「何をした、今」

「おおっ、そう闘気を剥き出しにしないでくれ。何、大したことはない。君の体を百八十度回しただけだ。これで背後だろう? 背後を取れと言われて自ら動く奴は時代遅れさ」

 

 

 鉄心はその言葉でハッと気づいたように周囲を確認した。自分の背後だと思っていた風景が、先程まで自分が見ていた光景と全く一緒だったのだ。つまり、朧が視界から消えたのではなく、鉄心が視界から消したのだ。何らかの方法で鉄心の体が簡単に動かされたしまった。

 鉄心は今何をされたか解らないこの状況に恐怖しながらも、再び朧という奇っ怪な少年と向き合った。

 

 

「ほら茶だ。もう一杯」

 

 

 鉄心に空となっ湯呑み茶碗をズイッと差し出し、朧はまた一つ蕎麦饅頭を口へ放り込んだ。これは茶だけでなく、茶菓子の補充もいるかもしれないと思い、鉄心は久方ぶりに覚えた恐怖に飲み込まれる寸前で立ち上がり、再び修行僧に持ってくるように命じた。

 即座にやってきた修行僧にそう命じた後、若干ふらつきながらも自分が座していた位置へ戻った鉄心は朧を凝視する。

 朧という存在を、少しでも把握しようと、少しでも記憶に留めようと。

 

 

「さて、茶が来たらキミの話を聞かせてもらうけど、まだ質問があるようなら、ぼくは誠心誠意を以て応えるよ」

「……ならば、お主の作った壁、何のために作ったのかを聞かせてはくれぬか」

「だから、冗談みたいな遊び。いや、遊びみたいな冗談かな? そこまで深く考えちゃいない。ただ、ぼくから見たら葦のようにか弱い存在の人間が、成長する様をまじまじと眺めていたいために、敢えて壁をつくって上を目指すようにしたのさ。まあ、限界を決めておかないと世界が崩壊してしまうっていう危惧もあったから、限界値である壁を作ることは必然的だった。結果論だけどさ」

 

 

 朧が笑いながら話した内容はそれなりに的を射ており、鉄心はそれに対する反論を発することはできなかった。

 暫くの間沈黙が流れていたが、修行僧が茶と茶菓子を持ってその場に現れ静寂を切り裂いた。修行僧は気まずい空気に飛び込んでしまったのかと焦ったが、鉄心はこの静けさを消してくれたことに寧ろ感謝していた。

 修行僧が退いた後、朧は湯呑み茶碗に素早く手を伸ばし、新しいお茶請けである久寿餅を頬張った。その顔は外見通りの幼い笑顔であったが、鉄心はそれを見て癒されることはなかった。

 

 

「さあ聞かせてもらうよ。壁を越えた者、人からはみ出した強さを得た所感をさ」

 

 

 もう逃げられないぞ、朧は目で鉄心にそう訴えかけた。元々鉄心は逃げるつもりは微塵もなかったのだが、その視線を受けたことにより、鉄心の心の奥に何か恐怖心の種のようなものが植え付けられた。

 

 

「…………もの足りず、物寂しい。これに尽きるのう」

「ほうほう、何故そう思うのかな?」

「ワシは長命、長々と生きておる。そんなワシの強さについてこれる奴なぞそうそうおらんかった」

「まあそう簡単に壁を越えてもらっちゃ困るんだけど」

「ヒュームと逢うまでは孤独じゃったのう……。他にも優れた奴等はおったが、如何せん強くなりすぎた。じゃからワシは身を退き、武を教える側に就いたのじゃ。これ以上苦しまぬようにな。まあ、歳も歳だということもあるがのう。そのために精神をより高尚かつ潔白なものにし、今に至る。時代が進むにつれ、より武を極めた者たちが突出してくることもあったからのう。この判断は正解じゃった。まあ、孫ほど戦闘衝動は酷くはなかったわい。あやつは今、ワシ以上に苦しんだ現役生活じゃろうて」

「ふーむ、やはり孤独が付き物か。孤高となるのは避けられない、まあ予想の範疇、かつ君らの自業自得だ」

「解っとるわい。ワシはもう現役ではない。老い耄れたジジイじゃ」

「ぼくからすればまだまだ若いよ。気の持ち様で年齢は幾らでも誤魔化しが効く」

「若いと言われるのはやはり嬉しいもんじゃ。ところで、これを聞いた後、お主はどうするつもりじゃ」

 

 

 次はお主の番じゃぞと、鉄心は朧に威圧をかけた。その眼光に朧は怯むかと思いきや、何故か体を捩らせて恍惚の表情を浮かべていた。しかしそれも一瞬のことで、直ぐに先程のような達観した態度に戻る。

 

 

「ふぅ……いや何、ぼくのゲームをクリアしたってのはまだいいんだ。むしろ誇ってくれないと困る。ただこの時期になって、大体半世紀ぶりに数えてみたんだよ、壁を越えた者の人数をさ。昔は武士の中にも化け物がいたさ。半世紀くらい前は大収穫だった。島津の戦闘狂に、尾張の山猿、加賀の神童、豊後の雷神、越後の鍾馗(しょうき)、有名どころからあまり知られていない武将まで、そりゃあもう素晴らしいくらいにね。あ、今の五人はぼくのお気に入りだっただけだから。こいつらより強い奴らは何人もいた。数えるのが面倒な程だった。体の一部だけでも限界を超えた連中もわんさかいた。ちょっとしたバーゲンセールだったよ。ところがどうだい。現代じゃ二十人もいない。とてもとても嘆かわしい。ちょっとそれはいただけないね――――。だからさ、ちょっと喝と粛清を入れようかなと思って、さ」

 

 

 

 

 その刹那、朧の気配が豹変した。先程までは鉄心でさえまともに読み取れなかった気配が、今にも鉄心を殺しにかかりそうな殺人者の気配になった。

 

 

 

 

 即座に鉄心は飛び退いて臨戦態勢に入った。勝てるか解らない殺し合いが始まると、鉄心は素早く拳を朧に向けて構えた。

 しかし、当の朧は動こうとはしなかった。

 

 

「落ち着けよ川神鉄心くん。まあ座って茶でも飲めよ。ぼくはさっき言ったろ? 戦えないし、戦わないって。ぼくから手を下すのは御法度なのさ。人の死に関わることだと尚更だ。だから君を殺せないし、殺さない。まあ信じてくれよ」

 

 

 久寿餅でも食べようじゃないか、そう呼び掛けた朧は鉄心を茶会の席に戻そうと、今まで以上の笑顔を見せた。殺気も嘘のようにその場から消え失せている。殺人鬼としての気配を保持していた朧は雲散霧消した。鉄心はより一層の警戒体制に突入し、再び座布団へと腰を下ろし茶を啜った。

 

 

「まだ話は終わってないよ。そのお仕置きが少し前の考えだったけど、少ないなら増やせばいいかと、まあ心変わりをしたのさ。それで、どうせなら壁の向こう側をより混沌に、天地開闢が行われる前の紛錯した状況みたいにしようかな、なんて考えた。この突発的発想がちょいと面白そうだったからね、二年程前に川神に住む男女合わせて六人、ちょいと体の中を弄くらせてもらったのさ。本人は気づいてないけどね」

 

 

 久寿餅を一口で食らう朧の発言は鉄心に深く関係していることだった。二年前、彼の知りうる範囲だけでも四つ、彼と関わっている事件があったからだ。それと何か関係しているのかと、鉄心の朧の話を聞く態度が更に真剣なものになった。

 話を振って正解だったなと、朧は茶を啜り久寿餅の欠片を胃に流し込みながらそう思い、心の中で静かに密かに幽かに笑っていた。

 

 

「何でも今は九鬼とやらがこの川神を、仏門の厭離穢土を体現するかの如く、汚点を洗い出し排除しているそうな。その影響でこの川神が、化物共の集積地と化しているらしいじゃないか。そうなれば、ぼくの行いも意外と先見の明があっての行為だったという訳だ。無意識のうちに先を見越すとは、流石は神の残物と自負するだけはある。これぞ自画自賛自己礼賛。そんな訳で、その六人は体の一部分を壁を越えた者と同等の力が発揮できるようにしてやった。もし今頃必死に修行をしていたら、全体的に壁を越えた者と張り合える強さになっているだろうさ。まあ、それに気づいているかは知ったこっちゃないけど。どうだい武の神、川神の古強者、少しばかり興味が沸いたんじゃないか?」

 

 

 朧の鉄心を見る目が変わった。他人を見下すような、他人を推し量るような、他人を値踏みするかのような、他人を軽蔑するような、他人を敬うかのような、見る人によって変わる朧の眼差し。それこそ野良猫のように、何を考えているのか読み取れない。

 

 

「確かに、盛り上がりはするじゃろうが、ワシは何分もう歳じゃ。ヒュームとまともにやって勝てるか確信が持てん。しかし――――」

 

 

 その瞬間、鉄心の表情が一変した。先程まで見せていた優しい翁の笑い顔や悩み顔は消え去り、獣のような血に飢えた顔になった。

 朧はその闘気を浴びただけで、体の表面が震え焼けるような、肌が粟立つような感覚に陥った。まさかここまでとはと、朧は目の前に居る翁を再確認し、認識を改めた。やはりこの男はただ者ではなく、朽ちかけている老体ではない。今でも充分な暴威を身に隠した立派な武道家であると。

 

 

「血湧き肉踊る、年甲斐もなく滾ってしまうわい」

「なんだ、やっぱり衰えてないんじゃないか。口だけは恥だよ、鉄心くん」

「謙虚は美徳とされる時代じゃ」

「牙を剥き出しにした獣が言うことじゃないな」

 

 

 朧が笑い、鉄心もつられて笑う。二人で初めて和やかに笑い合える空間が発生した。端から見れば、仲睦まじく語らう孫と爺に見えるほどであった。

 

 

「さて、まあ孤独が付き物だという予測は当たったし、今日はお暇するかな」

「おや。もういいのか」

「何、気になることができたらまた訪客として、この部屋に顕現しよう」

 

 

 またいい茶菓子を頼む、朧はそう付け加えて茶を全て飲み干し、湯呑み茶碗を卓袱台の上に置いて、首の凝りを解消するようにグルッと回した。

 

 

 

 

「荒れるだろうよ、この川神は」

 

 

 

 

 その言葉を朧が発した瞬間、朧の姿はそこにはなかった。突如として消え失せた。何事もなかったかのように居なくなった。

 それを確認した鉄心の背中から、今まで溜まっていた分の冷や汗が溢れ出た。その体から分泌された液体で、服の部分部分が水分を含んで色を変えた。その事実に一番驚いていたのは当の本人であった。これほどまでに精神的に疲労していたのかと、鉄心は激しく鳴り響きだした鼓動を抑えながら痛感した。

 鉄心は気持ちの悪いベタついた体を乾かすため、腰に力を入れて立ち上がり襖を開けた。修行僧の修行に打ち込む熱気と、締め切っていた部屋に入り込む冷気を同時に感じた鉄心は驚愕した。先程の会話だけで部屋の中の空気が淀んでいたことに全く気づかなかった自分に、修行僧の修行がもう終わったと勘違いしていたほどに修行僧の声が耳に入っていなかったことに驚いていたのだ。

 鉄心はその時切に願った。あの異質な朧という不可解な存在が、自分の生徒に、孫に、何の被害も与えないでくれることを。

 

 





 初めに言葉があった、言葉が世界を創造した

 ヨハネ

 ◆◆◆◆◆◆

 こちらでは初投稿になります、霜焼雪といいます。

 あらすじ文には記載しましたが、以前は小説家になろうというところで小説を書かせていただいていました。つまりは移転というもので、大波に乗ることなくマイペースに、ゆったりこちらに移ろうと画策しておりました。混雑するのはあまり好きではないのです。人混み鮨詰め過密状態もそこまで好みではないのです。鮨詰めという表現自体は好きです。

 閑話休題。ここから先は私の書く物語と先人の格言について、正直長ったらしいので悪しからず。

 さて、朧という正体不明な存在が現れました。正体不明と冠しましたが、吸血鬼とか雪男の方が正体不明でしょう。朧は自分が残骸だと明言しています。野良猫とも断言しました。もうこれが全てです。彼はそれであることに満足しながらも不安定でいます。その不安定さに振り回されることになった川神の住人、幾らかオリジナルキャラクターは紛れ込んでいますが。これからどうなることやら。私の脳内にいる彼らを上手く文章上に表現できるかどうか、私の物書きの手腕に命運がかかっているのです。そんな次回更新は二月頭を予定しております。

 ここでヨハネの格言ですが、考えや考察は行動に移さなければいけないのです。
 実は有意義な授業を受けながら、窓際でコツコツと仕事をしながら、鼻歌を奏でて料理をしながら、電車に揺られて眠気を誘われながら、物語を頭に思い浮かべます。その場で記録する媒体がない場合、あなたならどうしますか?
 私は手元に大体メモがあるのですが、二十四時間四六時中ずっとという訳ではありません。例えばトイレに行ってる時、紙は常備してありますが、生憎ペンは私の家のトイレには常駐していません。そういう時は大まかに文章を構成し、記録するときにさらに考えるのです。深く深く思考を重ねて文章を推敲するべく、ここで初めて長考に入ります。トイレで思い描いた文章を“そのまま”文面に起こす、それはいけません。思い描いたストーリーを、如何に練り直して文章に起こすか。物書きはそれが問われます。

 結論。優秀な物書きはトイレで真価が問われる。
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