真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜 作:霜焼雪
式子内親王
川神市の北端に流れる巨大な川、江戸時代から栄えていた川神には武士の館が多かったこともあり馬が多く、そこからこの川には多馬川という名前がつけられた。その多馬川の土手は背の低い草が繁りかつ広いため、遊ぶにも昼寝をするにもトレーニングをするのにも適した広場のようになっていた。
その馬の名を付けられた川をなぞるように、ポニーテールのブルマ姿の少女が日課の走り込みに精を出していた。文字通り馬の尻尾の様な髪の束を揺らし、滴る汗を煌めかせてひたすらに走り込んでいた。少々異質なのは、腰にタイヤがついたロープを腰に巻き付けている点だろうか。追加事項として言うのであれば、少女の小さな体の中にあるとは思えないほどの体力を使い駆けていることか。
そして本日も少女は走り込み。装備しているタイヤは二つ、同じブルマ姿で今日も元気よく走り抜けていた。その顔は決して嫌々やっているような必死なものではなく、やりたいからやっているような気持ちのよい明るい顔であった。重りを付けての長時間長距離の走り込みは過酷なものには違いないはずなのだが、少女にとってはそれを苦に感じてはいないようだ。正確には、その苦があってこその鍛錬だと、本質を十分に理解し楽しみながら走っているのだ。
ただひたすらに、真っ直ぐに川の上流を目指して駆けていく。その途中で多馬大橋と呼ばれる大きな橋――何故か変態が大人数かつ高確率で出没することから“変態の橋”という二つ名で愛されているある種の名所――に差し掛かるのだが、そこで少女の走りにブレーキがかかる。少女の視線の先には一つの人影があった。橋の歩行者用の手摺に片手をついていて、何を考えているのか読み取れないような物憂げな表情をしていて、思わず魅せられ吸い込まれそうな美しい容姿をしていた。
少女はこの人物を美形な男性だと推測していたが、この人物の性別は自信を持って判別出来るような生易しいものではない。自信を持って判別できないというのは過言だと思われるかもしれないが、確かにこの人物は男性にも女性にも取れるような中世的な風貌をしていたのだ。
黒いシャツに赤と黒のチェックの上着を腰に袖で縛りつけ、これまた黒いジーンズに真っ黒なブーツ。服装だけ見れば男らしく見えるが、その着こなしから男勝りな姉御の風格があるようにも見受けられてしまう。
少女はついトレーニングを中断してしまい、その人物の元に吸い寄せられるように近寄って行った。互いの顔が視認できるようになった距離になったところで、物思いに耽っていた
「何か用かな?」
「あ、えと……」
見惚れてつい凝視してした、そう言うのが小っ恥ずかしく思えた少女は言い淀んでしまった。それを見た彼の人は静かに笑い、橋の上から颯爽と飛び降りて体の正面を少女へと向けた。その時、橋の上からいとも簡単に飛び降りたことよりも驚愕な事実が、少女の心臓を大きく叩き鼓動を強めた。
その震えるほどに美しい容貌に、左腕というパーツが欠けてしまっていたからだ。しかし、それでいて少女が戦慄を覚えたのは、彼の人に左腕がないということではない。その不完全である体を認識しても何らその美しさは衰えることはなく、むしろ先程よりもその美しさは磨きがかかり、見る者全てを引き込む魅力を強化したものだったからだ。未完成故の美、まるで半身がミロのヴィーナスのような美しさを体現しているようだった。究極の黄金比の半身再現により、見る人が彼の人を想像力でそれが特殊ではなく普遍であると、認識を半強制的に改変させられてしまうだろう。
「……タイヤ? トレーニング中だったのかな?」
「あ、はい!」
「ふふ、元気な女の子だね。この辺りで修行熱心と言えば、キミはひょっとして川神学園の生徒かな?」
彼の人の透き通るような声を使用した発言に、少女はぎこちない頷きを返事とした。すると、彼の人は深く何かを考え込んでいるように顎に手を当て、手摺に背中を当てて体を委ねた。
「武術、か……懐かしいな。実は私も武術の心得程度ならあるんだ。といっても昔の話だけどね」
「な、何か武道をやっていたんですか?」
「軽い護身術をね。自分から攻撃することには消極的な武術なのだけれど。何分大衆的に知られていた流派ではなかったから他の使い手を私は知らないね」
彼の人は右腕を軽く握って少女の前に突き出した。その単純なワンアクションすらも滑らかな動作で僅かな乱れも感じられない。まさか武術すらも流麗で美しいのかと、少女は再び畏敬の念を抱いた。少女の姉である川神の武神も確かに美しいが、彼の人が持つものはそれとは違う美。少女の姉が持つ美は女性としての美、彼の人が持つ美は芸術としての美。同じように取れるかも知れないが全く違うものだ。
「実践となると解らないけど、模擬的な組手なら何とかなるってところかな」
「片手、でも?」
「片手、だから」
少女は途端に興味の矛先が変わった。先程までは彼の人の美しさに見惚れていたために会話を続けていたということがあったのだが、今はその隻腕の状態で使用される護身術というものが純粋に気になり始めたのだ。好奇心という人間の、武道家としての性が少女を突き動かす。
「あ、あの! 手合わせって、お願い出来ますか!?」
「――――え? 私と?」
彼の人はいきなりの申し出に驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食ったようなきょとんとした表情になっていた。しかし、少女の顔は決して冗談半分のものではなく、期待の籠った真剣な表情であった。それを見た彼の人は、一度右腕をグルンと回し、自分の体の稼働具合を確認していく。鈍ったと感じる体の関節をほぐしつつ、現時点における自分の体のスペックを点検していく。彼の人にとってこのような申し出は久々であり、彼の人自身もその少女に興味を持ち始めたからだ。
つまり、応えられることならば応えようと、自分の体がまだ戦えるような体なのかの確認を行っていたのだ。
「……そうだね、三分時間を頂戴。ちょっとウォームアップしたいんだ」
「え、それじゃあ……!」
「過度な期待はしないでよ? 手合わせが出来ると言っても久方ぶりなことには変わりがないんだから」
「あ……ありがとうございます!」
少女は素直に歓喜していた。過度な期待は持つなと言われても、まるで一つの芸術品のような存在である彼の人に期待せずにいられないのだ。その未知の領域である片腕の護身術を待ち焦がれているのだ。少女はその喜びの気持ちをまずは準備に当てた。走り込みに柔軟もしっかり終えてきていたとは言え、走り込みの距離が相当であったこともあって疲労感はあった。それを和らげることに少女は三分間を費やすことにした。
一方の彼の人は、喜びを隠しきれていない少女を見て、過剰も過剰な期待を持たれて困っている様子だったが、出来る限りのことは努めようと準備を始めた。軽い柔軟体操、組手自体が久方ぶりな体に火をつける。そして右腕を地面につけて、勢いよく逆立ちをする。片腕で体重を支えながらもぶれない芯、強固な体幹と驚異的なバランス感覚があってなせる技。勿論筋力も必要不可欠なのだが、彼の人は日常的鍛錬を放棄したことがないことを当たり前に思っており、これくらいはやれなくては困るという心持ちであるのだ。
それを見た少女は思わず準備を止めてしまった。その光景は少女をさらに奮い立たせるものであり、少女は今から始まる組手に心を踊らせていた。
「よし、三分経ったね」
おおよその判断ではあるだろうが、彼の人は準備のために用意してもらった三分間を充分に使い果たした。すると、彼の人は逆立ちの状態のまま唯一の支えである右腕を曲げて、思いっきり伸ばして地面に掌を押し出し、片腕だけで体を宙に浮かせて跳ね起きた。
その技芸は少女の期待を更に高めてしまった。人一人の体重を片手で支えながらも、その状態での恐ろしい芸当を見せつけてしまったのだ。少女が興奮してしまうのも致し方ないことだ。それに気づいた彼の人は僅かに後悔したが直ぐに切り替える。過ぎ去ったことを悔やんでも意味はない、
どうあがいても過去の改変なんてことは出来ない、そのことを彼の人は酷く痛感しているからだ。
「こっちも準備完了です!」
彼の人は頭の中に浮かんでしまった過去を振り払うように頭を軽く振り、今にも戦いたくてうずうずしている可愛らしい少女へと意識を集中した。この純粋な子の期待に可能な限り応えてあげる、その理念はぶれないままだった。
「じゃあ、やろうか」
彼の人はゆっくりと呼吸を開始する。その呼吸の拍に合わせるように滑らかな動作が行われていく。足を開き右足を前に出し、現存する右腕の拳を額の前に置き、空虚な左腕の袖は河原の雑草と共に風に靡いている。左腕がないために型が制限されるからだろうか、無駄な動作はこれと言って見当たらず、むしろ極められた動作のように見えてしまう。その気迫は力強く雄々しく、その端麗な容姿から発せられているとは思えないほどの圧迫感。それらが少女の闘争心を沸き立たせる、血を湧かせ肉を踊らせる。
少女はその圧迫感を直に受けて思う。彼の人は謙虚なんてものじゃない、自分の強さを知らない無知の状態にいるのではないか、と。
自分自身でその強さを理解していないほどに恐いものはない。手加減が手加減でなかったり、強さという概念が崩壊してしまったりするのだ。例えるなら、凶器を持たされた無垢な赤ん坊のようなもの。知らず知らずのうちに周囲の人を、更には自分自身をも傷つけてしまうかもしれない。
ならば、少女は尚更、彼の人と戦わねばならない。最早少女の中でこの手合わせは、単なる興味の行動から義務へと昇華してしまっている。それほどまでに彼の人は強い、少女は構えと気迫だけでそれを感じ取ってしまった。
気づくと、少女の心臓が早鐘を打っていた。どうやら彼の人の気迫に当てられ鼓動が激しくなってしまったようだ。少女は一度口の中の唾を呑み込み、彼の人を見習うかのように大きく深呼吸をした。少女は自分の拳を確認、汗が滲んでいるのを厭わず拳を握った。足場を確認、これといった障害はなく存分に足を活かせる。
最終確認、自信の心に問い掛けた――――闘えるか。答えは言わずもがな、応である。
「川神学園二年F組、川神一子! 参ります!!」
少女、川神一子の名乗りが橋の鉄材を共鳴させ辺りに響き渡る。その名乗りの潔さ、気迫。これに当てられた彼の人も名乗りを上げずに闘うのは無礼だと判断した。
「川神学園中退、
その名乗りが一子の心を揺さぶってしまった。川神学園の中退、一子にとっては聞き流せない話題であったが、互いに名乗りを上げ精神的にも最高潮へ向かおうとしているこの状況で言及することは、一子の士気も慶の気迫も急速に下がっていってしまうことが明白だった。
ならば詳しいことは組手の後だと、一子は目の前に全神経を集中させる。一子は心を確りと切り替え、再び大きく深呼吸をし、ただ目の前にいる慶を凝視した。
互いに見つめ合うが、慶から先に動く気配は一切しない。そこで一子は先程の慶の発言を思い出した。それは“攻撃することには消極的”という、防御主体の闘い方を慶が好み愛用しているということ、そしてそれが事実と相違ないことが解った。
ならばこの不毛な睨み合いに区切りをつけ、先に仕掛けるべきだと一子は判断し、一歩を大きく踏み出し、覚悟を決め、素早く慶の顔目掛け右の拳を放った。
ここで一子は一つ重大なことを見誤っていた。慶が自分の強さを理解していないためにあれ程までに謙虚な発言をしたのだと思っていたが、それは事実とは異なったものだった。
慶は強さを知らないから謙虚なのではない。自分がどれ程の強者なのかを理解していないからではない。真の理由とは、慶は自分の強さと表裏一体に存在している弱さを、身に染みるほど充分に知っているからこそ、自分が弱者である自覚が強すぎるからこそ謙虚であるのだ。
その自称弱者の慶は、それを待っていましたと言わんばかりに行動を開始した。
その瞬間、一子は訳も解らぬまま進行方向とは反対に吹き飛ばされた。何が起きたか、あまりにも咄嗟のことで理解が出来なかった。頭が、思考が追いつかなかった。少女は直ぐに立ち上がって状況を整理する。河原に吹くまだ涼しい風が一子の頭を冷やし冷静にさせる。
まず、一子の右正拳が放たれた、それは疑いようがないだろう。その後の慶の動き、ここからがほとんど一瞬の出来事だったのだ。隻腕の慶は両手が使えないが、それを補うような行動を極めていた。まず、慶は飛んできた拳を右腕でいなした。その際に慶は一子の右腕の外側に自分の右腕の外側を
その僅か瞬き一回にも満たない間に行われた攻防で、一子はあっけなく吹き飛ばされた、のだが、一子に深いダメージは全く残っていなかった。吹き飛ばされはしたものの、重心やバランスを崩すようなことに特化した技の類いだったのであろうか、少女に骨が折れただの血管が裂けただのの痛みは一切なかった。
「いきなり顔面は勘弁してほしいな。思わず突き飛ばしてしまったよ」
思わず、詰まる所の反射と同系統の意味合いを持つ言葉に一子は驚かされた。先程の高度な技術を無意識で行使するとは、一子の記憶にはないほど稀な使い手のやることだ。
一子は相手が相当の使い手であることを再認識した。相手の力を利用する合気道にも感じられるし、絡み付き勁を打ち込んでくる中国拳法のようにも感じられる慶の動き。一子の心を幸福感で満たし、焦燥感に駆らせ、危機感を覚えさせた。手合わせなんて範疇を容易く越えたものになりそうで、一子は心の中で少し苦笑した。
現在状況の確認を終えたところで、一子は慶に拳を向けて構えを取り直す。カウンター狙いの相手ならカウンターを食らわないように、若しくはカウンターをさせないように、はたまたカウンターをカウンターでかえすように。一子の少し弱い頭でも策はいくらか思い浮かぶが、慶の先程の動きを考慮すると大分絞られてしまう。
その厳選された少ない作戦の中から一つを選択し、一子はそれを実行すべく慶へと突撃した。
まず一手、先程と同じ右拳を同じパターンで繰り出した。今度はしっかりと相手の動きを瞬きせずに見続けるためだ。持ち前の集中力を最大限にいかしての戦略だった。
慶の行動は一子の読みが当たり、先程と同じように右腕の外側を擦り弾くような行動に出た。よほど体にその技が染み付いている証拠だろう。一子にとっては好都合なことこの上なかった。先程の二の舞にならないように、一子は右正拳を捨て、別の行動へと意識を切り換える。慶の右拳が自分の体に接触する直前に慶の右手首を左手で掴み、そのまま腕を引いて体と体を引き寄せ、巻き込むように弾かれたことにより慶の腹部にと潜り込んだ右腕を曲げ、慶の右脇腹へと肘撃ちを試みた。慶の不意をついた一子の反撃、カウンターに対するカウンター。見事に決まったかと思われた。
しかし、慶の動き一子の想像の範疇を容易く越えた。
一子の肘が当たる寸前、慶は掴まれた右手首に先ほど打ち込んだような回転エネルギーを持たせ、一子の左手首を捻り込むように掴み返し、またしても爆発的な呼吸と左足からの捻るようなエネルギーを用いて、一子の体をまるで空のペットボトルを持ち上げるかのように軽く跳ね上げた。勿論一子に痛みはないが、気持ちの悪い浮遊感が一子の全身に襲い掛かっていた。
一子は何が起こったか解らぬまま、空中でも暫く肘撃ちの体制を保ち続けていた。慶はそれを見てニッコリと笑い、一子と握りあっている手首を振り払い、掌打を一子の顔面にクリーンヒットさせた。
不意をつかれた上に空中で自由に動けない一子は、その掌打を回避することは叶わず、無防備のまま直撃してしまい吹き飛ばされた。だが、またしてもその打撃自体には皆無と言っても過言でないほどの極小のダメージ、触られたという感覚だけが一子の頬に残る。
一子は確信した。慶の武術が人を傷付けるものではなく、かといって身を守るものでもなく、互いの仲を取り持つ和平を目指した武であると。一子も頭がよくないとは言われていても、武術に対するまっすぐに打ち込む精神による武の研究、川神院という武の最高峰でもある名所の師範代から手解きを受けていれば、流石に残念な頭だと罵倒されていてもその頭にはそれなりの知識と教養が備わる。その中には当然のごとく過去の武人の成し遂げた功績や、受け継がれるべき教訓や名言が組み込まれている。そして、ある有名な一節が慶の武に当てはまる。
“自分を殺しに来た相手と友達になること”
決して相手の体に後遺症の残るような攻撃はせず、ただ相手の動きを利用しバランスや重心を崩し、円のような動きを要所要所に組み込み、自分も相手も深手を負うことがない武術。合気道の亜種、慶の武術は例えるならそうであろう。
しかし、合気道と慶の武では決定的な相違点が存在する。
「それじゃあ、珍しく攻めようか!」
相違点、それは後の先を得意とするだけでなく、慶からの攻めも驚異的な武術に相当するというところ。友達になるだけでなく、殺しあう仲間ともなれる表裏一体の武であるということだ。この一点を見ただけでも、一子の確信は決定的に違っていたと言える。
すると、慶は空虚な左腕の“袖”を回し始めた。実に奇妙な光景であった。いや、不思議や不可解と言った方が的確なのかもしれない。慶は左腕がない。先に述べたように、半身がミロのヴィーナスのような腕の欠落なのだ。つまり、肩から先が無いというのに、どうやって袖を回しているのか。
その答えを一子は理解していた。一子にはあの肩から発せられている気と、先程から体を突き抜けている気が同一のもの、回転エネルギーを兼ね備えた慶の武器であり技芸であると本能で理解していた。回転エネルギーを上げた気を左腕の袖に通すことで袖を回しているのだ。その回転は、まるで手で握ったタオルを回しているように見えるほどに速く、大きい正確な円を空中に描く。一子のポニーテールでさえも束のまま弾き飛ばすような突風が吹いても、その正円の奇跡は一切の歪みを許しはしなかった。
一子は警戒心を一層強くする。無論、袖にだけ注目を行かせても危険なのは承知している。しっかりと右腕にも、さらには僅かながらも下半身にも。警戒は怠っていなかった。しかし、一子の経験と知識と教養だけでは、慶の武の半分も理解できていなかった。慶が隻腕であるということにより生じるメリットとデメリット、欠陥の有効活用、不利を逆転させ利点に変える、アドバンテージを無理矢理に産み出す。それを一子はまだ頭でも体でも経験していなかったのだ。
そう、隻腕である慶のための武には、基本の型に足と手以外の技が組み込まれている。
それは、頭。
慶は瞬間的に一子との距離を縮めた。体の中で練り込んだ回転エネルギーを足から地面に叩きつけ、爆発的な速度で一子へと詰め寄ったのだ。その速度のまま右腕を振るうような体制を見せられた少女は防御体制を取った。それを確認した慶は頭突きをその腕のガードに正面から撃ち込んだ。右腕が来るよりも早く、そして大きく硬い頭の突撃は一子の予想を遥かに越えていた。慶からの初めてと言っていい強力な攻撃だった。
「う、わっ……!?」
一子は思わず呻き声を上げてしまった。吹っ飛びはしなかったものの、その頭突きの威力で地面を滑るように押し出されてしまった。
しかし、それだけでは一子は倒れないし終われない。即座に猛威的な反撃を開始した。自分の足を活かして慶へ数回のフェイントを与えつつ後ろへ回り込み、先程のお返しにと言わんばかりに掌打を撃ち込んだ。
しかし、その背後が死角ではなかった。慶の隻腕の為に作られた武、左腕が無い欠陥を補うために使えるものは何でも使う。それが左腕の袖であれ、頭であれ――――背中であれ。つまり、背中は慶の使う武器の一つということ。一子の掌打が慶の背中に触れた瞬間、それを押して弾き返すように慶は背中から気を発した。一子はまるで強靭なゴムの束に手を押し込んだ反動を受けたかのように押し戻された。
しかし、一子は諦めない。動物のように直ぐに体制を立て直して再び突進。次は左の腕の無い袖を掴んで引き寄せようとする。今度は回転エネルギーを直に食らって持ち上げられないように手に気を集中、さらに踏ん張りを効かせるために足腰にも気を巡らせ、その掴んだ左袖を思いっきり引き寄せた。その勢いを利用し脇腹に拳を打ち込もうとする。
それよりも先に、その勢いのまま引き寄せられた慶は飛び上がって一子の頭上を飛び越えた。先程は腕をしっかりと握られていたために出来なかった芸当だが、今は関節や芯などがない袖を掴まれただけであったが故に容易に出来てしまったのだ。そして慶と一子の背中が密着する。そこで一子の背中に悪寒が走るが時すでに遅し、先程と同様に慶の背中から衝撃波が発生して一子を弾き飛ばした。その際に袖を離してしまった一子と慶に再び距離が空いてしまったが、一子がまたしても慶へと獣のように襲い掛かった。最早組手には見えない光景であった。
一子の下段蹴りが鋭く繰り出される。初めての下半身への攻撃であったが慶は油断をしていなかった。足払いのような蹴りを逢えて食らい、その勢いで体ごと回転をして右腕一本で体を支えた。その状態から繰り出されるのはカポエイラのような回転した足技。回転エネルギーの気を右腕から地面に擦るように発生させたことにより、片腕でも回転することが出来るようだ。そのプロペラのような両足の蹴りをしゃがんで回避した一子は再び下段蹴りを繰り出した。狙いはその回転の基軸となっている右腕。それを予測していた慶は右腕に蹴りが当たる直前に回転エネルギーの出力を上げ、同時に腕を押し出すように地面にぶつけて跳躍して蹴りをかわした。
慶は回転エネルギーの放出を抑えて両足でしっかりと直立し、一子の次々と連続する攻撃に備えた。一子の怒濤の蹴りが高速で打ち出されていき、慶はそれを紙一重で受け流しかわしていった。時には蹴りを腕で止めて捻り上げてバランスを崩したり、時には蹴りを敢えて食らいそれを弾き返したりと、多彩で多様な方法で一子を翻弄していく。
そして暫くの間、二人の攻防――その内の九割強が一子が先に仕掛けている――が数分間続けられた。そこで一子はあることを再び思い知らされる。慶の実力は恐れるべきものであり、尊敬するに値するものであり、自分とは一回りか二回りか解らないほどに差があるということだ。
感心している一子だったが、肩で呼吸をし汗を額から流し、ランニングでも大きく乱さなかった呼吸も疎らになっており、その衰弱しかけた体を疲労感が襲っていた。慶の驚異的な後の先、驚異的な反射速度に彼女の集中力は相当削がれてしまっていた。
一方の慶は汗一つかいてはいない、とまでは言わないが、流した汗の量など一子に比べれば可愛いものだ。しかもその顔に疲れは一切見られないし呼吸に乱れはない。実力の違い、たった数分間の手合わせでここまではっきりしてしまった。
実際にそうであっても、圧倒的な力の差を叩きつけられても、その意見偏見を論駁して尚且つ挑むのが一子である。歯を食い縛り、拳を強く握り締め、せめて一矢を報いようと残りの力を全て注ぎ込んで、慶へ突撃した。
渾身の一撃、全力の右正拳、慶はそれを目で見て確りと把握していた。しかし、それを受け流すのは無粋であると、久々の手合わせを回避行動で終えるのは興醒めだと、慶は確実な勝利よりも己の価値観を優先したのだ。慶は自分の右腕に力を込めた。全力に応えることが今求められていることだと悟ったが故の行動だった。そして、一子の拳と慶の拳が交差し、互いの腹部へと叩き込まれた。
「――――うあっ」
先に声を上げ、意識が途絶えたのは一子の方だった。一子は慶に向かって倒れ込んでしまったが、慶はそれを優しく抱擁するように支えた。踏み込みが僅かに慶の方が速かったのだ。その僅かな違い、刹那と言っても過言でないほどの瞬間的な差であっても、慶が気を打ち込むのには充分な時間であった。
「いけない子だ」
一子が気を失って声が聞こえていないと理解しながらも、一子に語りかけるように慶は呟いた。
「もう、静かに生きると決めたのに。君の真っ直ぐな闘志はこれほどまでに、私の心を駆り立てる。闘いの愉悦を呼び起こさせる。いけない子だ。私をここまで揺さぶるなんて」
慶は抱えていた一子を右腕で持ち上げて背中に乗せた。片腕が無い状態で人一人背負うことは難しいものだが、慶は左腕の袖を使い少女の下半身を固定してそれを為し遂げた。確りと一子を背負い上げて慶は歩き出した。慶の足が目指すのは一子の家、川神院――――
◆◆◆◆◆◆
慶は一子を背負ってひたすらに歩き続けていた。何度も落ちそうになる一子をその度に背負い直す慶の様は、外出で疲れた子供を背負う親のように見える。そのせいか、周囲の人たちからの視線が妙に暖かく、特に咎められることもなく歩みを進めることが出来た。それ以外にも、慶のような美しい顔の人物が学園でも人気の高い可愛い一子を背負っているのだから、決して何か
暫くゆっくりと歩いていると、目的地の川神院が荘厳と
そうこう考えている内に門の前に到着してしまった。慶はそこで、この状況をどう説明しようか初めて迷った。面識のある人物に出くわすのなら問題はないのだが、川神院の門下生がすんなりと通してくれるかどうかが怪しいのだ。何分慶は隻腕の上、一子を袖で縛り付けているのだ。この状況を何か勘違いされそうで少々困っていた。
勘違いされたらその時はその時か、慶はそう割りきって川神院の門を堂々と潜った。ところが慶の目につくのは修行僧ばかりではなく、幾らか一般人が紛れ込んでいるのが見えた。どうやら観光か何かで来ているらしい。意外と閉鎖的な空間でなかったことに感謝しながら奥へと進んでいった。
「懐かしい顔じゃ」
すぐ後ろから掛けられた声に慶は少し驚いたが、その声の持ち主がすぐに解り、振り返らずにその声に返答した。
「お久し振りです、学長」
「全くじゃ。急にいなくなりおって。どこで何をしとったんじゃ」
「実家に帰って、のんびりと土いじりしてたんですよ」
「定年後のサラリーマンがやるようなことをしおって」
長く伸びた髭を触りながら優しく笑う翁、川神学園学長にして川神院の現総代、川神鉄心。慶はようやく振り返って鉄心と対面した。相変わらずのようで慶は少し安心したようだ。
「それはそうと、何故一子を背負っておるのじゃ?」
「ああ、そうでした。久々に手合わせをしたら気絶させちゃいまして。引き取ってくださいな」
慶は思い出したかのように一子を背負い直した。慶はそのままゆっくりと腰を落とし、一子の下半身を縛り付けてあった袖をほどいた。自由になった一子を鉄心が代わりにおぶったところで、慶は僅かの開放感に浸りながら体を伸ばした。
「努力の賜物ですかね、まさか本当に一撃を貰うとは……私も鈍っていたとはいえ、こんなに綺麗に当たるのは予想外でした」
慶は自分の腹部をさすった。その腹部には僅かに紫に染まった肌、内出血を示す痣が出来ていた。最後の拳の一撃、慶の拳が一子の力を失わさせる寸前、一子の拳は慶に確りと当たっていた。それも壮絶な威力、最後の力を出し尽くした全霊の一撃。慶にとっては驚異的な威力であった。
「自分の体が予想以上に動いたこともそうですが、この子の動きは末恐ろしい。私にとっては羨ましい」
「武の才が無くてもかの?」
「貴殿方の世界で生き抜く為には、必ず武の力が必要でしょう。でも、私が欲する力はそうではない。それをこの子は持っている。妬ましく、羨ましい。この浮世で生きることの出来る力、それを身に付けていることが」
「お主は持っておらんのか? 五体満足に戻れなくなったその体で生き抜いて尚、力が足りぬと申すのか」
「ええ、ここまで必死になることが私には出来ない。どうしても制限がかかってしまうのです。隻腕になってから、やはり感情が少し欠落しているようで」
「腕だけでなく、心まで置き忘れたか」
「もう十年も昔の話です。生まれつきこうであったと言われても、何ら不思議は感じません」
慶の表情は崩れない。それこそまさに一つの作品のように、画家によって描かれた不変の絵画のように。見る人の心持ち、彼の人の語り口調、その場の空気に左右されるもの。
「さて、そろそろ百代さんも帰ってきそうですし、退散します」
「上がって行けばよかろう。茶ぐらい持てなすぞい。話したいことは山程ある」
「いえ、もう川神院とは縁なく生きていくと決めたのに、また未練がましくなってしまいます
「そこまで気に病む必要は無かろう。嵌められただけじゃ」
「信じて下さるのは大変有難いです。それでも、罪は消えません。それが冤罪でも、私に貼られたレッテルは剥がれません。世を忍んで生きる。出家した先人ではないですが、それもまた良いではないですか。隠れて生きよと唱えた古代の哲学者がいましたが、何か新しい道が開けてもおかしくはないでしょう?」
慶は振り返り門へと向かう。何かを振り払うように、何かを捨て去るように。慶は自ら孤独の道を選ぶ。
「それならば、何故一子と手合わせなぞ行ったのじゃ」
唐突な問いかけ。その鉄心の一言が、深く突き刺さる言葉が、慶を地に縛り付けて離さなかった。
「武から離れると誓い、人と関わることを避けると決意し、孤独に生きる道を選んだお主が、どうしてそのようなことをしたのじゃ? ワシとしては嬉しいのじゃがな」
「……………………」
慶はゆっくりと振り返る。その顔はどこか物憂げで、何かに迷っているようで、全ての理の狭間で苦しんでいるようで、とてもこんなに若く美しく見える人物が抱えているとは思えない業が垣間見える。
「……さて、何ででしょうね。また暫く、この街を放浪しましょう。答えが見つかるまで……ね。ああ、そうそう。くれぐれも百代さんにはご内密に。殴りかかられちゃ堪らないので」
今度こそ慶は川神院の門を潜って帰っていった。その足取りは確りとしたものではなく、今にも消え行きそうで覚束無く、静かに失われていくような感覚を与えられるものだった。
もうけしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
宮沢賢治
◆◆◆◆◆◆
慶は随分前から考えていたキャラクターでありますが、話を考えていくうちにどんどんと業深き人物になっていきます。それはそれでいいのかな、なんて思いつつ構想を練っていきます。自分はどうしても憎むべき典型的悪役や辛い過去を持つ人物を描くのが苦手なようで、慶に関してはいくら時間を使っても完成形にもっていけるかどうか不明です。しかし、未完成であるからこその美しさが以下省略。
さて、今回は宮沢賢治です。今回はと言っても二回目ですが。ヨハネから宮沢賢治へ、キラーパス感が否めませんが続行します。
引用させてもらった文は「春と修羅」の「小岩井農場」の一節であります。実は私恥ずかしながらこの本文完全に理解できておりません。正確には納得のいく解釈に至っていないといいますか。何回か読み直して考察を深めていくのですが、その中でこの一節だけ脳裏に焼きついて離れません。この他にも様々な文章があるのですが、それから推測できるのは彼が激しい葛藤に悩まされ続けていた、ということでしょうか。これは私の講師と話した内容なのですが、宮沢賢治はこの葛藤こそが自身を「修羅」と判断した要因なのでしょう。非常に切なくなります。もしこの話を詳しく読みたい方は是非調べてみてください。
それにしても、今回のあとがき乱雑ですね。しかしこれがいい味を出してくれると信じましょう。
結論。未完成の美しさは頼れらがち。