真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜 作:霜焼雪
麹屋勘左衛門
「成実!!」
ドガン! と、おおよそ病院内で生じることのないような音と共に、病室の扉が破壊されるかと思うくらいの勢いで開け放たれた。その病室の主はこのことを予見していたかのように、特に驚いた反応を見せずにニコニコと笑っていた。
「おはようございます、揚羽様。病院ですのでお静かに」
「そんなことを言っている場合か馬鹿者!!」
病室に入ってきた女性、九鬼揚羽は怒りを露にしていた。しかし、それは単なる怒りではなく、怒りはあくまでも芯にある感情の肉付けとして存在する併発的な感情。中核的感情はそれとは反対に近い、歓喜や感謝。感涙にむせび泣くと言うように、揚羽は涙を堪えつつ怒鳴り散らしていたのだ。
それに対し、病室の主である成実は笑顔を絶やさずにいた。その笑顔は、揚羽と二年越しに会えたことに対するもの、などといった感動的なものでは決してない。成実は普段通り、揚羽と接するような自然な笑顔、日常的表情を浮かべているに過ぎなかった。臨死体験をしたところで、成実に空白の二年という概念は存在せず、昏睡状態に陥る前の記憶と今の記憶が繋げられているため、気分的には約一週間ぶりの再会、といったところだ。
それ故、揚羽がそこまで涙を堪える理由も、理屈では分かっていても実感が湧いていなかった。成実は今、自分がこうして動いていることを不思議に思えない。彼には、ほんの少し長く寝ていたかな、という程度の感想しかない。
その態度に、揚羽は困惑しつつ呆れていた。
「はぁ……。二年も眠っておいて、そんないけしゃあしゃあと……」
「そうは言われましても、気分的には睡眠にあてた休日明け程度でして。髪の毛は荒れ放題ですけど、気分的にはいつもの日常なんですよ」
成実はそう言って自分の金髪の荒れ具合をアピールするように、頭を軽く左右に振ってみせた。肩を余裕で越える長さの髪が鬱陶しいのか、髪は全て後ろへ持っていき、全て纏めて輪ゴムで縛っていた。オールバックかつポニーテールな状態になっているため、頭を振るたびに馬の尻尾のような髪が追随して揺れる。
その髪の荒れ放題よりも、揚羽は成実の体や顔つきの方が心配であった。二年前とは遥かに細った顔面、筋肉よりも骨が多く見られる身体。やはり入院患者なのだと思わせるような風貌であった。
「この馬鹿者……心配をかけさせおって……」
「小十郎と似たことを言いますね」
笑顔を絶やさず会話を続ける成実の言葉に、ようやく思い出したかのように揚羽は問いかける。
「そうだ、小十郎はどうした? 我に連絡を寄越したのはあやつなのだが……」
「あー……。えと、騒ぎ過ぎだということで鎮静剤を打たれて……」
成実は病室の入り口付近に有る椅子を指差した。その椅子の上には、安らかな寝顔を浮かべている小十郎の姿があった。口元が少しずつだが動いているようで、うっすらと「なるみ、なるみ」という掠れた声も聞こえてくる。安堵の表情を浮かべつつうなされているような声を出す、実に器用な寝相であった。
それを見た揚羽は頭を抱え、成実は腹を押さえて笑っていた。
「小十郎に聞きました。俺はそんなにも長く眠っていたんですね」
ふと、成実の顔から笑顔が消えた。悲壮感の漂う、実に弱々しい顔になっていた。揚羽は成実を準専属の執事として目をつけてきて数年、彼のことを観察するように見てきたつもりであったが、こんな自信のない表情を見たのは初めてであった。
「ああ、二年になるな」
「あの修行僧さん、高木さんは元気ですか?」
あの修行僧というのは、二年前に行われた川神院修行僧と九鬼家従者部隊の合同訓練にて、成実が助けることに成功した修行僧のことだろうと、揚羽は瞬時に理解した。その修行僧と揚羽は面識がある。その修行僧は揚羽に対し、この病室で床に手と頭を付き、涙ながらに謝罪と謝恩を述べたことは未だに覚えていた。
許すもなにも、全ては成実が決めることだと、揚羽はなにも咎めはしなかった。揚羽個人の感情としては、成実を昏睡状態に陥るきっかけを作った張本人に対する怒りもあり、成実がそうまでして人を救い出し感謝されているという誇りもあった。
そのためか、揚羽は無感情に、鉄面皮を装い、修行僧にこう告げた。
――――その言葉は私に向けるものではない。成実が起きるその日まで、その言葉と気持ちを胸にしまい生き続けろ。それがお前の義務であり、役目だ。
「お前が身を呈して助けた奴か、あやつは今も熱心に修行しているとのことだ」
「そうですか。それは何より。高木さんは無茶しいなところがあるのは稽古中に分かってはいましたが、元気ならもう大丈夫そうですね。またご挨拶に行かなくては」
――――成実、お前は、あの修行僧に何の怒りも、恨みもないのか?
そう尋ねようとした揚羽は直前で踏みとどまる。聞くだけ無駄だと理解しているからこそ、揚羽に自制が働いたのだ。三条成実という男は、どうしようもないほど人畜無害で、手がつけられないようなお人好しで、二進も三進もいかないくらい器の大きい男であると、揚羽は認識してしまっている。
「ところで、僕が起きたことを知ってるのは揚羽様と、小十郎だけですか?」
「今のところはな。お前との話が済んだら九鬼に連絡を入れるつもりだ。先程まで英雄と紋、ヒュームにクラウディオもいたのだがな。別件で帰った後にお前が起きたと連絡が来たものだからな」
「ヒュームさんにクラウさんもいたんですか。もう少し早く起きればよかった」
そんなため息混じりの言葉とは裏腹に、成実の顔は僅かに嬉しそうだった。やはり日常的に感じられているとは言っても、実質二年も経っているのだ。身体は二年の静けさを振り払うように、騒がしさを求めている。療養すべき時に賑やかさを求めるのは成実らしさだと言えよう。
「小十郎は後で引き取ってくださいね」
「解っている。なんなら今ここで叩き起こしてやってもよいが……」
「まあまあ、落ち着いて下さい。揚羽様だって、扉を壊しかけたでしょう?」
成実はニコニコと微笑みながら、子をを宥める母のような言葉を選び揚羽に投げかける。揚羽にとってはある意味
その効果は明々白々として見られ、揚羽は大きく息を吐きだし、小次郎の迷惑行為に対し怒りを覚えたために握り締めた拳をほどき、ゆっくりと腕を組んで小十郎を視界から外した。
「それより、揚羽様に話しておきたいことがあります。さっき、小十郎にはハグでばれちゃいましたが……」
成実は揚羽が小十郎から意識をこちらに戻したことを確認し、中々に切り出せなかった話を持ち出した。その表情はまたしても暗いもので、揚羽にとって一種の不安と恐怖を覚えさせるものだった。
成実は小十郎と顔を合わせた瞬間に、小十郎の熱烈なハグを受けた。そのハグは大変力強いもので、病み上がりというか、昏睡明けの成実には少々肉体的な刺激が強かった。
その時に、成実も小十郎も気づいてしまった。
「……何だ、言ってみよ」
しかし、成実の見慣れない表情を見せつけられて尚、揚羽は笑っていた。どんなことでも受け入れる自信があった。本の少し鈍っただとか、久し振りに起きたからお腹が空いただとか、そういう類いの話だと思っていたからだ。成実は自分のこととなると、あまり真剣に考えないでいいことを真剣に考えたり、どうでもいいことを申し訳なさそうに語る癖がある。それを理解しているからこそ、今回もくだらないことだろうと高を括っていた。
しかし、成実の話はその余裕と自信を粉々に打ち砕く。
「執事を辞めていいですか?」
突然のことに揚羽は絶句した。笑った顔のまま、彫刻のように動かなくなってしまった。開いた口はだらしなく開いたままで、瞬きという当然の行動すら行えず、揚羽の周りだけが
時間停止してしまっているようだった。
「揚羽様、手を出してください」
成実のその声は揚羽をなんとか再起動させることに成功したが、揚羽の動きは錆び付いた機械のように滑らかさとは程遠い関節の可動だった。ギシギシというオノマトペが似つかわしいほどぎこちのない動作で、揚羽は言われるがまま右手を差し出した。そうすれば、成実の言っていることが理解できると思ったから。
差し出された揚羽の手を掴もうと、成実は布団の中に沈めていた右手を伸ばそうとした。
その時既に、揚羽には成実の身体の異変が目に見えていた。
ただ腕を伸ばそうとしているだけなのに、成実の右腕は明らかに震えていた。痙攣であればまだ良かっただろう。それよりも悲惨な、力が入りきっていない弱体化が目に見えてしまう虚弱な様。それも、成実の表情は痛みに耐えるかのよな悲痛なものでしかなかった。
ようやく揚羽の右手に届いた成実の手が、揚羽の手をギュッと握ろうと手を取った。
驚愕の顔つきのまま、揚羽は再び絶句した。握られたという初めの感覚から、全く成実の手から力が入ってこないのだ。成実の顔は真剣そのもの、一切ふざけている様子など感じなかった。
「っ……」
「な、成実……これは一体……」
「ね? 俺の今の、全力です。これが、限界なんです」
揚羽の手を握る手だけでなく、声すらも震えていた。必死に作ろうとしていたその笑顔も、積み上げてきた自信と共に段々と崩れていた。悲愴な笑顔というものが、揚羽の目の前にあった。
「だから、執事を辞めると?」
「……はい……。暫くの間」
「そんな巫山戯たことを――――ん? 暫く?」
「え、はい。暫く」
――――何やら、空気と内容が噛み合っていない。
「それは、何だ。つまるところ、リハビリのための時間が欲しいと」
「はい」
――――ああ、そうだった。
成実が本気で執事という職をきっぱり辞める気だ、そう思い込んでいた自分を揚羽は引っ叩きたくなった。つい先ほど、三条成実という男について思い返し、再認識したばかりだというのに、揚羽はあっさり騙された。
――――こいつは自分のことに関すると、大したことでもないのに大げさに振舞う悪癖があった。
「紛らわしいことを言うな!! 全く、執事を完全に辞めたいと言っているかと思ったぞ!」
「そんな訳ないじゃないですか! 執事は俺の天職です。辞めることなんか考えられませんよ!」
成実は震える手をぐっと握り締めて、自分の意思を揚羽に伝えた。その意思は返しの付いた銛となって、揚羽の心に深く突き刺さる。
そんな時だった。病室の入り口の方から、何やら苦しんでいる患者のような呻き声が聞こえてきた。この病室の主である成実は笑っているのに、全く別の人物の声が病室を反響する。
「な、成実ぃ……。なる、みぃ……」
その声の主はずるずると体を地面につけて、成実と揚羽に這い寄ってきていた。這いよるその様はホラー映画よりもアクション映画でよく見られるような印象が強い。
「ほら小十郎、無理しちゃダメだよ」
「この阿呆め……。成実、我は一旦帰る。小十郎を連れてな。お前の主治医にこのことを伝えねばならないからな。ほら起きろ小十郎!」
揚羽は地面に臥している小十郎の胸ぐらを掴んで持ち上げ、右拳を小十郎の頬に打ち込んだ。その一撃で小十郎の中に蔓延っていた鎮静剤は効力を失い、小十郎は勢いよく目覚め立ち上がる。
「おはようございます、揚羽様ァッ!!」
「相変わらずのスキンシップですね。見ていて気持ちがいいですよ」
「これでも回数は減らしているんだがな。帰るぞ小十郎」
「お、お待ちください揚羽様! 自分はまだ成実と熱い語らいをしたく!!」
「相手は病人だ! 少しは気を遣わんか!」
揚羽の二度目の怒りの鉄槌が小十郎の左頬を打ち抜いた。“汝の右の頬を打つものあらば、左の頬も向けよ”を強制的に実行させる揚羽の傍若無人ぶりは、いつまで経っても昇格しない小十郎にのみ発揮される。
「ぐはぁっ!? 申し訳ありません、揚羽様ァッ!!」
この病室の中だけでも既に二回の拳撃を食らっている小十郎を見て、中々気絶しなくなった小十郎の成長が少し嬉しくなった成実であった。
「じ、じゃあな成実。また見舞いに来るから」
「我も直ぐに訪れようぞ。九鬼にも一報を入れる故、何人か押し寄せてくることは覚悟しておくように」
「はい、肝に命じておきます」
鬱憤を僅かながらに発散させた揚羽と、若干脳震盪に近い眩暈を即座に回復させた小十郎は成実の病室から退室していった。小十郎の足取りがほとんどふらつかないようにまで直ぐに回復ところを見て、やはり相当な時間が流れたのだなと、少しだけ寂しくなった成実であった。
そんな成実の感慨深くしみじみとしていた笑顔が、突然消えた。
「人払いは終わったよ。早く姿を見せたらどうだい?」
成実は開け放たれている窓に向かって声をかけた。窓から入ってくる風によって真っ白なカーテンが靡いているだけで、他には何の姿も見られなかった。しかし、成実にはそこにいる何かをしっかりと視認しているようだった。いや、ひょっとしたら見えていないのかもしれない。ただ、そこに何かがいると、自信を持って言えた。
「やれやれ。ようやく起きたかと思えば、そんなにはしゃぐなよ」
その窓の縁に、小さな子供が座っていた。先程まで確かに視界には見られなかった場所に、その子供は座っていた。最下位とは言え九鬼従者部隊の小十郎も、壁を越えた者と称されるほどの強者である揚羽さえも、その子供の存在には気づくことができなかった。
しかし、成実は子供がそこに座っていることを知っているようだった。誰も気づけなかったその存在を認識していたようであった。
そんな成実に向けて、子供は堂々と語りかける。十年来の友人話しかけるように、実に馴れ馴れしく話しかける。
「覚醒した気分はどうだい?」
「悪くはないよ、朧。まだ体が慣れてないみたいだけど」
「無理もない。相当無茶な施術だったからね。あの出血状態から救うにはこれしかなかった」
「やっぱり、この手の震えはそのせいか」
成実は朧に向けて握った拳をゆっくりと突き出した。その拳はブルブルと、一点すら定められないような、痙攣などという括りすら飛躍している震動を伴っていた。先ほど揚羽が驚きを隠せなかった、日常生活を送るには大きな足枷となる後遺症。
しかし、朧はそれを見て驚きも焦りもしない。その瞳が宿しているものは、慈愛と詫言。
「あればかりは仕方がなかったんだよ。血が足りなかった君を救い、且つ君をぼくの玩具として扱うのであれば、そうする以外に手立てがなくてね」
朧は立ち上がって震える成実の手を取り、優しく包み込むように両手で覆った。それだけ、たったそれだけのことで、成実の身体の激しい震えが緩和された。完全に震えが解消されたわけではないが、読める字を書く程度には回復したと言えよう。
朧は成実の震動の回復と驚愕の表情を確認すると、成実からゆっくりと離れて再び窓の縁に腰を掛けた。そこで、朧は自分の袖からカップケーキを取り出して、豪快に一口で頬張った。
「甘い物好きってのは、本当みたいだね」
「んん? そうか、確かキミには教えてたね。と言うか、ぼくの影響力が強すぎて、ぼくのことを記憶しすぎだよ。忘れろよ全く」
「嫌だね。命の恩人のことを忘れる程、俺は陰惨な人でなしじゃないよ」
「やれやれ。あの時、瀕死の君を助けた時、死なないようにと君の精神と直に会話したことがこう出るとは。確率が低かったとは言え、やはり覚悟はしておくべきだったな」
「神様がそんなことでいいのかい?」
成実は朧を揶揄するように指差した。しかし、朧は特に苛立った様子は見せなかった。
それでも、自分が神様と呼ばれることだけは、どうしても耐え難いものだったのか、少しだけ成実を睨みつけ反駁する。
「勘違いも甚だしいよ、三条成実。ぼくは神様みたいだけど神様じゃない。崇拝されているような神格に位置しているような高位な存在でもないし、誰かが空想し創造した無茶苦茶な神擬きとも違う。死人を生き返らせることはできないし、人間を別の世界に飛ばすことも不可能であり、海を割ったり蛙や魚を空から降らせることは叶わない。ぼくは残骸だ。精々“残滓”を操る程度の、おめでたい人間たちの産みだしたもののデブリなんだよ」
「そう言えばそんなことも言ってたね。まあ、君がデブリだろうが型破りだろうが猫被りだろうが、恩人には変わりがないんだよ。感謝してる」
「よしてくれ。ぼくはぼくの気紛れで君を弄ったに過ぎない。感謝されるようなことは何もしていない。寧ろ怨んでもいいくらいだ。それこそ、あの彷徨う怨憎のように」
実に面倒な言い回ししか好んで使わない朧だが、それを成実は感覚で把握できていた。成実本人は極めて不可解なまま納得という状況に達しており、心地よいとは言い切れなかった。
「君と俺は今、相当近接した関係となってしまっているみたいだね。それが誰なのか、知っていたみたいに。他の五人の玩具の情報も流れてくるよ」
成実は目を閉じて、目蓋の裏に浮かんでくる漢字を確りと理解する。
――――“恭”、“影”、“序”、“空”、“律”、“怨”。
朧の玩具として身体を弄られ、能力を賦与され、一般人からはかけ離れてしまうこととなってしまった哀れな六人のイメージが、明確に成実の知識として追加されていく。最初からそのことを知っていたかのように、成実の脳は改変されていく。
朧の“
「そうだ、足りない」
朧は成実の考えていることに補足するように、小さく呟いた。その時の朧の表情は実に不敵な笑顔で、見た者を不信感と焦燥感に駆らせるようなものだった。どうやって使い壊そうかと、算段を立てる質の悪い悪童のような微笑。
朧の計画は実に順調な進行具合であった。何事も問題がなく、寧ろ怖いくらいであった。
しかし、朧はまだその先を欲する。満足しているからと言って、十分満ち足りてるからと言って、朧は現状を超えることを第一としていた。計画は十分な結果を出しているが、十二分な結果には行き届いていないのだから。
「後、一人。後一人の動きで全てが変わる」
成実の中に、朧の執念に近い何かが流れ込んできた。未だ物語に参加しようとしない六人目に、朧は痺れを切らし介入しようかと悩んでいる状態だった。しかし、それは朧の求めるところではない。
物語に参入するという行為は、玩具の意思に基づいていなければならない。これまでの五人は皆、自分から物語に飛び込んでいった。六人目だけ無理矢理引きずり込むわけにはいかなかった。
「それよりもさ。君の計画だと、あの西の奴等も計画の内みたいだけど、果たしてそう上手くいくかな? まだ西との接点があまりにも少な過ぎる」
「なあに、抜かりはないさ。何のためにこんなに九鬼と、川神鉄心と接点を持たせたと思っている。何のために、壁を越えた者を乱立させたと思っているんだ?」
朧がニヤリと笑う。ただそれだけのことで、成実の体の中に朧の計画が流れ込んできて、成実の中を引っ掻き回した。
「――――ははあ。えげつないもんだよ。そこまで計算の内だってのかい? そんなことをしてみろ。西と東なんて境、闘争の彼方に巻き込まれてなくなるぞ?」
「計算の内だって? 違うよ。君ももう解っているだろう? これは“確定事項”だ」
「どこまでも、掌の上か」
成実は朧の計画の周到さに呆れかえる。二年という歳月を十二分に活用した朧は、成実を含めたこの世界をトロッコの上に積み上げて、レールまできっちりと敷き終えていたのだ。
「――――掌から、こぼれ落ちているさ。もう既にね」
しかし、そのレールは先を見て作っていただけで、振り返らずに作られたものだった。振り返ることを忘れた朧は、レールの中腹に作られた分岐器の存在に気づくことができなかったのだ。
「ここ最近、
単調に述べただけの筈であったのに、朧の感情に近い何かが成実を染めていく。それは、自分自身を傷つけ殺してしまいそうな悔しさであり、流した涙で川を作ってしまうような悲しさであり、声を越えた血だけを吐き出し続ける怒りでもある。多彩な感情が混合され、 筆舌に尽くし難い淀んだものが成実に伸し掛かってくる。
「人間らしいじゃない。嫌いじゃないよ」
その言葉は朧という存在を、根本から否定するような一言だった。
「ぼくが、人間らしい――――ふむ。興味深い。天地開闢から今に至るまで生きてきたぼくが、人間に近くなっているのか。そんな段階は既に踏破したものと思っていたが、意外と盲点であったようだ。ぼくが人間臭いのか。それならば、
朧は悲しげな笑顔を浮かべ、成実の寝ているベッドに腰かけた。
成実はその哀愁に近い雰囲気を醸し出している朧の頭を、そっと撫でてやろうとした。その時。
「やや、人が来るね。そろそろ撤退しなきゃ」
人の気配を感じ取った朧は急に立ち上がった。そのせいで成実の撫でようとした手は無残にも空を切った。
「あ、あら。そう」
「しかも“壁を越えた者”クラスだ。とっととお暇するよ。それじゃあね、覚醒者」
「ちょっと、ちゃんと名前で呼んでよ」
成実の言葉に、朧はニコニコと笑いながら、窓から飛び降りた。
あの神様紛いの人外のことを心配するのは無駄だと解っている成実は、朧が飛び立った後の窓を優しい目で見つめていた。
その時、成実の病室の扉がまたしても勢いよく開けられた。今日は病室の命日かな、などと、思い返すと成実自身も意味が解らないことを考えていた。
「成実!! 目を覚ましたのか!!」
「英雄様、もう少し音量を抑えてください」
「クラウディオが急用だというから飯を中断してきたが、正解だったようだな」
「だからって僕まで連れてこないでよ! 牛飯残ってたんだから!」
「ホントだ起きてやがる! ロックな野郎だぜお前はよ!」
「ステイシー、抑えてください」
「何じゃい何じゃい、人が多すぎて鮨詰め状態になりそうじゃの」
「これは日を改めた方がイイですかネ」
「皆さん、おはようございます」
こんなにも沢山の人間が自分の為に病院まで足を運んでくれる、その事実は成実にとって、今こうして生きていることよりも嬉しいことだった。
◆◆◆◆◆◆
直江大和は思い悩んでいた。先日、自身の姉貴分である川神百代の精神が酷く傷ついてしまった。その時、弟分である彼は傍に着こうとしなかった。着こうと思えば着けたのに、それを拒否した。
直江大和は、百代の精神を傷つけた原因とも言える人物、天野慶を庇うようにした。当然のことながらファミリーに責め立てられた。何故傍で励まそうとしないのか、何故慰めの言葉をかけてやらないのか、大和は反論することはできなかった。それがあまりにも正当であったため。
しかし、大和はファミリーと共に百代の傍にいることを投げ出した、その権利を放棄した。
――――今は言えないけど、姉さんの傍に行けない理由がある。頼む、これも最終的には姉さんの為なんだ。解ってくれ。
みっともなく懇願した。対等な仲間内に対し、大和は頭を下げて今の自分の態度を許してくれるようにと
大和と天野慶との強い約束が、大和の行動を制限する。しかし、抱え込んで心を砕こうとしている大和を見て、慶はをれを強制しようとはしなかった。今現在大和が苦しんでいるのは、大和が望んでしていることだ。
それでも、親愛の情というものには抗いきれない。百代が元気をなくした姿を遠目に見て、大和は自分の下唇を噛み切った。何もしてやれない自分が悔しくて、何もしてやれなかった自分が憎らしくて。
ファミリーの中で亀裂が生じる。軍師と嘯いている自分が原因となってしまっている、この現状が情けなく思える大和。大和のこの真意を理解している者はファミリーでさえ少ない。
ファミリーのリーダーである風間翔一は、南浦梓から大和と慶の間にある約束を聞いている。そのため、大和の苦く辛い思いも理解しているつもりであった。
百代の義妹である川神和子は、天野慶の内面とその脆さを僅かに知っており、百代にも大きな非があるとして大和に賛同している。慶に自分が着けない以上、大和にはその責を果たしてほしいと応援していた。
大和のことを心の底から愛している椎名京は、一子や翔一の様に事情に詳しくない。しかし、大和が選んだ道のりを、彼女は否定しない。他の人が何と言おうと、京は大和を卑下しない。
しかし、他のメンバーは大和に対して良い感情を抱いていない。彼らは事情があると言われて、はいそうですかとあっさり納得できるような人間ではない。勿論、何も話を聞かずに頭ごなしに否定しているわけではない。話を聞き、弁明を聞き、受け入れることができないだけだ。ファミリーのメンバー中には義や礼を重んじるような人間もいる。事情を説明されないままでは、納得したくてもできないのだ。
しかし、大和は己に課した責務を全うする。苦しくても辛くても、自分が重圧に押し潰されようとも、百代と慶が最終的に幸せになれるならそれも構わないと、我が身を犠牲にするのである。
今の彼の心の支えとなっているのは、部屋にいるといつも優しく接してくれる京と、いつも以上に気にかけてくれる源忠勝の存在。更には、クラスも違う葵ファミリーの三人の相談会。そして、ペットであるヤドカリを眺めている時である。
「やつれているね、身も心も」
そんな大和の下に、いつもの如く神出鬼没で、大和もその登場に慣れてしまった存在、朧が大和の部屋に現れた。
「君は本当にいい仲間を持ってる。いや待て、この状況でこの言葉は語弊があるな。君は本当に、悪い絆を作らない。どんなに嫌悪感に振り回されそうが、どんなに罵詈雑言を浴びされられようが、決して切れない強固な絆だけを持っている君は、ぼくのお気に入りだ。利用するという薄汚い考えも含めてね」
「何しに来たんだ? 笑いに来たのか?」
「そう躍起になるなよ。ぼくは君の味方だぜ? 事情も知らずに君を支えてくれる連中がいる。君はそれをありがたく思っているだろう? 本当に羨ましいよ」
「――――どうした? そんなに悲しそうな顔して。声と表情の明暗があってないぞ」
「え――――」
大和の表情の変化を楽しみにしていた朧は、思わぬ反言を食らい目を丸くさせてしまう。大和に自身の表情の変化を指摘された朧は、思わず驚愕の声を上げて自分の顔をペタペタと触りだした。朧の表情は大和にも解ってしまう程、まるで託児所に残された子供のような、寂寞とした悲しそうな顔。他の友達も帰ってしまった、一人だけ取り残された物寂しさを体現しているようだった。
「あれ、おかしいな。そんなに喜怒哀楽に振り回されるような顔にしたつもりはないんだけど」
「珍しい物を見た気分だ。それで、本当に何の用?」
自分の表情の変化に考え込んでしまっている朧を見て、少しだけ微笑ましく感じた大和は、少しだけ元気が出た気がした。
「ああそうだった。少しね、励ましに来たのと、ご報告を思ったのさ」
「報告? お前の計画? 例の六人?」
「例の六人に関してはまた機会を設けよう。今から話すのは、天野慶の現状報告さ」
大和の表情が変わった。目を見開き、頬の筋肉を強張らせ、朧の目の奥を見据えるような真剣なものになった。
「天野慶は今、とあるアウトロー集団の家で居候している。家事全般を任される代わりにね」
「アウトローって、そんな如何にも危険そうな奴らと!?」
「キミもよく知ってる人物だから案ずる必要はないよ」
「……知ってる?」
「板垣辰子という名前に聞き覚えがあるんじゃないか?」
大和は慶がアウトローの家にいるということに慌てていたが、その家の主を聞いた途端にその不安は消し飛んだようだった。
「辰子さんか……。それならまだ、いいのか?」
「君は確か、板垣家と接点があったね」
「ああ。釈迦堂さんとは梅屋で顔を合わせたことがあったし、辰子さんとは昼寝仲間かな」
「君のコミュニティ作成能力には脱帽するよ。それに、西の天神館、西方十勇士とも何らかの関わり合いを持っている。東西交流戦だけで終わらせないというその心意気には恐れ入る。大友焔に龍造寺隆正。鉢屋壱助――――は違うか。あれは元から関係性を持とうとすればできる人間だからね。長宗我部宗男とも多少の接点があるだろう? くくく、君って奴は、相当に狡賢い」
朧は腹を抱えて笑っていた。正確には、笑いを堪えようとしているが、それが叶わずに小刻みな笑い方になっていた。
「俺のことは別にいいだろ! それより――――」
「――――天野慶か。うむ。現在は川神百代にも発見されていないが、こちらの駒である大道寺銑治郎の進言により、南浦梓、川神鉄心は夜の親不孝通りに天野慶が出没するという情報を掴んでいる。いずれ見つかるのも時間の問題だが、鉄心も梓も慶の擁護派だ。百代との接触は少ないだろう。それに、現在の川神院の話題は、とある人物が昏睡状態から脱したということで持ち切りだからな。百代が塞ぎ込んで引き籠っていようが、相手をしている暇はない」
昏睡状態の人物とだけ言われた大和だったが、一人だけその条件に当て嵌る人物を大和は知っている。しかし、知っているからこそ、昏睡状態から脱したなどという奇跡は信じ難かったのだ。その昏睡状態の人物が、自分の知っている人間ではないだろうと、客観的観測の元話を切り捨てる。
「それが誰か知らないけど、きっとお前のお気に入りなんだろうな。まあそれはいいや。情報提供助かる。俺も姉さんがそこに行かないように裏で動く」
「あ、そうそう。もう一つあるんだよ。君に言いたいこと」
大和が自分の今後の動きについて思案していると、朧は何かを思い出したかのように、大和の部屋の扉を指差した。一体何事かと思った大和はそれにつられて後ろを振り向いた。
「この会話、筒抜けだよ」
朧の手が横に振られたと同時に、大和の部屋の扉が開かれた。そこには、今までの朧との会話を聞かれてしまったということで、大和の背中から嫌な汗をじっとりと噴出させてしまうような、そんな二人がいた。
「ゲン、さん――――? 京――――?」
大和はまるで生気が抜けたかのように、力のない声でそう呟いた。
名を呼ばれた二人、同じ寮生である源忠勝と椎名京は、何の気配もなしに開かれた扉に反応できず、その場で立ち尽くしていた。
驚愕に我を忘れる大和、動揺を隠しきれない忠勝と京を同時に視界に捉えた朧は高らかに宣言する。
「おめでとう! これでキミたちもぼくの“
朧の描いた物語は、一つの局面を迎える。
極度に激しい疾患には、極度に激しい治療が最も有効である
ヒポクラテス
◆◆◆◆◆◆
なんとか、今月度二回目の更新をすることができました。正直なところ、締め切り間際の焦燥感に駆られつつの執筆だったので、思わず興奮してしまいいつもよりも三千字近く多く書いてしまいました。ドMと言われることも少なくないです。
成実、ややこしい性格。朧、子供のような変化。大和、日に日に憔悴。以上の三本でお送りしました。実際は成実と大和の二本立てのようなものですが、朧の変化はこの物語の根幹の一つなので、少しでも覚えていただけると幸いです。
今回の和歌ですが、前回の和歌と同じように、ある法則性に基づいています。漢字でこの和歌を記載しておりますが、平仮名にして、逆から読んでみてください。
私は言葉遊びが好きです。古典文学もちょくちょく読み、英語の言葉遊びもそこそこに楽しんでいます。だからこそ、この“回文”は私の好むところの一つであります。それでは最後に、今回の協力者友人Sから教えてもらった回文を締めの言葉とさせていただきます。
結尾。イタリアでもホモで有りたい