真剣で私に恋しなさい!S 〜春霞の月、秋露の花〜   作:霜焼雪

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――――恋しかるべき夜半の月かな


三条院


第三帖 心にもあらでうき世にながらへば――――

 

 川神を縦に大きく流れる多馬川を跨ぐ多馬大橋の上、キャスケット帽を深く被り中性的な顔を隠し佇んでいる天野慶の姿があった。慶は昨日とは違い、物思いに耽っているという感じではなく、自分が何処にいるのかを模索しているようであった。どちらも注目を引くという点では似通っているため、慶は右手で帽子を上から押さえ付けるように被る。

 慶は手摺に背中から体重を預け、落ちそうになる程に体を手摺を軸にして反らし、上下が逆転した川を眺め始めた。陽光を反射して不規則に輝く水面、垣間見える様々な大きさの魚影、川に隣接した土手に生えた雑草が風で靡く。観光客と工場で自然が失われつつあるこの付近では珍しい、自然を五感全てで感じることができるスポットであった。

 すると、陽射しで体を暖めていた慶の空虚な左腕が突然疼いた。顔を歪ませ、反らしていた状態を起こし、左肩を右手で力強く握り疼きを抑えようとした。力を込めすぎて爪が肩に食い込むが、それを厭わずに慶は左肩を握り締めながら踞った。

 原因は慶の知るところであった。

 その原因は、昨日の活発な少女との模擬戦、いや、模擬という範疇を越えた実践形式の組手だった。相手をも焦がしそうな少女の情熱、倒れても防がれても折れない不撓不屈の闘志、決して諦めることを知らない強固な根性。慶はそれに“当てられた”のだ。

 少女、川神院の娘、武神たる川神百代の妹、川神一子。彼女の精神の強さは慶を圧倒した。腕力や技術では慶の方が数段上であったことは間違いない。しかし、その精神力に負けた慶は一子から一撃をもらってしまった。

 その時、一子の拳から“火”が伝わってしまった。戦いたいという欲求、上を目指したいという本能。一度慶が廃棄した物を再び植え付けられてしまった。

 そのせいで慶の失った“力”が戻りつつあった。その反動で左肩の古傷が疼いていたのだ。力といっても、誰かを傷つけたり治したり、何かを強くしたり弱くしたり、対象を呪ったり癒したり、人智を越えたり退化したり、そんな少年漫画にありそうなご大層な能力ではないのだが。

 慶の能力は、慶が十年以上前のある事故で覚醒してしまった能力であり、二年前に起きたある事件で自ら放棄した能力であった。慶の心は綱渡りのような危ない状態で揺らいでいる。この力をまた捨てるべきか、それともまだ持ち続けるべきか。

 それを決めるまではこの浮世を離れられないと慶は判断し、顔見知りの多い川神で姿を極力隠すために帽子を被ることにした。無駄に人を魅せつけてしまうと物心ついた頃からそう考えていた顔が、友好関係を気付く際には非常に便利なものであったのだが、こういう人目を忍ばなくてはいけない場合には足枷にしかならず、慶は自分の体の一部でありながら厄介だと感じていた。

 その忍んでいるべき慶であるが、橋の上で自然を感じることを慶は好んでいるために、こればかりは人目どうこうは関係なしに楽しんでいた。一子と手合わせをした時に気に入ってしまったのだ。

 すると、慶は橋の上を駆けていこうとする人影を一つ視認した。向かう方向は川神学園、学生なんだろうなと慶は予測していた。それと同時に、その学生である人影を羨んでいた。

 人影が慶の前を通りすぎようとした。人影は学生服を着ていたたので、人影は学生であるという慶の予測は的中したようだ。慶は顔をあまり見られないようにキャスケット帽を深く被り直そうとしたが、

 

 

「うわー! 美人さん! ねぇ美人さん!」

 

 

 慶は学生に顔を見られてしまったらしく、目の前で立ち止まった学生に興味津々に話しかけられてしまった。慶は声をかけられると思っていなかったために、危うくすっとんきょうな声を出しかけてしまったが、何とかしてそれを飲み込んだ。

 

 

「…………何か、ご用ですか?」

 

 

 昨日の一子と出逢った時、慶はもう会うことはないだろうと思い堂々としていたが、今はこの川神を巡るために人を忍ぶようになった身。そうそう易々と名や顔を知られてはいけない。

 そこで慶は隠し持っていた眼鏡をつけ、キャスケット帽のかぶりを浅くした。眼鏡という遮蔽物を挟めば、慶の顔の印象も少しは薄れると考えての行動だった。

 

 

「わーお、見れば見る程美人さん!」

 

 

 慶の目の前で明るく跳び跳ねている女子を見た慶は、この女子が自分のことを美人さんというが、本人が美人であることを忘れていないかと僅かに疑問に思った。

慶も確かに美しい。黄金比を満たしている半身に加え整った顔立ち、慶は誰が見ても認める美しさを持っているが、この活発な女子もまた美人であった。慶とはこれまた違う、今時のアイドルのような可愛らしさを秘めた女性であった。川神の武神の美しさともまた違う。

 その学生を完全に認識し終わった慶の左肩に、傷口から杭を打ち込まれるような激痛が迸った。

 

 

「っ――――――キミも、か」

「え?」

 

 

 慶の言葉に学生は頭に疑問符を浮かべた。それに気づいた慶は、しまったと咄嗟にキャスケット帽を深く被り目を背けた。

 慶の目は確かに学生を捕捉し、学生の“力”を見た。一子の時と同様に、慶が求める力の片鱗を垣間見た。

しかし、慶は暫くこの街で動くために不審者扱いは避けたいところ。多少目立つにしても、不審者と有名人、慶は拘束に縛られない後者を選択した。

 

 

「何でもない。それより、いいのかい? 遅刻してしまうよ?」

「あ、私は明日からの登校ですから大丈夫!」

「おや、転入生。何年生かな?」

「川神学園の三年生でっす!」

 

 

 その発言に慶は僅かに動揺した。古傷に襲いくる痛覚が何倍にも増したような気がした。本来ならば自分がいるはずの場所に、目の前の同い年の少女が通うという事実が慶には重かったのだ。

 二年前、あんな事件さえなければ、慶は何度も何度もそう悔やみ、何度も何度も諦めてきた。過去をやり直すことはできない。どれだけ強く願っても、どれだけ必死に望んでも、起こってしまった事は無かったことにはできない。この世の摂理を体と頭でしっかりと理解していると慶は思っていたのに、未練がましく川神学園を想う自分が恨めしかった。

 

 

「あのー……大丈夫ですか?」

 

 

 キャスケット帽を深く被り俯いている慶の切迫した顔を、女子生徒が心配そうに覗き込んでいた。

 不味いところを見られてしまったなと、慶は帽子を掌で押さえながら青空を仰ぎ、肺に溜まっていた空気を悪い気分と供に全て吐き出した。

 その反動で新鮮な空気を体中に取り入れた慶は、帽子を取って眼鏡を取って、女子生徒と何の遮蔽物もなくしっかりと対面した。

 

 

「うわー……改めて見てもべっぴんさん……」

「キミも綺麗だよ」

「いやー、あなたに言われても……自信無くすなぁ…………ところで、あなたは女の子?」

「私は私、性別なんてあってないようなものだよ。ご想像に任せるよ」

 

 

 慶は性別をよく問われる容姿をしてしまっているために、そういう質問に対しては慣れてしまっていた。そのため、はぐらかすような答え方、相手に希望を持たすような返答をすることが当たり前になっていた。

 

 

「私、松永燕!」

「松永さんだね。私は…………申し訳無いけど、今はあまり名乗る程の余裕がないんだ」

「ふーん……? あ、じゃあアダ名はないんですか?」

 

 

 慶は少し驚いた。アダ名という燕の発想ではなく、アダ名があったというその事実を今まで忘れていたということだ。

 あれほど帰りたいと思っていた日常をたった二年で消し去る程に、自分は追い込まれていたんだと、慶は少し怖くなった。簡単に記憶を忘却してしまう本能と、それを容易く受け入れてしまう自我が怖くなったのだ。

 また慶は空を仰いだ。その行動が理由でつけてもらったアダ名だというのに、まさか忘れるとは思ってもみなかったのだろう。慶は先程よりも深く溜め息をついた。

 

 

「…………“ソラ”」

「ソラ?」

「ほら、さっきから私は、よく空を見上げているだろう? それに左腕は空虚、何もない、空っぽだ。そして私の名字には“天”という漢字があってね」

「おお! ソラさんにピッタリじゃないで…………あ、ゴメンナサイ。その……」

 

 

 ソラというアダ名の理由を聞いて納得していた燕だったが、直ぐに冷静になりピッタリだと言ったことを後悔した。

 何故ならそれは、慶という個人が抱える身体的問題を侮辱しているように取れたからだ。親しい間柄ならまだしも、燕と慶は出逢ってまだ十分と経っていない。

 燕は流石に無礼であったと恥じ、申し訳なく感じて謝罪したのだが、慶自身は全く気にしている様子はなかった。寧ろ、慶の顔には若干の綻びが見られた。慶には決して不機嫌な様子は見受けられなかった。

 

 

「いい子だね。それに気にしなくていいよ。これは私の戒めだ。泥にまみれても尚、這いつくばって生きると決めた証なんだ。何も気に障ったりはしてないよ。あと、君と私は同い年だ。敬語は不要だよ」

「あ、はい…………って、えぇ!?」

 

 

 燕は申し訳ない気持ちで一杯だったが、目の前の美人と同い年だという衝撃の事実に度肝を抜かれ、後悔よりも驚愕の方が勝ってしまった。

 

 

「年上かと思った?」

「う、うん」

「ははは、よく言われるんだ。中学校の時に新任教師に間違えられたこともあるよ」

 

 

 慶から軽い笑い話を降ってくるとは思ってもみなかった燕だったが、空気が和んだので二人で笑い合うことができた。

 

 

「大人びているって自覚してるんだね」

「子供の頃から言われ続けてきたからね。美人とも言われてきたけど、もうそうじゃないと反論するのにも疲れてしまったからね。甘んじて受け入れることにしたんだ」

 

 

 燕はまたしても驚かされた。この目の前にいる芸術みたいな美しさを秘めた人物が、まさか自分で自分を美しくないと思っていることが信じられなかったからだ。

 テレビなどによく出る芸能人やモデル、例えば西の天神館が誇る西方十勇士の一人、エグゾエルの龍造寺などは慶の美しさに全く及ばない。

 燕は自分を納豆小町として松永納豆を宣伝しているため、多少なりにも可愛さには自信があった。しかし、慶の前ではそれを胸を張って言えなくなる程、慶は美しかったのだ。

 

 

「? どうしたの松永さん?」

「ちょっと自信がなくなっただけ……ねぇ、松永ってのもいいんだけど、ソラさんには燕って呼んでほしいな」

「そうかい? じゃあ燕さんと――――」

 

 

呼ばせてもらおうかな、そう慶が言おうとした瞬間、燕は人差し指を慶の顔に向けて突き出した。

 

 

「同い年に敬語は不要だよ? 敬称も不要!」

「おっと、そうだったね。自分で言ったことなのに、すっかり忘れていたよ。でも私は知人を呼び捨てにすることに抵抗が……」

「じゃあじゃあ、私が特別ってことにならない?」

「うーん………………あ」

 

 

 慶はあることを閃いたのだが、正直気が引けてしまう内容であったために、口から出る前に急いでその言葉を飲み込んだ。

 しかし、それを松永燕が見逃すはずはなかった。

 

 

「何かな?」

「あ、ああ。その……お願いを二つ程聞いて欲しかったんだけど、ちょっとばかり失礼な内容だから。君にも、あの人にも」

「私だけなら全然いいんだけど……その、誰かに何かを伝えて欲しかったとか?」

「いや、気にしなくてもいいよ。お願いを一つだけ聞いてくれないか?」

 

 

 慶は頭の中に思い浮かんだお願いを一つ、川神百代の現状調査の依頼をきれいさっぱりと消去した。

 そして残った一つを燕に優しくお願いする。

 

 

「私のことをあまり言いふらさないで欲しい」

「え? それだけ?」

「うん。訳あって今は忍んでいる身でね。知り合いに会いたくはないんだ。と言っても、そんな状況になったのはつい最近だけど」

「事情は解らないけど……それだけで燕と呼んでくれるなら喜んで!」

 

 

 燕は抵抗することなく慶の願いを聞き入れた。慶はただただ燕に感謝をするだけだった。

 

 

「じゃあ、燕」

「何かな? ソラさん?」

「君も敬称をはずしてくれないかな?」

 

 

 それぐらい簡単だろう、そう慶は付け足したのだが、燕は意外にも難色を示した。慶は僅かに不思議に思ったが、その理由は直ぐに燕の口から語られた。

 

 

「だって、“ちゃん”なのか“くん”なのか解らないんだもん」

「ああ、性別の問題か」

「ねぇ、ソラさんは女の子? それとも男の子?」

 

 

 燕の素朴な疑問に慶は笑った。慶も初めは性別についての質問は嫌っていたが、十数年間何度も尋ねられれば諦めがやって来て、しまいにはそれが当たり前になっていったのだ。

 慶は燕の瞳の奥を見つめて、笑顔で逆に問い返した。

 

 

「一目見て、どっちだと思った?」

「え? うーんと、女の子?」

 

 

 燕が疑問慶で答え、慶は軽く吹き出して、こう答えた。

 

 

「なら私は、女の子だよ」

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「やあご老体」

「…………まだ一週間と経っておらんぞ、朧」

 

 

 同時刻、川神院。鉄心が自室へ入って真っ先に目にしたのは、紅白の巫女服姿で畳に寝そべっていた朧の姿だった。

 その気の抜けた朧の右手にはくず餅が突き刺さった竹串、左手には墨を吸い取った筆が握られていた。

 

 

「松永、まさか彼女が川神に来るとは」

「予想外か?」

「想定の範疇だよ。時期は早い気もするがね」

 

 

 朧は鉄心と向き合うために座り直し、対面に座るように鉄心に指示した。

 前回の遭遇時に体を勝手に動かされた鉄心は、朧に逆らっても無駄だと判断したのか、素直に対面に座り服を整えた。

 

 

「こちらもね、全員川神入りしたよ」

「こちら……?」

「例の六人さ。壁を越えた者になりうる六人。昨日一人が西から帰還して、本日最後の一人が都心から帰郷してきた。六人全員が、川神を住処としている。内一人は少々問題があってね。下手をすると川神から逃げてしまうかもしれないが、まあそこは何とかしておこう」

 

 

 鉄心の左胸が爆ぜるように跳ねた。神に近いと自称する朧が用意した六人の武人、いや、ひょっとすると武人ではないかもしれないし、下手をすれば折角手に入れた宝を腐らせているかもしれない。それでも、朧が手を加えた人間が川神に集っていることは事実。鉄心の精神は慄き、昂った。

 それを見た朧はニヤリと笑う。不気味な程に、見る者に心的外傷を与えかねない狂った笑顔。朧はそのまま会話を続行する。

 

 

「六人には共通点がない。だから親切なぼくは君にヒントをあげよう」

 

 

 朧は左手に持っていた筆を空中に走らせた。するとどうだろうか、その軌跡はしっかりと実体を保ちその場に停滞していた。また奇妙な芸当を見せつけると、鉄心は感心を通り越して呆れてしまっていた。朧は鉄心が興味を示しているかどうかは一切考慮せず、空中に六つの字を書きあげた。

 

 

「一人目“恭”、たった一人の弟を護ってきた志操堅固の放浪者。二人目“影”、誰にも気づかれなかった真夜中の影法師。三人目“序”、年功序列を重視する豪放磊落な隠者。四人目“空”、人生において価値を見出だせずにいた虚脱な放浪者。五人目“律”、新たな自分との調和を図る活発溌地の覚醒者。六人目“怨”、この世の自分の不幸を清算すべく彷徨する怨憎。どいつもこいつも一癖二癖ある、厄介者だよ」

「…………幾らか心当たりがあるのう」

「そうだろうね。何せ川神にいた人物を抜擢した上、そいつらは社会に適合していると言い難い、扱うに難儀する奴等ばかりにした」

 

 

 朧はからからと、外見とは裏腹の妙に貫禄のある笑いを溢した。鉄心よりも修羅場を潜ってきたような威圧感を発していた。

 対面している鉄心はというと、目の前の少年の本質を未だに見抜けないでいた。一体この少年は今どのような感情を抱いて、今この場に顕現しているのだろうか。

 すると突然、出逢ってから先程まで、変化はしたものの一度も崩さなかった笑顔が、急に真剣な顔つきになり、目を見開き硬直した。

 

 

「……槿(あさがお)の奴、何を考えて……」

「………………どうしたのじゃ?」

「未来が変わった。本来なら辿る筈だった道筋を脱線した」

 

 

 朧の顔は真剣そのものだった。決して茶化していいような内容ではないと、鉄心は朧の目から読み取れた。しかし、意味が解らない以上、鉄心が尋ねないわけにはいかないため、恐る恐る朧に問い掛ける。

 

 

「未来……?」

「何度も言うようだけど、ぼくは神の残骸だ。この世界の行く末を見るくらいは、人間が二足歩行で横断歩道を渡るくらい容易い」

「じゃから、なしてお主はそう例えが半端なのじゃ」

「いいから聞きなよ。その未来を見る限り、この先はある三大企業の一つの内部分裂により、川神院が陥落され、日本が崩壊しかけるんだよ。まあ助かる未来なんだけどさ。おっと、そう怒るな。川神院が陥落する未来はもう“なくなった”。次に見えた未来はそれより厄介で対処しきれるかが解らない。世界を滅ぼすような内容なら、その未来を捻じ曲げるのもぼくの役目、だったんだけど。些か難しくなった」

「……つまり?」

「ぼくと同じ様な存在がもう一つあるんだ。ぼくが神の人を愛する側面だとすると、あいつは人を気嫌う感情で満たされた存在でさ。そいつが何か良からぬことを考えている。ぼくよりも質が悪い。ぼくは人間を弄るけど壊さない信条を掲げている。けどあいつは、槿は人間がどうなろうが構いやしない。つまり、何が言いたいかというと、戦争が起きるかもしれないってことかな」

 

 

 朧の顔が元の笑顔に戻ったが、今朧が話したことが事実だとすると、鉄心は聞き逃すことができない内容であった。

 

 

「戦争……?」

「槿の奴、ぼくの遊びを戦争と勘違いしているみたいだ。向こうからしたら便乗しているつもりなんだろうけど、勘違いで日本が崩壊されちゃたまったもんじゃない。止めなきゃまずいよ」

「止められるのか」

「解らない、けど、やるしかない。本当はもっと川神で直に見てたかったんだけどな、ぼくの玩具たち。あーもう、槿め。面倒なことを……」

 

 

 苛立ち、今の朧の様子から直ぐに解る朧の感情。鉄心は朧の意外な一面を目の当たりにした。

 

 

「まだ修正は効きそうか……鉄心くん。悪いけど六人の管理は暫く頼んだよ」

「…………何じゃと?」

「頼むよ。こちとら世界を救うために孤軍奮闘しようとしているんだ。ちょっとばかり手伝ってくれよ」

「何を言うておるのか。お主の悪行に加担しろと?」

 

 

 鉄心が僅かに怒気の孕んだ声で朧を威嚇した。しかし、対する朧は真剣な表情を崩し、いつも通りの笑顔に戻っていた。

 

 

「悪行? 何を的外れなことを。ぼくの目的は日本の再興だ。武士に匹敵する人間を増やし、純度を上げようとしているだけ。クローン人間を承諾しておいて何を今さら。どちらが悪行かな?」

 

 

 鉄心の心に鋭い銛が突き刺さった。痛いところを疲れたと、鉄心は顔をしかめた。

 朧は何でも見通しているような、全てを知っているような余裕綽々とした態度で笑っていた。しかし、最も恐るべきは、鉄心がクローン人間を許容するかどうかを、やはり道徳的観点から考え悩んでいたことを知っていることだ。

 川神学園の学長である彼としては、クローン人間により学生たちの士気と競争意識が高まることを期待していた。しかし、人間としての抵抗はやはり幾分かあったことは間違いない。

 その極僅かな罪悪感を、朧は的確に掘り返したのだ。

 

 

「何、その六人に気づいたら報告してくれればいい。ぼくの気配を少し強くしておくから、本当のぼくと合間見えた君なら、何ら問題なく見極められるだろうさ」

「しかし……」

「頼むよ。借りを一つ作ったということでさ」

「上から目線じゃのう……解ったわい」

 

 

 渋々承諾したように見える鉄心だが、実際のところそれ程気が進まないという訳ではない。

 朧が選出した六人を見つけやすくなったというだけで、鉄心にとっては既に有益な事象となっている。その上、神に近い存在に貸を作れるなら儲け物、そう考えていた。

 そう鉄心が承諾してくれるだろうと、朧が推測していたのは言うまでもないが。

 

 

「じゃあ頼んだよ。見つけたら蕎麦饅頭と一緒に書き置きを添えておいてくれ。蕎麦饅頭が減っていたら、ぼくが確認した合図ということで一つ」

「ふむ、まあ承ったわい」

 

 

 鉄心の了承を確認した朧は立ち上がった。その顔は少しばかり気が晴れたようだった。

 

 

「任せなよ。みすみす世界を壊させやしないからね」

「あまり信じたくない内容ではあるが、致し方無い」

「じゃあ、仕方無くやってくれ」

 

 

 乗り気なくせに、そう朧は口にすることなく、前回同様姿を一瞬にして消した。

 やれやれと、鉄心は肩の力を抜いてから部屋を出て、川神院に献上された上質な茶葉を使い、喉を潤すために茶を淹れることにした。

 湯を沸かし、急須に茶葉を入れて蒸らし、暖めておいた茶碗に緑茶を注いだ。その淹れたての茶を啜り、鉄心は溜め息をついた。前回の朧の訪問から鉄心の溜め息は増えた。それはもう、溜め息一つにつき幸せが一つ逃げるという迷信を気にしていられなくなる程に。

 

 

「さて、鍛え直すかい」

 

 

 鉄心は前回の朧の訪問から、自身の体を一から鍛え直すことにした。その朧が用意した六人とやらにも期待はしているものの、朧という存在を半ば認めてしまったがために、少なくとも朧以下の存在がいると鉄心は認めざるを得なくなった。つまり、自身の与り知らない強さを持った化け物が、まだ世界にいるという可能性が浮上したのだ。

 朧を認知する。つまり、鉄心の中における強さの、異常さの上限値が跳ね上がったことを意味する。

 朧がそれらの最大値を示すと、当然の如くそれ以下の数値があることは否定できなくなる。要は、まだまだ強い武人がいるかもしれないという仄かな期待が、年老いた鉄心の心の奥に芽生えたのだ。

 鉄心は茶を飲み終わると体を軽く伸ばし、修行場へと陽気に足を伸ばした。

 

 

 





 明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう

 エピクロス

 ◆◆◆◆◆◆

 三話現在、原作登場キャラが三人のみ。一話一人のペースでお送りしております。次回は予定としては二人ほど新しく登場させますので。自分の作品の信条は「仲間外れを作らないSS」でありまして、原作で立ち絵があるキャラクターは例外なく物語へ参入させるつもりです。立ち絵がなくても登場させるキャラももちろんいますが、流石にそこまでは私の実力ではカバーしきれません。参加できないキャラにはひっそりと過ごしていただきましょう。

 本文でも使用しました快楽主義、快楽といっても実に閉鎖的で非即物的ではありますが。恐怖や苦痛から逃れること、一般社会から完全に隔絶されてようやく成り立つ思想であります。私は始め、この考え禁欲的だなと思っていたのですが、これで快楽なのかと知ったときは少々混乱しました。その後、禁欲主義の自制心の尊重を学びようやく得心がいった訳ですが、そう考えると古代の人間は随分と戒めが多かったのですね。
 友人が「深夜でも黄色信号に気を付け無理せず停止、これぞ禁欲」と言っていましたが、自制心の観点から述べれば確かにそうではあるけども、じゃあ快楽は? という質問に「黄色信号という概念がない人物の思考が快楽主義」とのご返答が。その後、自分は快楽よりだなと実感。

 結論。黄色信号は利己か利他の判断基準。
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