夕暮れの廊下。
最終下校時刻目前の今、一年生の教室が並ぶ廊下に人影はない。
無論、教室や廊下の明かりも消されており、唯一の光源はゆっくりと傾いて行く夕陽だけだ。
俺が入学してから3ヶ月、実際のところ事故のせいで2ヶ月足らずしか経っていない高校生活は順風満帆と言って差し支えないだろう。
1ヶ月のブランクを埋めるために奔走し、俺は何とかサッカー部の葉山隼人という人物を中心としたグループに潜り込むことに成功した。
見た目もノリも影響力も間違いなくスクールカーストトップのグループだ。
俺の嘘がバレた様子もなく、このまま穏やかな高校生活を送れれば良いのだが、なぜか今日は当の葉山に呼び出されたのだ。
グラウンドから運動部員達の声が薄っすら聞こえてくる。
初夏の西日がどうしようもなくうっとおしい。
ジトっとした汗が首筋を濡らすのが嫌で、俺は窓の間の柱影に身を隠す。
そして微かに聞こえる学生の喧騒をBGMに俺はそっと目を閉じた。
ーーー不意に、無秩序の音の中に規則的な足音がこちらへ向かってくる。
待ち人来たり、と目を開けると10番の赤ビブスを着た葉山が夕日の中に立っていた。
『やぁ、待たせて悪かったね。』
呼吸をするように爽やかな笑顔を浮かべながら彼は言う。
『気にすんな。
それで、話ってなんだ?』
俺も同様に人気者の仮面を被ろうと表情を動かしてーーー
『そういうの、やめにしないか?』
困ったように肩をすくめながら、しかしそれでもはっきりとした声で葉山隼人は“比企谷八幡”を看破した。
……バレてるのか。
呆気にとられたのは一瞬だけで、直ぐに俺の頭はこの状況の処理へ向けて動き出す。
見れば、あいつは俺の反応を待つかのように黙っている。
いつからだ?どうしてバレた?どうしてバレたことに気づけなかった?このまま取り繕うべきか?潔く認めるべきか?
ああでも無いこうでも無いと多くの考えが浮かんでは泡のように消えてゆく。
いつのまにかグラウンドから運動部員の声は聞こえなくなっていた。
当然のように校舎内も耳が痛いほどの静寂に包まれている。
変化があるのはゆっくり沈んで行く西日が作る影の角度だけ。
柱の陰に立つ俺と夕日に照らされる彼の場所の間には影の境界線が明確に刻まれ、夕日が沈んで行くにつれて影の領域が大きくなる。
黙りこくる俺に対して、葉山隼人はその境界線に近づくように一歩踏み出し、
『
爽やかな笑みを浮かべ、あいつは一番の爆弾を躊躇なく投下した。
途端にそれまで考えていたことが吹き飛ぶ。
苦悩も焦燥も恥辱も全てかき消え、唯一残ったのは怒りの感情とそれにそぐわぬ歪んだ口角だけだった。
その感情に身を任せ、口を開く。
『お前、何言ってんだよ。』
ああ、きっと今自分は酷く醜い笑みを浮かべているのだろう。
しかし葉山はそんな俺に怯むことなく口を開く。
『だからーーー『俺がこうまでしてお前と近づいてる理由、分かってんのか?』
葉山、お前は凄いやつだよ。
俺が苦労して手に入れたものを持っていて、それを自然に使うことができる。
クラスのヒーロー像を集めたようなやつで、誰からも好かれる人気者だ。
ーーーそして、“みんな仲良く”なんてくだらない理想を掲げる愚か者だ。
『え?』
『お前みたいなやつと友達になりたくないと心底思ったからだ。』
偽りのない本心。
下手をすればこいつと付き合い始めてから初めて出した本心かもしれない。
『なぁ、葉山。俺はお前みたいなやつのことを知ってるぞ。』
そうだ、俺は知っている。
なるべくして人気者になったような人物を。
人の好感情に囲まれて、それゆえに悪感情に疎い人間を。
ーーー何もかもを救おうとして、結局あいつを追い詰めた人間を。
『みんな仲良く、なんて馬鹿げた理想を掲げて孤立した者を引き入れようとした。』
『!』
『そのくせそいつは周りにさらに迫害された。
その時になってようやく“こんなつもりじゃなかったんだ”、と自分の間違いに気づくんだ。』
葉山の顔が歪む。
図星だったのか、そういう体験を既にしているらしい。
『安心しろ、葉山。
お前の周りから人はいなくならない。ずっと万人の好感情を買い続けて、その分の悪意をごく一部に押し付けるだけだ。』
行き過ぎた善意は気づかぬうちに悪意へと塗り替えられる。
むしろ本人の意思とは関係なく牙を剥くそれは単純な悪意より悪質かもしれない。
夕日はその姿をほとんど消してしまった。
気づけば葉山と俺が立っていた間にあった影の境界線はほとんどおぼろげだ。
今度は俺が一歩葉山に近づく。
『そして何も学んでいないお前は、今回も同じことを繰り返す。
いつか、いや近いうちにお前一人では解決できない問題が出てきて、そのまま今のグループはおじゃんだ。』
その時も葉山は一人にならないだろう。
悪者は周囲であくまで葉山隼人は被害者だ。
理由は簡単、葉山隼人は“人気者”だから。
先ほどの笑顔はどこへ行ったのか、葉山は険しい表情で俺を睨みつける。
『……君に、何が分かる。』
『分かってないのはお前だ、葉山。
何も分かってなくて、何も学んでないから俺と友達になれるなんて戯言を吐ける。』
『っ!』
固く拳を握りしめたまま葉山は俯く。
『なら……なら、俺はどうすればいいんだ。』
それは俺に向けられた問いではないのだろう。
実際、それはまるで何かを悔やむように絞り出された言葉に聞こえる。
しかし、そうと分かっていても俺は口を開いた。
『簡単な話だ、俺を使えばいい。』
『え?』
とぼけた表情で葉山の顔が上がる。
『グループの不和、不仲。すれ違いは俺がなんとかしてやる。
関係が崩れないように、壊れないように、続くように今の環境を俺が整えてやる。
だからお前は“葉山隼人”としてそこにいればいい。
代わりにそのグループに俺の立ち位置を作れ。』
俺が葉山のグループを存続させる代わりに、葉山はその名前を俺に使わせる。
友達なんて馬鹿げた関係ではなく、利害の一致した関係性。
あくまで対等な関係として、俺は葉山に契約を持ちかけた。
『……それは、脅してるのか?』
『まさか。
お前が拒絶すれば俺は別のグループに移動してお前のグループが崩壊して行くのを傍から楽しませてもらうだけだ。』
ーーーああ、しかしこれはきっと悪魔の契約なのだろう。
葉山がグループに俺を組み込めば俺は言った通り立ち回れる自信はある。
しかし、そうすれば葉山は何も変わらない。
他人の悪意に鈍感で、他人の善意を信じて、結局いつか俺が離れた時に同じ過ちを繰り返すだろう。
そして、俺も変わらない。
仮面を被ったまま、嘘をつき続けて偽物の自分を演じ続けるただの道化になるだけだろう。
つまるところ、この約定はいつかお互いがぶち当たる行き止まりを先延ばしするだけでしかない。
それを分かった上で俺はこの話を持ちかけた。
いつか過去を清算できる日が来たとしても、それでも俺は
行き着く先が行き止まりでどこにも行けないとしても、俺はこれで構わないのだ。
一方、葉山がそれを理解したのかは分からない。
しかし長い沈黙の後ーーー
『分かった、比企谷の話に乗ろう。』
と、この提案を承諾した。
『なら、明日からも同じように立ち回ってくれよ。
話は終わりだ、俺は帰るぞ。』
言って、俺はさっさと葉山に背を向けて歩みを進める。
一歩、二歩と進みーーー
『比企谷、』
葉山が俺の名前を呼ぶ。
『悪いが君とは友達になれそうにない。
君のそのやり方は、嫌いだ。』
後ろを向く俺にあいつの顔は見えない。
だが、葉山がどんな表情でその言葉を紡いだのかは容易に想像できた。
『……お互い様だ。』
今度こそ俺は歩き出す。
気づかないうちに日は完全に沈んでしまっていた。
廊下を照らすのは校内に設置された頼りない街灯の光だけ。
確かに存在した陽と影の境界線はなくなり、葉山と俺が立っていた廊下は影に包まれていた。
****
柄にもなく昔の出来事を思い出す。
いつか崩れる関係、どこにも行けない契約。
そんなことを思い出したのはーーー
「いつか君とはこうなると思っていたよ。」
言って、腕時計を外す葉山と、
「今なら引き返せるぞ、葉山。」
同じように腕時計を外し、軽く腕を振る俺がいるからだろう。
「譲れないのはお互い様だろう。」
「まったくだ。」
最後の会話を終え、俺は葉山の顔を見据えながら息を吐く。
そして腕を振り上げーーーー
****
「いやー、凄かったね。
二人ともすっごく本気だったもん。」
隣を歩く相模がキャイキャイとはしゃいでいる。
こいつと俺が向かう先は文化祭実行委員会が行われる会議室だ。
「まぁ……そう、だな。」
1クラスにつき男女1人ずつが選出される文化祭実行委員だが、早々に決まった女子枠の相模と違い男子枠は中々決まらなかった。
最終的に葉山と俺がその1枠を取り合うことになり、厳正なるじゃんけんの上、俺が実行委員となったのだ。
結局のところ、形式上は『相模が決まったあとに男子枠を葉山と比企谷が取り合った』という事実が相模にとっては嬉しいのだろう。
実際は海老名監督のBLミュージカルのダブル主人公に葉山と俺が選出予定という話を聞いて俺たちが目の色を変えただけなのだが。
絶対そんな舞台には立ちたくない……。
そんな裏事情など知らない相模はどこか嬉しそうに俺の隣を歩いている。
相模南、俺のクラスのナンバー2カーストグループのリーダー的存在。
自分をよく見せたい、他者から羨まれたい、などと自己顕示欲がよく見られるごくごく一般的な女子高生だ。
普段から関わることはほとんどないが、トップカーストの俺や葉山の前では猫を被っているので実行委員として利用するのには困らないだろう。
横目で彼女を盗み見ながらそんな最低なことを考えている内に会議室にたどり着く。
基本的に文実はクラスであまり目立たない部類の連中が選ばれることが多い。
目立つ部類はむしろ表舞台に力を入れることが多く、俺も海老名さんの一件がなければそっちにいっていたつもりだったのだ。
がらりと扉を開ける。
中には既に十数人の生徒が集まり、談笑していた。
当然のように視線が俺に向けられる。
さっきも言ったように文実は目立たない部類の輩が集まるのだ。
その中に俺が入るなんて連中からしたら意外もいいところだろう。
そんな視線に俺はテンプレ通りの苦笑を浮かべながら中に入り、2-Fと書かれたプレートの置かれた席に着く。
「ねぇねぇ、今日って何するんかな?」
当然、俺の隣に座った相模が興奮気味に話しかけてくる。
「今日は顔合わせ程度じゃないかな。
後は委員長みたいな重要な役職決めとかな。」
「比企谷君、委員長やらないの?
比企谷君が委員長ならみんなめっちゃ頑張れると思うよ!」
ふむ、確かにその考え方もありだが、実際のところ
そもそも、そうでなかったなら俺は1年生から生徒会長になってただろう。
「それはどうだろうな。誰が委員長でもみんな頑張るだろうし。
俺も今のところやるつもりはないな。
クラスの方もーーーー」
しかし、最後まで言い終わることないままに言葉が途切れる。
俺が会議室に入った時と同じような、いやそれ以上の視線が入り口へ向けられている。
それと同時に皆一様に口を閉ざしたのだ。
そんな凍りついた部屋に堂々と入ってきたのはーーー
当然、雪ノ下雪乃だった。
周りから、あの雪ノ下さんが?とヒソヒソ話が聞こえてくる。
もちろんそれは彼女にも聞こえているであろうに、当の本人は気にするそぶりも見せない。
雪ノ下は一瞬、自分の席を探そうとしたのか教室を見渡し……俺と目があった。
『どうして貴方がここに?』
氷のように冷たい瞳が訝しげに俺を貫く。
『成り行きだ。』
負けじと睨み返すと意図が伝わったのか雪ノ下は小さくため息をつくと今度こそ俺から視線を外して自分の席に向かった。
それにしても、あいつがこういった催し事の運営に参加するとは思わなかったな。
そもそも文化祭の雰囲気自体が苦手そうだし。
「……なんか意外。」
不意に、俺たちの冷戦に気づかなかった相模が小さく呟く。
「雪ノ下さんってあんまりこういうのに興味ないって思ってた。
やるからには委員長やるんかな?」
俺と同じ疑問を持った彼女の一言。
そんな小さな呟きにも関わらず俺は余計なことを思い出しーーー
「……さぁな。」
『俺』らしくないぶっきらぼうな返事を漏らした。
雑な導入ですが、以前いつか書くと言った葉山との関係について書きました。
夏休みからさらっと文化祭編まで飛んでいますが、前話の後ガハマさんとどうなったのか、などは23話にて分かります。
文化祭編自体のストーリーは出来上がっているのですが、それを文章に起こそうと思うと結構苦労するものですね……、気長にお待ちください。