噂な彼女【完結】   作:遠名 彬

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はじめまして。短編で知っている方はこんにちは。遠名彰です。
このたび初めての連載小説を書くこととなりました。鈍亀不定期ですがよろしくお願いします。

過去に縛られた妖怪の、歩き出すまでの話。


本編前の前日譚。纏めた方が読みやすくとっつきやすいだろうと思って統合しました。


前日譚
過去に忘れた少女の話(上)


 しつこい位に熱を送り続ける太陽も、偶に吹く涼しい風の引き立て役。暑い中に吹く風にこそ、私は価値があると思う。

 

 木陰の森を抜けると、眩しい地面が顔を出す。見上げた空には妖精が飛び交い、今日も今日とて遊びに精を出す。

 

 特に予定も無く、平地を彷徨う私は一人だ。

 

 それでいい。それがいい。

 

 気が付いたらここにいて、誰にも縛られずに遊び続ける。

 

 私にとっては、それが日常だ。何と無く、それで全てが完結する。

 

 太陽の顔に雲がかかる。いつの間にか、地面も眩しくなくなった。

 

 きっと雲に抗議している太陽に、ざまあみろ、と小さな嘲笑をかける。いつも煩いのだから、時には痛い目を見るといいだろう。

 

 道の向こうには、大仰な門が見える。そこには屈強そうな、人間の男が二人、立っている。

 

 私は知っている。

 

 

「おっ、今日も来たのかい?」

 

 

 この人たちは、優しい事を。

 

 

「はい、今日も来ちゃいました」

 

 

 返事をした私に笑い掛けてくれる、顔馴染みの門番さん。もう一人の彼は、口数は少ないけれど、私が来るといつも進んで門を開けてくれる。

 

 ありがとうございます。

 

 誰かに聞いた感謝の言葉。今では毎日使っている。私が一番好きな言葉だ。

 

 門番さんに軽く会釈をしながら、開けてもらった門をくぐる。

 

 下げた頭を上げれば、そこには明るい里村がある。

 

 その大多数は木造建築が故に視界には茶色が多いが、建築材となっても木の暖かな柔らかみは無くならない。そこに暗さなど微塵も無く、降り注ぐ光で煌々と輝いている。

 

 町中に入れば、活気のある大通りが迎えてくれる。食事処から遊戯屋まで、様々な店が軒を連ねている。明るい客寄せの声が響き、店の客も喧騒に荷担している。

 

 私は、そんな中を歩いて行く。道の傍からかかる声は、どれも自分には向いて居ない。

 

 無一文の私は何も買えない。けれど、こうして道を歩くのは楽しい。私は妖怪だけれども、人の声を聞くのは好きだ。

 

 そうして歩いていると、人混みの中に、不思議な人を見かけた。

 

 着物姿の往来の中、黒い、見た事の無い服を着た男が、こちらに向かって歩いて来る。

 

 冷たい。

 

 それが、第一印象。

 

 彼の、黒い服と黒い髪、何より怖い位に黒い目を見たとき、深淵を覗いた時の様に、背筋が一瞬で凍りついた。

 

 この人、怖い。

 

 それが、第二印象。

 

 けれど、その感情は長くは続かない。

 

 彼は、私を見てはいない。

 

 私を、それどころか周りの人間を誰一人として一瞥すらしないまま、その男は私の隣を歩いて行った。

 

 気がつくと、私は大通りの往来の中、前を見据えたまま棒立ちになっていた。

 

 太陽が、雲から顔を出した。

 

 私も、ようやく深淵から顔を上げた。

 

 大通りを歩いて抜けると、少し離れて寺子屋が構えている。今はまだ授業中なのか、窓からは机に座る子供達と、教鞭を振るう大人が見える。流れる銀の髪に粉を塗した大人は、確か上白沢先生だ。いつか、町の人が話しているのを聞いた。

 

 でも、今の私には寺子屋は興味を向けるに値しない。こう言うと失礼かもしれないけれど、私には何が楽しいのか分からないのだから。

 

 空を見れば、雲から逃れた太陽が、傾きながらもまだ光っていた。

 

 やっぱり、今日もやる事は無い。いつもの事だけれど、こうして考えると結構空しい気持ちになる。

 

 昼寝でもしようか。

 

 決めたらすぐに実行するのが、私、ひいては妖怪と言うものだ。

 

 取り敢えず、町から出よう。入ってきた門から外に出て、手頃な場所を探して辺りを見回す。日陰で、風通しが良く、それでいてあまり五月蝿く無い所。そんな所を探して、私は町から少し離れた林を目指す。妖怪の溜まり場となりかけている場所だが、割と居心地は良い。

 

 林についた頃には、光はやや傾いた影を映し出していた。まだ熱の篭った光を送り続ける太陽は砕きたい程に恨めしいが、こうして影に入ってしまえばこちらのもの。やはり、暑さは涼しさの引き立て役のようだ。木陰に入った瞬間に、涼風が黄色い髪を揺らした。

 

 今日は、気持ち良く眠れそうだ。

 

 木の一本に寄りかかる。私は睡魔に身を委ね、瞼を閉じた。

 

 

「……ちょっと、」

 

 

 気持ち良く寝ていた私は、誰かの声に起こされた。

 

 

「起きなさい、そこの妖怪」

 

 

 でも私は眠い。だからこのまま、声を無視して寝ても良いと思う。

 

 

「さっさと起きないと針投げるわよ」

 

 

 ……恐喝するのは、卑怯だ。声だけで叩き起こされた私は、目を開けて声の主を見た。

 

 目の前に、目に鮮やかな赤い人影が立っていた。赤みを帯びた夕日の光に照らされて、気だるげな顔をこちらに向けている。

 

 そんなに面倒そうな顔をするのなら、構わなければいいのに。

 

 私は心からの言葉を蓋で抑えて、顔には笑顔を浮かべた。

 

 

「……はい、なんですか?」

 

「あんた?最近、人里で悪さしてるってのは」

 

 

 人里。聞き慣れない言葉だ。人の里と言う事は、あの町もとい里村の事だろうか。人里と言うのか。これからはそう呼ぼう。

 

 

「……うーん、行きはしますが、悪さは……してない、筈です」

 

 

 どこからが悪さになるのか分からないから、何とも返事が分からない。その答えが不服なのか、目の前の赤いのは露骨に不満そうな顔を向けている。

 

 

「で、どっちなの?」

 

 

 どちらと言われても。

 

 取り敢えず悪さはしていない。

 

 

「してません」

 

「ならよし」

 

 

 いいのか。なら初めから、そう言っておけばよかった。

 

 ぼうっと、起き抜けの目で赤い少女を眺めていると、不意打ちに質問が飛んで来た。

 

 

「じゃあ、何か知ってる?」

 

 

 全く知らない、と言えば嘘になる。最近一度、門番さんが話していたのを聞いたことがある。確か、その時の話は――

 

 

「四足の獣みたいな妖怪が、人里の近くを徘徊していて怖い、とは」

 

「四足の獣……ね。ありがと。悪かったわね、起こして」

 

 

 感謝の気持ちが微塵も感じられない言葉を残して、少女は立ち去ろうとする。待ちなさい、私も聞きたいことあるから。

 

 

「あの――」

 

「ごめん、私今急いでるの。また後でね」

 

 

 向こうから話しかけて来たのに、この扱い。気付いたら、少女は既に飛び去って行ってしまっていた。

 

 ……今のは、何だったのだろう。妖怪を退治する人間、聞いた事があるような、ないような……。

 

 まあ、いいか。

 

 私は小さな靄を抱えながら、覚めてしまった頭を回す。辺りは、落ちかけた夕日が最後の抵抗を見せていた。

 

 あの赤い欠片が地平線に沈めば――私たち、妖怪の時間が始まる。

 

 とはいえ、私は夜に寝る。何故なら、夜はやる事が無くて退屈だから。それだけ。

 

 でも、今日は昼寝の所為で余り眠くない。久し振りに、月の下で散歩をするのも悪くない。

 

 心を決めたら、即実行。それが一番いい。

 

 立ち上がると、私は太陽が落ちて行く方に向かって歩き出す。

 

 送り出すような今日一番の追い風に、昼に吹いてよ、と文句を飛ばす。暑くなければ、夜風は空しい。

 

 

 月明かりに照らされた平地は、眩しい位に輝いていた昼とは違い、柔らかく、包み込むように優しく光っていた。突き刺すように攻撃して来る昼の光と、迎え入れるように抱擁してくれる夜の光。どちらにもいい所はあり、甲乙付け難い良さがある。

 

 私は、そんな中を歩く。偶に見つける妖怪は、みんな揃って興奮中。夜の世界は優しいけれど、昼間には無い狂気がある。

 

 なんと無く歩いていると、辿り着くのは人里。門は硬く閉じられて、今は門番さんもいない。

 

 ちらりと近くを見てみると、お札と針で飾られた四本足の妖怪が、彫像のように伏していた。

 

 ――何故だか、夕方の少女が気になった。妖怪は人間よりも体が強い。そんな簡単に死にはしないけれど、あの妖怪は死んでいた。

 

 ――もしかすると、興味が湧いたのかもしれない。

 

 妖怪殺しの赤い少女。妖怪が会いに行くのは自殺行為かもしれないが、無味な日常のいい刺激になるかもしれない。

 

 私は件の少女を目指して、狂気の光の中を出発した。

 

 

 とは言うものの、私はその少女の居場所を知らない。どうしたものか。

 

 やはり、妖怪に関係する事は妖怪に聞くのが一番だ。近くに気軽に聞ける妖怪がいないか探して見る事にする。

 

 当ても無く歩いていると、今の風向きとは真逆の方向に風が流れた。上を見上げると、傾いた月明かりに照らされた、赤い飛行体を発見した。遠近法が活躍する距離にも関わらず、地面を歩く私に影響を与える位に、急いで月に向かっている。

 

 間違いない。あの時の少女だ。

 

 私は赤い影を追いかけて、東へ向かって駆け出した。

 

 随分と涼しくなった風が、私の横を急いで通り抜けた。

 

 

 迷った。

 

 そもそも空飛ぶ人影を追って、森の中に走って行った私は阿呆だ。迷うに決まっている。

 

 静かな光は木の葉を照らし、私の足元までは届かない。夜の森は、正に一寸先は闇。道行きが見えないから、心の中に不安が積もる。

 

 最近は妖怪もかなり殺気立っている。夜なら尚更。早い所森から抜けないと、襲われないとも限らない。

 

 私がそう思い込み、何とか出ようと心を決めると、その声は聞こえて来た。

 

 それは、声と言うよりは唸り声。遠いような、近いような。闇に響く、獲物を狙う獣の声だ。

 

 驚いて辺りを見回すと、漏れ出た月光に照らされた、此方を狙う目と目が合った。

 

 ――これは、やばい。

 

 考える前に体が動いた。自分でも驚く程の速度で踵を返すと、私は全速で逃げた。

 

 私は妖怪だけれど、戦える程の力は無い。下級妖怪の中でも最底辺だ。故に、先程の妖怪に捕まったが最期、私は儚くも餌となって消えるだろう。流石にまだ死にたく無い。

 

 私は木々の間をすり抜けて、息を切らして走っているというのに、背後から聞こえてくる疾走音は着実に音量を上げてくる。この速度差でいけば、あと数秒で追いつかれるだろう。こんな状況を、主観で冷静に分析出来る自分は、嫌いだ。頭の中では既に、追いつかれるまでの残り時間が刻まれている。

 

 足元に注意をしていなかった。突き出た木の根につまづき、顔から盛大に転んでしまった。

 

 何とか起き上がろうと試みるが、爪先が地と根の間に挟まって、抜け出せない。情けなくもうつ伏せのまま、私は迫り来る死刑執行人の断罪を待つしか無い。

 

 ――ああ、もう死ぬのか。

 

 冷めた頭は、既にその事実を受け入れている。あれだけ死にたく無いと逃げ回っていたのが嘘のように、静かに。

 

 

「あー、そこな妖怪。お前にはまだ、死んで貰ってはこっちが困る」

 

 

 唐突に、頭上から声が聞こえた。腕立ての要領で頭を上げると、そこにはいつか見た黒い装束の男が立っていた。

 

 

「そういう訳だ。そこの獣、止まらなきゃ止める」

 

 

 私のすぐ後ろの妖怪は、彼の出現にも動じずに、駆ける音を止めない。

 

 男は何とも嫌そうな顔でそれを見ると、軽く右手を正面に翳した。

 

 

「止まれと言うのが聞こえないのか、この阿呆が」

 

 

 風は吹いていない。筈なのに、男の黒髪が俄に靡いた。力の無い私でも気付く位に、男が力を行使しているのが分かる。それは、人間には扱えない筈の、私達妖怪が持つ力、即ち妖力。

 

 翳した右手が仄かに輝いた。

 

 それでも妖怪は止まらない。勢いをそのままに、私の後ろに立つその男に飛びかかった。

 

 

「……警告はした」

 

 

 飛びかかった妖怪は、男の前に現れた不可視の壁に阻まれて、大きく吹き飛ばされた。

 

 倒れた私の遥か後方で、叩きつけられる音と、獣の悲痛な声が聞こえた。

 

 

「無事か?妖怪」

 

 

 男は私の足を根から抜いてくれた。それから服の懐から手のひら大の箱を取り出して、そこから煙草を取り出した。

 

 私は服についた土を軽く落として、妖怪が飛んで行った方を見てみる。そこは闇に包まれていて、もう何も見えない。

 

 

「……さっきの獣なら、逃げたぞ。殺してはない」

 

 

 私が何か言う前に、男は懇切丁寧に教えてくれた。

 

 

「……あの、ありがとうございます。助けてくれて」

 

 

 私は頭を下げて礼を述べる。見知らぬ人だが、助けてもらったのだから当然だ。

 

 

「気にするな。此方としては、ただ命令を遂行しただけだからな。……で、妖怪。名前は?」

 

 

 私は、まず自分から名乗るのが礼儀だと思う。人に一方的に名前を聞かれるのは良い気分はしない。

 

 

「……私に名前を聞く前に、貴方の名前を聞かせて貰いたいのですが」

 

「おっと、失礼。俺は、荒谷江介だ。一応、大体は人間をやってる」

 

 

 そう言って、その男――荒谷さんは、大仰なお辞儀をした。何だか小馬鹿にされている気がしないでもない。

 

 相手が名乗ったのだから、今度は私の番だ。

 

 ……とは言ったものの、実は私には名前は無い。これまで必要なかったから、自分でも考えていない。

 

 

「私は、一介の妖怪です……名などありません」

 

 

 江介さんは、そうか、と特に驚いた様子も無く、何か考えているように顎に手を置いている。何だか観察されているような気がする。観察するような所など無いだろうに。

 

 

「あの……」

 

「色々と聞きたい事はあるだろうが、取り敢えずついて来てくれるか?……そんな、不審者を見る目をするな。後で俺よりも頭の良い奴に全部説明させるから」

 

 

 私としては、知らない人間と妖怪には従ってはいけない気がする。けれど、一応命の危機を救ってもらった上、現状も説明してくれるらしい彼には、ついて行かざるを得ない。

 

 

「よし、良い子だ。ちょっと待ってろ」

 

 

 私が頷くと、江介さんは何やら札のようなものを取り出し、近くの木に貼り付けた。すると札が淡く輝き、月光の届かぬ葉の下を照らした。

 

 

「――それが、例の子ね。……当たりよ」

 

「今からそっちに連れて行く。いいな?」

 

「ええ。なるべく早く、ね」

 

 

 張り付いた札から、何処かで聞いた事のあるような声が聞こえた。既視感、いや、声だからこの場合は既聴感、とでも言うべきか。ともかくその女性の声を聞いた途端、何とも言えない懐かしさが感じられた。誰だろうか。

 

 

「暫く、目を瞑ってろ。気分が悪くなるぞ」

 

 

 話し終わったのか、江介さんが此方に向き直りながら言った。

 

 それにしても突然だ。何故か、という説明を綺麗にすっ飛ばしている。

 

 見やれば、森の中で丁度光と影の混ざり合った薄暗い薄明かりの中に、亀裂が走っていた。両端がまるで布で縛ったかのようになっており、中心に行く程大きな穴が空いている。穴の大きさは、大体人一人分位、だろうか。亀裂の奥には、白と黒の球体がある――目玉だ。無数の、向きも大きさも不均等な眼が、此方を見るわけでも無く、ぎょろりと不気味に蠢いていた。

 

 

「まさか、あの中に入る――なんて、言わないですよね、まさか」

 

「そのまさかだ。あの眼と見つめ合いたいなら、瞼を開けてても構わんが――」

 

「結構です」

 

 

 まさに神速。

 

 私は不特定多数の眼と見つめ合って悦ぶような変態では無いので、大人しく眼を閉じておく事にする。……何だか、既に少し気分が悪い。

 

 しかし、この中でも江介さんは眼を開けるのだろうか。とすると、あの人はそういう趣味の人なのか。

 

 私は割と衝撃の事実をそっと胸にしまう。十人十色。

 

 

「よし、今から入るぞ。絶対に手を離すな、どうなっても知らないからな」

 

 

 そんな怖い事を。目の中に放置されるのは御免だ。

 

 私の手が、他人の手に握られる。江介さんだろう。眼を閉じているから確証は無いが――なんて、何故私は自爆しようとしているのだろう。別にこの手が江介さんでなくても、何が怖かろうか……嘘だ。半端無く怖い。

 

 私がそうして盛大に自爆している間に、いつの間にか全身を覆っていた視線は、感じられなくなっていた。

 

 

「着いたぞ、もう眼を開けても問題ない」

 

 

 江介さんの声だ。

 

 恐る恐る眼を開ける。月の明かりが照らす中に、大きなお屋敷が建っていた。

 

 けれどそれよりも目に付いたのは、私の正面に立っている金の色。どこと無く大陸の意匠が見える服に、三角の突起がついた帽子を被っている。両の手を対となる手の袖に入れていて、立ち姿も大陸かぶれの様だ。

 

 細かく見ればそうだが、いち早く眼に付くのは、その立ち姿からはみ出して見える、金の尻尾だ。形や色から、それが狐の尻尾であることは分かるが、それが九本。ゆらゆらと独自の意思を持っているかの様に揺れている。

 

 

「よく来たな、紫様がお待ちだ」

 

 

 外見の情報を総合するに、彼女は――

 

 

「……狐、の妖怪?」

 

 

 私の呟きは、すぐ隣の江介さんにも聞こえなかったようで、すぐに紹介してくれる。

 

 

「あの狐擬きは、八雲藍。一応結構名の知れた妖怪だぞ」

 

 

 と言われても、私は知らない。何せ親友と呼べる存在がただの一人としていないのだ。会った事の無い妖怪の名前など、聞く機会も無い。

 

 名前を教えてくれたのは江介さんで、その時既に狐妖怪――藍さんは歩き出していた。既に私の視界に、あの月光を受けて輝く金の尻尾は見えない。

 

 ――置いてかれた?

 

 

「あの、藍さんがもう居ないんですけど……」

 

「ああ、あいつは式でな、主に伝えに行ったんだろうよ」

 

 

 何を――なんて、そんな事はすぐにわかる。隣の江介さんが慣れた様子で屋敷を歩いているのだから、伝える事など私の事以外には無いだろう。

 

 私は江介さんの後について、屋敷の中を進んだ。

 

 純和風の空間を暫く歩くと、江介さんは一つの襖の前で立ち止まった。

 

 

「さ、ここだ。ちょっと待ってろ」

 

 

 そう言うと江介さんは襖を少し開けて、中を覗いた。

 

 何か話しているようだが、私には声が小さ過ぎて聞こえない。

 

 何となしに、部屋に頭を突っ込んでいる江介さんを見てみる。あの時は暗い森の中だったから大雑把な服装位しかわからなかったが、この屋敷の中は月光とはまた違う、天井から発する不思議な光があるので、よく観察できる。

 

 改めて服を見る。黒い、丈長の上着、だろうか。初夏にも関わらず、あんな暑そうな上着をよく着ていられるものだ。

 

 ……やはり、既視感。あの服といい、あの歩き方といい、何処かで見たような――

 

 

「おーい、入っていいぞ」

 

 

 いつの間にか江介さんは視界から消えていた。襖の奥から、声が聞こえる。

 

 私は声に導かれるまま、襖の奥に入っていった。

 

 その部屋は、六畳、七畳位か。畳敷きの床に、卓袱台のような机が一つ。此方側には、江介さんが座っていて、向かい側には二人がいる。一人は表で見た、金の狐の妖怪……藍さんだ。今は帽子を取っており、想像よりも幾分か可愛らしい狐耳が金髪から生えている。

 

 もう一人は、見た事の無い女性だ。

 

 藍さんと同じな綺麗な金髪を、此方は長く伸ばしている。全体的に紫色の、白いひらひらしたものが大量についた服を着ている。一目見るだけで、その紫紺の虹彩に呑まれてしまいそうだ。肌に感じる感覚から、かなり大きな妖力の持ち主だと分かる。顔に浮かんでいる微笑みに強者の余裕が感じられる。

 

 

「――()()()()?」

 

 

 私の口が、勝手に動く。会った事の無い、ましてや見た事も無いその女性を見た時、私は無意識的にその言葉を口にしていた。

 

 刹那の静寂が、部屋を包んだ。私自身、自分が何を口走ったのか全く分からず、当惑する他ない。

 

 私が、紫さん、と呼んだその女性は、私の言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ顔を顰めた。が、次に視界に入った時には、既に元通りの笑みを浮かべていた。

 

 

「あら、貴方みたいな妖怪にも覚えてもらえるなんて。随分と有名になったわね、私は。そうよ、私の名前は、八雲紫。貴方を呼び出した張本人よ」

 

 

 女性――紫さんは、私の目を見ながら、そう言った。

 

 ……不思議と、その姿に見憶えがあるような気がした。

 

 

「では、八雲紫さん。一つ、質問があるのですが……」

 

「紫でいいわ。何かしら?」

 

「……私は、紫さんと会った事があるんじゃないんですか?」

 

 

 隣で、息を呑む音が聞こえた。金の耳と尻尾が、心なしか忙しなく動き始めた。

 

 ……どういう事だろうか。私には、こんな危険そうな妖怪にあった覚えがない。しかし、確実に、私は彼女に会っている。

 

 

「……ええ、貴方は覚えてないだろうけど、ね」

 

 

 紫さんは、そう言った。それは切ない、とか悲しい、と言った感情が微塵も感じられない、冷徹な声だ。今は微笑みすら浮かべておらず、怖い位に無表情だ。

 

 

「まあ、そんな事はどうでもいいでしょう。忘れた過去に、意味など無いのだから。……そうでしょう、荒谷江介」

 

 

 突然、紫さんは江介さんに話を振った。しかし、それに答える声は無い。

 

 

「――本題に戻るわ。いいですね」

 

 

 紫さんの顔に、あの微笑みが戻った。しかし、先ほどの会話を経て、私には彼女が安全だとは思えなくなっていた。

 

 

「手短に言うわ。名無しの妖怪さん、貴方にはこれから人里に定住して貰います」

 

 

 ――はっきりと、感想を言おう。

 

 

「意味が分かりません。何故ですか」

 

「そうね……理由を短的に述べるならば……」

 

 

 紫さんは言葉を探すように、何処からか取り出した扇子を宙に漂わせる。

 

 

「貴方の過去の償い、という理由になるわ」

 

 

 過去の――償い。

 

 私には断片すらない過去に対する、身に覚えの無い罪の清算。

 

 

「忘れた過去に、意味など無い……違いました?」

 

 

 私は、記憶に無い罪を償う程に素直では無い。初対面の妖怪に言われたなら尚更だ。

 

 

「……」

 

「私は、少なくとも今の私は貴方に会った事は有りません。初対面の妖怪に、“貴方は罪人です、記憶は無いでしょうが“などと言われて、素直にそうですかとは言えないんですよ」

 

 

 今出せる精一杯の威圧感を出すように、私は目の前の鬱陶しい笑みを浮かべていた妖怪に畳み掛ける。

 

 

「生憎ですが、貴方の要求は聞けません。諦めてくださいな」

 

 

 そう言って、私は眼前の妖怪に笑みを浮かべた。

 

 ――きっと、今の私は最高に妖怪らしいだろう。

 

 

「……貴方の言い分も、納得できるわ。だけれど」

 

 

 妖怪は其処で一度、言葉を切った。何の感情もない目で、此方を見ている。

 

 

「貴方には従って貰うわ。それこそ」

 

 

 ――嫌な、予感がした。

 

 

「力尽くでも、ね」

 

 

 首筋に、冷たい物を感じた。

 

 恐る恐る下に目を動かすと――剣だ。私の首は、いつの間にか一刀の支配下に置かれていた。

 

 

「……幾ら恨んでもいい。今は従ってくれるか?」

 

 

 背後から聞こえたのは、男性の声。江介さんだ。

 

 ――全く、気付かなかった。私の隣で、一言も話さずに座っていた江介さんは、いつの間にか背後に回り、何らかの方法で剣を持ち、私を拘束した。

 

 

「質問が、あります」

 

 

 私は努めて冷静に、紫さんに問うた――つもりだったが、自分でも声が震えているのがわかる。何とも情けない物だ。

 

 

「ええ、何かしら」

 

 

 そして紫さんは、何事も起こっていないかのような自然な態度で、答えた。それだけ見れば、縋り付きたくなるような声音だ。

 

 

「私の、里での生活に、何か条件はありますか?」

 

 

 何気無い行動で、気に食わなかったから首跳ね、なんて御免だ。私は死にたくはない。

 

 

「その質問は、了承と受け取るわ。後は一人で大丈夫だから、藍も江介も、もう持ち場に戻って頂戴」

 

 

 私の首から、刀が外される。後ろを振り向くと、左腰に太刀のようなものを提げた江介さんがいた。紫さんの方から歩いて来た藍さんと襖の前で合流すると、藍さんは軽く御辞儀をして、江介さんは此方を見もせずに、部屋から出て行った。

 

 

「そうねぇ……条件は二つ、よ」

 

 

 紫さんは、その綺麗な二本の指を伸ばした。

 

 私が紫さんの方に向き直るのを確認して、語り始めた。

 

 

「まず、人里での最低限の規則に従ってもらう事。守らなかったら、最悪退治……滅されるわ、霊夢に」

 

「二つ目は、貴方にはこれから、人里の寺子屋に通って貰います」

 

「……寺子屋、ですか」

 

 

 今まで見た事はあっても、行った事はない寺子屋。思い出されるのは、熱心に教鞭を振るう銀髪の教師。

 

 

「……でも、あれは人間用なのでは……?」

 

 

 そこで浮かび上がった、素朴な疑問。あの教室で、人間以外を見た事はない。()()()()()

 

 

「ええ、そうよ。あの寺子屋に入っていいのは、里に住む人間と、慧音だけ――慧音は、先生よ。教育熱心な」

 

「なら、どうするんですか?この妖怪は安全です、とでも言わせる気ですか?」

 

「まさか。慧音が許す筈はないわ」

 

 

 何と言うか、はぐらかされ続けているような感覚だ。話が見えない。

 

 

「では、どうやって……」

 

「まだ分からないのかしら、鈍いわね」

 

 

 考えてみる。

 

 人間しか入れない寺子屋に、妖怪の私が入る方法を。

 

 それも、堅物の教師を納得させて。

 

 

「……まさか、」

 

「言ってみなさい」

 

「妖力が殆ど無い事をいい事に、私を人間に偽装して――」

 

 

 私が其処まで言うと、紫さんの目が、口が、嬉しそうに笑った。

 

 

「当たり。物分りの良い子は好きよ」

 

 

 ――まさか、そんな事が出来るわけが無い。

 

 そう思って考えてみるが、人間と妖怪の相違点などそう多くは考えられない。

 

 体が丈夫で、心が弱くて、力が強くて――妖力がある。それ位だ。人型の妖怪なら尚更だ。

 

 ……割と、現実的だな。

 

 それが私の答えだった。

 

 

「貴方のお引越しは、明朝に始めるわ。特別な荷物があれば、それまでに纏めておく事。基本的な家具類は此方で用意するから、特別使い続けたい物がなければ手ぶらで結構よ」

 

「食糧は、支給して貰えるんですか?」

 

「流石に現物を置いておくわけにもいかないから、十分なお金を毎月支給するわ、その中でやり繰りする事。足りなければ、多少は働いても結構よ」

 

 

 成る程、不自由はさせないようだ。

 

 ……益々、この償いに何の意味があるのか分からなくなって来た。

 

 だが、今聞くべきはそんな大儀な事ではない。もっと目下の、重要で必要な知識だ。

 

 

「あの、一つお願いがあるんですが」

 

「何かしら?」

 

「……その、私はお金を使った事が無いので、使い方が分からないんです」

 

 

 存在は知ってるんですが、と付け加える。人里には良く行っていたので、人はお金を使って物を貰うのは知っていたが、それ以上のことは分からない。

 

 紫さんは、虚を突かれたような顔をして数秒固まった後、小さく溜息を吐いた。

 

 

「……そういえば、そうね。漂泊の妖怪が、金銭の運用法なんて理解してる筈が無いものね……」

 

 

 その後も何かぶつぶつと呟きながら、此方を見てくる紫さんは、何と言うか、怖い。

 

 

「あ、あの……」

 

 

 紫さんの目に、光が戻った。

 

 

「引越しを明晩に変更して、今日のこの後に、人里の一般常識を勉強してもらうわ。そうでもしないと、満足に生活できないでしょうからね」

 

 

 それもそうだ。なんだかんだ言って紫さんは割と面倒見が良いのかもしれない。

 

 

「藍ー……は、今いないんだったわね。取り敢えず、この屋敷の部屋を一つ都合してあげるわ。準備ができるまで、そこで待っていて頂戴」

 

 

 紫さんはそう言って、立ち上がった。そして、入った時とは別の襖を開いた。

 

 

「ほら、こっちに来なさいな。空き部屋探しよ」

 

 

 私は慌てて立ち上がって、紫さんの後について部屋を後にした。

 

 ――結局言いなりになっているけど、案外、悪くないかも。

 

 私は、廊下を進みながら、思わず笑いかけてしまった。

 

 

 紫さんは、通る襖通る襖全てを一度開けて確認しつつ、屋敷を歩く。

 

 後ろから見ている分には結構空き部屋がありそうだが、そうでも無いらしい。

 

 

「うーん……使っても藍に怒られなさそうな部屋、無いかしらねぇ」

 

「あれ、この部屋空き部屋じゃあ無いんですか?」

 

 

 私が開けた部屋には、一見したところ何も無い。正しく空き部屋、だ。

 

 

「ああ、其処は駄目よ。一応、ここら一体の隠匿術の基点だからね」

 

 

 ……そんな重要な事、さらっと話してもいいんだろうか。

 

 確かに改めて見てみれば、薄く、判りにくいが力場があるのが感じられる。

 

 

「そんなあからさまに“結界がここにあります!”なんて設備を置いたら、直ぐに壊されるに決まってる。真に重要な物には鍵をかけるのでは無く、気付かせないのが重要なのよ」

 

 

 そう言いながら、紫さんは襖を閉めた。力場は微塵も感じられず、完全に他の襖と見分けがつかない。

 

 

「さ、そういえば向こうに、何にも使ってない部屋があったのよ」

 

 

 そう言って、紫さんは私の手を引いて歩き出した。

 

 ――頭の中に、一瞬可笑しな風景が写った、気がした。

 

 

 それから少しした後、私は広めの部屋で、紫さんと帰ってきた藍さんと向かい合っていた。

 

 

「さて、これから講義を始めます。宜しいですね?」

 

 

 藍さんが口を開いた。指示棒を手に持ち、板の前に立つ姿は、何処と無く教師を連想させる。

 

 

「よろしくお願いします、藍さん」

 

 

 その前に机と椅子を並べ、座る私は生徒だ。

 

 さしずめ教室、といった雰囲気だが、そうだとすれば藍さんの横でにこやかにしている紫さんは何の立場だろうか。保護者か、もしくは学校長か。

 

 

「今日の講義は、人里での常識と知っておきたいマナー……礼儀の話です。心して聞くように」

 

 

 藍さんは手に持った指示棒で、板に書いてある、“人里での常識”という文字を指した。

 

 

「人里とは、読んで字の如く人間の住む里の事です。其処では、自由気ままに生活する妖怪とは違い、ある程度の規則に則って、人間達が共同生活を送っています」

 

 

 藍さんが、板の“人間”“妖怪”を指し、それぞれを等号否定で結んだ。成る程、分かりやすい。

 

 

「当然、規則に従わない場合は、其れ相応の罰を与えられます。が、逆に考えれば、規則を守っている限りは妖怪という事が露顕しにくく、尚且つ良好な関係を築く事が出来るのです。――何か、質問は?」

 

 

 板には、“規則”と書かれた大きな円の中に、“人間”、その外に“妖怪”と書かれている。

 

 ……大丈夫、まだ理解出来る。

 

 

「ありません、藍さん」

 

「よろしい。では、これから具体的な規則について、学びましょう」

 

 

 いつの間にか、紫さんの姿は無くなっていた。部屋の中には、私と藍さんの二人だけ。

 

 何故だか、少し気分が悪い。

 

 長い夜になりそうな、気がした。

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