それから、どれ位が経っただろうか。気がつけば、私は布団に寝かされていた。
あの後、散々規則を学ばされ、筆記試験を何度も行い、途中からは式の式だと言う猫又の橙ちゃんが登場し、延々と実技を行い、体に動作が染み付く程度の試練があった。
全てが終わった時、確か私はあまりの疲労と緊張の途切れに合わせて、無様に気を失ってしまった気がする。その通りならば、此処でこうして寝ているのも頷ける。
周りを見回してみる。窓からは燦々と日が差し込み、鳥の鳴き声が今が朝だと確信させる。
私が寝ていた布団は、客人用なのだろうか、矢鱈と質の良い羽毛布団だ。これ以上布団の上にいると、二度寝の誘惑に負けてしまいそうだ。立ち上がり、軽く伸びをする。一息つくと、次にやるべき事が自然と頭に浮かんで来た。
私は自分でも意識せずに自然に屈み込むと、見事な手つきで布団を畳み始める。
これからどうしよう、とか、紫さんにお礼を言わなくては、とか考えている内にあれよあれよと布団は畳まれ、寸分の狂いも無い見事な塔が出来上がった。
……藍さんの熱血指導に、まさか此処までの効果があったとは。最早指導では無く洗脳の域に達している気がするがきっと気のせいだ。
私は襖を屈んで、一切の音を立てずに開けると、振り向いて屈み、音が立たないように襖を閉め、渡り廊下を背筋を伸ばして歩き始めた。
――やっていて言うのも何だが、此処まで礼儀正しい少女というのも中々、気味の悪いものだ。
何処へ行くでも無く、何と無く歩いてみる。こうしてみるとそこまで大きい屋敷には見えないが、昨日歩いた距離からすればかなり大きな屋敷になる。不思議な家だ。
どれだけ歩いても、同じ様な景色が続くだけで、何と無く進んで無いのではないかという錯覚すら覚える。
曲がり角から、誰かが曲がってきた。私から見ればかなり遠くの角から姿を現したのは、緑の帽子を被った少女だ。頭から生える獣耳と、腰辺りにある二股に分かれた尻尾。私よりも少し小柄なその少女は、昨日の指導に出てきた橙ちゃんだ。
彼女は此方を視認すると、此方に歩み寄ってくる。しかし、ちょこちょこと向かって歩いてくる様は、何と言うか、非常に可愛い。
「お、おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
何故か緊張しているのか、少しどもりながら挨拶をしてくる。昨日は実技試験に到達する頃には既に極限状態で、正直な話橙ちゃんのことはあまり覚えていない。そういえば居たな、程度だ。
「おはよう、ございます。ええ、とてもいい布団で、熟睡させて頂きました」
駄目だ、いつの間にか口調も改造されていた。敬語がおかしい。
「あ、それはよかったです。朝食の用意ができたので、丁度呼びにきた所なんです」
呼びにきたのなら、ここで私と出会えた事は幸運だろう。何せ私は広い屋敷を当ても無く彷徨っていたのだから。思えば、危うく迷子になる所だった。
「今私が曲がってきた角を曲がって、突き当たりの部屋です。私はこれから紫様を起こさなければいけないので、申し訳無いんですが……」
なんだか、無理をして堅苦しい敬語を使っている印象を受ける。
「分かりました、ご丁寧に有り難うございます」
……人の事は言えない。
指示された通りに進み、和式の屋敷には不似合いな西洋風の扉を開ける。畳敷きの床と卓袱台、という純和風の佇まいの部屋には、たしかパン、と言うのだったか、洋風の朝食が用意されていた。
「ああ、起きたか。すまないね、昨日はやり過ぎてしまったよ」
奥が調理場になっているのか、汁物の入った容器を持った藍さんが歩いてきた。
「いえ、人里で人間として自活して行く為に、必要な事でありますから。藍様は全く、謝罪する必要などございません」
どうにかならないか、この口調。私が私で無いようで、物凄く気分が悪い。
それを聞いて、藍さんは困ったような顔で苦笑した。
「教え込んだ私が言うのも何だが、そこまで大袈裟な敬語を使わなくても良い。むしろ慇懃無礼だ。目上の人に、適切な時に使うように教えた筈だが?」
……確かに言われた、気がする。
「承り……わかりました」
意識すれば、なんとか治せるみたいだ。暫くはこれで行こう。
「さて、あとは紫様と橙が来れば……」
「藍様ぁー!紫様が起きませーん!」
かなり遠くから、橙ちゃんの叫び声が聞こえてくる。
「あー……すまない、ちょっと行ってくる」
藍さんは、全くあの人は……などとぼやきながら、美しい歩き方で部屋から出て行った。残されたのは私と、湯気を立てる朝食だ。
鉄鍋の中に入っていたのは、黄金色に輝く吸い物だ。なんだか不思議な香りがする。
……いくら客人とは言え、勝手に食事に手をつけるのはよくない。
無心だ。無心になるんだ、私。隣にどれだけ美味しそうな料理があったとしても、手をつけない不動心だ。
……一昨日から、まともにご飯を食べていないから、余計に美味しそうに見える。妖怪は二、三日程度絶食しても問題無いが、腹は減る。減るったら減るのだ。
……
…………
………………おなかすいた。
かれこれ十分近く待っているが、一向に来ない。もう食べてもいいんじゃなかろうか。いいだろう。駄目な筈が無い。そうだ、こんな生殺しの状況を打破するには、食べるしか無い。
食べる。これは礼を失する行為では無い、生きる為の――
「――あ、すまない。随分と待たせてしまったようだな」
私がいざ食べようと思った瞬間、後ろから藍さんの声が聞こえてきた。
……まだ食べていない。大丈夫だ。
私は何食わぬ顔で卓袱台の側に座り直す。無意識の内に正座で背筋を伸ばしている。
「藍ったら、起こす時はもう少し丁寧に起こしなさいよ」
「もう巳の一つ(※現在の九時頃)なのに、揺すっても起きない紫様が悪いのです。さ、座ってください」
促されるまま、私の隣に紫さんと橙ちゃんが、向かいに藍さんが座った。四人で卓袱台を囲む形だ。
藍さんと私がほぼ同時に手を合わせる。紫さんと橙ちゃんはそれに習って手を合わせた。
「いただきます」
こんがり黄金色に焼けた四角い食べ物や、玉蜀黍が入った黄色い吸物の様なもの。どれもこれも見た事がない食べ物ばかりだが、そのどれもが非常に美味しい。お腹が空いているから尚更だ。
……それで、今日はこれからどうするのだろうか。紫さんは昨日、引っ越しは明晩……つまり今日の晩だと言った。もうここでやることはないはずなのだが……
「あ、そうそう。今日は挨拶回りと、家財道具のお買い物よ」
私が一番気になっていた事を、的確に教えてくれた。怖い。それに見れば、紫さんだけ既に朝食を平らげている。早い。
ご馳走様、と実に行儀良く食べ終わると、紫さんは立ち上がった。
「藍、後は頼んだわよ。私は出かけてくるから」
そう一方的に通告すると、紫さんは綺麗な着物を翻し、ふわりと何処かへ行ってしまった。
「全く、あの人は……」
藍さんは野菜を食べながら、深くため息をついた。その疲れた顔には、いつもとても苦労しているであろうことが透けて見える。お疲れ様です。
「仕方ない。ご飯を食べ終わったら、私が案内するよ。橙は好きにしてていいからな」
はーい!と元気良く橙ちゃんは返事をする。実に微笑ましい。
「あの、挨拶回りって、何処に行くんですか?」
私は聞いてみる。藍さんは食事の手を止めて、口を開いた。
「そうだね……とりあえず、昨日の内に連絡をとっておいた博麗の巫女。その後は、人里の人かな。まあ、顔は知られているだろうけど…」
ここで、私はふと、素朴な疑問に気付いた。
私は、人里に既に行った事がある。そして、門番さんを始めとした幾人かの人とは知り合いだ。
それなのに、私が今更人間として人里に住むことなどできるのか……?
「私は、人里の人と顔馴染みですけど……どうやって人里に住むんですか?」
それを聞いた藍さんは、少し驚いた風に目を開いた。
「ああ、まだ言って無かったか……」
「……外来人?」
森の中。博麗神社なる場所に向かって歩く私は、先導する藍さんからの言葉を理解できなかった。
初夏の昼前、これから暑くなってくるであろう中、いつも通りの暑そうな厚着をしている藍さんは、一切の汗もかかず、涼しげな顔で歩く。
「ああ。お前は外の世界から来た外来人、という事になる。今までは紫様の御屋敷に匿われていたが、今度から人里に住むことになった……という設定だ。大丈夫か?」
何も大丈夫ではない。そもそも外の世界とか外来人とか、聞き慣れない言葉を羅列されても理解できるはずがない。
私がその旨を伝えると、藍さんは少し呆気に取られたように固まった。
「……そういえば、昨日の段階で教えておかなければいけなかった……知っている訳がないか……」
眉間を指で摘まみながら、とぼとぼと歩くその姿は実に哀愁溢れている。見ているだけでこっちも哀しくなってくる。
「……よし、簡潔に話すぞ。まずは――」
それから藍さんは、この世界--藍さんの言うところの“幻想郷”について説明を始めた。
ここのことを総括して、幻想郷ということ。
幻想郷は、ここの何倍も大きな、所謂“外の世界”から切り取られた場所であること。
そして、幻想郷は紫さんと、いま向かっている博麗神社によって保たれていること。
外の世界から、偶に人や物が迷い込んでくること。その人を、外来人と呼ぶこと。
「まあ、こんなところだ。何か質問は?」
振り返った藍さんに、特に無いという意味を込めて首を振った。
これでようやく合点がいった。私が無知で無力なことをいいことに、外から来たばかりの人間に偽装して人里に送り込もうということか。
……言い方次第でかなりふざけた事をしているように聞こえるが、気にするのは今更だろう。
「さあ、着いたぞ。ここが、博麗神社だ」
照りつける日差しを遮る森の中、私達を出迎えたのは鳥居ではなく、鳥居へと続く石段であった。
博麗神社。
幻想郷の極東に存在する、幻想郷を外の世界と断絶する、通称“博麗大結界”の起点であり、また、妖怪退治を生業とする“博麗の巫女”の住まう場所である。
初夏の昼前、空に輝く太陽が照りつける中、珍しく綺麗に片付けられた境内に、彼女はいた。
全身を紅白に彩る巫女服を身に纏い、頭には大きなリボンを付けた彼女は、名前を「博麗霊夢」という。博麗神社の巫女、由緒正しき“博麗の巫女”だ。
霊夢は、右手に竹箒を持ったまま、目を閉じ、静かに佇んでいた。
そして、ゆっくりと瞼を開くと、ぽつりと呟いた。
「……さすがに、新しいお茶っ葉を出すかぁ……」
昼食前にお茶でも飲もうと、本殿に足を向けた霊夢は、数歩で足を止めた。
「……全く、こんな時間に誰よ……」
これからの楽しみを邪魔される予感に、霊夢は恨みを込めて呟いた。
石段を登り切ると、真っ赤な鳥居が出迎える。立派な本殿は、確かに大きな力を持って、荘厳に佇んでいた。
そして、視界の端。境内の中に一際目立つ紅白の服が、一人。こちらを睨むように、仁王立ちしていた。
「何か用?私は今から忙しいんだけど」
その服、その顔、その声に、私は確かに覚えがあった。
あの日、私を叩き起こした少女。妖怪を殺す少女。
右手に竹箒を持ち、明らかに忙しくなさそうな気怠げな彼女は、こちらの返答を聞く気がないのか、勝手に本殿に向かって歩き出した。
「そういう訳にはいかない。紫様から話は通っている筈だ」
いつの間にか距離を詰めていた藍さんは、彼女の肩を掴んだ。彼女はそれで面倒そうに首だけ振り向いた。
「……ああ、紫が言ってたのはあんたの事か。すっかり忘れてたわ」
それだけ言うと、彼女は手を振りほどいて、すたすたと歩いて行く。
「上がりなさい。外じゃ暑くて堪らないわ。茶菓子位は出すわよ」
相も変わらず無気力な彼女のペースに、私は結局一言も発せなかった。
「……で、話って何よ。大体想像はつくけど」
戸棚から取り出した煎餅を齧りながら、彼女――博麗霊夢さんは言った。
霊夢さんこそ、音に聞く博麗の巫女。妖怪退治の専門家で、結界の管理も兼任している凄い人……らしいのだけれど。
今の私の目の前で、煎餅を冷茶の受けにしている彼女からは、とてもそんな大それた使命を持った人間には見えない。
「ああ。彼女をこれから、人里に住まわせる事になった」
霊夢さんが、盛大にお茶を吹き出した。
「はあ!?あんたら正気?こいつ、どこからどう見ても妖怪じゃない。天才との境界を乗り越えでもしたの?」
さり気なくここにいない妖怪を罵倒しつつ、霊夢さんは再び煎餅を手に取った。
「どんな止むに止まれぬ事情にせよ、そんな事したら幻想郷がどうなるか分かったもんじゃないでしょ。私でも分かることよ」
お茶で濡れた卓袱台を巫女服の袖で拭きながら、霊夢さんは真剣な表情で言った。…ちょっと汚い気がする。
「それは紫様も承知の上だ。だから、彼女は妖怪ではなく、外来人として扱う」
――その言葉に、霊夢さんはぴくりと眉を動かした。
「――あー、つまり、私がその証拠になれってことね。はいはい」
「さすがに話が早い。そういうことだ。これは紫様直々の頼みだ。やってくれるか?」
私は初めの方から話についていけていないので、大人しく出された冷茶を啜っている。薄い。
霊夢さんは軽く溜息をつくと、仕方が無い、とこちらに視線を移した。
「――で、妖怪。あんた、名前は?」
困った。
ここは正直に言った方がいいだろう。後々決めればよいだろう。
「今の所は、無いです」
「ちょっとあんた、私にどうしろっての?」
一瞬で視線を逸らされた。ちょっと悲しい。
「言っとくけど、名付けなんて嫌よ。面倒臭い。そっちで勝手に持ってきたんだから、その位はしておきなさいよ」
「妖怪に迂闊な名前は付けられない。その位は分かるだろう」
霊夢さんは深く、深く溜息をつくと、もはや敵視に似た睨みで此方に向いた。怖い。何時ぞやの荒谷さんと同等か、それ以上だ。いかに彼女の平穏を乱すのが重い罪か、後一歩でこの身に刻まれかねない。
「あー……あんた、何が好き?簡潔に答えて」
軽く放心状態の私にその質問が降りかかり、頭の中に浮かんだ言葉を反射的に答える。
「……風、ですかね……はい」
最近は暑い。木陰に吹くそよ風は何物にも変え難い良さがある。
「風ぇ?随分と抽象的ね……。まあいいわ」
それからすぐ、息継ぎの時間位で、彼女は言い放った。
「じゃあ、あんたの名前は今日から
思考時間は間違いなく秒も無い。あまりに適当にも程がある…が、文句は言えない。私の意思では無いにせよ、押しかけて何やら面倒そうな役割を押し付けている。これで文句でも口にしようものなら物言わぬ亡骸になるまでに何秒かかるだろうか。考えたくもない。
それに、悪くない。ふう。響きも悪くないし、覚えやすい。
しかし、迂闊な名前は付けられないとか言っていた割には、実に乱雑に決まったものだ。迂闊というか雑だ。
「……藍さん、こんな雑でいいんですか?」
隣に座った藍さんに、小声で質問してみる。
「まあ、大丈夫だ。霊夢の“なんとなく”ほど信用できる物も無いからな」
衝撃の回答である。
「おーい、霊夢ー、いるかー?」
外から聞こえてきた声。私は聞いたことがない声だが、霊夢さんには覚えがあるようだ。
「魔理沙か……風、ちょっとついて来なさい」
そう言いながら、霊夢さんは立ち上がる。
「え?でも……」
「これから人里で暮らすんでしょ?あいつと面識持っておいて悪い事は無いわ」
知らない人と話すのに億劫な私の襟を引っ掴み、半強制的に持っていかれた。
霊夢さんの手が私の首に触れた。その瞬間、ひどく大きな
それは、形容しようのない、純粋なる力。私の中にある僅かな妖力など取るに足らないであろう、膨大な力だ。
――なるほど。彼女が妖怪を蹂躙する巫女である訳だ。
藍さんに視線を送ってみるも、こちらを視界に捉えてすらいない。助けてくれる気はなさそうだ。
「あ、忘れてた」
霊夢さんは突然足を止めると、私を放って部屋の戸棚を漁り出した。さっきから私の扱いが酷い。
「あったあった。これ付けておきなさい」
そう言いいながら私に何かを投げた。受け取ったそれは、空いた穴に紐が通った、首飾りのような勾玉だ。これまた霊夢さんのように紅白でめでたい色をしている。
「これは?」
「妖力を遮断する御守り。本当は妖力の有る奴は身に付けちゃいけないんだけど、あんたは殆ど無いから問題無いわ。それ位しとかないと、感のいい奴にバレる」
なるほど、私の中にある妖力を遮断して、探知できないようにする御守りのようだ。これは有難い。貰っておこう。
「さ、行くわよ」
私が御守りを首に掛けたのを見計らって、霊夢さんは本殿の外に出た。私もそれを追って外に出る。何故だか久々に太陽の光を浴びた気がして、少し清々しい。
「遅いぞ霊夢。……ん?誰だ?」
外で待っていたのは、一人の魔女だった。白黒の割烹着らしき服に、三角のとんがり帽子。手に持った箒も合わせて、まさに模範的な魔女装束だ。
しかし、彼女は想像とは違い、その私を見る目は好奇心に輝き、魔女は魔女でも魔女っ子と言ったほうが合致する。
「私は、ふう、と言います。よろしくお願いします」
散々教え込まれた挨拶で、綺麗にお辞儀をした。
「……風?変わった名前だな。私は霧雨魔理沙。よろしくな」
そう言って、魔理沙さんは手を差し出してきた。私もそれに答えて、握手をした。
……何かを感じた。妖怪ではないけれど、それに似た不思議な力。だけど、とても弱い。霊夢さんのそれとは違うけれど、比べものにならない。
「――どうしたんだ?」
手を握ってから固まった私を見て、魔理沙さんが訝しげに言った。いけない、うっかりしていた。
「ああ、いえ。何でもないんです、はい」
慌てて手を離す。魔理沙さんは頭の上に疑問符を浮かべているが、霊夢さんが口を挟んだ。
「風は、この間
矢継ぎ早にそれだけ言うと、示し合わせたように、いつの間にか外に出ていた藍さんと共に、空に飛び立って行った。
「おい、ちょっと!……はあ、都合よく押し付けられたか……」
魔理沙さんの溜息は、私には痛い。
――数日前。
「霊夢、頼みがあるの」
いらない時ほど現れる、性格の悪い隙間妖怪は、博麗の巫女にそう言った。
「なによいきなり。今から買い物に行こうと思ってたんだけど」
神社の本殿で、どう見てもだらけきっていた博麗霊夢は、気だるそうに答えた。
「あと何日か後に、藍が神社に妖怪を連れて来るわ。貴方はどうせまともに応対しないでしょうから、お願いしにきたのよ」
いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべて、八雲紫は言った。現れたといっても、そこにいるわけではなく、彼女の能力――境界を操る程度の能力によって、空間同士の境界を捻じ曲げ、紫が“スキマ”と呼ぶ、いわゆる亜空間を通して面と向かっているのだ。
「……釘を刺しに来たってわけね。それだけ面倒事なの?」
博麗霊夢は勘がいい。能力でも何でもなく、ただ超人的な超感覚じみた勘がある。
「まあ、面倒事といえば、そうね。でもこれは、かつての博麗の巫女の遺産。我慢して頂戴」
八雲紫はそれだけ言うと、返答を待たずにスキマに消えて行った。
残ったものは、博麗霊夢の溜息だけであった。
「まあ、私も普段は魔法の森に住んでるから、人里にいつもいる訳じゃないっていうか、あんまりいたくないっていうか……」
なにやらぼやきながら、魔理沙さんは人里を目指して飛んでいた。
なんと魔理沙さんが持っていた竹箒は、空飛ぶ魔法の箒であった。私はそれに乗せてもらい、今は空を飛んでいた。
初めて体験する空は、なんとも良いものであった。初夏の日差しの中、気持ちの良い風を体に受けて飛ぶ事は、なるほど皆して飛ぶわけだ、と納得できるほどのものだった。
ただ、箒だからか、座り心地はあまりよくない。仕方ないが。
「まあ、それでもお前よりは良く知ってる。今日は一日、案内してやるよ」
面倒そうなその言葉とは裏腹に、声音はとても楽しそうだ。そんな魔理沙さんが可笑しくて、思わず笑みが零れてしまった。
「なんだよ、いきなり笑うなよ」
「ごめんなさい、なんかおかしくって」
そういって笑う私に、魔理沙さんはぼそりと呟いた。
「変なヤツだな。妖怪みたいだ」
まさか、そのとおりです、とは言えない。
そんな本音を隠すように、私は笑った。
そうしているうちに、箒は門の前に着陸した。
「よっと。ここが人里だな」
そこは、私にとってはもはや見慣れた場所だった。いつもここから人里に入っていた。
今日も今日とて、いつもの門番さんが二人、門の前に構えていた。
彼らは私と魔理沙さんを視界に収めると、何故だか警戒した様子で、門の前に立ち塞がった。
「何者だ。妖怪の類は通す事はできん」
冷たい声。
いつも私を迎え入れてくれた人とは、まるで別人だ。
「私は霧雨魔理沙だ。人間だよ」
しかし、魔理沙さんは怯むどころか意にも介さず、門のほうに歩いていく。
「んで、こいつは外来人だ。博麗の巫女様にお世話を仰せつかってる。責任者あたりに通して貰えないか?」
親指で私を指差しながら、魔理沙さんは門番さんの目の前に立った。なんというか男らしい。
「博麗の巫女? あの人なら、今さっき人里に入っていった所だぞ?」
……え?
確かに霊夢さんは、私たちよりも先に神社を飛び立った。でも、飛んでいった方角は人里とは別の方向だ。
それが、まっすぐ人里に向かった私たちよりも早く?
「……まあ、確かに何か焦っているような、変な様子だったが……」
そういって、門番さんは微妙に不思議そうな顔をした。
見れば、魔理沙さんも不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。どうやら知っていたわけではないようだ。
何か知ってるか? と言いたそうな表情だったので、私は首を横に振った。
「はぁ……霊夢のことは分からん、あいつの考えは昔っから分からないな」
魔理沙さんはやれやれ、と首を振った。確かに霊夢さんは掴み所が無いというか、下手な妖怪より妖怪っぽいというか……。
妖怪を退治する人が一番妖怪らしいという。なんとも矛盾を抱えている。
「おい、何事だ?」
門の内側から、女の人の声が聞こえた。それと同時に、内側から門が開かれていく。
そこに立っていたのは、一人の大人な女性だった。
端正な顔立ちに、流れるような銀の髪。いつぞや見た時と同じく、少し白粉で汚れている。
慧音さん。紫さんから名前を聞いた、人里で唯一
「よう。あんたが責任者か?」
魔理沙さんが、相変わらずの調子で言った。それを聞き、魔理沙さんを見た慧音さんは、少し可笑しな顔をした。不機嫌なような、懐かしむような、そんな顔だ。
「ああ。私は上白沢慧音、ここで教師をしている者だ」
「そうか。私は霧雨魔理沙、人間だよ」
そして、私に目で合図をした。
「あ、私は風です。外来人、と呼ばれています」
挨拶をして、しっかりお辞儀をする。
顔を上げれば、既に慧音さんは歩き出していた。……魔理沙さんも慧音さんも、お辞儀どころか会釈もしない。聞いていた常識とはだいぶ違うようだ。
「話は通ってるよ、外来人さん。幻想郷へようこそ」
慧音さんは、私を人里に招きいれた――。
……で。
「なんで荒谷さんがここにいるんですか?」
人里にある、寺子屋の中。
今日は既に終わったらしく、子供の声も聞こえない。十数人が入る教室で、何故か荒谷さんがいつもの黒い服で椅子に座っていた。
魔理沙さんは買出しがどうこうと言って、里の中に消えていってしまった。きっと慧音さんから逃げた。
「何故も何も、俺が話を通したからだ。そこの堅物にな」
いかにも嫌そうな声音で、首を振って慧音さんを指した。
なるほど。今朝から顔が見えなかったのは、そういうことだったのか。
私が慧音さんを見ると、彼女もまるで苦虫を噛み潰したような顔をして、睨みに近い鋭さで荒谷さんを見ていた。
「用は済んだだろう。さっさと帰れ」
私に言うときとはまるで異なる、恫喝と言われても否定できない強さだ。
気まずい。
「言われなくても」
荒谷さんは立ち上がり、上着から煙草の箱を取り出し――慧音さんに取り上げられた。
「ここは子供の学び舎だ。常識は弁えてもらおうか」
確かな舌打ちの音と共に、荒谷さんは教室から出て行った。
「……全く。どうして賢者の使いにはまともな奴がいないんだ」
手に持った煙草を握り潰す勢いで圧しながら、慧音さんは忌々しげに呟いた。
紫さんが伝言係として任命する人やそれ以外は、
「まあ、いい。風……だったかな」
気を取り直して、慧音さんは椅子に座った。私もそれに習って向かいに座った。
「はい。それ以外のことは、全然覚えてないんですが……」
霊夢さん曰く、私は記憶喪失らしい。ならば、そういうことにしておいたほうがいいだろう。
私の言葉に、慧音さんは少し驚いたように、
「記憶が無いのか?それは……」
と、少しばつの悪そうな顔をした。
私としても、一応騙している事になってしまうので、何とも居心地が悪い。
「まあ、暮らしてるうちに思い出すだろう。あまり気にするな。それよりも、だ」
一息おいて、綺麗な座り姿勢を直して、慧音さんは続けた。
「改めて、私は上白沢慧音、この寺子屋の教師だ。よろしく頼む」
軽く会釈。
それにつられて、私も会釈をした。
「私は――」
私も自己紹介をしようと思ったが、慧音さんに止められた。
「いや、人里の前で随分丁寧に挨拶してくれたから、大丈夫だ」
少しの笑みが浮かんでいるのを見て、私も少し笑った。
そうですよね……、と、小さく呟いたが、聞こえてはいないようだ。
「早速だけど、明日から寺子屋に通ってもらうよ。それはいいか?」
私は頷く。
「よろしい。これから、よろしく頼むぞ」
こうして、私の人里暮らしが始まった。