この話を書いているときにさとりさんの催眠音声とかあるのかと検索してみたらざくざく出てきて微妙な気持ちになった。
過去。過ぎ去った時間。それは各々の記憶の中にだけ存在する夢幻。本当にあったのか、それとも作られたのか。自分が都合よく捻じ曲げたものなのか。それは誰にも分からない。あくまでも過去は主観でしか存在しない。つまり、過去の記憶を失った存在にとっては、過ぎて行った時間に意味などない。誰もそれが存在していたことを証明することはできないし、されたところでそれが正しいのかを証明することなどできない。過去はいくらでも改変可能であり、捏造可能である。だからこそ思い出は尊くて素晴らしいものだ、と認識されているのだろう。生憎私は過去の記憶というものはほとんど持ち合わせていないので、昔の素晴らしさを説かれても微塵も理解できない。地上で知り合った妖怪たちはそれぞれの歴史を持っていて、それがいかに素晴らしいかを力説することもある。そして口を揃えてこう言うのだ。
「今までの積み重ねがあるから、私はここにいる」
と。
ならば、その積み重ねとやらを完全に忘れ去り消し去った存在は、どうやってここにいるのだろうか。
その問いに答えられる者はいないだろう。
いるのなら、ぜひとも教えてほしい。
どうして私は、
その答えは、私の記憶の中にある。それは、私が誰よりも分かっていることだ。過去を知り、記憶を知れば、
だから、私は頷いた。さとりさんのその言葉に。たとえ蛇の甘言だとしても、蛇の道を知るには蛇に頼るのが最善策だ。
「……そうですか。迷いはない、と」
正面に座るさとりさんは、そう言って静かに手に持った珈琲を置いた。そうしてゆっくりと瞬き、私をしっかりと見据えた。彼女の脇に浮くもう一つの目玉も、半目ながらこちらを見ている。同時に三つだけの目に見られるというのもなかなか無い経験だ。嬉しくは無いが。
「いいでしょう。では、簡単な催眠術を使って貴方の表層意識に過去の記憶を持ってきます。……そんなに身構える必要はありませんよ、貴方はただ、静かに指示に従っていればいいのですから」
難しい言葉に身構えたが、別に私に難しいことをさせる訳では無いらしい。それならひとまず安心だ。しかし、それがどういう原理なのかは一応知っておきたい。理解できるかどうかと知らなくていいかどうかは違うはずだ。私は何とか一言ぐらい話そうと口を開きかけるが、しかしさとりさんの読心と思考速度は私の予想をはるかに上回っている。
「私は心を読む覚妖怪ですが、
私が口を開く前に、彼女はそう言った。私は出鼻を挫かれて、大人しく座っているしかできなかった。珈琲を飲もうかと一瞬考えたが、あれは苦かった。よくもまあ彼女は顔色一つ変えずあの液体を口にできるものだ。尊敬すら覚える。
それにしても、“筈”って……。曖昧な言葉に少しだけ不安を覚える。元々が元々なお陰で、失敗したときに私の思い出したくない色々が思い出されてしまうかもしれないのか。例えばこの間の夜襲の事とか……。流石にそれは嫌だが、今更四の五の言ってはいられないだろう。今はさとりさんの言いなりになるしか記憶を取り戻す方法は無いのだから。
「ご理解頂けて何よりです。では、貴方は私の第三の目……ああ、これです、これ。この瞳に意識を集中してください。それだけで結構です」
隣に浮かぶ瞳を指して、さとりさんはそう言った。それに合わせて瞳はふわふわと動き、さとりさんの目の前に来た。私とさとりさんのちょうど間に入るように瞳は浮く。瞳を集中して見ると、ちょうど視界の端にさとりさんが映る。彼女は私がここに来てからというものの、あまり大きく表情を動かすことなくいる。顔が強張らないのだろうか。笑顔とかぎこちなさそうだ。私にとっては常に無表情な彼女が怖くもあるが、それ以上に浮かぶ瞳がこちらを見つめてくることの方が不気味である。さとりさんはかなり整った顔をしている美人さんであるから長いこと見ていても苦痛ではないが、顔の良し悪しとかそういう概念が存在しないであろう、空飛ぶ瞳そのものに見られ続けるのはあまりいい気分ではない。
「……さあ、始めますよ。力を抜いて、深呼吸してください。そして、この瞳をよく見てください。そう、集中して……」
少しだけむすっとした顔で、さとりさんは指示した。そういえばこの瞳も彼女の一部なのだろう。それならば貶されていい思いはしないだろう。私は心の中で謝りながら、瞳に意識を集中する。
見つめ返してくる瞳には、座った私の上半身が幽かに反射して映っている。その瞳の中の私と目が合う。合わせ鏡のように私は私を見る。周りの音が段々と薄らいでいく。瞳の中の私が、ふと嗤った――気がした。そして、瞳がおもむろに光った。私の視界が真っ白になり、一瞬で意識ごと持っていかれるような錯覚に陥る。視界が消える。まるで底が抜けたように浮遊感が襲う。落ちていく。どこに?分からない。風が頬をなぞる。珈琲の香りはもう匂わない。落ちる。意識がぼんやりとしてくる。ここはどこだろう。真っ白な世界を落ちていく。私はその中で、もう一人の私をはっきりと見た。その少女はずっと下の方にいて、ずっと遠くにいる。それなのに私は、その少女が“彼女”であると、はっきりと認識することが出来た。
そんな私の、風切り音だけが響く耳に、はっきりと、少女の声が聞こえた。それは数瞬前まで対面していた少女の声。どこか気だるげで、しかし鋭くもある彼女の、はっきりとした声が聞こえた。
「『想起』――」
それが、私の聞いた最後の言葉だった。
――――――
地底において酒場とは、それすなわち宴会場である。そして地底において宴会とは、鬼とその周りの妖怪たちが、こぞって参加する年中行事である。地上と地底では、その認識には大きく乖離がある。地上では、あくまで“なにかあったから”集って酒を飲むのが宴会である。対して地底では、“特に何もなくても”酒を飲み暴れる。それが宴会である。まさに言葉通りの年中行事であり、暇さえあれば酒盛りをすることは地底の鬼たちの中ではもはや常識になっている。それは今日とて例外ではない。地底の通りの酒場では、多くの鬼たちが集い、周囲の迷惑など酒の肴よりも気にかける事無く騒いでいた。もっとも、今更それに文句を言う妖怪もいないので問題は無い。
江介はその酒場に近づいてみるが、あまりの熱気と酒臭さと圧力に、少しだけたじろいで下がった。何となく、近づいたら巻き込まれた挙句面倒なことになりそうだという直感を覚えた。博麗の巫女でもないのだからそうそう当たるものではないが、人間、悪い予感は得てして当たるものだ。しかし、そんなことで怖気づいている訳にもいかない。そんなちっぽけな恐怖心よりも、目的を遂行すべしという死に物狂いの覚悟の方が何倍も大きい。直ぐにその心を殺し、彼は鬼だらけの酒場に足を踏み入れた。
まず最初に鼻に付いたのはやはり酒の臭いだった。地上でも事ある毎に宴会を催す為に酒臭さにはそれなりに慣れているのだが、しかし地底のそれは地上のそれを何倍にも濃縮したような、もはや臭いがどうこうとか雰囲気がというよりかは原液そのものをぶっ掛けられたような感覚を覚える程であり、入ったばかり、未だ一口も入れていないというのに既に吐きそうになった。それを何とか抑えつつ、表情だけはとりあえず平静を保った。こんなところに長居していたら、それこそ健康体であったとしても飲まずに急性中毒症状を発症しそうであった。なので、早々に目的を達成するためにこの鬼の集いの総締めを探す。
軽く見回す。既に酔いつぶれ倒れた鬼、何故か全身に怪我を負って気絶した鬼、追加注文する鬼……。そんな中に、一際鬼たちが集っている一角がある。五月蝿い。鼓膜を破る気があるとしか思えない下卑た笑い声。そして怒鳴り声。こんなものが日常風景なら、それこそ死んでも住みたくはないと彼は思った。鬼をかき分けてその中心を見る。座敷の部屋の中で、彼女は一際大きな盃を片手に酒を飲んでいた。
「こんなんじゃ足りないよ、もっと持ってきな!」
おおよそ一升かそこらは入りそうな盃の中身を一気飲みし、その女は大声で言った。隣には飲み比べでもしているのか頑張って飲む鬼がいる。鬼が故にかなりの量を飲んだのであろう、空き瓶がかなりの数転がっているが、向かいに胡坐で座る女の方を見るとそれでも悲しいほどに少ない。それだけ女が圧倒的であり、周りの観客の声援もその殆どが女に向かっている。さすが勇儀さんだの四天王がどうたらだの、五月蝿すぎて聞こえないがそんなようなことを騒音として発していた。おそらく、当たりだ。あれが、地底に住まう鬼の四天王の一角なのだろう。額に生えた、星の模様が入った立派な一本の赤い角。体操着のような服を着た女は、鬼に紛れて棒立ちしている彼に目を付けた。全身黒ずくめの姿を上から下まで見て、そして声をかけた。やたら大きな声で。
「んー?見ない顔だな。誰だお前は?」
女のそれに反応して、鬼たちは一斉に彼を見る。周りの鬼たちとは一回り背の低い彼は、臆することなく前に出た。そうして、女と対面した。
「荒谷江介、元人間だ。鬼に用事があって来たんだが、いいか?」
「用事?なんだい、それは」
「人……いや、妖怪探しに助力してもらいたくて来た。噂の妖怪を知らないか?」
それから、噂の妖怪の容姿を事細かに伝える彼の前で、女はぽかんと口を開けていた。いきなり出てきた見知らぬ自称元人間が、鬼の大将に堂々と頼みごとをしてきたのだ。周りの鬼たちもどう反応していいやら、困惑が走っていた。
「――という感じだ。知らないか?」
「……あのなあ、なんで私たちが見ず知らずのお前に協力してやらなきゃならないんだ?それも人間に」
それを皮切りに、どっと笑いが巻き起こった。突然現れた命知らずの男に、鬼たちが笑ったのだ。度胸があるな、とか、馬鹿じゃないのか、とか、こういう命知らずは嫌いじゃない、だとか。少なくともまともに話を聞こうと考える鬼はいない。目の前の女を含めて。
「俺はその妖怪に、重要な用がある。旧都にいるのは分かっているんだが、そのどこにいるのかが分からない。鬼ほど旧都に詳しい奴らはいないだろうから、こうして頼みに来たんだ」
「鬼が素直に人間の頼みを聞くとでも?」
「まさか。まあ、大体――“伊吹萃香に聞いてた通りだな”」
「――!」
その名前を出した瞬間、女の顔が変わった。一部の鬼も、一瞬で固まった。ざわざわと小さな騒ぎが起こる。それほどまでの大きな名前なのだ。
「あんた、萃香を知ってるのかい?」
「地上で少しな。鬼に会ったら名前を出せば面倒じゃない、とも言っていたな、確か」
「……へぇ。萃香が名前を出すのを許した人間、ねぇ」
運ばれてきた酒の瓶の中身を盃に空けながら、女は獰猛な笑みを浮かべた。それで彼は、ああ、やはりそういう展開になるのかと辟易した。どこも鬼という種族は変わらない。面白そうな奴を見つければ、とりあえず闘って試す。単純ながら、彼はあまりそういう実力行使は好きではなかった。
「この私が直々に闘って、その言葉が真実かどうか、確かめてやる。異論は無いな?」
「俺が勝ったら、話を聞いてもらおう。異論は無い」
「なら私が勝ったら――その命は、無いと思った方がいい」
鬼は、嘘が嫌いな種族である。全ての存在に対して、正直を求める。それは目の前の女とて例外ではない。例えば彼の出した名前が完全な嘘っぱちだった場合、女にとっては大事な親友の名前を騙る嘘吐きという、これ以上ないほどの鬼への侮辱的な存在と認識される。それは、まさしく“生かしてはおけない”。
「まあ、でもここじゃ場所が悪い。こっちだよ」
並の人間なら間違いなく、妖怪でも下手をすれば潰れるどころか体が拒絶するだろう量の酒を飲んだであろうにもかかわらず、女は一切ふらついたり頬を赤らめたりする事無く、しっかりとした足取りで立ち上がり、店を出る。集まっていた鬼たちは彼女のために道を開ける。人波が綺麗に分かれていく様は圧巻ではあるが、彼にとってはまあ見たことのある光景なので大して動じる訳でもなく、黙って女の後について行く。
店を出て、道を通る。そうしてしばらく後に、彼女は開けた空き地に到着した。
「ここなら、多少暴れても問題ない。おーい、持ってきてるよな?」
鬼の衆に呼びかけると、待ってましたと言わんばかりに酒瓶が飛んでくる。それを何の事も無く受け取ると、女は自前の盃に酒を半分ほど注いだ。
「……何のつもりだ?酒盛りをしに来たわけじゃないんだが」
「あんたが萃香の認める人間かどうかを見るには、こいつで十分って事だ。全力で闘いたいわけじゃなさそうだしね。なあに、手は抜かないよ」
瓶に残った酒を一気飲みして、女は言った。彼は帯刀している大太刀を抜刀した。
「
「……なるほど。つまり
「人探し中なんだろ?大怪我するかもしれないが、相応の実力があればあんたは大した苦労も無しに鬼の協力を得られるわけだ、悪い話じゃないだろう?」
周囲では観戦者が大いに盛り上がり、対面の女の声も聞き取りづらい。賑やかな声援は殆どが目の前の女に向けられたもので、それだけで彼女が地底で絶大な信頼を得ていることが分かる。
「始める前に、一つ。あんたの口から、名前を聞きたい」
「おおっと、こりゃ失礼。まだ名乗ってなかったね」
女は息を吸い込む。それだけで、あれだけ騒ぎ立てていた野次馬たちが一斉に静かになった。それだけの威圧感が、彼女から発せられていた。
「私は――鬼の四天王が一人、星熊勇儀!さあ、かかってきな人間!」
「……ふむ、なるほど。ああ、彼女を運んでおいてください。ええ、多少刺激を加えても目は覚めないでしょうから大丈夫です。放り投げておいてください。それと、旧都の方が騒がしいので、少し見て来てくれませんか?」