ちなみに一万字オーバー。無駄に長い。
幻想郷。それはとある山奥に存在する、魑魅魍魎が集まる土地。誰が決めたわけでもない。たまたま妖怪たちがその辺りに集まった事で人間たちは寄り付かなくなり、結果として妖怪の溜まり場となった場所である。そこには数多くの妖怪が住まい、僅かだが妖怪退治を生き甲斐とする人間も住んでいる。縄張り争いや大き目の諍いも起こるが、基本的には平和で、騒々しく賑やかな場所であった。
“彼女”はそこに住んでいた。縄張りを主張するわけでもなく、荒事が得意なわけでもない。他の妖怪たちと程ほどに交流しつつ、しかし誰かと過度に馴れ合う事も無く。気が向いたときに人間にちょっかいをかけ、いつもは自然の恵みに感謝をしながら生きる。趣味は散歩、嫌いな事は厄介事と肉体言語。そんな“彼女”は今日も今日とて、日課の散歩をしていた。
“彼女”には名前は無かった。名前が必要だと感じたことも無かった。“彼女”はその能力故に、“噂の妖怪”と呼ばれていた。“彼女”にとっては、それで十分だった。名前を呼び合い、お互いを確かめ合い、自己を確立する――そういう人間的な営みは、“彼女”には無縁ではなかったが、必要はなかった。名乗る為の名前は不要だった。やがて“彼女”は、自身の事を“名も無き噂の妖怪”と自称するようになった。それで不便は無かった。
自然の中を、“彼女”は歩く。目に鮮やかな夏の森の中は、多くの妖精が飛び交い、賑やかだ。たまに聞こえてくる雄たけびは力ある妖怪の叫びか、妖怪化しかかっている獣か。本当に強い妖怪は不用意に力を見せようとはしない。戦う事が面倒だという妖怪もいるが、大抵は戦う事に意義を見出せないからだ。だからああして自身の強さを鼓舞する妖怪は、大抵そこまで強くもない。調子付いて喧嘩を売り、強者に殺される事など日常茶飯事だ。“彼女”はそこまで力は無いが、賢さが有った。だから強い妖怪には嫌われない程度に振る舞い、面倒な存在には近寄らない。それが“彼女”の処世術だった。能力ゆえに利用される事も多いが、それで気に入ってもらえれば自分が窮地になったときに助けてもらえる事もある。強くは無いが、力に媚びず淡白で、自分の弱さを弁えている。そんな“彼女”はたまに大妖怪に気に入られる。例えば、いま“彼女”の目の前に現れた大妖怪候補の少女のような変わり者に。
「ごきげんよう。壮健そうでなによりですわ」
踏み出そうとした足を少し下げる。“彼女”が歩いていると、目の前の空間が突如として裂けた。それは“彼女”はよく知っていたので、またか、と溜め息を吐いた。少し前に出会った少女は、強力な力を持ち、長い時を生きた大妖怪にも物怖じしない豪胆さと、妖怪たちを丸め込み味方に付ける狡猾さ、そして弱小妖怪にも気を配り、玉を見つけ出す慧眼を兼ね備えた妖怪。次期の妖怪の賢者と目される、新進気鋭の大妖怪だ。本来は“彼女”と対等に話す事など無いであろう存在なのだが、少し前に“彼女”が死に掛けたところを助けてもらって以来、“彼女”にとっては“何故か”目を掛けられている。
「……ああ、紫さん。貴方も機嫌がよさそうで」
目の前の少女には、“
「そうね、いい事があれば気分も良くなるものでしょう」
そう言ってにこにこしている紫に、“彼女”は少しばかりの苛立ちを覚えた。厄介ごとを持ち運ぶ存在でしかない“彼女”の事は嫌いではないが、盲目に信奉するほど好いてもいない。しかし紫が強大な力を持つが故に逆らうという選択肢が無い。そんな腹芸は何枚も上手な紫に通じていないことは百も承知であるが、それでも“彼女”は面従腹背の態度を貫く。そういうところを紫が好んでいる事など露にも知らない。
「そう、それはよかったですね」
あくまで興味がなさそうに、“彼女”は言った。その裏の真意を汲み取った紫は、薄く笑って口を開く。
「天狗の長と話がついたの。もう数ヶ月したら、私たちで月に攻め込む事になったのよ」
「……え?」
「でも、それまでにできるだけ多くの妖怪を集めるように言われちゃって……。私は人望が無いからつらいのよ」
突然の話に、“彼女”は頭がついていかない。前々からおかしな妖怪だとは思っていたのだが、ここまでおかしいとは思ってもいなかったのだ。月に攻め込むなど。月はそもそも空に浮いた物であって、あそこに侵攻すべき存在が住んでいるとは思えない。“彼女”は真意を測りかねていた。何かの暗喩か、それとも気が触れたか。言葉通りの意味だとは到底思えなかった。
「月に……?」
「そう、月に。月には昔にこの地上に住んでいた人間が住んでいるのよ。私も又聞きだけど、一回見てみたら本当だったの」
実に嬉しそうに紫は言った。
見てみた、という言葉に“彼女”は反応した。確かに“彼女”が聞かされた程度での紫の能力ならばできそうであるものの、ちょっと隣の庭を覗いてみたとかそういう気軽さで空に浮かぶ月の様子を斥候できるものなのか。にわかには信じがたかったが、平然と不可能を可能にする紫の事だから本当なのだろうと“彼女”は諦めた。
「それで、貴方に頼み事があるのだけれど……」
「拒否権は?」
「あるわよもちろん。私はそんな非情になった覚えは無いわ」
紫はそう言うが、今まで何回かその口車に乗せられた“彼女”は全く信じられなかった。紫としては面倒がないのでさっさと頷いてくれると嬉しいが、しかし無理矢理言う事を聞かせるのは本意ではない。そういうところが甘いと良く言われるのだが、紫自身はそれを美徳だと考えていた。どんな妖怪にもそれ自身の考えがあり信念がある。それを捻じ曲げるのは悪だと、やってはいけない事だと規定している。
「そうですか。なら、聞くだけ聞きます」
「簡単な話なのだけど。貴方の能力で、妖怪たちに話を広めて欲しいのよ」
“彼女”は、“噂を操る程度の能力”を持っていた。人間や妖怪の間に流れる噂を作り出したり、火消しをしたり。応用範囲も狭く戦闘にも使えないが、その能力故に人間と関わらずとも心の恐れを食らうことができる。荒事が苦手で、人間の陰陽師にも簡単に負けてしまうだろう“彼女”が、ゆっくりとはいえ確実に力を増し、平穏に生活できているのは噂の力のお陰だ。
紫は表には出さないが、その力を大きく評価していた。まともな通信手段の存在しない幻想郷において、情報操作のただ一点では“彼女”の右に出るものはいない。力ある妖怪たちは情報を制御するという事に然程重きを置いていないが、生まれゆえの
「また私の力ですか。まあ、いいですけど」
面倒そうな顔で、“彼女”は言った。“彼女”自身の能力しか当てにされていないことを分かってはいたが、しかしいい気分にはならないものだ。その答えに紫はありがとう、と感謝をした。“彼女”への感謝なのか、“彼女”の能力への感謝なのか。それは定かではない。“彼女”は素直に受け取れなかった。紫はそんなつもりなどなく、“彼女”そのものに感謝を示したのだが、勝手に疑心暗鬼に陥っていた“彼女”の事を可愛く思ってもいた。
「いやねえ、感謝は素直に受け取りなさい。そんなむくれた顔しないで」
薄い笑顔のまま、紫はどこからか取り出した扇子でそっぽを向いた“彼女”の頬をつっついた。それがなんとも恥ずかしくて、“彼女”は薄く頬を染めたまま迷惑そうに手で振り払うが、それがなんともいじらしく見えて紫はまた笑った。
「もう……私は紫の玩具じゃないですよ」
「こんな可愛い子が玩具なわけないじゃない。そうだ、貴方、名前とか付けないのかしら?」
名前。まただ、と“彼女”は気付かれないようにため息を吐いた。“彼女”自身としては名前など必要ないという考えであったが、度々紫から名前の事に関して話を切り出されていた。紫としては、“彼女”は名無しの弱小妖怪として置いておくには惜しい妖怪であった。確かに戦闘能力は低い。しかし、“彼女”の能力はそもそも戦闘用ではない。やがて紫が大妖怪、賢者として幻想郷の支配階級になった時には、“彼女”を右腕、懐刀として扱う事も吝かではなかった。紫は情報という力を非常に重視していたからこそである。
「またその話ですか……。私は名前はいりません。あった所で無用の長物です」
「鶏鳴狗盗という言葉もあるわ。無用でも長物である以上、何かの役に立つかもしれないじゃない」
紫はそう言うが、やはり“彼女”は乗り気ではないようである。どうしてそこまで名前に拒絶反応を覚えるのか紫は不思議でならなかったが、しかしそれを聞き出すことは“彼女”に対してあまりに図々しいと考えて、聞けずにいた。
「そんな機会は金輪際無いですよ。それで、私はどんな噂を広めればいいんですか?」
「そう、つれないわね。噂は簡単なものでいいわ。そうねぇ……」
扇子で口元を隠し、紫は思案顔になった。しかし、その顔は物を考えているというよりは何かを思い出そうとしているようであった。“彼女”はその顔を見て、ああ、またよからぬ事を考えているのだな、と感じた。昔から紫は、
「“賢者が月に攻め込む準備をしてる、八雲紫が主犯格”ってくらいでいいわ。特に後者を重点的にね」
「……ああ、そういう事ですか。まあそれくらい、手数料代わりにしてもいいんじゃないですか、たぶん」
紫の言葉に、その意味を読み取った“彼女”は、少し意地悪く笑ってそう言った。それで紫も少し笑って、そのつもりよ、と言った。
主犯格は八雲紫である。それは事実である。月への旅路を用意するのは紫であるし、そもそもの月への侵攻を思いついたのも紫である。だが、段取りを決めたのは紫ではないし、その為の戦力の大部分を集めたのも紫ではない。しかし、噂を広めるのは紫の右腕である“彼女”だ。その内容は“彼女”の裁量次第であり、そしてそれは命じる紫の裁量である。成功すれば幻想郷どころか全妖怪の間でも語り継がれる程の偉業になるであろう月への侵攻。その第一の功労者となれれば、それは幻想郷の代表となっても誰も文句を言えないであろう権威を手に入れることができる。紫はその名声を狙っていた。本来はあまり名声や権威に興味が無い紫であったが、しかし興味本位で提案した月への侵攻が現実味を帯びてきた今、貰える物は全て手に入れなければ気が済まなくなっていた。最低限の行動をしたいが為に手に入れてきた実績や立場が、紫にさらに上を目指せと唆していた。妖怪の上に立つという事実が、紫を確実に陶酔させていた。しかし、紫は自身の事に関しては絶望的なまでに鈍かった。自分が妖怪を下す事に快感を覚えるようになっている事も、立場を上げる事しか頭になくなっている事も、気付かない。
「宣伝を私に任せたのだから、これくらいは覚悟してるでしょう。くれぐれもよろしくね」
紫はそれだけ言って、自身の能力――境界を操る程度の能力によって生み出した境界のスキマにその体を滑り込ませた。傍から見れば、何も無い空間に突如現れた亀裂の中に吸い込まれるように消えた。“彼女”は特に驚くことも無く、それを見送った。紫はいつも突然現れては、突然いなくなる、初めのほうはそれに振り回されたものだが、今ではもう慣れたものだ。“彼女”はそんな勝手な紫に、少しだけ笑った。出会ったときから“彼女”は変わらない。物好きで偏屈なくせに妙に優しくて、それでいて立場に囚われない態度を貫く。まさしく妖怪のようで、しかし既存の大妖怪らしくない。“彼女”はそんな紫に惹かれている。それを自覚しているので、“彼女”は紫に逆らおうと思わない。惚れた弱み……という訳ではないが、似たような物だ。うんざりする事もよくあるが、それ以上に紫を気に入っているのだ。
「全く……。私も人のことは言えない、か」
紫の優しさを妖怪らしくないと言う自分が馬鹿らしく思えてきて、“彼女”は自嘲気味に笑った。
――――――
それから数ヵ月後。紫と“彼女”は、山の中ほどの池の前、妖怪たちが集った場所を見下ろせる高台にいた。
「随分と集まったものね。流石“噂の妖怪”さん」
「おだてはいりません。みんな暇だったみたいですし。これで過激な行動が減ればいいんですけど」
眼下に広がった妖怪たちの妖気を感じて、紫は少しだけ驚いた風に隣に立つ“彼女”を見た。“彼女”は少しだけ悲しそうな目をしていた。紫はそれを見て、扇子で口元を隠した。
「……あれは、自然の摂理よ。一人助けられたのだし、そんな悲しい顔はしないで頂戴」
「妖怪が人間を襲うのは、仕方の無いことだとしても……。私がこのことを広めたからああなったと考えると、なんとも遣る瀬無くて」
それは、数週間前の話だ。妖怪たちに月面侵攻の話が伝わりきった頃。妖怪たちは来る月への侵攻に備えて、各々のやり方で力を溜めていた、のだが。
妖怪は人間からの恐れを食べることで強くなる。それは常識である。だから、妖怪が力を蓄える為に人間の集落を襲う可能性も十二分に考えられた。それに文句を言うのは筋違いである事は、紫も“彼女”もよく分かっていた。しかし、場所が悪かった。
“彼女”は妖怪でありながら、人間の集落に平然と出入りしていた。元々力が無い“彼女”が思いついた処世術の一環として、本来は恐れられるべき対象の人間に取り入ることをしていた。あまり妖怪として褒められる行為ではなかったが、生きる為には仕方の無い側面もあった。欲しいものを力で勝ち取る妖怪社会では、“彼女”は弱すぎた。お金さえあれば最低限生きていける人間社会は、“彼女”にはむしろ丁度よかった。始めは、残り物のご飯を分けてもらうくらいだった。やがて小さな集落で“彼女”はたまに来る妖怪さんとして受け入れられ、土産話と引き換えにささやかな相伴にあずかるのが日常になっていた。名前はいらなかった。そんな物より、信頼という妖怪としての弱さを受け入れる事が、“彼女”にとっての生きる道だったのだ。
その時襲われた集落は、まさしくその場所だった。“彼女”がたどり着いた頃には、既に数体の妖怪によって壊滅させられていた。たまたま共にいた紫によってその場は鎮圧され、死にかけていた男の子を一人救出することができたが、それだけだった。何も残らなかった。妖怪の社会では当たり前に行われている行為。しかし、思考が妖怪から離れている“彼女”にとって、もはや人間をただの餌と見なすことはできなかった。
紫はそんな“彼女”を、人間と共に暮らしていた“彼女”を見て、その姿に憧れを抱いてさえいた。本来は決して分かり合えない筈の人と妖が共に笑い合うその光景が、ただの妖怪であった紫には不思議と眩しく映った。大妖怪が木っ端妖怪に抱いたその小さな憧れが、後に紫の行方を決める事となる。
「彼は……大丈夫よ。生きる事を望んだから、彼は生きるわ。でも、貴方には会わせられない」
「でしょうね。私は集落を危機に陥れた戦犯。合わせる顔が無いなんてものじゃないです」
“彼女”のどこか達観したような言葉に、紫は口をつぐんだ。追求してはいけない心の傷。“彼女”は確かに、心に傷を負ったのだろう。精神が重要な妖怪にとって、体に負った傷よりも心の傷の方が重傷になりやすい。長い時を経て癒されるまで、待ってあげる事にした。話すのはいつでもいい。紫も“彼女”も、助けた彼も当分死ぬことはないのだから。
太陽は沈み、西の空を赤く染める。もうじき日が暮れて、月が出る。妖怪の時間だ。侵攻の時間だ。
「さあ、境界の妖怪さん、侵攻の号令を。今宵は貴方が王将ですよ」
わざとらしい声を作って、“彼女”は紫に頭を下げた。芝居がかった態度に紫はくすりと笑って、一つ咳払いをした。
「ええ、そうね。月の都でお買い物でもできるようにしてあげる。凱旋には貴方も呼ぶから、それまでに堂々と名乗れるような名前を考えておきなさい、命令よ」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、返答も聞かずに紫は消えた。そうして妖怪たちの上に浮かび、何事か話始める。静まり返った空間に、紫の声がただ響く。この瞬間、紫は確かに王将で、大妖怪としての威厳をこれでもかと放っていた。 それを眺める“彼女”は、やがて来るだろう紫の天下を疑いもしなかった。あの妖怪の下で、できれば平和な幻想郷で暮らすことを幻視して、少しだけにやけた。
「相変わらず、紫は格好いいね……」
“彼女”は今回の侵攻には参加しない。戦闘能力が皆無な“彼女”を連れていったところでどうにもならないことは“彼女”自身が一番わかっていた。もう役目は果たした。あとは紫が月を攻め落とし、揚々と凱旋するのを眺めるだけだ。
月を知らぬ“彼女”は、暢気にそう考えていた。
――――――
惨敗だった。
千を越える力のある妖怪たちが、散り散りになって逃げ帰ってきたのは、夜が明ける前、未だ月が南中に輝く頃であった。大きな池に映った月を介して、紫は本物の月へ侵攻した。幻想郷には大きな境界の裂け目が残され、そこからはなんとなく異界の空気が出てくるようだ、と“彼女”は観察していた。退路を確保するためだろうか、その裂け目は一向に消える気配がない。いつも紫が使うスキマは“彼女”が侵入すると同時に閉じるので、こうして開きっぱなしなスキマを観察するのは“彼女”にとっても初めての経験だった。
そうしてスキマの近くに座り込んで、ぼうっと時間を潰していた“彼女”は、スキマの中から微かに声を聞いた。それはだんだん大きく、多くなって近付いてくる。何となく身の危険を感じた“彼女”は、少し飛んでスキマから離れた。
出てきたのは、屈強な妖怪だった。しかし、様子がおかしい。まるで何かに怯えるように、大慌てで住処があると思われる方角に逃げていった。“彼女”は、その歪な姿を認識するのに時間を要した。片手片足が欠損している。そこから体液と思われる水を滴らせながら、這いずるように逃げたのだ。
嫌な予感がした。
それから、出てくる出てくる、誰も彼も死に体な妖怪たち。四肢に欠損があるなどかわいいものだ。体の半分が綺麗に消し飛びながらも、正しく死に物狂いで逃げる者。元が何だったか判別できないような肉塊を大事そうに抱える者。それは凄惨な地獄絵図。次々飛び出てくる妖怪は、誰もが一度は顔を見たことがあるような実力者ばかりだというのに。いや、実力があるからこそ逃げ帰ることができたのだろう。
「……え?何、これは……。紫、紫は!?」
“彼女”は目の前の現実を、受け入れられずにいた。
必ず勝つと信じていた。
紫はまた笑って、余裕綽々で私に言うのだ。“月に買い物にでも行きましょう?”とでも。
あの紫が死ぬわけがない。
しかし、目の前の現実はそれを頑なに否定してくる。あの底抜けに優しい紫の事だ、おおかた進んで
気持ちが急いた。“彼女”は駆けた。開いた境界の中に、紫はいるはずだ。生きているはずだ。死にゆく運命を辿らせる訳にはいかない。無理矢理にでも連れて帰る。月などどうでもいい。“彼女”にとって、八雲紫とはそれほどの存在になっていた。
そうして、妖怪たちが這い出る月への穴に突入しようと、“彼女”は加速をつけた――。
「駄目、死ぬわよ!」
服を思いっきり引かれ、“彼女”は一瞬喉を潰した。そのまま強い力で空へと引かれる。“彼女”はそれを振り払う。止めたのは、一人の天狗だった。黒髪に黒い翼。間接的に感じる妖力はかなりの物だが、その少女には他の妖怪とは違い傷一つ無かった。
「今、その奥は戦場よ。死にたくなければよしなさい」
息を荒らげながら、少女は言った。目線は鋭く、服は所々焼け落ちている。よくよく見れば、腰には刀か何かを提げていたような跡があるが、肝心の獲物を握っていない。あるのは落ち葉のような団扇だけだ。
「死にたいなら、行っていいんですね」
「……止めはしないけど。録な死に方はできないわよ」
少女はそう言う間に、息を整える。そして、“彼女”の姿をよく見て、気付く。
「ああ、あんた、八雲紫の腰巾着じゃない。あのスキマなら、健気に殿をしてくれてるわよ」
「……他の妖怪の事はどうでもいいんです。紫は死んじゃいけないんです。紫は……」
「ああ、はいはい。でも、他の奴らもそう簡単に八雲紫を殺させはしないわよ、あいつが死ぬとみんな帰れなくなるし」
その言葉は、激情で曇った“彼女”の思考を甦らせた。確かに、月への穴を空けたのは紫だ。それを維持することができるのは紫だけ。紫の事を無碍に扱って殺してしまえば、退路は閉じ、結局全滅する。だから殿を任せつつも、妖怪たちは紫を無視するわけにはいかないのだ。
そう考えれば、確かに希望は湧いてきた。この境界が開いている内は、紫は死んでいない。それだけは確固たる事実だ。
「あー、もう私は行くわよ。顛末をお上に伝えなきゃならないから」
天狗の少女はそう言って、山の方に飛んでいってしまった。その速度は“彼女”が目でぎりぎり追えるかといった程で、その余波で浮いていた“彼女”は僅かに揺れた。
“彼女”はただ、待つことにした。行ったところで足手まといである。紫が死なずに帰って来ることを信じて待つだけだ。
出てくるのは、重傷を負った妖怪ばかり。境界の主が出てくる気配は一向に無い。“彼女”は待ち続ける。そうする内、その時は訪れた。
転がり出るように、人影が飛び出した。それを最後に、境界は素早く消えた。紫色の特徴的な服。ところどころ焼け焦げ、本来は無い赤い色が飛び散るように染み付いていた。左の袖は先が無くなっていて、帽子もどこかで落としたのか綺麗な金髪が惜しげもなく晒されている。毛先は焦げたり切れたり、不揃いになってしまっていて、いつものお下げも無くなっていた。転げ落ちた紫は立ち上がる。息は上がり、痛々しい怪我が体中に見える。それでも紫は毅然と立ち、忌々しげに月を見上げた。
「……やってくれたわね、まったく……」
誰にでもなく呟く。それは碌な敵情視察もせずに計画を強行した自分への戒めか。それとも、数多くの盟友を皆殺しにした月の民への怨恨か。紫はそれだけ言って、なんでもないように一つ、溜め息を吐いた。
「紫、っ!」
“彼女”は思い切り、出てきたばかりの紫に飛びついた。不意打ちな上に力をかなり消耗している紫はそれを受け止めきる事ができず、少し無様に尻餅をついた。残った右腕で飛び込んできた“彼女”の頭を撫でる。帰るべきところに帰ってきた安堵感が紫を包んだ。
“彼女”は泣いていた。えぐえぐと子供のように紫に顔を押し付けて泣く“彼女”はあまりにもか細くて、紫はそれを離さないように抱きしめた。
「……ごめんなさい、期待に答えられなくて」
「謝らないで、ください……。帰ってきただけで、いいんですよ……」
泣き付く“彼女”をあやしながら、紫は周りの視線をしっかりと感じていた。明日からは面倒そうだ、と一つ溜め息を吐いた。
――――――
それから、数週間が経った。紫の怪我はすっかり完治して、幻想郷には元通りの日常があった。あれからというものの、紫はその辺の木っ端妖怪から大妖怪まで様々な妖怪たちに問い詰められ、今回の戦犯として断罪も視野に入れた協議があったらしい。しかし、敵情視察を怠り慢心していたのは誰も同じであること、あくまで立案しただけの新米に全ての責任を負わせるのは……という意見も出てきて、結局今回の被害が大きすぎる為に紫を妖怪の賢者に認定し監視下に置くという運びになった。殿を務めて多くの妖怪の命を救ったことが功績として認められたという背景もあるが、こうして紫は念願の立場を手に入れたのであった。
“彼女”は、苦悩していた。自身の能力を活用して集めた妖怪たち。彼らの多くが無惨にも死んでいった。“彼女”に責任はない。しかし、妖怪を死地に追い立てたという事実が、“彼女”を苛んでいた。
「……ごめんなさい、私が、広めたから……」
無縁仏が集められた共同墓地で、“彼女”は頭を下げた。そこは月面戦争において出た多数の戦死者を弔うために作られた場所で、墓の下に死体が埋まっている割合は少ないものの、死者の友や家族だった者たちの心の拠り所となっていた。妖怪は心で生きる存在故に、こうして気持ちを整理していかないと簡単に壊れてしまう。誰ともなく始めた墓地作りは、やがて多くの妖怪が手を貸すことで驚異の早さで終わった。月面戦争での死者に対する手向けをするためだけの場所だ。
「――貴方の責任じゃないわ。どちらかといえば私の責任。謝る必要なんてない」
いつのまにか、“彼女”の隣には紫が立っていた。いつものように扇子で顔を隠しながら、何でもないことのように言った。“彼女”には、紫のその横顔は確かに前を見ているのに、目の前に横たわる墓地を見ていないように感じた。
「必要とか責任とか、そういうものじゃないんです。私は……」
「いたずらに多くの人生を背負う必要はないわ。……言い方は悪いけれど、死んだ妖怪の事は忘れなさい」
紫は“彼女”の方を見ずに、きっぱりと言った。
「……え?」
「彼らは自分たちの意思で死にに行ったのよ。それを勝手に誰かに背負われるなんてまっぴら。私ならそう考えるわ」
「でも……それじゃあ悲しすぎるじゃないですか。一度死んだらはいさようならなんて……」
「優しいのは悪いことじゃないけれど、その向ける先を間違えちゃいけないの。そうしないと、貴方は……すぐに壊れて死んじゃうわよ」
紫の目には、冷徹な光が僅かに宿っていた。妖怪の中では若輩者でありながら多くの修羅場を潜ってきた大妖怪と、曲がりなりにも大妖怪の庇護を受けて人間の文化に染まった弱小妖怪。その価値観の違いは余りにも大きく、分かり合うことができないものだった。ここにきて“彼女”は初めて、紫の事が分からなくなった。
「……紫さん」
「何かしら」
「私は……もう、貴方についていくことはできません」
「……そう。いいわよ、別に」
紫は眉一つ動かさず、答えた。その目は“彼女”を見てはいない。共同墓地を見てもいない。遠い目をしていた。“彼女”には、未来を見据えているように見えて、現実を見ているようには見えなかった。
“彼女”はそれ以上何も言わずに、踵を返した。紫の横を過ぎる。最後まで、紫は“彼女”に一瞥もくれることは無かった。
頬を冷たい水が流れた。“彼女”はそれに気付かない振りをした。いつから自分はこんなに泣き虫になったのだろうと、“彼女”は自問をする。自答が返ることはない。
「……私とは離れた方が、“彼女”の為だもの。これが、正しい選択よ――」
呟きは聞かれることもなく。
“彼女”が振り返る頃には、紫の姿はどこにもなかった。そこにはただ、寂しげに風が吹いただけだった。
後編:大結界騒動編に続く。
今回から段落ごとに空白行を入れてみました。個人的に読みやすかったので。投稿した全話この仕様に修正済みです。