※この頃の紫さんはかなりキテるので、前編のような彼女は期待しない方がいいです。
一人の妖怪が歩いていた。“彼女”はただ前を見ていた。“彼女”はただ歩いていた。その顔には何の感情も無く、その足取りは機械的でさえあった。四季は移り変わるというのに年中同じ服を着て、人里離れた無法地帯でほかの妖怪とも群れずにいる。“彼女”はそんな存在だった。どれくらい前からそこにいたのかを知る者は少ない。名前を知る者は誰もいない。“彼女”はただ、“噂の妖怪”と呼ばれていた。そんな“彼女”は、ただ一人で散歩をしていた。それは“彼女”の唯一の日課であった、他の妖怪のように人間を襲って食ったり、妖怪同士で縄張り争いをしたりといった妖怪の社会からは無縁な生活を送っている“彼女”にとっては、それくらいしかやることがないのだ。しかし“彼女”はそんな日常に飽き飽きしつつも満足していた。暇だということは平和であるということだ。それは荒事を嫌う“彼女”にとってはとてもいいことである。
そんな朝方。雪が降るかどうかといったくらいの時期である。森の葉は落ち、褐色となって足元を転がる。何本かは既に禿げ、無様にも細々とした枝を晒していた。足を踏み出す度に、生命の死骸ががさがさと音を立てる。もう何度この季節を迎えたのか、“彼女”は覚えてもいない。段々と世界が死に包まれる。やがて白い季節を抜ければ、新たな生命が芽吹くのだ。“彼女”はこの頃をあまり好いてはいなかった。自然の摂理として消えていく存在が、どうしても妖怪自身と被ってしまうのだ。
最近、妖怪は随分と勢力が衰えていた。人間たちは科学という武器を手にした。それは曖昧な幻想に住まう者たちにとってはまさしく凶器であった。次々と存在の根源である恐怖を暴きたてられ、消えていく妖怪たちを見た。老衰に似たように弱っていく姿はあまりにも残酷で、“彼女”はそんな姿を見る度に涙を流した。もはや妖怪の力ではどうしようもない、人間による妖怪の淘汰とでも言うべき暴挙である。これまで人間を脅かし常に優位に立っていた妖怪たちも、今ではいつ消えてしまうかと人間に、科学技術の発展に戦々恐々する日々を送る弱者となり果ててしまった。いまだ大妖怪たちには致命的な影響は出ていないようだが、このままでは“賢者”と呼ばれる妖怪たちが死に逝くのも時間の問題であることは誰もが認識していた。
そんな状況であるから、あまり人間がいない幻想郷においても、昔ほどの活気は無くなってしまっていた。いつこの地に人間の開発の手が及ぶか分かったものではなく、それに気付いている賢者や有力妖怪たちの間では日々議論が紛糾し、妖怪たちを保護するための案を模索しているのだそう。昔に八雲紫が行った“妖怪拡張計画”もその当時は効果を発揮したが、今ではだいぶ弱まってしまっている。それに加えてもう一手何かがないかと考えているらしい。“彼女”は風の噂でその事実を知った。そして、実際に八雲紫が進めている計画の一端を知ってはいる。情報が手に入ったのは偶然であるが。
“彼女”が八雲紫と決別してから、もう少しで九百年を超える。
幻想郷の賢者という大きな後ろ盾を無くした“彼女”は、元通りただの弱小妖怪に戻った。しかし、その頃は月面戦争(と名付けられた。八雲紫が主犯とされている)の被害によって多くの妖怪が身動きが取れない状況であり、ただの弱小妖怪を襲っている余裕など誰にも無かった。お陰で“彼女”は無事に幻想郷の辺境に住処を確保し、ある程度の生活に必要な糧を蓄えることが出来た。もはや“彼女”は人間にすり寄ることは無く、まるで仙人のように俗世を離れて生活し始めた。結局“彼女”にとっては、それが最も性に合った妖怪としての生き方だった。誰とも馴れ合わず、興味があることにだけ反応する。そんな消極的な妖怪としての生き方が。
散歩を終え、住処へと帰ってきた“彼女”は、少し安心した顔を浮かべていた。それはなんてことも無い、今日も何事も無かった、というだけだ。しかし平穏な日常はすぐに壊れてしまう事を身をもって知っている“彼女”にとっては、その日が平和であるということは十二分に素晴らしい事であった。
“彼女”はそのまま、朝食を食べた。木の実を中心とした質素を通り越している食事だが、“彼女”にとってはその程度が日常となっていた。もとより妖怪である。物質的な食事はあまり摂らなくても問題は無い。必要なのは心の栄養である。そして“彼女”にとってこの頃は、必要としている恐怖の感情を、“人間が科学を使って殺しに来る”という根も葉もある噂を恐怖する妖怪たちから十分すぎるほどに搾取することが出来ている。“彼女”自身はあまり気付いていないが、“彼女”は最近の妖怪たちの噂に対する恐怖を糧とし、それこそ大妖怪に匹敵するほどの力を持つに至っているのである。住処が安全なのも、“彼女”の隠そうとしないその妖気にあてられた弱小妖怪たちが出払ってしまっているからで、決して運が良いという訳では無い。
それに気付かない“彼女”は、今日も少しだけ上機嫌に住処で何事かを始める。それは最近の趣味となりつつある生活用品製作である。人とも妖怪とも関わらなくなった“彼女”はその有り余った時間の有意義な消化方法として、住処を快適にしていくことにしたのだ。初めのころは碌な知識も無く散々たる有様だったが、百年単位で続けている内にそれなりのものが作れるようになっていった。今では腕利きの大工でも呼んだのかという程の品質にまでなったが、結局自己満足である為にそれで何かをしようとは考えた事も無かった。
そして、今日もそんな日曜大工の真似事を始めようと、“彼女”は作りかけの机のようなものを持ち、明るい住処の外へと歩いていった。
誰かがいる。
最近やたら敏感になっている感覚でも、人間が住処の目の前にいることには対面するまで気付かなかった。もしかしたら敵かもしれない存在に気付かなかった自分に少し腹を立てつつ、“彼女”は木材と大工道具を足元に放った。
彼は、見慣れない黒い服を身に纏っていた。その身長は“彼女”よりも大きく、一般的な青年程度である。しかし“彼女”は一般的な人間でいうと十に満たない程度の童顔であり、体躯もそれに見合った大きさしかない為に、住処の前に佇む青年をひどく大きく感じた。溢れ出る隠そうともしない殺気も、“彼女”が彼を警戒する一因になっている。
「……何の用だ?人間の男が」
千年近くを生きる妖怪としての矜持か、“彼女”は妖力を使って圧力をかけながら、威厳を出して凄んだ。先ほどまでにやけ顔で日曜大工を始めようとしていた幼女の面影はどこにも無い。実のところ、これは“彼女”流のハッタリでしかない。強い力を持っている事を背景にすれば、弱小妖怪やそこらの新参妖怪は荒事が起こる前に追い返せる。“彼女”自身は荒事を苦手としているので、こうして未然に戦闘を避け、それによって生まれる自身に対する恐れを噂に変換して流し、糧を増やすと同時に面倒な妖怪を近寄らせないようにしている。孤独に生きる“彼女”の、唯一見つけた処世術だ。
「……お前が、“噂の妖怪”か?」
「そうだが。用が無いなら帰れ、邪魔だ」
にべもなく追い返そうとする“彼女”は、自分を見て怯みもしない男を見て内心でまずい事になった、と冷や汗をかいていた。見たところこの男は人間でありながら、かなりの手練れである。もし戦闘になれば、負けるかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。しかし、助けを求められる知り合いもいない。状況の打破のために思案していると、彼が口を開いた。
「それなら、俺が殺すべき相手だ。大人しく、俺に殺されろ」
左の腰に提げた鞘から太刀を抜く。冬の太陽の光を反射して、美しくも恐ろしく、切っ先が“彼女”を捉えた。
彼の言葉はひどく機械的で単調で、冷酷に“彼女”の耳に届いた。何の感情も無い彼の姿に、“彼女”は戦慄を覚えた。
“彼女”の行動は素早かった。すぐさま足元に放られた木材を素早くつかみ取り、ただ単純に彼に向かって投擲した。それは真っ直ぐ彼に飛ぶ。“彼女”は腐っても妖怪である。単純な身体能力は屈強な大人を優に超える。ほぼ直立した状態から投げられたそれは、音を切り裂くほどの速度で彼に向かった。常人なら反応することもできずに直撃するであろう物体を、彼は軽々と斬って捨てた。そして屈んだ体勢から、低空に跳躍した。投擲した後の崩れた“彼女”を斬り捨てようと、彼は跳んだ。
「――死ね!」
「悪いが、そう簡単に死ぬわけにはいかない」
明らかな殺意の塊を投げつけられ、“彼女”は当惑する。しかし、思考している余裕はない。
彼の行動を、“彼女”は見切っていた。その場で天井に向かって跳躍、上下反転したまま床となった天井を蹴り、さっさと狭い住処から脱出した。“彼女”が着地すると、ちょうど彼と“彼女”の位置関係は開戦の際と真逆になっていた。
「私は逃げさせてもらうよ、まだ死にたくないからな」
地の利は“彼女”にある。普段の日課である散歩をもう何百年と続けている“彼女”にとって、ここら一帯は庭のようなものである。入り組んだ場所も完全に暗記している。まともに戦えば勝機は無いと感づいた“彼女”は、彼に背中を向けて逃げ出した。
「――待て、この!」
一瞬反応が遅れるも、彼は“彼女”を追う。しかし、そこは人間としての種族の限界と妖怪としての性能が違いすぎた。純粋な知識と身体能力だけなら、人間である彼が長年この場所に住み着いている“彼女”に追いつくはずもない。恐ろしい速さで逃げていく“彼女”を見失い、彼は一人、悔し気に地を蹴った。
「くそっ……どこに行った……?」
初めのような、冷静な男の姿はどこにもない。そこに立つ男は、全身から殺気を漲らせ感情的に動く殺人鬼に似ていた。息を荒らげ、血走った眼で周囲を見回す彼は明らかに異常であり、その雰囲気を察したか、遠目から観察していた何人かの妖怪は、ちょっかいをかけるようなことは無かった。
――――――
“彼女”は走った。気配を察知されるようなことが無いように、“彼女”の普段の行動範囲よりずっと遠くに逃げていた。“彼女”は今の男を全く知らない。しかし、まるで親類の仇でも取ろうかという程の殺気を向けてきた彼は一体誰なのか。人間でありながらそこらの妖怪よりも恐ろしく怖ろしい彼は何者なのか。“彼女”はそれをずっと考えていた。
もうあの住処には帰れない。何百年間か住んでいたあの場所には愛着がわいていたけれども、こうなってしまっては仕方がない。さして大切なものを置いていたわけでもない。どうせ今までほとんどの時間を身一つで生活してきたのだ。安定してきた矢先に野宿の生活に逆戻りするとは思ってもいなかったが、別段嫌いな訳では無い。
そうして歩き回り、川を見つけた頃には、既に太陽は南中に輝いていた。散歩から帰ってきてから大した時間も経っていないというのに、凄まじい疲労が“彼女”を襲った。“彼女”は屈んで、流れる水を掬って飲んだ。運動した後の水は美味しいものだ。そして、近場にあった木陰に座り込む。少し休憩だ。慣れない戦闘で体が疲労を訴えている。この程度で情けない、と感じたが、引きこもり生活が長かったのだ、と言い訳をしておく。
何か食料でもあるとなお良い、と“彼女”は立ち上がる。そして歩き出そうとする。
「あら、こんな所まで逃げてきて。行く当てはあるのかしら、“噂の妖怪”さん?」
しかし、不意に頭上から聞こえてきたその声に足を止める。止めざるを得なかった。なぜならその声は、もう何百年も聞いていなかった声。忘れるはずも無い、“彼女”が隠居生活をすることになった主犯。旧友と呼ぶにふさわしい声。
「……随分と突然だな、八雲紫」
境界の妖怪が、そこにいた。
紫は木の枝から器用に飛び降り、“彼女”の正面に音も無く着地した。砂埃すら舞わない優雅な姿に、“彼女”はかつての面影を重ねていた。“彼女”の主観では紫はあの頃と、ほとんど変わっていない。
しかし、そうして“彼女”を正面から見据えた紫は、“彼女”の変わりように驚いていた。かつては大妖怪の後ろ盾が無ければまともに独り立ちもできなかった“彼女”は、今ではそこらの大妖怪と比肩する程の妖力を持ち、旧友であるはずの紫に向ける目は鋭く、暗い。それだけで決別してからの“彼女”の苦労が知れるというものだ。
「まあ、ね。私だもの」
「それはいい。あいつは誰だ。どうせお前の差し金だろう」
いつも通り軽口から会話を始めようとする紫の口車に、“彼女”は乗らなかった。それだけでも、“彼女”があまり紫に好意的な感情を向けていないことが二人の間に十二分に共有され、紫は仕方なく口を噤んだ。そして扇子を取り出し、いつものように口元を隠す。
「――ああ、彼ね。彼は貴方も知っているはずよ。もう何百年も前の話だけれど」
「……私も知っている?どういう意味だ」
「確かに直接の面識はないだろうけど、貴方は確実に彼を知っているわ。だって、貴方に
わざとらしく、紫はにやついた。それで“彼女”は言わんとしていることを悟り、埃を被った過去からそれらしき記憶を引きずり出した。
「……まさか、あいつは――」
「そういう事よ。まあ、信じるかどうかは貴方次第だけど」
“彼女”は今もはっきりと覚えている。月面戦争の際、紫がさらっと言った一言を。
――「
一人助けた。紫は確かにそう言っていた。あの時、私が紫に助けを求めたあの時。“彼女”がまだ、人間の集落に出入りしていたあの時――。
“彼女”はその現場をはっきり見ていた訳では無い。だから彼が生き残りだったとしても、それを判断することは“彼女”にはできなかった。
「なら、なぜ私を狙う。それこそお門違いだろう」
“彼女”は意味が分からなかった。あの男が“彼女”が出入りしていた集落の生き残りだとして、なぜ何百年も経った今も若い姿で生きているのか。どうして助けたはずの私を敵視しているのか。分からないことが多すぎる。しかし、“彼女”は現実から目を背けているだけであった。今の“彼女”ならば、この状況を冷静に思考することで理由を推測し真実にたどり着くこともできたはずなのだ。しかし、“彼女”はその可能性を認めたくはなかった。そこには、いまだ微かに八雲紫に向けた“彼女”の信頼の証。
だが、現実は非情である。紫の口から紡がれた言葉は、最も“彼女”が信じたくなかった真実。
「故郷が襲われたのは、噂の妖怪の所為らしい……わよ?」
意地の悪い笑みを浮かべる紫を見て、“彼女”は体の力が抜けていくのを感じた。ああ、忘れていた。こいつは――八雲紫という妖怪は、身内以外にはこういう事を平気でやるような存在だった。身内から離れたのは“彼女”の独断だ。それを後悔する気は無いししていない。だが、まさかここまでやるとは“彼女”も思っていなかった。長年生きた妖怪は大きな力を持ち、情報を操れる“彼女”は大妖怪を脅かす存在になる可能性も否定できない。
たった、それだけの理由で。
権力に何の頓着も興味も無い“彼女”には、紫のその思考はまったくもって理解できなかった。そもそも“彼女”にとっては賢者がどうこうといった勢力争いそのものがどうでもよく、勝手にやってろ、という感想しか出てこないものだ。だから意図的に隠居して、幻想郷の隅で目立たずに生活していたつもりなのだ。それまで政治というものに関わったことが無い故の無知から起こった発想だ。それは、“彼女”の最大の誤算だった。
紫にとっては、その真実の捉え方はまったく違う。
紫の庇護を離れた“彼女”は、すぐに辺境に隠れ住んだ。それは力無き妖怪の選択としては最良に近いものだっただろう。そうして外と関わらず、幻想郷の一角を勢力圏に置いた“彼女”の存在は、紫や他の賢者たちには目の上の瘤として映った。“彼女”の能力は、下手に外と関わらずとも強い影響力を持つ。それは、“彼女”をどう取り込むかで情報戦に大きく影響が出るということだ。八雲紫の一連の成り上がりによって、幻想郷の妖怪たちにも情報操作の有益性が広く知れ渡り、それと同時に八雲紫の懐刀
八雲紫には、それが面白くなかった。“彼女”が“彼女”自身の意思で離れて行ってしまった以上、もう一度帰ってくる見込みは限りなく薄い。もっとも“彼女”の性格からして政治戦争に巻き込まれることは絶対に拒絶するだろうが、それでも、だ。
初めは、軽い悪戯と仕返しのつもりだった。
故郷が消え、妖怪によって生かされるだけの、空虚な器。茫然と日々を過ごすだけの人形となり果てていた男に、紫は“彼女”への復讐という生きる目的を与えた。
それは紫の想像をはるかに超える結果となってしまった。紫は人間の心を見誤った。彼はその事実を鵜呑みにし、忠実に認識し、そしてそれを生きるための全てと理解した。それは彼が彼自身のこれまで生きてきた数百数十年を意味のある時間にするためには、これ以上ない味付けであった。
もはや、紫には彼を止められなかった。初めから止める気も無かった。それがどういう結果をもたらすのかを、権威にくすんだ紫の眼では見通すことが出来なかった。
時期としては、これ以上ないくらいに絶妙だった。紫は“妖怪拡張計画”の続きとして、幻想郷そのものを外界から切り離す事を目論んでいた。それは数百年後の未来で“博麗大結界”と呼ばれることになる、人間と妖怪が共に作り上げた鳥籠。弱りゆく妖怪達を保護し繁栄させる為の飼育箱。そうでもしないと近いうちに妖怪が科学に追いやられ消え去ってしまうと直感した紫が、他の大妖怪に何の相談もせず、一切の会議も無しに独断で進めている計画である。
“彼女”は、その計画を実行するにあたり、非常に邪魔な存在であった。
計画の細部までを木っ端妖怪に説明する時間は無かった。そんな悠長にしていればいつ危機的状況に陥るか分かったものではない。だから、紫には“彼女”が邪魔だった。不理解から来る妖怪の反乱というリスクを負う紫にとって、若葉程度にでも疑心を持った妖怪たちを取り込める能力を持った“彼女”が。悪い噂を広げ回ることのできる、疫病神のような“彼女”が邪魔で仕方がなかった。“彼女”が敵対しないという甘い考えは、政治をする上では不都合だった。常に最悪を考えて行動するという基本に忠実な判断の結果だった。かつて紫が美徳とした“優しさ”は、既に長い年月とともに風化してしまっていた。
その結果、彼は非常に使い勝手のいい、対“彼女”専用の戦闘機械になり下がった。彼はその立場を享受した。紫は彼を使った。そうして、“彼女”を消そうとした。
「……ふざけるな。八雲紫は……そこまで成り下がったか」
「元々。私は元々こういう妖怪でしてよ。それとも――都合の悪い面が見えて正義面ですか?ああ、怖い怖い」
わざとらしい敬語。おどけるような声音。趣味悪く笑う顔。そのすべてが“彼女”を苛つかせた。そのすべてが、“彼女”に敵対心を芽生えさせた。
「そうか。私があんたに抱いてた期待は外れたって事か。この結界も有意義なものだと思ってたが、どうやらそうでもないらしい」
そう言って“彼女”は、これ見よがしに東を見た。それにつられて紫も視線を追う。笑顔が凍り付いた。
“彼女”は実に的確に、博麗神社を見ていた。
“彼女”は全て知っていたのだ。八雲紫の計画を。独断で進めていた結界の計画を。
「――何故、それを知っているのかしら」
「私は元々、こういう事が大得意な妖怪だ。それとも――知らなかったか?」
次は紫が、その顔に苛立ちを覚える番だった。
“彼女”がそのことを知ったのは、まさに偶然だった。日課の散歩をしていた“彼女”の耳に、“東に神社が出来た”という噂が舞い込んできたのだ。日頃暇をしている“彼女”がそこに向かってみれば、確かに真新しく立派な神社がそこに建っていて、明らかな人間がそこにいたのだ。
あまり他者との交流が得意ではない“彼女”とは違い、その人間――博麗の巫女は、妖怪と人間の区別をあまりしない珍しい人間だった。辿り着くやいなや何故か盛大に持て成された“彼女”は、その巫女から今回の計画の話を聞いたのだった。ご丁寧に、紫に黙って。
「……貴方は封印する。今、この場で。地底にも送らない。幻想郷の騒動が落ち着いた後で、存分に絶望させて殺してあげる。いいでしょう?」
「もう遅い。種は蒔いた。今日の日没、大結界の施行と同時にそれは芽吹く。収まるのは何年後か、何百年後か……。精々期待して待つ事としよう」
今の“彼女”は、大妖怪と言っても差し支えないほどの力を持っている。そんな“彼女”の力をもってすれば、すでに燃え始めている疑念を燃え上がらせることなど造作も無い。見ずとも知らずとも、幻想郷に住まう人妖のほぼ全てに、“彼女”の能力による影響は表れる。やがて妖怪たちが幻想郷に結界が張られたことに気付く。その時、月面戦争の頃から燻っていた、大小さまざまな妖怪たちの八雲紫への疑念と猜疑心は頂点に達する。そうなればどうなるかは、自明の理だ。
「……消えなさい、害虫が。手を煩わせるわね」
紫がいかにも不愉快そうに扇子を一振りするだけで、“彼女”の足元に大きく亀裂が入る。まるで予見していたかのように、“彼女”は何の抵抗も見せずにその中に落ちていく。“彼女”は最後に紫の眼を見て、嗤った。
こうして、紫にとっては最も起こって欲しくなかった、妖怪たちの大騒動――後に“大結界騒動”と呼ばれる動乱が始まった。その引き金を引いたのは紫自身である、という事実は皮肉にも紫の見通しの悪さ、そして管理者としての資質の問題を浮き彫りにさせた。その内紛を収める為には、実に百年以上の時を必要としたのであった。
彼女の記憶はここで終わり。次回からは現代の地底動乱が再開します。
これが年内最後の更新となります。よいお年を。年明けと同時に短編を投稿しますので、そちらもよろしければどうぞ。