旧地獄。かつて閻魔によって切り捨てられた地獄で、今はまったく使われていない。しかし、そこにこびり付いた怨霊はいまだに成仏することなくさ迷い続けており、今でもそのおどろおどろしい雰囲気は失われていない。
地霊殿の中庭に空いた大穴から飛び降りること数分。私とさとりさんは、地に足をつけていた。
そこは、放棄されたにも関わらず燃え続ける業火が薄暗く照らす場所。さとりさんを恐れているのか、明らかに私たちに近寄ろうとしない怨霊たちが飛び交う場所。あまり長居したくはない、嫌な予感がして自然に心拍数が上がってしまうような空気が、重苦しく居座っていた。
「……さて。遠からず彼はここに来ます。何か考えはありますか?」
ぼんやりと地獄の火を見ていると、隣のさとりさんが呟くように言った。彼女は横目で私を見ているが、その第三の目はぼんやりと火を眺めている。器用なことをするものだ。心を読まない、という意思表示なのか。
「……。真実を伝えられれば……とは思うけど、そう上手く行くわけない。何か搦め手が欲しい、かなぁ」
私も大分今の私に慣れてきて、口癖のように口をつく敬語を外せるようになってきた。記憶の中の私はまるで全存在は自分の上に作られているのかというくらいに卑屈で、誰に対しても教えられた敬語を使っていた。しかしよくよく考えれば、私は幻想郷では大妖怪に分類されるような年齢である。二十年も生きていないような人間に対して敬語というのも奇妙なものだ。きっと今の私がかつての私のように敬語を使えば、どこぞのブン屋のような印象になるに違いない。別段他人からの評価は気にしないが、流石にあの鴉天狗と同じカテゴリに分類されるのは勘弁願いたいものだ。
「そうだ、さとりさん。私にしたように、彼に過去を見せることはできない?」
八雲紫の言葉が間違っていたことを記憶という不可逆的な現実で証明できれば、頑なそうな彼の考えも少しは変わるのではないか。そういう考えで出したアイディアだったが、それはさとりさんの言葉によってはっきりと否定される。
「無理です。あれは貴方が私の催眠を受け入れる気が有ったからこそできた事で、端から話を聞く気が無い人にはどう頑張っても不可能です。それに……」
「それに?」
「たとえできたとしても、彼が見るのはあくまで“彼の記憶”です。貴方のように記憶喪失だった訳でもないでしょうし、意味は無いでしょう」
ばっさりだ。個人的には妙案だと思ったのだが、そう簡単にいく訳ではないらしい。しかし、普通に考えればその通りである。他人に偽の記憶を流し込めるなどと言われては色々と怖い。私の過去も怪しくなってくる。
「……確かに。でもそれが駄目となると、私にはお手上げ」
自分から何とかしようと言っておいてなんだが、私には良策は何も思いつかない。まあ、なるようになるだろう。
「そんな適当な……。貴方がそうするならばそれでいいんですけど」
呆れたような声でそう言われる。私はどうせ、行き当たりばったりで生きてきたのだ。きっと今回も大丈夫だ。そう思わなければ生きていけない。駄目だったらその時だ。
「随分と潔いですね。死ぬのが怖くない……わけでは無いようですけど」
なんだ、結局心を読まれているのではないか。恐らくさとりさんの読心術はオフにすることができないのだろう。
死ぬのは怖い。絶対的な恐怖だ。だが、私の中ではどこかに、彼に対する――荒谷江介という人間に対する信頼というか信用というか、とにかく“彼は問答無用で私を殺さないだろう”という思いがある。まだ私が地上にいた頃に、彼と何度も出会ったが結局私を殺さなかったように、今回もなんだかんだ言って見逃してもらえると、そう考えている。それは彼のことを良く知らない私の甘ったるい考えかもしれない。その答えはこれから分かる。できればそうあってほしいものだ。
「……来ましたね」
空気が揺れる。どこか不思議な風が流れる。それは、彼が来た合図だと不思議とはっきりと分かった。
八雲紫のスキマと似た、しかしどこか無理矢理空間を捻じ曲げているようなぎこちなさを感じる
荒谷江介が、立っていた。
――――――
彼の心内はひどく不安定になっている、とさとりは感じた。数百年前に初めて会ったときは、私は深淵を覗いているのかという気持ちにさせる程の空虚な心であった。つい数時間前の彼は、ぼやけて分かりにくいながらも激しい復讐心に燃やされていた。
そして、今。彼は能力を使って思考を誤魔化す事さえせずに、人間特有の入り乱れた複雑な心境を、余す事なく覚の前にさらけ出している。直情的に感情を出しているようで、それを彼自身が止めているようにも感じられる。常人なら狂い壊れるようなその憎悪に、彼の中の何かが箍をする。危うい所でバランスが取れているようで、そのまま彼は堕ちているようにも思える。心を読む覚妖怪であっても、彼の無意識的な能力の所為か、心の全貌を窺い知る事はできなかった。
「……迷っているのですか、殺すことを」
さとりは思わず口を出す。それに風は驚いたように振り返る。風の手には懐から取りだした護身用の脇差しが握られているが、抜刀されてはいない。ここに来ても、彼女は彼と殺しあう気は無いようである。風は、真正面から江介と戦ったところで勝ち目はない事を知っている。この対峙の末には、和解か風の死か、その二択しかないのだ。
「そうか、お前は覚妖怪だったな……」
江介は、刀を下げた。幾分か表層的な気迫も弱まっているようで、風は少しだけ安堵し、少しだけ息を吐いた。突然殺しあうことはなさそうだ、と内心で考えているのだ。
しかし、さとりはそう楽観的には思わなかった。彼の心を読んでいる彼女だからこそ分かったそのおかしな機敏は、決してここまで来て、風を許してお終い、なんて甘い結末を望んではいない。
「どうして、貴方は私を殺そうとするの。十六夜の日に、あんなに普通に接してくれたのに」
風の口をついて出た疑問は、一瞬彼の中に記憶を想起させる。そしてさとりはその記憶を読み取り、彼らの事情を解する。確かに、彼女から浮かび上がる疑問はもっともだ。出会っても軽く脅すくらいで、ここまで明確に殺しに来たのは数百年程度前の時だけだ。それが今になって、突然。
「……俺は、噂の妖怪の事が殺したいほど憎らしい。八つ裂きにしてやりたいといつも思う。だがな――」
彼は、深呼吸をする。それは、まるで大声を出す前の準備体操のようで、風は彼も心を乱すことがあるのだろうか、と他人事のように考えていた。
「何も知らないまま、何も思い出さないまま、幸せに人間になれば――それならそれでもいいと、そう思っていた俺がいた」
しみじみとそういう彼は俯いていて、いつものような冷静さも冷酷さも感じられない。まるで泣き出す前の子供のような、儚さすら感じられるその姿に、風は拍子抜けしていた。もっと怒り狂っているのかと思いきや、彼は過去を独白するように、静かに語りだしたのだ。驚くのも無理はない。しかし、さとりだけはその言葉と、嫌に静かすぎる彼の心内に疑問を抱いていた。
――過去形。
「満月の夜に出てきたあいつも、昔とはまるで違った。弱々しくて、かつて俺が殺そうとしたあいつなんかよりも、ずっと
「……」
「だから、そのまま、無知なまま呑まれているのなら。あいつを妖怪として殺せれば、俺の復讐は果たしたも同然じゃないか、なんて。そんな考えもあった」
――また、過去形。
彼が語る言葉はどれも過去で、今を見ていない。そしてその語り口は諭すようで、まるで言い聞かせているようである。それは風に向かってではない。もちろん部外者であるさとりに向かってでもない。つまり――。
彼の心が壊れる音を、さとりは確かに
「それなら、なんで今も私を殺そうと――」
「お前は、蘇った。そしていま、ここにいる」
「……は?」
――現在形。その変化は僅かなもので。
「過去の記憶を取り戻し、その力をかつて程ではないにしろ取り戻し。また、俺のような人間を生み出すかもしれない」
「それは、誤解。私は何もしていないし、あの村が襲われたのは――」
風は最後まで、荒谷江介の心を理解する事はできなかった。
風の言葉が紡がれることは無い。おもむろに顔を上げた江介は、笑っていたのだから。
それを見た風は、思わず息を飲んだ。口を噤んだ。その顔が、彼女自身に向けられていることを実感した。そしてこれが、初めて彼が明確に
「お前は俺から全てを奪った。だから殺す。お前を殺す。それが俺が生きる理由だ。誰にも文句は言わせない」
そう言いきって江介は――手に握った刀を風に振り下ろした。とっさの判断で、彼女は手に持った、鞘に入ったままの脇差しでそれを受け止める。妖力を纏った存在には絶大な効力を発揮する彼の刀は、何の力も持たない存在に対してはただの丈夫な日本刀である。硬く作られた鞘は削られながらも、しっかりと刃を受け止める。がつん、と鈍い音を立ててその凶刃は止まるが、使い手である彼が止まる気配はない。
「死ね、噂の妖怪!」
「待ちなさい。彼女の言っていることは本当です。貴方の村が襲われたのは、なんの策略も無い偶然です。それを――」
「黙れ、妖怪!」
思わずさとりが制止を入れるも、聞く耳を持ってはいない。
一度刃を引き、そして隣に立つさとりに向けて薙ぐ。二人はさすがにそれを見切り、後ろに跳んで避けた。風の持つ脇差しの鞘には深い切れ目が入っており、そこから中の刃の煌めきが漏れ出ていた。
「……駄目ですね。彼は貴方を殺すことに執心しています。説得は意味をなさないでしょう」
「……私が生き残る為には、彼を――」
殺すしかない。
僅かに震える手を抑えながら、風はそう言った。
風は――噂の妖怪は、その生涯の中で人間を殺したことはおろか、傷付けた事も無い。それは恐れを喰らうべき妖怪としては非常に珍しい事である。誰かを殺すことで人間の間での知名度を上げ、より多くの恐れを得ることが、妖怪としての成功の最も普通なものである。そうして成り上がった妖怪は数知れず、そうであるが故に人を傷つけない妖怪というものは希少なのである。
風は、人を殺すという事に恐れを抱いていた。妖怪としては致命的な弱さである。そして、一度抱いた恐れは妖怪の心の弱さに付け入って膨れ上がる。彼女の心は、初めての殺傷行為に震えていた。知り合いを殺すという事実に恐れていた。そして、殺し合いという環境、明確に殺しに来ている彼から否応なしに自らの死を認識して、彼女の心は壊れかけていた。
死ぬのは嫌だ。殺すことも嫌だ。打開案はない。そんな板挟みの恐怖は確実に彼女の心を削り取る。それは腕の震えや揺れる瞳から、心を読まずともさとりに伝わっていた。
「臆してはいけません。気をしっかり持って下さい」
「そう、したいんだけど……」
ここは旧地獄。いまだに周囲には数多くの怨霊が飛び交う場所。心が弱れば、江介に斬られるよりも先に怨霊に心を食い殺されかねない。今はさとりが周囲に気を配っているから怨霊は近寄らないが、それも時間稼ぎにしか過ぎない。
気を強く持とうと努力するも、それは容易には叶わない。彼女に芽生えたものは、その精神の奥深くに刻まれた死への恐怖。絶対的な闇。それに魅入られたものは、生半可な精神力では抜け出すことはできない。
「怖い……死ぬのが、誰かが死ぬのが怖い……!」
世迷言のように風の口から零れ落ちる言葉は、千年を生きる大妖怪とは思えないほどにか弱く、か細い。心を蝕む思考を追い出そうと、逃れようとするほどに、恐怖は増大していく。絶望へと導かれる彼女を、江介は笑って見ていた。まるで面白い見世物でも楽しむかのように。楽しみだった食べ物を前に焦れる子供のように。ゆっくりと歩み、着実に距離を縮めていく。
「怖いか。そうだろう。誰だって死ぬのは怖い。俺も、お前も。俺が突き落とされた絶望にお前を叩き落とし、そして殺す」
「……貴方は……本当に人間ですか……?」
「“元”人間だ。もう俺は人間じゃない。殺すだけの怪物だ。そうだ、これが――」
――俺の、復讐だ。
彼は、笑ってそう言った。
炎は未だに暗く、燃える。誰にも見向きもされなくとも、その業火は消える事はない。それは魂を焼き尽くし、燃やし尽くすまでは揺らぎもしない。いくら蓋をしようとも、その事実を消す事はできない。
一人の男の全てが、ここにあった。