これが、彼にとっての終幕。
“彼”の終幕
荒谷江介という人間にとっては、復讐が生きる全てであった。
生まれも育ちも平凡な、どこにでもいる青年。今から千年程度昔の彼のことを形容するならば、その言葉がぴったりと当てはまる。とある山奥の片田舎、幻想郷と呼ばれていた場所の近くに住んでいた彼の人生は、とある日に起きた、たった数時間の出来事によって激変した。
次に彼が目を覚ましたときには、彼が知っていた世界は既に失われていた。困惑する彼の目の前では見知らぬ妖怪――後に八雲紫という名であることを知る妖怪が趣味悪く嗤っていて、彼女の能力によって自身が生かされているという事を八雲紫直々に言い渡されたのだった。
それからというものの、彼はその身に掛けられた呪縛によって自殺する事も許されず、かといってその長すぎる余生を生きる意味を見出す事ができないままに、まるで抜け殻のように、ただ呆然と日々を過ごしていた。有り余った時間を潰す為に、紫の友人だという庭師に刀の稽古を受けたり、式神だという九尾の狐に、できもしない陰陽術紛いの妖術を習ったり。その当時はいずれ紫に頼らずに生きていく為に、妖怪が跋扈する世界を生き抜くための修行に明け暮れる日々であった。
その技術を生かす日が来るのは、実に九百年以上が経った後だった。
――村を襲った妖怪を唆した首謀者が、山の麓に住んでいる。
初めて会った時と似たような意地の悪そうな笑みで、紫はそう言った。
それは悪魔の囁きであった。それは蛇の甘言であった。何をするでもなく、自身が何故助けられたのか、何故生きているのか結論を出せなかった彼に、たった一言で生きる意味を与えた。復讐という、安直で強力な理由を。
それは彼の過去を色付かせた。それまでは生きる為、というひどく曖昧で無いも同然だった修行は、この復讐の為にあったのだ、と彼は信じた。紫はそれを見越して、相応の実力が付いたであろう今になって言ってきたのだろう、とも。
彼はその口車に喜んで乗った。復讐への道を歩くことを決意した。それが彼の運命を決定した。
幻想郷が結界で管理され、様々な異変を越え。紆余曲折ありながらも、その復讐という信念だけは曲げず。そうして彼は、今ここにいた。そんな彼にとって、噂の妖怪が村を滅ぼしたのかどうか、という事実の真贋などもはやどうでもいいことであった。自身のその間違いを認めてしまえば、これまで積み上げてきた過去も、修行も、記憶も、全てをまったく意味の無いものにしてしまう。
それは、彼にとっては絶対に許されることではなかった。
過去に縛られた男の復讐は、今この瞬間に、漸く結実しようとしていた。
――――――
これは、まずい……。
ゆっくりと近づいてくる、殺意を隠そうともしない黒ずくめの男を睨みながら、古明地さとりは心内で歯ぎしりをした。
あの男は危険だ。まともに戦っては勝つどころかまともな抵抗もできないだろう。心を読める覚妖怪では、面と向かっての精神攻撃が全く効かない相手では分が悪すぎる。元々覚妖怪は武闘派ではない。正面きって戦うのではなく、相手の心の弱みに付け込むのが基本である。そんな彼女は、現状で勝てる可能性のある“手”が思いつけなかった。そして向こうの刀による攻撃は一撃必殺で、掠れば死の危険性がある。そして、小手先の技術でもあちらが大きく勝っているのだろう。騒動のときに斥候として飛ばしたお空曰く、あの星熊勇儀とまともにやりあっていたらしい。そんな相手に勝てるわけがない。唯一勝っている数の有利を生かそうにも……。
ちらりと横目で見れば、今にもぶっ倒れそうな勢いで尻餅をついたまま震える少女がいるだけだ。どう贔屓目に見ても足枷にしかならない。幸い男の目標は彼女なのだから、見捨てて売り渡せば自分は助かるだろう。しかし、そんな事をした暁には今宵から良心の呵責というやつに延々と苛まれることになるだろう。いくら多くの妖怪から嫌われた覚妖怪であっても、自身の罪を忘れ去れる程に耄碌してはいない。さらに
――今ここで、私が逃げるわけにはいかない。
さとりはそう自身を奮い立たせる。そして、鋭い目で男を睨みつつ、自由の利く第三の目で、隣の少女を見た。
――――――
怖い。手の震えが止まらない。周りは炎が燃え盛り、熱いくらいの筈なのに、体に悪寒が走って止まらない。体の震えが止まらない。頭の中がぐしゃぐしゃになっている。
生涯初めての、避けようのない死の恐怖に、私の体はまともに動くことを諦めてしまったようである。情けない話だ。無駄に千年も生きてこのざまとは。隣にいるさとりさんはしっかりとしていて、彼に抵抗する気が大有りのようだが、私はそんな事をする精神状況ではない。さとりさんは私を置いて逃げればいいのだ。そうすれば彼女だけは助かる筈である。どうせ彼の標的は私なのだ。会って数時間の私なんかを気にかけて心中するなど……。
「……何を馬鹿な事を。打開策は無いんですか?」
ぎりぎり聞こえるかどうかというくらいの音量で、さとりさんは囁いた。口が殆ど動いていないのに、綺麗な発音である。腹話術か何かだろうか。しかし、そんな事は今はどうでもいい。さとりさんのその声で、少しだけ意識がしっかりと戻った。この状況を打開しなければ、私は殺されてしまう。何の余裕か知らないが彼がゆっくりと歩いているうちに、どうにかしなければ。
……とはいえ、何の策も思いつかない。思考が固まってしまっているのか、こうして思考をわき道に逸らさなければまともに思考すらできない。目の前の現実を直視できていないのだろう……我ながら馬鹿らしいものだ。
「何か……身を守る物とか、逃げるものとか。……私一人では、どうしようもないんです」
さとりさんは厳しそうな横顔でそんな事を言うのだ。あまり希望はなさそうである。
そんな事を言われても……。身を守るもの、と言われれば、この手に握っている脇差がそうだ。霊夢さんにも護身用でどうたらと言われていたものだが、いかんせん相手の刀が強いお陰で役に立たない。技術も付け焼刃程度な私よりももう何十年、何百年も刀を振るっている彼に勝てる訳が無い。それを除けば、もう私には自分の身を守れる物は何もない……。
……ん、そういえば――。私の頭の中に、ふと他愛の無い記憶が蘇る。それは、現状を打破できる可能性がある唯一の希望。
「――」
私の考えた事を正確に読み取ったのか、さとりさんは第三の目で会釈をするように頷いた。これは賭けだ。だが、何もしないよりはずっとましな筈だ。
私はそんな事を頭の片隅で考えながら、目線を正面に向けた。
「……作戦会議は終わりか?」
まるで始めからそこにいたかのように、江介さんは目の前に立っていた。
――――――
「……そんなところです」
さとりは江介をしっかりと見据えながら、そういった。彼女が恐怖で崩れる気配は見えない。江介は風を見る。彼女は相も変わらず震えているが、その目にはどこか鋭く怜悧な光が戻っているようにも感じられる。いつまでも恐怖に囚われたままではないだろうが、それでもここまで壊れかけるとは彼も思ってはいなかった。そのまま放っておけば、勝手に自害するなり無理心中を図るなりしそうなものであったので、恐怖を煽る為にあえてゆっくり歩いて見せたのだが、いくら彼女でもそこまで精神が弱っちいわけでは無いようだ。
「そうか。だが、お前に手を出すつもりは無い。俺は噂の妖怪だけを殺せればいい」
あくまで冷静に彼はそういう。その言葉の冷たさに、風はまたも臆病風に吹かれたような気分になるが、今度は力強く睨み返す。そこには死の恐怖はあまり残ってはいない。
随分と乗り越えるのが早いものだ。江介は人知れず感心していた。妖怪は心が弱いと聞いていたが、すぐに折れてしまうほど弱いわけではないようだ。
「……私は、まだ死ぬ気はない」
震えていながらも芯の通った声で、風は言った。体勢を立て直して、よろめきながらもさとりの隣に風は立った。背後に灼熱地獄の獄炎を背負った彼女の、江介の立ち位置からは翳りを帯びて見える顔は、恐怖に怯えた妖怪のそれではなかった。
「貴方が……あんたが私を殺す気なら、私は全力で抵抗してみせよう」
そう言って強がる風はいつぞやの噂の妖怪を想起させた。雰囲気も随分と変わり、まさしく昔に見た、無駄に尊大そうな態度の彼女そのものであった。それは江介の記憶を刺激し、そして彼の殺意を増幅させる切欠にしかならなかった。
「そうか……。これでお別れだ。じゃあな」
何の感慨もなさそうに、彼はその刀を振り下ろす。正確に命を刈り取る軌道のその刃は、すんでの所で真隣から現れた刀に阻まれた。
「悪いですが、そういうわけにもいきません」
風から投げ渡された脇差を迷い無く抜刀し、さとりが凶刃を受け止める。彼女はあまり力が強い部類ではない。そして、脇差も特別強い曰くつきのものではない。現にその鍔迫り合いは、刀の耐久力としても江介に絶対の分があった。今にも折れそうな脇差で、必死に抑えるさとり。その後ろで、風は素早く懐に手を入れる。期待したとおりの感触を感じて、
「そんなもので……!」
「倒せるわけ、ない」
べちん。
そんな間抜けな音が、彼の胸元で鳴った。
「だから、これを使わせてもらう」
見下げると、江介の心臓辺りに、黒い服に映える、白い縦長の長方形の紙切れが張り付いていた。その表面には、普通には読めない記号のようなものが所狭しと書き込まれ、それ自体が見事な芸術のような様相であった。
江介はそれに見覚えがあった。今から何年も昔に見た、知り合いの愛用する妖狐の文字。
「これ、は――」
「八雲藍謹製の守護札。これで――」
――何かあったらこれを使え、妖力を流すだけだ。それがお前を守る。
かつて八雲藍に譲り受けた札が、こんなところで役に立つとは思わなかった。しかし、用途としては間違っていないはずだ。何が起こるかは分からないから賭けだが、勝算は高いはずである。
「――さようなら」
――――――
張り付いた札から光が迸る。眩い閃光が、三人の視界を奪う。それは、いわゆる“霊撃”と呼ばれる衝撃波。特定の術式を通して、込められた力を爆発させる極めてシンプルな術。しかし、その術式を組んだのは最上級の妖獣たる九尾の狐であり、込められた妖力は千年を超える時を生きた概念の妖怪のものであり、その基点となる札は目標に零距離で密着している。その威力は、そこらの妖怪が弾幕ごっこで使うようなそれとは比べ物にならない。
轟音と共に、暴風が風とさとりを襲う。さとりは踏ん張っていたお陰で凌ぐ事ができたが、風はその勢いに抵抗するも真後ろにすっ転んでしまった。そして、爆心地となった江介はその勢いを殺すことなどできなかった。足が宙を浮く。踏ん張る事もできずに、彼は真後ろに吹き飛ばされた。
「しまっ――」
江介は空を飛べない。自分の能力を持つわけでもなく、元々際立って霊力等を持つわけでもない。その事実がここに来て、彼の運命を決める事となった。
放り出されたのは、足場の無い空中。その下には、哀れな犠牲者を糧として燃える獄炎が、落ちていく彼を今か今かと待ち受けていた。
刀は陸に届かない。今から裂け目を張るのは、座標の計算が間に合わない。下手に開けば亜空間に消える事となる。つまり、この状況は――詰みだ。
「――俺は……何を……」
誰にとも無く呟いたその言葉は、殺意に満ちた復讐鬼のものとは思えないほどにしみじみとしていた。
――――――
落ちていく。地獄の炎の中に落ちていく。体が燃えるように熱い。もはや感覚も無い。ただの痛みと、怨霊に増幅された恨みが渦巻くだけだ。しかし、感覚を切り離した思考だけは妙に明瞭に、終わっていく自分のことを思考できた。
死ぬ、ということを前にして考えてみれば、なんて愚かな生涯を過ごしたのだろうか、などと。そんな感情しか湧いてこなかった。記憶の中での彼は、いつも不機嫌そうでつっけんどんで、どう見ても与えられた生を楽しもうとする人間には見えなかった。八雲紫が彼を利用したのも、与えられていた九百年をまともに過ごそうとしない彼に対する彼女なりの贖罪だったのかもしれない。生きる目的を与える事で、死人のように修行を続ける彼の人生に何か、邪なものでも具体的で直接的な目的を、目標を与えてあげたかったのかもしれない。それは彼を利用した事には変わりないが、しかし彼にとってはそれは救いであった事は間違いなかった。
自分なりに復讐を考え続けて幾星霜。八雲紫から噂の妖怪の利用を聞いたときは、耳を疑った。唆しておいて何を、と紫に反抗した事もあったが、最終的にやがて噂の妖怪が目覚めれば彼に殺させ、目覚めなければそのままそれを復讐とする、という契約を交わした。結局、彼は自分の生きる目的を紫に委ねる事しかできなかったのだ。
その結末がこれだ。自分の存在が意味の無いものだという現実が受け入れられず、復讐に全てを求めて。結局、彼女の隣には理解者になりえる妖怪がいて、自分の隣には誰も残らなかった。それが真実なのだ。それが終わりなのだ。
「……何も、無かったな……」
朝露にも満たない一滴では、燃え盛る火炎を消す事など到底できなくて、彼は炎に包まれて行った――。
残り二話(予定)