ネルソン商会記 ~黒い商人の道筋~   作:富士富士山

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いつも読んでいただきありがとうございます。
今回はアラバスタを前にして日常話に近いですが
よろしければどうぞ!!



第4章 アラバスタ ~偉大なる航路~
第20話 幸せ者


偉大なる航路(グランドライン)” 外洋

 

 

 

 夜明け前、一日で最も寒い時間帯……。

 

 であるのは夜のうちに極限まで冷やされた大気が漂っているからだろう。

 

 だが、それと共にこの時間帯は一日に二つある最も美しい時間帯でもある。

 

 もうひとつはもちろん日没前。

 

 太陽の動きによって形作られるこの二つの時間帯ほど己の心を動かされる時間はない。

 

 

 

 俺たちは偉大なる航路(グランドライン)に入って最初の島、“静寂なる森(サイレントフォレスト)において政府の喉元に潜入させたヒナと再会し、武器製造者のパートナーを得て、抹殺にきたCP9は返り討ちにし、ナギナギの実を手に入れることは出来ずとも、ニコ・ロビンという次への足がかりを手中に収め、クロという未知の人間を複雑に絡み合い根が深そうな情報と共に船に乗せた。

 

 だが、上陸したときには静寂(サイレント)であったその島は出航する際には静寂(サイレント)ではなくなっていた。確かに音が存在していた。

 

 思い当たる節があるとすればそれはひとつだけ、ナギナギの実だ。あれがこの島を離れると共に音が再びあの地に戻ったのか、ナギナギの実に一体どれほどの力があるのか、そしてあの場所で逃した魚はでかいものとなるのか、深夜の慌ただしい出航の中でも俺たちは再考させられる事となった。

 

 

 とはいえ、出航した以上は次に目を向けなければならない。

 

 

 今は出航して1日が経っている。また新たな1日が始まろうとしているそんな夜明け前、6時からの当直で俺は船尾甲板に立っている。

 

 もう間もなく日の出だ。急速に辺りの暗闇は青味を増しつつある。風は逆風、出航してからの航海は決して順調ではない。何度も帆の調節をしつつの苦難に満ちたものであった。船員たちの疲労は慮って余りあるものだ。

 

 それでも、この時間だけは心を圧倒されるものがある。心なしか皆が生き生きとして見えるのだ。特にメインマストてっぺんで見張りに付いている者にはさぞかし壮大な眺めが期待できるだろう。あの場所は特等席だ。

 

 

 そして、この当直時間を使って俺は鍛錬を積む。舵輪とは離れた場所で人払いをして、射撃の1連動作を反復している。銃弾は無駄にできないので能力を使っての射撃練習だ。

 

 波の音、帆がはためく音、船が生み出す様々な音に、凍てつく寒気の中つんざく銃の発射音が一定間隔で重なっている。

 

 淡々としたその動作は心を落ち着かせ、己を無の境地に至らしめる。

 

「総帥。日の出時刻です」

 

 舵輪を握る者から声を掛けられる。

 

 頷きを返しながら動きを止めて、前方の甲板手摺へと向かう。青から白へと色を変え、さらに太陽の色が加わりつつある東の空。この場にいる皆がその方向を見つめ、暫し感慨に耽っているのがわかる。

 

 今日もまた1日が始まる。何物にも代えがたい美しさをこの一時は湛えている。

 

 

「カール……、言いたいことがあるなら言ってしまえよ」

 

 背後の海図台脇にいるカールに向けておもむろに声を掛ける。

 

 普段ならこの当直時間帯は下で休んでいるカールが珍しく船尾甲板に姿を見せて、俺の一挙手一投足を見つめていた。何か話しておくことがあるに違いない。ローからの話を受けて大方察しは付いているが……。

 

「総帥……。……、僕を……小間使いから外して下さい!!」

 

 意を決したかのようなカールの言葉が背後より飛んでくる。

 

 そうきたか……。

 

 こいつの機転が利いて行き届いた配慮と気配りは何とも捨て難いがな……。

 

「もう守られてるだけじゃダメなんです。僕は……ネルソン商会がもっと大きくなっていくものだとそう思っています。その時に僕は強くて立派な……戦う交易商人になっていたいんです。お願いしますっ!!!」

 

 カールの決意表明に対し、幾許かの間を取った後に、

 

「そうか……」

 

と、俺は言葉を口にしてゆっくりと背後へと振り返る。

 

 俺は鍛錬もあってか寝間着同然だが、カールは大切な事だと考えたのだろう正装姿だ。両の手を拳にして力を込めているのが見て取れるし、とてもいい顔をしている。

 

 この場を抜けていく寒風が実に心地いい。俺は目を一旦閉じて見開いた後に、

 

「いいだろう。稽古もつけてやる。……だがカール、口にした以上はそうなって見せろよ」

 

と、こいつの目をしっかりと見据えながら言ってやる。

 

「はいっ、ありがとうございますっ!! よろしくお願いしますっ!!!」

 

 カールは大音声と共に直角のお辞儀を披露して見せてくる。

 

 周りの船員たちの武者震いをするような緊張感も感じられる。

 

 

 

 今朝はとびきりの美しい時間となったな……。

 

 

 

 

 

 

「始めようか」

 

 9時までの当直兼鍛錬の時間を終えて朝食を口にし、船室にジョゼフィーヌ、ロー、そして件の人間を呼び入れている。俺は船尾窓後ろのデスクに座り、右横と左横にそれぞれローとジョゼフィーヌが移動させたソファに座っている。正面で3人の視線を受け止める件の人間はクロだ。いや、クラハドールと言うべきか……。

 

「私たちネルソン商会があなたと契約を交わすかどうかにあたって、これまでの詳細を知る必要がある。細大漏らさずに……。あなたにこれまでの経緯を語ってもらって、その上でいくつか質問をさせてもらうわ。ローのポリグラフに掛けた上でね」

 

 ジョゼフィーヌが副総帥兼会計士として口火を切る。心の中でどのように思っていようが今この場においてこいつの声音には一切の感情もこもってはいない。

 

 そして、この厳かな場においては俺たちはもちろん正装姿である。

 

「その前に……、俺たちはおまえをクロとそう呼んでいたかもしれねぇが、事情が変わった。今朝届いた新しい手配書だ。使い分けるのも面倒だからクラハドールと呼ばせてもらうぞ」

 

 そう言ってローは4枚の紙から1枚を取り出してクロ改めクラハドールに見せてやっている。

 

 “脚本家” クラハドール 7000万ベリー

 

 俺たちはと言うと、

 

 “黒い商人” ネルソン・ハット 2億8000万ベリー

 

 “死の外科医” トラファルガー・ロー 2億ベリー

 

 “花の舞娘(まいこ)” ネルソン・ジョゼフィーヌ 9000万ベリー

 

であり、女CP9が何を伝え、政府上層部がどう考えたのかわかるというものだ。

 

 新聞には静寂なる森(サイレントフォレスト)の件は何も記載されてはいない。起きた事は一切もみ消されているが、俺たちの賞金額だけは上がっている。

 

 政府は俺たちをかなり危険視している。あと一押しで懐柔してくるか……。

 

 

 正面でソファに座るクラハドールは見せられた手配書に対し特に興味も見せず、小テーブルに出されているコーヒーを一口啜って余裕の表情である。

 

 脚本家……。その場で一瞬にして複数の筋書きを頭に浮かべて最良のものを選び取る。……異名の付け方を考えると政府も馬鹿ではないな。

 

「好きなように呼べと言ったはずだ。さっさと始めようじゃねぇか、面接をな」

 

 そう言いながらあの掌でメガネをくいと上げる仕草を見せてクラハドールが語り始めたこと……。

 

 

 3年前まで東の海(イーストブルー)にてクロネコ海賊団船長、百計のクロとして略奪の限りを尽くしていたが追われる事に嫌気がさして、海軍に偽のクロを部下の催眠術で仕立てあげて引き渡すことで世間的に己を殺害して海賊を辞め、ある計画を発動させた。

 

 それは3年間、平穏な村の資産家宅において温和かつ従順な執事を演じて信用を得た後に、元部下であるクロネコ海賊団に村を襲わせ、どさくさに紛れて資産家の後を継いでいるか弱い娘にこれまた元部下副船長の催眠術で遺書を書かせた後に殺し、まんまと金と誰にも追われる事のない平穏を手に入れる計画であった。

 

 だがその計画を潰された相手があの麦わらだと言う。無音の移動術と両手に嵌める武器“猫の手”を駆使して麦わら小僧と戦うも敗れて計画を狂わされた。

 

 そこでクラハドールは一旦話すのを止めた。

 

「何よあんた、ちんけで下手な盗人が考えそうな計画をいきなり現れたルーキーに潰されて、それでも百計と言えるの? バカみたい」

 

 ジョゼフィーヌの言葉はこいつを快く思っていないのもあって全く容赦がない。だがここまで聞く限りはわが妹の言う通りだ。ローは無言でいる。言うべき事は何もないということだろう。

 

 頭上からは野太い声が聞こえてくる。この時間帯は本来であればべポが当直時間であるが、先の戦闘でさすがにまだ安静にしている必要があるため急遽ロッコが当直に立っている。

 

 そんな事が頭に浮かびながらコーヒーカップを口に持っていく。

 

「そうだな」

 

 クラハドールが口にした言葉だ。ジョゼフィーヌの口撃にも怒りの表情一つ見せてはいない。そして再び口を開く。

 

 

 計画は常にプランA、B、Cの3つ用意しているという。Aは当初の計画で、Bはかなり現実的な計画、そしてCは最悪を想定した計画。計画が失敗に終わって麦わら小僧への恨みつらみが募るも、今更海賊に戻るつもりはなく、プランCに移った。

 

 それが、海軍との癒着。絶対正義を掲げる組織も完璧ではないので幾許かの腐った奴らは存在するものであり、そいつらと結託して追われる事のない平穏を得る。そのためには常に上に立って操る能力がいるということで、賞金稼ぎとなって見境なく荒稼ぎをし、元部下たちも懸賞金を付けさせた上で海軍に売り飛ばし、それを元手に情報を買い悪魔の実を手に入れた……という。

 

 そこでまたクラハドールは話すのを止めた。

 

「何よ、そんなのあんたも海軍の腐った奴らと同じ穴の(むじな)じゃない。……もう兄さん、こんな奴考えられないわ!!」

 

 ジョゼフィーヌがとうとう耐えられないとばかりに俺の方を見てくる。

 

「クラハドール、俺たちの向かう先はドフラミンゴを潰して奴の代わりに闇の仲買人になることであり、その先には政府の五老星を引きずりおろす仕事が待っている。おまえは能力で俺たちが四商海に入る事を見据えていて、そこで追われる事のない平穏を手にできると思っているかもしれないが、俺たちの先に平穏が訪れる事なんて金輪際あるわけがない。おまえのそんな心持ちようでは到底やってけないが?」

 

 俺も痺れを切らしてそんな言葉を口にする。俺の目利きは間違っていたとでもいうのか? 所詮こいつは東の海(イーストブルー)クラスの海賊でしかないのか? 

 

 時折激しく揺れる船内は、船が波窪を越えている様が想像できる。上ではまた帆の向きを小刻みに変える作業が続いているのだろう。思うように進めない航海がこの場の状況に重なってきて先行きの悪さを暗示しているようでもある。

 

 ましてや、

 

「そうだな」

 

と、俺の問いかけに対しクラハドールは短く呟くのみなのだ。

 

 

 

 だがメガネを上げる妙な仕草をした次の瞬間、空気が変わる。

 

 まったくの無表情とは打って変わっての剣呑な視線からは射殺すかのような殺気が、船室内に突如風を起こすかのような覇気が感じられる。

 

 

 そして、

 

 

「モヤモヤの実、こいつを食う前の俺ならな……。そもそもこいつを食ってなければ俺はこの海に入る事さえしてねぇだろうよ。こいつが俺の考えを180度根底から覆した」

 

と言いながらクラハドールは戦闘の際見せた不敵な笑みを浮かべる。

 

「想像できる事ってのは恐ろしいもんだ。一瞬にして己の弱さと浅はかさを叩きつけられる。麦わらが最後に残した言葉がすぐに甦ってきやがった、海賊王になるってな。奴の自信満々な声音と共にだ。俺には奴の道筋が想像できた。俺が実を食う前に目にしたあらゆることが全て相関図となって頭の中に現れてきた。一瞬にして世界を、この世の原理を理解した。貴様の言う通り、この世に平穏なんて文字は存在しねぇ。平穏を追い求めたところで見つかりはしねぇ。この世は不穏に満ち満ちてやがる。俺はその場で狂ったように笑ったもんだ。まるで聖杯を探すかのような己の滑稽さにな。平穏なんて言葉はあの海に捨ててきた。俺は不穏に身を浸らせたくてこの海にやって来たのさ」

 

 そこで言葉を切るクラハドール。

 

 俺に対して貴様と言うあたり、かなり言葉が迸っているな。クールな奴かと思っていたがローのように奥底に熱いものを秘めてやがったか。

 

「俺にはトップの器がないことは十分理解している。故に貴様等を探してた。俺の計画立案能力を最大限に生かせる場をな。微細に練り込んだ計画を持ってこの世で最も危険な目的を成就させる事に投じたい」

 

 クラハドールが断固とした口調で己の目的を口にする。

 

「フフ、……面白いじゃねぇか」

 

 ようやくローが言葉を発してくる。俺も同意だ。

 

 今度はジョゼフィーヌが無言になる番である。

 

 

 こうしてクラハドールのクロとしての経緯を聞き取り終え、そのまま質問に移る。

 

 ローが能力を行使し、船室内にROOMを張ってポリグラフの準備に入る。クラハドールの呼吸、脈拍、血圧の動きを測って、何でもない質問と核心を突いた質問で比較し異常を探し出すわけだ。異常があればそれは、嘘をついているか本心から出た言葉ではないということになる。

 

 質問はジョゼフィーヌが言うようないくつかではなく無数に飛ぶ事となった。

 

 ローがいきなり、麦わらに対してはもう何も思うところはない、とぶちかましてみたり……。

 

 ジョゼフィーヌは、村の少年ウソップに殴られた事に何も思うところはない、と針で突き刺すような質問を飛ばしてみたり……。

 

 俺がした質問と言えば、最も危険な目的を成就させた暁には何かしらの平穏が待っているのかもしれない、というものだ。

 

 この3つに限らずクラハドールは全ての質問に対して、いいえ、で答えるわけであるが質問の意地が悪すぎるのか少なからずの反応が見られたようである。

 

 まあ誰にせよ人間は感情の(しもべ)であるからして全てを無かった事にはできないのであろう。

 

 概ねの質問に対しては嘘はなく本心から出ているものと判断できるとローからの報告を受けて、

 

「ジョゼフィーヌ、契約書の用意だ」

 

と、俺は次のステップに進むことを宣言する。

 

「ひとつ重要な条件がある。俺は基本的に戦闘はしない」

 

 クラハドールが契約の話になって会計士のような声音で言葉を口にする。そうなるとメガネを上げる仕草も会計士然として見えてくるから不思議なものである。

 

 ジョゼフィーヌからの、はー? 却下という心の声が聞こえてきそうな条件だ。

 

「もちろん仕掛けられれば戦わざるを得ないが、自らは戦わない。俺は黒子に徹する」

 

 クロだけにか? オーバンならここでそんなダジャレを言い出しそうではあるが、俺にはそんな事は出来そうもない。

 

「入れたい条項はいろいろあるでしょうけど、それは後で喧々諤々やりましょう。私から言っておくことはひとつ、あんたの部下を売ってお金に換えたって部分が気に食わないわ。もしそんなことをここでやったらタダじゃおかないから。今すぐ殺してくれって言うぐらいの生き地獄を味わわせてあげるからそのつもりで」

 

 ジョゼフィーヌ、おまえは本当におっかないな……。

 

 おまえもやり方は違えど船員から金を生み出そうとしてるだろ、なかなかえげつないやり方で……、とは口が裂けても言える筈がない。

 

「じゃあ代わりに執事をやればいい。カールが小間使いを離れるんだ。3年の執事経験は伊達じゃねぇんだろ?」

 

 ロー、おまえのバランス感覚は大したものだ。これで事が穏便に運ぶってものだよ。

 

「決まりだな」

 

 俺の締めくくりに対しクラハドールは素早く立ち上がって直立不動の姿勢を取り、

 

 

「よろしくお願いします」

 

 

と、背中に鉄板でも仕込んでいるかのような見事なお辞儀をして見せる。

 

 

 ジョゼフィーヌ、ロッコ、オーバン、船員たち、それに乗船はしていないがヒナは結成当初からの、ローは10年来、最後のカールやべポでも7、8年以上の付き合いだ。その中に誰かを入れるというのは澄み渡る池に石を投じるようなものであり、それ相応のリスクが伴う事だろう。

 

 ヒナからの詳細な報告書は時間の都合上もうしばらく掛かる。

 

 

 

 だがそれでも、

 

 

 

こいつは本当に俺の左腕になるのかもしれないな……。

 

 

 

 

 

 

 

「ボス、申し訳ありませんでしたっ!!」

 

「総帥、申し訳ありませんでしたっ!!」

 

 午後に入り昼食も終わって、俺の船室内にはべポとカールがデスク前に直立不動の姿勢で謝罪をしている。“静寂なる森(サイレントフォレスト)でのシルクハットを捨ててニコ・ロビンを追跡した件だ。

 

 べポは絶対安静の筈だが、傍らにローが後見役のようにしているので無理矢理連れ出されてきたか、カールにけしかけられたのか。

 

「ローが言った事を俺がここで繰り返しても仕方がない。反省文もこの通り受け取ったし、おまえたちが十分に反省している事は伝わったよ。おまえたちのお蔭でニコ・ロビンを逃さずに済んだわけだしな」

 

 しっかりと正装姿をしている二人に対し、厳しく叱るということはもうしない。

 

 

 そう言えばニコ・ロビンはどうしているだろうか? 俺たちは奴を捕虜にしたわけではないので、船内にて普通に生活をしている。

 

 さすがにこの“偉大なる航路”外洋で逃げるという選択肢はないであろうから。もちろん自由勝手に船内を徘徊されても困るので誰かを代わる代わる付けてはいる。

 

 膨大な仕事量を抱えているジョゼフィーヌが何かしらの仕事を手伝わせてもいる筈だ。もちろん知られては不味い事もあるから内容はよくよく吟味しているであろうが。

 

 昼食時には食堂にも姿を見せ、アツアツのピザをそれは見惚れるような上品な仕草で口に運んでいたものだ。

 

 

 そんな考えを巡らせているとドアからノック音がしてくる。

 

「兄さん、入るわよ」

 

 おいおい、ジョゼフィーヌじゃないか。まずいぞ……。

 

 ジョゼフィーヌの声に眼前の二人はビクッと体を震え上がらせている。

 

 いち早くジョゼフィーヌの登場を感知していたのであろうローがドア前に移動しており体で蓋をして開かない様にしている。

 

「ちょっと、何これ? このドア重いわよ」

 

 ドアの向こう側から聞こえるジョゼフィーヌの声。

 

 ローの行動に対し、謝罪に来た二人はまるで希望の眼差しを向ける哀れな仔羊たちだな。

 

 それもそうだろう。この場にジョゼフィーヌが現れればどんな修羅場が勃発するのか想像するに余りある。

 

「ちょっと、ローでしょ、そこにいるのは。あーっ、中にいる二人はべポとカールね。……ふーん、そういうことか」

 

 ジョゼフィーヌが見聞色偏りであったのがおまえたち二人の運の尽きだったな。

 

「ロー、そんな真似していいと思ってるの? この船で会計士に刃向かったらどうなるかわかってないわけじゃないでしょう? これから永久パン食にしてあげてもいいのよ」

 

 おいおい、大層な殺し文句だな。ジョゼフィーヌっ、おまえは本当におっかない。

 

 ローが苦渋の顔を見せているぞ。己の食を取るのか、かわいい後輩を守る事を取るのか。

 

 幾許かの時間の後にローがそっと横にずれる。断腸の思いで己の食を選んでしまったローの姿がそこにはある。

 

 その瞬間のべポとカールの顔は見てられないものがあった。

 

 後の事は推して知るべし。

 

 二人はジョゼフィーヌに引きずられるようにして俺の船室を後にして行った。

 

 ただローの名誉にかけて付け加えておくならば、あいつも後を追うようにして闘いに行ったことだ。

 

 

 

 べポ、カール……、そしてロー、健闘を祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 窓外はすっかり闇に包まれている時刻。

 

 ここ食堂は当直外船員の夕食もあらかた済んでしまっており、賑やかな喧騒は存在していないが、船尾奥ステージでは船医助手のピーターがピアノを奏でており、当直外の船員何人かがその荘厳な調べに体を委ねて休息を取っている。

 

 それにしても医者というものはローにせよこのピーターにせよ、手先の器用さがなせる技なのかすこぶる演奏が上手い。まったくもって羨ましい限りではある。

 

 上ではロッコが今日最後の当直に立っている事だろう。夜の航海は熟練のロッコに任せるに限る。

 

 とはいえ、べポの離脱でロッコの負担は増しているのは気がかりではある。せめてもの救いは風が順風に変わった事だろうか。それだけで今朝がたや昼間とは仕事量が雲泥の差となる筈だ。

 

 今俺はキッチン越しに据えられているカウンターに一人佇んでいる。船尾側は灯を落としていてピアノ音にたゆたう空間ではあるが、このキッチン周りだけは煌々とオレンジのランタンが灯っている。

 

 キッチンで明日の仕込みに余念がないオーバンの機敏な動作を眺めながら、眼前のグラスにて丸氷と共にまどろむロイヤルベルガーを口に運ぶ。

 

 今日も一日色々あったもんだ……。

 

 ふとカウンターから背後を振り返り、船材に貼られている献立表に目を向けてみる。

 

 大体はオーバンが会計士のジョゼフィーヌと相談をして決めていくものだが、希望を伝えることもできる。その場所がこの献立表と言うわけだ。皆思い思いに食べたいものを希望として伝えているわけであるが、一際目立つ字で記されているものがある。

 

 断固として、握り飯……。

 

 おお、心からの叫びだな。

 

 考えるまでもなくローの字である。

 

 だが、

 

その文字には×が付けられており、

 

下には、

 

会計上の都合によりパンとする、の言葉が記されている。

 

 何だよ、会計上の都合って……。

 

 ジョゼフィーヌの殺し文句のひとつだ。

 

 

 もしかしてあれか……、昼間のべポとカールの件か。結果どうなったか聞くのも野暮だと思い聞けずじまいではあったのだが……。

 

 ローよ……、おまえは闘ったんだな。紙とペンと口を動かして鉄槌を下してくるわが妹に対して果敢にも。

 

 その結果が会計上の都合によりパンとするか……。

 

 さらに横に書かれている、ただし1週間の文字におまえの壮絶な闘いの痕跡が垣間見えるよ。

 

 ローよ……、おまえは本当にいい奴だな。

 

 べポとカールもお前の背中が大きく見えて仕方がないだろうよ。

 

 そんな想像の果てに心の中でローにエールを贈って再びキッチンに振り返り、ロイヤルベルガーを口にする。

 

 

 あぁ、美味い。沁み渡るな……。

 

 

 俺の心の声が聞こえたのか、すっと目の前にクラッカーに乗ったスモークサーモンにチーズが添えられた小皿が置かれる。

 

「美味い酒には、うまいもんがないとあかんわな」

 

 オーバンが笑顔で目の前に立っている。

 

「ここは例のおばんざいなるものを出すところじゃないのか?」

 

 オーバンの気が利いた一皿に俺も軽口を叩いてみる。

 

「ははっ、おばんざいをな、ロイヤルベルガーに合わせて用意するんは、ジョゼフィーヌから賃上げを勝ち取る事より難しい事なんやで」

 

 ……それは確かに困難を極めるな。

 

 オーバン得意の軽口返しに俺は真剣に考えてしまいながらも、早速出されたスモークサーモンをのせたクラッカーを頬張り、ロイヤルベルガーを口にしてみる。

 

 あぁ……、最高だ。

 

 

 

「なぁ……オーバン、おまえは何で俺に付いて来てくれたんだ? 俺たちの道は明日の希望もないような果てないもんだ。おまえなら島を出てもいい料理人になれただろうに……、何でだ?」

 

 俺はほろ酔い気分に任せて、今まで聞くに聞けなかった事をここぞとばかりに口にしてみる。

 

 すると、オーバンはふと作業の手を止めて珍しく真剣な眼差しでこちらを見つめた後に両手を左右に広げて首を振り笑顔を見せ、

 

「これやからベルガーのぼんぼんは……。ほんまかなんわ」

 

と言って一旦切り、

 

「おまえはほっといたら死に急ぎよるやろ。おまえもジョゼフィーヌも突っ走るところは大して変わらん。まあ、あいつの方がおまえよりも余計に突っ走りよるけどな。せやからわいが手綱引っ張って引き戻してやらなあかん思うてな。おまえらネルソン家とは長い付き合いや、新聞で死んだんを知らされることほどあほらしことはないやろ? おまえらが死ぬ時はわいが見届けたい思うてな。そういうこっちゃ。まあおまえの後ろは任しとき、危のうなった時はわいが引き戻したるさかいな」

 

はっはっはっ……ときたもんだ。

 

「おまえの前をジョゼフィーヌが走りよって、後ろはわいが引き戻そうと構えとる。右ではローが腕を貸して、左では新しいクラ何とかが腕を貸して、下ではロッコ爺がおまえっちゅう神輿をしっかり支えとる。上におるんはべポとカールや。……ほんまおまえは幸せ者やで」

 

 最後のオーバンの言葉は酔いを醒めさせるように弾丸の如く俺に深々と突き刺さってくる。

 

 かと思えば、

 

「そう言えば、さっきおったニコ・ロビンも言っとったわ。この船には意外とおもろい奴が乗ってるなってな」

 

オーバンよ……、少なくともニコ・ロビンはそんな口調では言わなかっただろうがな……。

 

 カールがしきりにニコ・ロビンはお姉さんじゃなくてキレイなお姉さんだと訂正する気持ちも何となくわかる気がしてくるっていうものだ。

 

 確かにわが商会の怖~いお姉さんとは大違いだろうからな。……もちろん、絶対に口外はできない考えではあるが。

 

 

 

 とはいえ、こいつの言う通りに俺は幸せ者なのかもしれないな……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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