阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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[壁]サッ

時系列はバラバラだったりします。当日だったり、少し前だったり、その後だったり。


幕間 死とは、一つの区切りである

 その人間が死んだ報せは、幻想郷全土にまたたく間に広まった。

 訃報を聞いた誰もが静かに目をつむり、納得したようにうなずくのは皆が薄々と感づいていたからだろう。

 彼は亡くなる少し前から、この時を予見していたように色々と動いていた。

 

 全てこの時のためであったと言われれば納得できた。英雄と呼ばれる以前から死に至るまで、およそ人間離れした行動をしても納得が得られるだけの信頼と実績を彼は積み重ねていた。

 

 多くの人妖に慕われ、畏敬を集めていた。当然、彼が死ぬのを聞いた時、皆の胸には悲しみの感情が溢れていた。溢れていたが――不思議と涙は流れなかった。

 

 

 

「親父、こんな感じでいいか?」

「ん、それでいいだろ。お前の体型に合って良かった」

 

 そう言って親子の会話をするのは、黒一色の喪服に身を包んだ駆け出し魔法使いである霧雨魔理沙と、同じく喪服に身を包んだ彼女の父親である霧雨弥助の二人だ。

 親と子。両方ともに物心ついた頃から見知っており、何くれと面倒を見てくれた人物の死であるため、魔理沙もこの時ばかりは実家に戻って葬儀の準備を進めていた。なにせ喪服など魔法の森の家には置いてないのだ。

 

 父親の準備が整うのを見て、不意に店の窓から空を一瞥する。

 彼の知り合いは魔理沙や弥助は言うに及ばず幻想郷全体に広がっていて、なおかつその大半から程度の差こそあれど慕われていた。

 そのため彼の死が知らされた現在、幻想郷は誰もが静かに彼の死を悼んでいるが――空は矮小な存在のことなど知らぬとばかりに晴れ渡っていた。

 

「……爺ちゃんが死ぬなんてなあ」

 

 どこまでも飛んでいけそうな空を見ていると、彼が死んだという話が嘘のように思えてくる。

 今もまだ、魔法の森で部屋を汚していたら彼が抜き打ちで見に来るんじゃないか、という気さえしているのだ。

 

「別に不思議なこっちゃない。親父とお袋も死んで、歳食ったやつが先に死ぬのは当たり前のことだ」

「親父は悲しくないのかよ」

「悲しいに決まってんだろ。物心ついた時から何回世話になってるか数え切れねえくらいなんだ。お前の面倒を見てもらったり、霖之助を紹介してもらったり、おれが商売の道に進むきっかけをくれたり……断言しても良いが、あの人がいなかったらお前は生まれてないからな」

「むしろどんだけ世話になってんだよ……」

 

 一周回って呆れてしまう。ほとんど人生の節目節目で彼の助力を受けているようなものではないか。

 でもまあ、と弥助は思い出を振り返るように顔を上げる。

 

「世話になりっぱなしじゃいけねえし、あの人はきっとそういうのも見越してると思うんだ。頭もすげえ良かったからなあ」

「ここに来るまで人里の色んな人を見てきたけど、やっぱ爺ちゃんってすごかったんだなあ……」

 

 間違いなく恐れられてもいた。しかしそれと同量か、それ以上の尊敬も集めていた。

 もちろん、魔理沙も彼のことを慕っていた。部屋を汚くしていると容赦なくゲンコツと小言が飛んできていたが、それは彼女が不摂生な生活を送って体調を崩してほしくないという、確かな思いやりがあったのだ。

 

「そうだな。あの人がいなきゃ今の幻想郷はなかったって思うくらい、大きなことを成し遂げた人だった」

「そっか。……じゃあ、頑張らないとな」

 

 もう二度と会えないという悲しみはある。あるが、それ以上に魔理沙の胸には大きな感情があった。

 

 ――託された。

 

 どうしてそのように思うのかはわからないが、とにかく自分たちは託されたのだと強く思うのだ。

 だから今、彼女は泣いたりうつむいたりすることなく前を見ることができた。

 

「行こうぜ、親父。きちんとお別れして、多分その時に大泣きして――明日から胸張って生きてくためにさ」

「ああ。あの人みたいに、ってのが無理でも。おれたちなりに頑張っていかないとな」

 

 

 

 

 

 天魔はその報告を聞いてうんざりしたようなため息を零し、自己嫌悪するかのように己の額に手を当てた。

 あまり見たことのない姿に文はやや驚いて彼の様子を見る。

 

「て、天魔様?」

「ん、悪い。ちと自分が嫌になってた」

「自分が嫌、とは?」

「政敵が死んでありがたいって気持ちが少しでも湧いた自分に嫌気が差したってことだ」

 

 彼と天魔の関係は一面を切り取れば政敵である。

 天魔は天魔の守護する妖怪の山を。彼は彼の所属する人里を。どちらも自分の所属する組織の価値を高めるべく、平時からあれこれとやり合っていた。

 

 見据えている方向性は同じで、長い付き合いになるため可能な限り両方が得をするよう互いに意識していたが――それでも細かい部分で損得は出てくる。

 その点で天魔と彼は何度も争い、そして自分が負け越していたと天魔は認識していた。

 

 そんな風に互いに利益を求めて争う関係ではあったが――同時に天魔は彼のことをかけがえのない友人であると思っていた。

 友人が死んだことを悲しむべきなのに、喜びの感情がほんの一欠片でも浮かんでしまったことが、彼にとって何よりも穢らわしいと感じたのだ。

 

「文、葬儀の話は出たか?」

「人里中がその話で持ち切りです」

「オレは葬儀に出る。お前は好きにしろ」

「私も行きますよ。昔も今も英雄だった人間の死という特ダネで――私も、苦手でしたけど彼のことは好ましく思ってましたから」

 

 鬼すらも退けた力量を持ちながら、最後まで彼は妖怪全体の敵にはならなかった。

 ちっぽけな妖猫でも、取るに足らない河童であっても、かつて異変を起こした吸血鬼であっても、彼は自分に友好的な妖怪を無下にはしなかったのだ。

 最後まで変えなかった彼の在り方は文も好意的に感じていた。彼自身の人間性は未だ苦手なままだが。

 そうか、と天魔は適当に相槌を打って腕を組む。

 

「……文」

「はい、どうしました?」

「オレは優秀だ」

「……はぁ?」

 

 突拍子もないことを言い始めた天魔を文は怪訝そうな顔で見るも、天魔は構わず話し続ける。

 

「知恵も武術も速さも、天狗の中でオレに敵うやつはいない」

 

 速度は文も天魔に追従できるだけのそれを備えているものの――紙一重で天魔の方が速い。

 ほんの僅かな差であるはずだが、文が能力に目覚めてから今に至るまでずっと僅差で負けているため、その紙一重は決して薄くはないのだろう。

 

「大妖怪の連中だってそうだ。相性の良し悪しがあったり、どっちか片方でオレを凌駕する奴がいても、それ以外ではオレが勝っていると断言できた」

「……そうですね。天魔様が最終的には勝利するのだと信じているからこそ、私もついていきますから」

 

 時に知恵で、時に武力で。遥か昔に入念な根回しがあったとはいえ、彼がたった一人で当代の大天狗と天魔を全て退けて天魔の称号を奪い取った日から、彼は全てに勝ち続けた。

 八雲紫との情勢争いにしてもそうだ。彼女の庇護下にありながら、天魔は妖怪の山の地位を決して崩すことなく今の今まで維持し続けている。

 

「誰かに負けるなんて許されない。オレは天狗の長であり、妖怪の山を治めるものだ。……だが、数十年前の倦怠はオレも蝕んでいたらしい」

「というと?」

「人間と妖怪が関わらない時間は退屈で仕方なかった。……今まで積み上げたものを崩す誘惑、ってのがあったのも否定はしない」

「天魔様……」

「お前だから言うんだぞ? オレが天魔を名乗る前からの付き合いなんだからな」

 

 極めて珍しいことだが、どうやらこの天狗の首魁は文に弱音を吐いているらしい。天魔としての彼は誰にも弱みを見せず、常に飄々と――虎視眈々と全てを睥睨しているので、ひときわ珍しく映る。

 ともあれ今は部下として対応するのではなく、とうの昔のものであった対等な友人として接するべきだろうと文は判断し、口を開いた。

 

「……あなたの愚痴を聞くのは久しぶりね。大天狗を殺した時だって何も言わなかったのに」

「あれはオレの力不足だ。旦那がいなけりゃ一人だけの死者で済んだかどうか」

「私とあなたがいたのだから、最終的な勝者は変わらなかったでしょうけどね」

「さてな」

 

 軽く肩をすくめ、天魔は部屋の窓から外を仰ぎ見る。

 

「……もっと遊びたかった。人間の一生は短くて早すぎる」

「あなたが彼のこと、そこまで買っていたのはちょっと意外に思うわ」

「オレと文武両方で互角以上にやり合える好敵手だったからな。両方でオレを凌駕しうる、ってのは初めてだった」

 

 八雲紫が相手でも、伊吹萃香が相手でも、あらゆる手段が使えるのなら最後に勝つのは己であるという自負が天魔にはあった。

 しかし、あの男は別だった。抱えている戦力など比較にならないだろうに、取れる手段の幅も天魔の方が圧倒的に大きいだろうに、それでもなんとかしてしまいそうな何かがあった。

 

「オレをああもやり込めたやつなんて後にも先にも旦那だけだ。本当に――楽しい時間だった」

「――それだけかしら?」

「あん?」

「それだけか、って聞いたのよ。あなたがあの人との時間を大事にするのは良いけど、それだけで今まで積み上げたものを終わりにするつもり?」

 

 文の詰問にも近い言葉を受けて、天魔は一瞬だけ目を見開く。

 普段は部下として扱い、今は昔馴染みとして扱っている彼女の言葉はハッキリと天魔を糾弾する意味が込められていた。

 

「彼が凄まじいのは認めるわ。吸血鬼も、地底の鬼も、花の妖怪も、スキマ妖怪も。彼を認めない輩は一人もいない。もちろん、私だって」

 

 彼が阿礼狂いと呼ばれることも理由にあるだろう。間違いなく狂っているのに彼が選んだ人間として生きるという、危うさを孕み歪んでいたその生き方に、彼女ら妖怪は尊いものを見出した。

 切り捨てなければならない場面に直面するまで何もかも背負うことを選んだ少年は、本当にその生涯を終えるまでほとんどのものを切り捨てなかった。

 

「でもね――あなたが背負い続けた私たちの価値は、決して彼に見劣りするものではないわ」

「…………」

「自分が背負っているものを貶めないで。……あなたはこれから先も妖怪の山を導いていく唯一人の天狗――天魔様なんですから」

「……文に言われちまうとはな。普段は自分に言い聞かせていたんだが」

 

 一つ、息を吐いて天魔は自身のまとう空気をいつも通りの――天狗の首魁としてのそれに切り替える。

 

「だが、たまには他人に言ってもらうのも悪くない。次はもうないだろうけどな」

「生意気。私はそんなに頼りないかしら?」

「まさか。さて、これからのケジメをつけるためにも、まずは我らが愛すべき人間を弔おう。――ついてこい、文」

「あなたの選んだ道をどこまでも、天魔様」

 

 

 

 

 

「――そう」

 

 彼の訃報を聞き、レミリアは静かにうなずいてカップの紅茶を飲む。

 報せを伝えたメイドの少女――咲夜は臣下の礼を取りながらも手が震えていたが、レミリアはあえて気づかないフリをした。

 

「はい。後日、葬儀を執り行うとのことでした」

「里の様子はどうだった?」

「程度の差こそあれど、誰もがあの人の死を悼んでいました」

「でしょうね。そうでなければ許さないわ」

 

 淡く、儚げに微笑んでレミリアはまだ中身の残っている紅茶のカップを置き、そこに自分の手をかざす。

 

「――咲夜、私のような吸血鬼は世間一般で言うところの悪であることは知っているわね」

「はい」

「あれじゃ言葉が足りてないのよ。吸血鬼というのは――存在そのものが神を冒涜し、辱める化外であると私がここに来る前にいた国では言われていたわ」

「……存じております」

「まあだからどうしたって話よね。存在そのものが罪です、と言われてハイすみませんでした死んで償います、なんて言うバカはいないわ」

 

 今の今までそれを気にしたことはなかった。そんなことより自分がどういった風に楽しく生きていくかを考えることの方が遥かに有意義だし、建設的だ。

 

「……咲夜。私は悪なのよ」

「……お嬢様、どうかされましたか?」

「つまり、私を打倒したおじさまは正義なのよ」

「申し訳ありません、話が――」

「今、私は生まれて初めて神さまってやつに祈っているの」

 

 レミリアの伸ばした手が震えていることに咲夜も気づく。

 その震えを押さえるようにもう一つの手も重ねられ、指と指が絡まり――何かへ祈る形となる。

 

「悪である私を倒したのだから、おじさまは安らかに眠る権利――義務があるのよ。誰にも邪魔されない、邪魔をされてはいけない義務が」

「…………」

 

 咲夜は何も言わずその光景を見ていた。何かを言うことが主への侮辱であると、根拠もなく思ったのだ。

 無言の静寂がしばし続き――そしてレミリアの生涯で唯一度の神への祈りが終わると、再びレミリアは紅茶に手を伸ばした。

 すっかり冷めてしまっていたそれを、しかし何も言わずに飲み干す。

 

「私がおじさまのことを愛しているのは知っているかしら」

「何度も聞かされましたから」

 

 人間に理解できるものではないが、レミリアは自分のルールに則って彼を真摯に愛している。

 愛されていた彼は迷惑そうな顔を隠さなかったものの、最後には一定の理解を示したのを覚えている。

 そして彼女は今なお自身の愛を過去形にしていなかった。それはつまり――死後も変わらず愛し続けると言っているのだろう。

 

「欲しいものは全部ぶんどる主義なのよ」

「それも存じております」

「おじさまのこともそりゃもう欲しかったわ。欲しくて欲しくて夜も眠れないくらいよ」

「代わりにお昼寝してましたけどね」

「でも――私が欲しかったのは絶対に自分の道を曲げなかったおじさまなの」

 

 吸血鬼、天狗、地底の鬼、スキマ妖怪、人と妖怪が関わりを絶っていた幻想郷の情勢そのもの。

 全てを前に彼は一歩も退かず、世界の変革さえ成し遂げて己の意思を貫き通した。

 あれこそがレミリアにとっての太陽だった。手を伸ばせば我が身を滅ぼしかねないと理解してなお、手を伸ばさずにはいられない輝き。

 

 血の一滴でも飲ませれば己に服従させることは可能だった。おそらく成功する機会もいくつかあった。

 しかし、そうして彼の道を捻じ曲げてしまったら、それはもうレミリアの欲しかったものではないのだ。

 

「それで結局、最後まで私のものにはできなかったんだけどね。やっぱり血を飲ませておけばよかったかしら」

「……その方がお嬢様は後悔されてますよ」

「咲夜がそういうのなら、その通りなのでしょう。咲夜こそおじさまが死んだことにショックを受けていたようだけど、大丈夫かしら?」

「先達として尊敬していましたから思うところはございますけれど、こちらがありますので」

 

 そう言って咲夜が取り出したのは一冊の書物だった。

 題名は書いておらず、紙も新しいもののようだが、すでに何度も読み返された痕跡が残っている。

 

「それは?」

「少し前に旦那様からいただきました。私の従者として学ぶべきことが書かれた本、というのが適切でしょう」

「え、なにそれ聞いてない」

「お嬢様には言うなと言われておりましたから」

「それで本当に報告しないってメイドとしてどうなのよ!?」

 

 多分教えたら自分にも頂戴とうるさいのが予想できたからだろう。

 それに内容は完全に咲夜宛に特化しており、これを自分以外の妖精メイドや美鈴に見せても理解はされないものだった。

 

「私や霊夢にいくつか作っているような口ぶりでした。あの方が何かを教えた人には何かしら遺しているのではないかと」

「おじさまも律儀ねえ……」

 

 一度でも面倒を見たら最後まで見ないと気が済まない気質なのだろうか。というより、一度受けたことを放り出すのが我慢ならないのだろう。

 

「……ところで、私には何かなかった?」

「お嬢様には? と私も聞いたのですが――」

「聞いたのですが?」

「あいつにくれてやるものなど何一つないと言い切られました」

「その情報を告げない優しさってあると思うの私!!」

 

 彼も面と向かっては言わなかったことを平然と言いやがったこのメイド、とレミリアはちょっとした戦慄を覚えながら肩を落とす。

 

「そもそも――物を渡す必要がないほど、お嬢様には託しているものがあるのではないですか?」

「……わかってるわよ」

 

 とうの昔に傷跡は消え、しかしレミリアの魂に消えない疼きを与えた斬撃のあった箇所を服の上から撫で、レミリアは彼より告げられた言葉を思い出す。

 

 

 

 ――後は任せるぞ、レミリア。

 

 

 

「それは忘れてないわ。……でもそれはそれとして物質的な何かがあっても良いと思うの」

「鼻で笑われました」

「せめてもうちょっと言い方を考えなさいよぉ!?」

 

 きょとんと首を傾げる咲夜にレミリアは頭痛を覚え、それを払うように頭を振った。

 

「ああもう――葬儀の日取りが決まったら教えなさい。絶対行くから」

「旦那様から教えるなと言われてますが」

「絶対教えなさいよ!? 嘘の日取りとか言ったら一生恨むからね!?」

「旦那様も流石に冗談だと仰っておりました」

「……あなた、おじさまの言葉ということにして好き勝手言ってない?」

 

 どうでしょう、と微笑む咲夜を見てなんか知らない間に強敵になった、とレミリアはため息を零すのであった。

 

 

 

 

 

「酒、飲まないの?」

「今は飲む気にゃなれん。最後ぐらい、酒を抜いた姿で見ておきたい」

 

 地底の一角。星熊勇儀がねぐらとして使っているあばら家で、二人の鬼が相対していた。

 小柄な鬼――伊吹萃香はいつもと変わらず手に持つ伊吹瓢から酒を飲み、勇儀は対象的に盃すら手に持ってはいなかった。

 

「勇儀は義理堅いねえ。私にゃ難しいわ」

「知ってるよ。これは私の好きにしていることだから萃香にまで求めるつもりはないさ」

「物の見方、価値観の違いってやつなんだろうねえ。ああいや、私もあの人間は高く評価しているよ? もうここから先、私たちを力業で正面から薙ぎ払うような人間は現れないだろうって確信もある」

「だが、所詮は一人の人間だ、って言いたいんだろ?」

「ん、正解。私にゃ人間ってのは群れを作って、子孫を作って、一つの物語を紡いでいるように見える。だからあの人間が死んでも、あの人間の遺した教えや人間がいる限り、私はそれを終わりまで見届けようって気になるのさ」

 

 それに今代の博麗の巫女は見ていて飽きないしね、と言って萃香はからからと笑う。

 彼女も決して悲しくないわけではないだろうに、それでも先を見ることができるのはやはり価値観の違いが大きい。

 人間を種族として見るか、個人として見るか。萃香は前者で、勇儀は後者だった。

 

「お前さんがそう言うならそれでいいんだろうね。私も今はこの蜜月を楽しもうって気になっているけど――多分、これが終わったら私も終わる」

 

 いつかきっと、今ではない未来で再び鬼が人間に裏切られる時が来たら。

 勇儀は自分の終の居場所を、己を打倒した人間の側にするつもりなのだ。

 それが理解できた萃香は酒を飲む手を止め、過去に思いを馳せるように目をつむる。

 

「……勇儀が後悔しないならそれでいいよ。私も勇儀も、自分で終わりを定めないとおちおち死ぬこともできやしない」

「全く、単純に強すぎるってのも考えものだね」

「違いないや」

 

 顔を見合わせて笑う。

 両者ともに共通している理想の死に方は、全身全霊を尽くした真剣勝負の末に敗北し首を取られることだ。相手が人間ならばなおよし。

 

 しかし一度は打倒されたものの、彼女たちは死を甘受することはできなかった。

 それ自体は納得している。敗者なのだから勝者の意向に従うのが当然であり、彼女らの死は望まれなかった。

 ……いや、一人は死を望まれていたものの、その場の情勢やら何やらで命を拾ったようなものだが。

 

 ともあれ、彼女らは一度は手にできたかもしれない死を遠ざけられたのだ。ならば次の死はいい加減、自分の好きに定めても良いだろう。

 

 萃香は連綿と続いていくであろう人間の結末を見届けるまで。勇儀は再び訪れた人と妖怪の蜜月が終わるまで。

 その瞬間が訪れた時、彼女らは誰に知られることもなく消えていく。

 

「にしても一途なもんだ。特に振り向きもしなかった人間に操を立てるかい」

「私は正面から挑んで正面から負けたからね。鬼に横道なんていらないんだよ」

「うっ、まああれは悪かったと思ってるよ。私の見通しが甘かった」

 

 あの一件については萃香も反省している。とりあえず彼に連なる一族と彼らが全霊を以て守護する人間は怒らせないようにしよう、と考えるくらいには。

 

「こっちも過ぎたことを言うつもりもないよ。嫌われていたけど、葬儀にゃ顔を出すんだろ?」

「もちろん。鬼退治の英雄様の死だ。盛大に送り出してやらないと失礼ってもんさ」

「騒がしいのは嫌いだろうけどねえ……」

「死人に口なしさ。本当にうるさいのが嫌いなら起きてくればいいんだよ!」

「それはそれで悪くないね!」

 

 騒々しいのを好まなかった人間が顔をしかめる光景を思い浮かべ、ゲラゲラと笑う。

 

「……ところで、勇儀ってあいつのことどのくらい好きなの? 聞けてなかったけど」

「愛しているとも。時節にゃ恵まれなかったが、どんな状況でもあの人間の味方をしようって決めているくらいには想っていたよ」

 

 当人に言ったところで鬼の力を借りなければならないような異変など起きてたまるか、と言われるのがオチだったと思われるが、勇儀はそれほどにあの人間を好いていた。

 無論、鬼の語る好意を人間の尺度と同じに見てはならないが、好意は好意。

 勇儀は秘することを是としたため彼は知らないだろう。あるいは気づいていても、面倒なやつに好かれている――要するにいつものことだと流していたはずだ。

 

 何かを思い出すように目をつむる勇儀に、萃香は酒から口を離して問いかける。

 

「……良かったのかい?」

「私が勝手に焦がれただけだ。困らせるつもりはないね」

「……自分の思いに正直になるのが鬼だと思うけどなあ」

「正直に決まってんだろ。これは、私だけが抱えていれば良い」

「あ、今唐突にわかった。これ惚気だ。私、惚気られてるんだ」

 

 遅いよ、と勇儀は笑う。

 胸を焦がす熱は今なお熾火のように静かに燃え続け、勇儀はそれを抱え続けることを選んだ。

 長く生きる鬼として見るのなら萃香の生き方が正しいだろう。しかし、勇儀は彼への想いを他のもので塗りつぶしたくはなかった。

 

 あの一戦。妖怪の時間から見ればほんの刹那と言っても良い――鬼と人間の正面対決。

 そんな至福の一時を瞑目して思い返し、うっとりと頬を染める勇儀の様子を萃香は辟易した顔で眺めていた。

 

「……こりゃ、確かに人間に言わないで正解だったかもね」

 

 色々と重いし歪んでいる。萃香は自分が鬼として真っ当な部類だとは思っていなかったし、だからこそ鬼らしい鬼である勇儀を尊敬していたが、やはり彼女も妖怪のようだ。

 知らぬが仏という部類である勇儀の想いを聞きながら、萃香は他人の惚気に巻き込まれてしまった面倒な気分を紛らわせるように酒をあおるのであった。

 

 

 

 

 

「橙はどうしているかしら?」

「鬼気迫る、と形容しても良い勢いで術の修行に勤しんでおります。なんでも、物質を固定化する術を知りたいそうで」

「――成程、あの子もいじらしいわ」

 

 妖怪の山のマヨヒガではなく、スキマ妖怪八雲紫の本居である家で紫と藍は話していた。

 話題は藍の式である妖猫のことで、彼女はあの人間が死んだ報せを聞いてからほとんど休まず修行に励んでいるようだった。

 

「で、具合はどうなの?」

「妖術の習得はよほど適性が高くなければ年単位で時間のかかるものですが、凄まじい速度で会得しています。無論、私や紫様と同じ領域への到達にはまだまだ年月が必要でしょうけど」

「でも、不可能ではないと感じたのね」

「――ええ。いつか必ず、あの子は私たちの大きな助けとなるでしょう」

 

 人間と触れ合ったことが良い起爆剤になったのだろう。その終わりまで含めて、あの人間は橙に消えない思い出を残していった。

 

「習得の目処は立ったので、今日は私から休むよう伝えてあります」

「ありがとう。もうすぐ彼の葬儀だものね。ちゃんと出てお別れはしないと」

「紫様も?」

「もちろん。幻想郷の歴史において初めて人間と妖怪の共存を――私の理想を実現してくれた大恩ある人間ですもの」

「…………」

「だから私に尽くせる最大の誠意を――って、藍、どうかしたの?」

「いえ、紫様ならあの人間の魂が冥界に行く前にちょろまかして自分のものにするくらいできたのではないかな、と」

「あなた私をなんだと思ってるの!?」

 

 藍の忠誠心を疑ったことは一度もないが、どうも彼女の中で自分が予想以上に悪辣な妖怪であるように認識されている気がしてならない。

 必要があれば躊躇いなど持たないし、謀略だろうと虐殺だろうとやってのけるが好んでやりたいことではない。

 スキマの力を使えば一人勝ちなど容易いのだ。そして一人勝ちし過ぎた結果が阿礼狂いの英雄が生まれる少し前の幻想郷――人と妖怪の関係が途絶したそれになってしまったので、反省しているのである。

 

「あのね。確かに彼が優秀であることは認めます。というか多分、演算能力や妖術方面以外は藍以上でしょう。部分的には私だって怪しいわ」

「はい。なので式にしてしまう考えも有りえたのではないかと」

「阿礼狂いを式にして、あの忠誠が自分に来るとは思えませんわ。むしろ魂を土足でいじくったことに怒って殺しに来る可能性も考えるとナンセンスよ」

 

 諸々上手くいった場合のメリットは計り知れないが、失敗した場合のデメリットは間違いなく紫と藍の命になる。

 仮に忠誠を誓ったとしても表向きか否かの監視は怠れない。阿礼狂いである、という一点だけでも彼を身内に引き込むのを迷わせるのに十分な理由だった。

 

「それに彼は人間の短い一生を十二分に幻想郷のために費やしてくれましたわ。これ以上を求めるのは酷というもの」

「それが紫様のお考えならば。私は彼との接点は比較的少なかったですが、それでも彼の功績を正しく評価しているつもりです」

「正しく評価していてあの言葉が出たのかしら……」

 

 自分の式ながら、たまに考えが恐ろしい。というか仮に彼を式にしたとして、橙にはなんと説明するつもりだったのだろうか。

 

「……私の理想は私一人では為し得なかったわ」

「紫様……」

「当然ね。人と妖怪の共存、なんて他者が存在する願いを私一人で実現しようとしたのがそもそも間違っていた」

「それは結果論です。紫様は紫様なりのやり方で、今の今まで幻想郷を維持してきました」

「だとすればその結果論で私は彼に多大な負担を押し付けてしまった。彼には本当に迷惑をかけたわ」

 

 当人も途中から気づいていたのだろう。面倒を押し付けられた紫に対しては割と嫌味な部分があった。

 

「彼は私の期待に見事に応え――私が想像していた以上の結果に到達した。これより先、霊夢が今以上に綺麗な楽園を作り上げていっても――最初にあの光景を作り出した人を決して忘れないでしょう」

 

 人も妖怪も一緒に酒を飲み、桜を見て、笑い合う。

 そんな光景を愛する主とともに手をつないで見ていた彼の背中は、紫の記憶に終生色あせないものとして刻まれている。

 

「これが最初よ。――さぁ、妖怪が人を忘れないということがどういうことなのか、冥界の彼が辟易するほどに教えてあげましょう?」

「かしこまりました」

 

 彼が幾度も転生し、やがて再び幻想郷に生まれくる時が来たとしても――紫は彼を何一つ忘れず言葉をかけるだろう。

 そんな決意を乗せた紫の言葉に藍はうやうやしく頭を垂れるのであった。

 

 

 

 

 

「……あんたはここに来ると思った」

「おや?」

 

 その日、椛が彼との鍛錬に使っていた場所に行くと、先客が佇んでいた。

 目元を赤く腫らし、首元に鈴を付けた妖猫――彼曰く腐れ縁である橙がそこに立っていたのだ。

 

「橙ちゃん。君がここに来るのは珍しいですね。普段は彼が釣りをしている場所に行っていたのに」

「見てたんだ。うん、今日まではあそこに毎日行ってた」

「……あの人に会えると思って?」

 

 椛の問いかけに橙はうなずく。未だ根深い悲しみをその瞳に乗せて。

 

「……あいつが死ぬなんて信じられなかった。人間だから弱い、とか脆いとかは藍さまから聞いてたけど、あいつ、全然そんな素振り見せなくて」

「そうですね。彼に弱いとか脆いは当てはまらないでしょう」

 

 本人に言わせれば妖怪に比べて遥かに脆いし弱いと憤慨していただろうが、多分誰も信じない。その弱くて脆い人間が百鬼夜行すら退けたのだから当然といえば当然である。

 

「でも、人間です。どんなに強くなっても寿命は絶対的に違う」

 

 百年にも満たない時間で自分たち天狗どころか、幻想郷の創始者である八雲紫すら凌ぐ領域に到達した人間であっても――寿命だけは変わらず人間と妖怪を隔て続ける。

 

「あんたは……」

「はい?」

「あんたは、あいつが死んだのは悲しくないの?」

「悲しいですよ。もう彼から無茶振りされることも、あの無邪気な信頼を向けられることもないと思うと悲しいです」

「じゃあどうしてそんないつもどおりなのよ!」

「それだけじゃないってわかっているからです」

 

 椛の答えに橙は逆に顔を歪ませた。

 まるで同じ言葉をすでに言ってもらっていたような反応である。

 

「今は悲しいですし、時間が経てば彼の声が聞けないことを寂しく思うこともあるかもしれません。――けれど、あの人と一緒に走り抜けた時間は全てが愛おしかった」

「……好きだったの?」

「でなきゃ一緒にいませんよ」

 

 そう言って困ったように笑う。彼はなかなか隙を見せないし誰かを信じるまで長い時間を要するが、一度信じると決めた者には時折、ひどく無防備な姿を見せる。

 彼と共に並んで歩いた軌跡は心地よかった。見上げた空はどこまでも広がっていた。

 あの輝かしい時間は自分にとって生涯の誇りになると、椛は確信を持っている。

 

「それに色々と託されちゃいましたから」

「託された?」

「はい。一番大きいのはこれですね」

 

 椛は背負っている長刀を外すと、橙に手渡す。

 受け取った長刀を見て、橙はすぐにそれが誰の手にあったものかを理解する。

 

「これ、あいつの……」

「もう使わないからと渡されました。あと、彼の動き方を記した本も」

「……できるの?」

「ま、まあ気長にやればいつかきっと……多分……」

 

 動きは細かく噛み砕かれ、椛にも理解できる内容にはなっていた。じゃあ実際にできるのかと言われたら無茶苦茶だと言わざるを得ない内容だが。

 なにせ一つ一つの動作に求める精密性が針に糸を通すどころではない細かさなのだ。しかもそれを百、二百と重ねて初めて一連の動作となる。

 一つでもしくじれば全てが崩れるような動きを、目まぐるしく状況の変わる実戦で使いこなしていたというのだから恐ろしい。伊達に人間の身で八雲紫らと同等の領域に至ってはいなかった。

 

 そんな動きを記した本を椛は受け取っていた。習得は本当に気の遠くなるような時間がかかりそうだが。

 内容を見ずとも察したのか、橙の気遣わしい視線に椛は乾いた笑いで答える。

 話題がそれた、と椛は咳払いをして強引に話題を戻そうとした。

 

「んんっ、と、とにかく私はこれらがありますから、彼のことを忘れようとしても忘れられないと思います。橙ちゃんはどうです?」

「最近、妖術を覚えたの。物質の固定化って言って、物を壊れにくくする術」

「その鈴のため、ですか?」

 

 こくん、と素直にうなずく橙に目を細める。

 これが彼の前だったら絶対に憎まれ口を言うだろうが、当人のいない場所では橙も彼との友情を隠そうとはしないらしい。

 

「……私も、忘れたくなかったから」

「それは、悲しいからですか?」

「違う。……うん、そう――楽しかったから」

 

 椛と話をして、彼女の託されたものを見て、そして彼が死んだことを悲しみながらも、共に歩んだ軌跡を誇らしげに語る彼女の姿が、橙にも影響を与えていた。

 死んだと聞いて、ずっと悲しかった。拭っても拭っても涙は流れ、何かに取り憑かれたように妖術を覚えた。

 

 悲しみが溢れていたから今の今まで気づかなかった。――自分が必死に守ろうとした思い出は、振り返って悲しむためのものではないのだ。

 

 振り返れば笑顔になり、また前を向こうという気力を生み出す、そんな輝かしい軌跡なのだ。

 橙の瞳がようやく悲しみを振り払い、いつもどおりの――彼の見慣れた勝ち気なそれに戻っていく。

 

「楽しかったから、あの時間を嘘にしたくないから、私は頑張る。……それに昔に囚われてたんじゃ、あいつ絶対笑うと思うし」

「あの人も本当に悲しんでいる人に追い打ちをかけたりは……かけたりは……」

 

 橙に対してはするかもしれない、という疑念が椛に断言をさせなかった。

 決して悪意があるのではなく、むしろ彼女への発破にはそれが一番であると理解しているが故に。

 

「……それで、少しは気が晴れましたか?」

「うん。やっぱりあんたが一番あいつとの付き合いが長いんだなってわかったし、悲しんでいるだけじゃダメだって思えた」

「なら良かった」

「それに良い相手も見つけたし」

「うん?」

 

 どういう意味だろう、と首をかしげる椛に橙は指を向ける。

 

「あいつを追い越そうとしてるやつ、初めて見つけた!」

「ええっ!? い、いやでもこれは私の自己満足というか趣味というか……」

 

 彼と同じことができるようになれたら良いなあ、ぐらいの考えでやっていたので、彼を追い越そうと大真面目に考えていたわけではない椛が慌てたように手を振るが、橙は気にしない。

 

「なんだって良いわよ。やってることは私と一緒なんだし。ねえ、競争しましょ!」

「競争?」

「そう。――どっちが早くあいつを追い越せるか」

 

 橙は遠い未来で立派に成長し、彼など足元にも及ばないぐらいに成長した自分を空想して顔を輝かせながら笑う。

 

「私は絶対いつかあいつを追い抜くわ。もっともっと術も覚えて、戦い方も覚えて、藍さまや紫さまの力になれるように強くなりたい」

「橙ちゃん……」

「だからあんたも頑張りなさい! きっとあいつの書いた本だからメチャクチャなこと書いてあるんでしょうけど、あんたは諦めないと思うから!」

「……どうしてそう思うんです?」

「友達だからじゃないの?」

 

 彼から託されたものを、友達だから手放すはずがない。そんな無邪気な――どこか彼を思い起こさせる無垢な信頼を受けて思わず笑ってしまう。

 なるほど、これは確かに彼と橙は腐れ縁になるはずだ。――だって、他者への信頼の向け方が恐ろしく似ている。

 

「……ふふっ、良いですよ。競争です」

「うん! 私も頑張るから、あんたも頑張りなさいよ! んで、あんたが負けたら私の子分ね!」

「た、多分その時の君は有名人でしょうからそれは遠慮したいですけど……それも良いかもしれません」

 

 彼に匹敵する力量を備える頃には、きっと目の前の妖猫は八雲の名を冠するようになっているだろう。

 その彼女の子分とか面倒なことになる予感しかしない。しないが、その頃の自分はきっと笑って引き受けるだろう、と思えていた。

 

 永遠に会えないことに悲しみはあるけれど決してそれだけでもなく。彼と交わした約束は確かに未来へ足を進める力になるのだと、椛は空を見上げて笑うのであった。

 

 

 

 

 

「どちら様でしょうか? ……おや、博麗の巫女様」

「どうも。その……爺さんが私に渡したいものがあるって聞いて来ました」

 

 彼の葬儀を終えた翌日。霊夢は火継の邸宅を訪ねていた。

 最後の稽古を終えた後で霊夢に渡したいものがいくつかあると言って、家を訪ねてこいと彼が語っていたものを取りに来たのだ。

 門戸を叩いた霊夢を出迎えた初老の女中にそのことを告げると、すぐに思い至ったのか案内を受ける。

 

 彼の家に来たのは昔に一度だけだ。初めての実戦を魔法の森で行い、危険な目に遭っていた魔理沙を助けた後、彼からここで泊まるよう言われていた。

 母親代わりの人と一緒にお風呂に入り、三人で食卓を囲み、二人の間に挟まって月を見上げた一夜の思い出を、霊夢は大切に抱えている。

 

「こちらの離れにございます。当主様はあなたのことをとても気にかけてなさいました」

「そうなんですか?」

「ええ。何かと時間を見つけては色々と用意しておられるようでした」

「…………」

「どうか、理解していただけると幸いです」

 

 女中は離れに霊夢を案内すると深々と頭を下げ、戻っていく。

 意外というか、納得できるというか、彼は火継の家の中でも慕われていたらしい。

 一人になった霊夢はふすまの前で何度か深呼吸を行って心の準備を整えると、意を決してふすまを開いた。

 

 かつて一度だけ、この部屋で眠った時は両手の先に先代と彼がいた。

 もうどちらも存在しない、本当の意味で主を失った部屋が無音で霊夢を出迎える。

 

「……誰も来ていないのね」

 

 阿求も来ていないのは少し意外だった。彼女を見続けながらその生涯を終えたとは、彼の骨が墓に納められた後、瞳を涙で泣き腫らした阿求の口から聞かされていた。

 自身の始まりが阿七であるなら、終わりは阿求である。阿礼狂いに生まれ、阿礼狂いとして生きた少年の選んだものは最後まで御阿礼の子だった。

 その彼が一体何を遺しているのか。霊夢は目の前にうず高く積まれ、埃よけの布がかけられているそれを前に立ち尽くす。

 

 彼のことだ。わざわざ他人に悪意を向けるような面倒なことはしないとわかっている。わかっているが、どうしても手が震えてしまう。

 彼の稽古は逃げ回っていたし、面倒なことからも逃げていた。最終的には捕まっていたけれど、面倒をかけさせていたのは確かだ。

 

 もし、もしも。この中にお前の相手は面倒だった、とかそういった思いを伝えるものがあったりしたら、と思うと霊夢の手は何かに固定されたように動かなくなる。

 

「……ええい! だったら来るなって話よ!」

 

 とはいえ迷ってばかりもいられない。第一、その迷いはここに来る前にやるべきことだ。もう目の前まで来ている以上、選択肢は一つしかないのだ。

 半ばやけになりながら霊夢は被せられている布を取る。そこには――多くのものが積まれていた。

 

「え、なにこれ?」

 

 ちょっと多すぎでは? と布が被せられている時点での感想が再び浮上する。さっきまでの怯えが消えるくらい、単純に物量があった。

 

「本と巻物と……薬棚?」

 

 薬棚の大きさ自体は一応持ち運べるものではあるが、三つも四つもあれば普通に大量の部類である。

 中に何が入っているんだ、と思いながら霊夢が適当に一つ開いてみると、中には塗り薬と思しき軟膏と使い方の紙が入っていた。

 

「なになに……切り傷、止血に使うように。で、こっちは……擦り傷、打撲に使うように……細かっ!?」

 

 他の薬棚も見てみると、生傷を負うことが多くなると想定される霊夢のためなのか、様々な用途の薬が所狭しと詰め込まれていた。

 時間のある時に用意していたと言うが、これほどの量を用意するのにどれだけの時間がかかるのか。おそらく霊夢が博麗の巫女として正式に活動を始める前から用意していたものだ。

 

「爺さんの面倒見の良さも大概ね……というかこんなに用意するとか、ものすごく面倒でしょうに」

 

 口ではそう言うものの、霊夢の口元は必死に緩むのを堪えている状態だった。

 本人はできる範囲で面倒を見ているだけだ、とか言っていたが、やはりなんだかんだ言って霊夢には甘かったりする。

 霊夢には過保護にすら映っているそれを、彼は当たり前だと言うようにやっていた。

 

「博麗の巫女をやらせるような親が良い親なわけない、か……そりゃそうかもしれないけどさ。でもやっぱり、爺さんは過保護だと思うわ」

 

 普通の人間の親であれば、娘に危険な役目を背負わせて確かに冷たいのかもしれない。しかし、博麗の巫女の親として見れば、彼は霊夢を育て上げ、影に日向に援助も怠らなかった立派な親に見える。

 そもそも霊夢が親として知っているのは先代と彼の二人だけなのだ。普通の親など知らない以上、霊夢が彼らを良い親だと思えばそれが全てである。

 

 さっきまでの怯えはどこへ行ったのやら。霊夢は上機嫌に薬を探り、使い方の記された紙の内容から垣間見える彼の心遣いを嬉しく思っていると、やがて書物の方にたどり着く。

 

「これはなんだろ……うわ、稽古メニュー」

 

 自分がいなくなってからもできる稽古の内容が目白押しだった。

 霊夢の顔がうんざりしたものになるが、書物を読む手は止まらない。自分を思って作られたであろう内容だ。面倒だと思うのは確かだが、だからといって投げ出すつもりもない。

 

 そうして稽古内容を記した書物と、実際の身体の動かし方が記された巻物などを読んでいくと――一枚の紙が霊夢の手に残った。

 まだあるのか、と稽古内容だと思った霊夢は常と変わらない調子で紙を開き、内容を見て絶句する。

 

「これ、手紙だ……! 爺さんから私宛の!」

 

 

 

 霊夢へ。

 

 これを読んでいるということは、俺はすでに死んでいるのだろう。お前からすれば鬱陶しい稽古相手がようやくいなくなった、と言ったところだろうか。

 

 冗談だ。さすがにお前の情を茶化したりはしない。なんでかは本当にわからないが、お前は先代と俺を両親と慕っていた。

 応えられずとも尊重することはできる。俺はお前の思いを否定しない。

 

 話がそれた。他の家に書簡をしたためることはあれど、親しい人間への手紙はこれが初めてだ。多少は大目に見て欲しい。

 さて、本題に入ろう。俺が死んだ後も幻想郷は続いていく。妖怪共はあっという間に退屈に負けて異変を起こすはずだ。

 俺は現役時代に三度の異変に立ち会った。吸血鬼異変、天狗の騒乱、百鬼夜行。どれも一筋縄ではいかないものだったが、それでもたった三回だ。

 お前はどうだ。博麗の巫女として活動を始めてからすでに三回の異変があったはず。もうその時点で、お前は俺と同等の数の異変を解決している。

 

 これは勘になるが、お前は今後も多くの異変に見舞われるだろう。妖怪共はこちらの都合などお構いなしだから諦めろ。

 

「……まあ、私もそう思うけど」

 

 霊夢は手紙を読み進める手を止めて、頬をかく。自分でも薄々これから先もっと色々な妖怪がちょっかいかけてくるんだろうな、ぐらいには思っていたが、皮肉なことに彼の言葉で確信が得られてしまった。

 諦めろ、という短い言葉の中に彼の諦観が感じられてしまい、乾いた笑いを浮かべながら手紙の続きを読み進めていく。

 

 すでに見ているかもしれないが、遺してある本は大半がお前への課題のようなものだ。しばらくはそれを稽古内容とすれば良いだろう。

 お前の成長を予測して稽古内容は考えてあるが、おそらく後半へ行けば行くほどズレが生じるだろう。お前にとって不要だと感じたら捨ててしまえ。それを以てお前につける稽古は終わりになる。

 その頃にはきっと今以上に多くの異変を解決し、博麗の巫女として立派に大成しているはずだ。

 

 そして薬についても同様だ。妖怪との正面対決は無傷で勝つか攻撃を受けて死ぬかの二択だから勝ち続ければ無傷になるが、弾幕ごっこではそうもいくまい。

 生傷が絶えないだろうから色々な薬を用意した。用途はそれぞれ紙に書いてあるので正しく使うように。これもいらないと思ったら捨ててくれて構わない。

 

「……ん、私が見たのはこれで全部だけど手紙はまだあるのね」

 

 課題の本に薬。彼が自分に遺してくれたものはこの二つだと思っていたのだが、よく見たらどちらとも違うものが確かにあった。

 

 中でも目を引いたのは霊夢が普段から使っている、トレードマークの大きなリボンと全く同じ意匠のリボンだ。手に取って見ると上質な布の手触りが伝わってくる。

 それを片手に持ちながら手紙の続きを読み進めていく。おそらく、自分が一番見たかったものはこの先にあるという自身の直感に従いながら。

 

 他の物は言ってしまえば瑣末事だ。お前の役に立つ、という観点で集めたものではない。自分でもこれを集めた具体的な理由はわからない。

 ただ、過去にお前が欲しがったものを集めてある。

 

「……子供の頃、母さんに欲しいってねだった小物だ」

 

 霊夢の手にあるのはいかにも子供が好きそうな綺麗なビー玉だった。

 それを見て霊夢は確かに思い出す。まだ霊夢が小さな子供の頃――母と手をつないで人里に行った時にねだったものだった。

 あの時は買ってもらえなかった。母が買ってくれなかったものを彼が買ってくれるとも思えず、話の種に一度だけ出したっきり霊夢自身も忘れていたもの。

 

 そういった目で見てみると、この場にあるおもちゃのようなものは全て、過去に霊夢が欲しがったものであることに彼女は気づく。

 

「爺さん、覚えて……」

 

 なぜ、とは言ってくれるな。俺も説明できない。ただ、お前に何かを遺そうと思い立った時にこれらが浮かんできた。

 だから集めてみたが、いざ手元に置いてみると自分でもわかるくらいに無節操な収集になってしまった。いらないと思うなら受け取らなくても良い。その時は女中に処分するよう指示してある。

 

 それとリボンだが、それは俺の方で用意した。母親が渡したものにはお守り程度の結界術が組み込まれているから、俺も見よう見まねで真似して作った。文字通りの予備程度に思っていれば良い。使わないのならそれに越したことはない。

 

「…………」

 

 霊夢は手にあるリボンを無言で握りしめる。

 確かによく見れば先代のそれとは違う毛色の術が編み込まれているのがわかる。わかるが、霊夢にとって重要なのはそこではなかった。

 仏頂面で口を開けば御阿礼の子ばかりの彼だったが、ちゃんとそれとは別に自分のことも考えてくれていたのが嬉しかったのだ。

 

「爺さん……」

 

 もう残り少ない手紙を読む霊夢の目尻には、本人も気づいていないのか涙が溜まっていた。

 

 お前に遺すものはこれで最後になる。阿求様には俺の生涯の集大成とも言えるものを渡すからか、お前に渡すものはどうしても物に偏ってしまった。そこは許せ。

 だが俺の真心を込めたものを贈る、とか言ってもそれはそれで気色悪いだろう。それに俺はお前ぐらいの年頃の少女が好むものはわからん。

 だから俺がお前にとって必要だと感じたものと、お前との日々を思い返して当たっていれば御の字だと思い、お前が欲しがっていたものをいくつか見繕った。今欲しいものではなかったら俺の選択を恨め。

 

 最後に、俺はお前を博麗の巫女の後継として、弟子として接してきたつもりだ。

 弟子を取るのは初めてだったが、お前は泣き言こそ多いもののよく俺の稽古についてきた。

 断言しよう、お前には才能がある。このまま磨き続け、実戦を重ねていけばいつの日か必ず俺を超えることができる。

 だから稽古を怠るな。俺は自分より強い人間には終ぞ出会えなかったが、お前がそうなることをどこか期待しているようだ。

 

 いつか遠い未来でお前が俺を超える日が来るのを、俺は確信している。

 

「……強くなれ、か」

 

 爺さんらしい、と笑って霊夢は手紙をたたむ。

 彼は最後まで霊夢の先行きを案じる師匠であり、彼女に一番大きな期待を寄せていた。

 一人で強くなる必要なんてどこにもないが、だからといって強くなることを疎かにしてもいけない。

 痛いのも苦しいのも大嫌いで、その二つがある努力も嫌いだけど――彼の期待を裏切るのは何より心が痛い。

 

 彼は肯定しなかったが、自分の母は先代の巫女であり、父は――

 

「うん?」

 

 と、そこで唐突に手紙をもう一度見る。

 終わりまで読んだと思ってたたんだ裏に、小さな紙が張り付いていたのが見えたのだ。

 なんだろうと霊夢は何気なく手に取って中身を見て、その内容に息を呑む。

 

 霊夢。俺はお前を子として扱わなかった。

 理由は阿求様の先代である阿弥様が俺を父と呼んだからだ。俺にとっての娘はあのお方だけで十分だった。

 だからお前に父と呼ぶことは許さなかった。それがどういった所業かわかっていて、俺は俺の都合を優先した。

 

 酷なことをしたとは思っている。罪滅ぼしというわけではないが――俺が死んだ後は俺を好きなように呼んでくれて良い。俺が想定しているその呼び方も認めよう。

 

「ぁ……」

 

 霊夢の口から小さな息が漏れて涙が一滴、手紙に落ちる。

 それは、つまり。自分と彼の関係を説明する時に彼は父親代わりの人間、なんてまどろっこしいことを言わないで済むのだ。

 

 俺が俺の事情をお前よりも優先したように。お前も死んだ人間の事情など気にする必要はない。好きに、誰はばかることなく言えば良い。

 どうしてかは本当にわからないが、お前は母親だけでなく俺にも懐いていた。これまでは一線を引いていたが、死んでしまえばないも同然だ。

 

 とはいえこれだけではいささか薄情か。死んだ後のことは好きにしろと言っているだけでしかないと指摘されたらその通りだ。

 故に最後はこの言葉で締めくくろう。面と向かっては言いづらいことも手紙でなら伝えやすい。

 

 

 

 ――幸せになれ。お前の親として、幸福を願っている。

 

 

 

「本当に、もう……っ!」

 

 パタパタと涙が手紙に落ちる。嗚咽が口から出るのをそのままに、霊夢は宝物を持つように手紙を胸に抱く。

 彼はわかっててやったのだろうか。いいや、わかってなどおるまい。霊夢でもわかるくらい、彼は肝心なところで鈍感で――それでもなぜかこちらの欲しいものをちゃんと与えてくる。

 

 今回だってそうだ。手紙の内容を信じるなら、これはただ単に霊夢に遺すもので何が適切か思いつかないからと手当たり次第に集めたものらしい。

 それで彼女が昔に欲しがったものまで律儀に覚えて用意するなど、生真面目にも程がある。そのくせなぜ集めたのかはわからないなど、もはや狙っているのではないかと思うくらいだ。

 

「昔、から……甘いのよっ! 私に!!」

 

 厳しい稽古も、面倒な勉強も、作ってくれた美味しいご飯も、頭を撫でてくれた大きな手も、全てが霊夢にとって嬉しいものだった。

 彼に言わせれば博麗の巫女には強くなってもらわねば自分が困る、というもっともらしい理由が返ってくるだろう。

 だが、霊夢に言わせればあれは博麗の巫女という大役を背負っていく自分が役目を果たせるように――志半ばで斃れることがないように、という願いに基づいた行動だった。

 

 巫女として強くなってほしいだけなら稽古だけつければ良かった。人里に連れて行く必要なんて微塵もなかった。

 だけど彼は幼い霊夢の手を引いて人里を見せてくれた。魔理沙たち友人と知り合う場所を用意してくれた。甘いお菓子を買ってくれた。勝手な行動を叱ってくれた。

 

「いつもいつも自分のためだなんて言って! 本当に自分のためになった行いなんてほとんどないじゃない! 合理的だとか言いながら、面倒見が良すぎるのよ!!」

 

 手紙を抱え、涙を溢れさせ、もう届かない相手への怒りをありったけ叫ぶ霊夢。

 ずっと思っていたのだ。彼はずっと己を阿礼狂いであると一線を引いて、そこだけは最期まで認めようとしなかった。いいや、気づいてすらいなかったものがある。

 

 

 

「――ちゃんと私も愛していたんじゃない! 父さん……っ!!」

 

 

 

 愛とは自分だけで完結しうるものではない。他者からの感覚も含めて初めて認識されるものだ。

 彼は――信綱は阿礼狂いである己が愛するのは御阿礼の子のみと定めた。他は全て余分に過ぎず、天秤にかけたら捨てられるものでしかない。

 けれど、彼は余分でしかないものを背負い続けた。本当に無意味なら切り捨てれば良いものを、より良く、より強いものが手に入ったら忘れてしまえば良いものを最期まで忘れなかった。

 

 霊夢にはそれこそが全てだった。物心ついた頃から面倒を見てくれて、歩む先を導いてくれて、こうして死んでからも自分に何かを遺してくれる。

 これが愛情でないなら何なのか。霊夢にとって、これは全て父親代わりの――否、父の(・・)愛情なのだ。

 

 誰も人が来ない離れであることを良いことに、霊夢はその場に崩折れて手紙を抱えたまま、葬儀の時にも出なかったほど大きな声を上げて、父の死を悼むのであった。

 

 

 

 

 

 時間は流れる。誰かが生まれても、誰かが死んでも、平等に。

 春が過ぎて夏が来て。明けない夜の異変があり、妖怪の山に新たな神が二柱やってくる異変があった。

 

 どれも異変が終わった後に話を聞くことくらいしかできなかったが、それが御阿礼の子の本来の役目であり、何より祖父への土産話になるのでそう嫌いではなかった阿求だった。

 

「今日もいっぱい色んなことがあったんだよ! あのね――」

 

 物言わぬ祖父の墓前に阿求は笑いながら日々の出来事を話していく。

 彼の墓はいつも色々なものが置かれている。誰が置いたのかすぐにはわからないものから、誰が置いたのか一発でわかるものまで。

 

「今日は……レミリアさんが来たんだね。この薔薇、お祖父ちゃんの家で見たことがあるもん。あとお酒があるから……鬼の人が誰か来たのかな?」

 

 時間の短い人間は良くも悪くも思い出にするのが早いが、妖怪は違う考えを持つ者も多い。

 唯一人に生涯の敬意を払う。気の遠くなる時間を生きる妖怪だからこそ重い意味を持つその選択を、阿求は誇らしく思う。

 自分や当代の博麗の巫女もいなくなってしまうほどの遠い未来の先。そこでもきっとこの墓は賑やかであり続けるのだろう。

 

「あ! この後小鈴のところに行って本を借りてこないと! 最近は外から人がやってくる異変が多くて書くことがいっぱいなの! じゃあ――またね、お祖父ちゃん!!」

 

 阿求は元気に手を振って走り出し、日傘を差して歩く珍しい人の横を通り過ぎて鈴奈庵のある方向へ向かっていく。

 蝉しぐれが聞こえ、遠い地平線の先に陽炎が映る夏の一日。幻想郷に生きる少女たちの一日はまだ始まったばかり――

 

 

 

「……大した人気者ぶりね。いつ行っても誰かしら来ていて、居づらいことこの上ないわ」

 

 日傘を差した少女――風見幽香もまた、彼の墓前の前に立って一人つぶやく。

 結局、彼には勝ち逃げされてしまった。不満は山のようにあるが、死人に鞭打ったところでどうにかなるものでもない。

 あるいは今から墓を掘り起こしてその遺骨を辱めれば溜飲は下がるだろうか? いいや、そんなことをすれば幽香は生涯、自分を人間一人にすら勝てず、その死を侮辱するしかできなかった惨めな妖怪であると位置づけるだろう。精神に依存する妖怪だからこそ、自己の定義というのは人間が思っている以上に重要なものだ。

 

「私はどうしてあんたが好かれてるのか全くわからないわ。口も態度も私の相手が面倒だって隠そうともしてなかったじゃない」

 

 少なくとも良い態度は見せていなかった。あれで多少は自分に敬意を払ったり丁重な態度をとったりしていれば幽香も多少は気分が良かった。

 良かったが、こうして死んだ後も訪ねに来るような感情を持つに至ったかはわからない。

 幽香が彼に対して抱く感情に好意的なものは一つもない。ないはずなのに、なぜかこうして足が墓に赴いてしまうのは本当に不明である。

 

「……どうしたいのかしらね、私は」

 

 それだけ言って幽香は眼前のちっぽけな墓を見る。

 ほんの少し力を入れれば破壊するのは簡単だ。跡形もなく消し去ることだって容易い。

 だというのになぜかそんな気分にならない。自分がどんな思いでいるのか、自分でもわからないまま時間だけが流れていき――

 

「……勝ちたかった」

 

 やがてポツリと漏れた言葉に、幽香はようやく合点がいったように何度もうなずく。

 

「勝ちたかった……ええ、私はあんたに勝ちたかった。勝って――それを誇りたかった」

 

 答えが出たことに気分を良くしたのか、その口元が不機嫌そうな一本線から僅かに弧を描く。

 そして墓に背を向けて、去り際に言葉を投げかけた。

 

「さようなら。この世で唯一人、私に勝った人。次は――今度こそあんたに勝てる私で来ることにするわ」

 

 そう言って小さな花を一輪、添えていった。

 

 

 

 以降、この場所に意味が生まれることはない。

 どんな異変があっても変わらず、どんな時間が過ぎても変わらず、墓はただ墓としてそこに在り続けるだけ。

 やがて時間が過ぎ、人間の中では由来を知る者もいなくなる。死者が生者の時間に追いつくことは永遠にない。

 

 けれどその場所は、不思議なことにいつも何かしらが供えられていたらしい――




場面が浮かんだ以上書くしかない。見てもらえたなら僥倖です。

ということでノッブが死んだことへの反応四方山話です。
なんだかんだ言って面倒を見た他人を見放したりせず、死んだ後の事も考えて色々と遺している。
本人は片手間だ、と言いますが当人にしてみれば十分愛情と呼ぶにふさわしいという。ちなみに本人が存命の時にそれを言ったら頭大丈夫? と心配されます。

ノッブの視点では愛しているのは御阿礼の子だけですが、比較にならないだけで他の連中も彼なりに大事にしていました。
そもそも合理を語るならおぜうに天魔やゆかりん、勇儀の姐さんやらを引っ張ってこれる時点で橙とかにとりとの付き合いなんて切っても良いわけです。でもノッブはそれをしなかった。それが答えです。

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