阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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家族との離別

 それは阿弥が御阿礼の子の生きられる限界と言われている、三十回目の誕生日を迎える少し前のこと。

 信綱は彼女の身を案じつつも努めて普段通りに振舞い、朝餉を用意した時のことだった。

 

「父さん、今日は少し出かけましょうか」

 

 阿弥は信綱が作った味噌汁を飲みながら、今日の予定を告げる。

 一足先に食事を終え、側で控えていた信綱は阿弥の言葉に一も二もなくうなずく。

 

 余談だが、信綱は阿弥の強い希望によって阿弥と一緒に食事をしている。従者としては失格だが、家族としてはこれが正しいのだろう。

 

「阿弥様が出られるのであれば、どこへなりともお供いたします」

「そんな肩肘張るような場所じゃないわ。ちょっと市場の方を見てみたいだけ」

「市場の方を、ですか?」

 

 はて、何か入用なものでもあっただろうか。

 阿弥が縁起の編纂や書物などで使う道具は全て信綱が用意している。当然、不測の事態にも対応できるように余裕は常に持ってある。

 誉れある御阿礼の子の側仕えなのだ。万に一つの可能性すら排して完璧にしているつもりだ。

 

「少し贈り物をしようと思うの。父さんは何か欲しいものとかある?」

「私、ですか? 今、この時間さえあれば他には何もいりませんよ」

 

 一切の逡巡を見せずに即答する信綱に、阿弥は少し困ったように眉を動かす。

 

「じゃあ、私から何が贈られたら嬉しい?」

「そちらも特にありません。阿弥様から贈られるものでしたら、どんなものでも一生大切に致します」

「うーん……」

 

 唸ってしまう。確かに阿七から贈られた硝子細工を今でも後生大事にしている彼のことだ。

 言葉に嘘偽りはなく、硝子細工のように長く持つものでなくとも、彼は大切に保管し続けるだろう。

 彼に具体性を求めること自体に無理がある。それを察し、阿弥は軽く手を叩いて立ち上がる。

 

「じゃあ行きましょう。行ってみれば何か見つかるかもしれないし」

「お供いたします。本日はお日柄も良い。きっと良いものが見つかるでしょう」

「もう、父さんに贈るものなんだから。そんな人事みたいに言わないで、父さんも考えてね?」

「……善処いたします」

 

 阿弥からもらえるものであればどんなものでも舞い上がってしまうほどに嬉しいのだが、ここで求められている答えはそういうものではないらしい。

 阿弥が笑ってくれることは嬉しい。しかしその好意が自分に向けられることにはいつになっても慣れない信綱であった。

 

 

 

 阿弥の手を引いて外に出る。もう童女のそれではなく、成熟した女性となった阿弥は信綱と並んで手をつなぐ。

 

「お身体の調子はどうですか?」

「大丈夫。父さんは心配症ね」

「申し訳ありません」

 

 阿七が逝った歳からすでに四年が経過しているのだ。もういつ亡くなってもおかしくない時間。信綱が神経質になるのもわかるというものである。

 そんな信綱の不安を他所に、阿弥は健康そのものの日々を送っていた。春の花見に夏の祭り、秋には軽く山を散策し、冬には雪を見ながら信綱と静かに過ごす。

 信綱も大半の仕事を他のものに任せるようになった現在、阿弥と一分一秒でも共にいられる幸せを噛み締めながら彼女の側に寄り添っていた。

 

「さ、父さんは何が欲しい?」

 

 そんな阿弥は淑やかな笑みを浮かべ、視界の先に広がる市場を指差す。

 ここで手に入らないものは幻想郷のどこを探しても見つからないだろう。そう思ってしまうほどに市場は賑わっており、人妖の区別なく商いをしている光景が映る。

 

「ふ、む……」

 

 話を振られた信綱は少々考え込む形を作り、僅かな間を置いてポツリと小さく自身の願いを語る。

 

「……できれば、長く保存できるものが良いです。細心の注意を払っても形あるものはいつか壊れてしまいますから」

「わかったけど、それでもざっくりしてるよ父さん。もう少し細かくできない?」

「……部屋に飾るものであればなおありがたいかと」

 

 自分はあまり装飾品を付ける性格ではない。最低限、その場所に相応しい身なりをしていれば問題ないと考えてしまう方だ。

 堅物で生真面目とは誰の評価だったか。人から好感を得やすい態度を取り続けていただけだが、実際自分はそういう人間なのだと思ってしまう程度にはその性格を演じることに慣れていた。

 

「わかった。父さんの部屋、色々と貰い物が多いものね」

「押し付けられるものばかりです。部屋の調和を乱して困る」

「でも、捨てたりはしないんでしょう?」

「…………」

 

 困ったように笑い、降参だと両手を上げる。贈り物をくれた相手の前ではあまり認めたがらないが、部屋をどのように飾れば良いのかわからない信綱にとって、ああいった贈り物はありがたい部分もあるのだ。

 

「阿七様から頂いた硝子細工は今でも大切に保管してあります。一緒になどいたしませんが、それとは避けた方がよろしいかと」

「そうする。確か、花の硝子細工だったわね。もう少し小さくて綺麗な色のついたものを髪飾りにするとかも良いかもね」

「阿弥様ならばなんでも似合いますよ」

 

 阿弥との何気ない会話に微笑みながら、信綱は自分の言葉に考えを巡らせていく。

 とりとめのない会話の一部分だった。しかし彼女に髪飾りというのは思いのほか悪くない。

 従者として出過ぎていないかというのが少々心配だが、美しい装飾品は阿弥の美しさをより一層際立たせる。いや、彼女は何も身に付けずともその美しさに陰りなどあり得ないが。

 

「お、人間! ちょっと見ていかないかい?」

「あ、父さん。河童が呼んでるよ?」

「…………」

 

 人が考え事をしている時に、と信綱はやや眉間にシワを寄せて視線を下に向ける。

 ござを敷いてそこに商品を並べているにとりの姿がそこにあり、信綱の顔を見てにとりは満面の笑みを浮かべる。

 

「やあやあいらっしゃい盟友! 今回の商品はどうよ?」

「……イカサマはしてないだろうな」

「この前みたいなことはもうしないって!? 私はもう懲りたよ……」

 

 ちなみににとりも河童の例に漏れず、悪徳商売で儲けようとしたので信綱の鉄拳が火を噴いていた。

 慧音の説教も加えて常人なら五分で泣きながら土下座をする密度の内容である。にとりは一時間耐えた。

 

「だったら他の河童にも言い聞かせておけ。俺も何度もやりたいことではない」

「……私たちを殴ることで心が痛むとか……」

「無駄に頑丈で聞き分けが良くなるまで長いからな」

「ですよね盟友にそういう優しさとか期待するだけ無駄ですよね」

 

 うなだれるにとり。しかし信綱は心外だと言わんばかりの顔をする。

 これでも情状酌量はきちんとしている方だと自負しているのだ。それでも罪を犯した存在を許すことは秩序の乱れを生むことに繋がるため、キッチリ罪を償わせているだけで。

 

「悪いことをしなければいいんだ。それなら俺だって殴る拳は持たん」

「身に沁みたよ……。ところで盟友、今日はその女の人と一緒? 白狼天狗と言い、博麗の巫女と言い、綺麗どころ侍らせてるじゃないのよこの色男って痛ぁっ!?」

「口は災いの元だな。あと、この人は俺の主だ。粗相のないようにしろ」

 

 阿弥も信綱の交友関係は把握しているので、その二人が彼にとって友人と呼べる付き合いであることも知っている彼女は困ったように笑うしかない。

 というより、元々妖怪に女性が多すぎるのだ。人里での彼は普通に親友である霧雨商店の店長と一緒にいることもある。

 

「いてて……と、とにかく見ていってよ! 今回のは……あんま自信ないけど」

「ないのか」

 

 信綱にゲンコツを落とされたにとりは涙目になりながら、ござに置かれている商品を勧める。

 阿弥とともに視線を下ろすと、そこには河童がよく置いている訳のわからない鉄製品や、あこぎな空気がぷんぷん漂う遊び道具――ではなく、純粋に美しい工芸品が並んでいた。

 

「お前たちが好む商品ではないな。どうした?」

「天魔様に怒られちゃってさあ。ちったぁ儲けが出るものを作れって言われた」

 

 ちなみに天魔はにとりの家で待っていた。

 人里で物を売って帰ってきたら天魔が待ち構えており、冗談抜きに心臓が止まりそうになったのはここだけの話。

 

「それでこれか?」

「うん。お前らに任せて売れるものが出るとも思えんから、今回はオレが指定するって」

 

 ぐうの音も出ない理屈だった。信綱も河童に指示を出すとしたら商品の指定もするだろう。こいつらに任せたら不安しかないという意味で。

 手先は器用なのだから、ちゃんと市場の売れ筋や高値で売れるものを把握しておけば問題なく稼げるはずなのだが、彼女らはどうにも興味を優先してしまう。

 

 機械、とやらの凄まじさを力説されたところで信綱たちにはピンと来ない上、作ったものがまだ未完成のものも多いのだ。売れるはずがない。むしろなぜ売れると思うのか。

 

「英断だな。阿弥様、どうされます?」

「少し見ていこうか。すっごく綺麗」

「お、そう言ってもらえると嬉しいね。でも私らが言うのもあれだけど、こんなのでいいの? もっとこうミミズ君三十五号とかの方が――」

「やめろ」

「はい」

 

 信綱に見せたミミズが三十五号まで進んでいることにも驚愕である。まだ完成していなかったのかという点と、どこまで凝れば気が済むのかという点で。

 ともあれミミズの作り物が動く光景を見ていて楽しいとも思えないので、信綱も阿弥と一緒に商品を見る。

 

 見れば見るほど精巧な細工になっており、どれほどの技巧が凝らされているのか信綱にもパッと見るだけではわからないほどだ。

 

「本当に見事な作りだ……お前にこんなものが作れるとは思わなかったぞ」

「んなっ!? 河童は凄い技術力があるって言ってんじゃん!」

「出てくる物が物だったからな……」

 

 しょうもないものや用途のわからないものを差し出されても価値はわからない。信綱とて知らないものに適切な評価は下せない。

 だが、今見ている細工品は別だ。部屋に飾る置物や所持者を淡く彩る飾り物など、信綱が普段から見慣れているものであるにも関わらず、そこに凝らされた技巧は群を抜いていると断言できるもの。

 

「すごいね、これ……。私も目は肥えているつもりだけど、こんなに綺麗な細工は見たことがない」

「へへん、河童の手先もなかなかのもんでしょ? 見るだけじゃなくって買っていってくれるとさらに嬉しいよ!」

「ふ、む……」

 

 にとりがニコニコと見てくる視線の中、信綱はおもむろに細工品の一つを手に取り、阿弥の方を見る。

 可愛らしく小首を傾げる阿弥のさらさらとした髪にそっとその細工品――艶やかな花の飾りをかざす。

 

「……これを一つくれ」

「まいどあり! よく似合ってるよ、お嬢さん!」

「え!? もう父さん、今日は私が父さんになにかあげたいのよ」

 

 柔らかい頬を小さく膨らませる阿弥に、信綱は穏やかな笑みを浮かべながら髪飾りを渡す。

 

「ですが、私からあなたに贈り物をしてはいけないとも言われておりません。無論、阿弥様がお嫌ならば受け取らずとも結構です」

「うう……イヤじゃないけど……」

 

 阿弥は新たな髪飾りをしきりに触って、収まりの良い位置を探しているようだった。外す気はないようで一安心である。

 内心で安堵している信綱だったが、何やらむくれた阿弥がその手に持っていた根付を押し付けてきて驚いてしまう。

 

「阿弥様?」

「……これ、父さんに似合うと思うから」

 

 勢い良く差し出された根付に反して、阿弥の声はボソボソと小さなもの。照れているのか頬に赤みが差していた。

 信綱はやや戸惑ったように身じろぎをするが、すぐに根付を受け取って微笑む。

 

「ありがとうございます、阿弥様。一生大切に致します」

「うん、そうしてくれると嬉しい」

 

 喜んで受け取る信綱に阿弥もホッとしたように笑う。信綱が阿弥の贈り物を断るはずがないのに、それでも不安に思ってしまう何かがあったようだ。

 と、そんなことを考えているとにとりの憔悴した声が横から届く。

 

「まいどあり……。お二人さん、見せつけるんなら他所行ってくれよ……」

「? 何を?」

「い、行きましょ父さん!」

 

 訳がわからないと首を傾げる信綱の手を阿弥が引いてにとりの元から立ち去る。

 その際、一応手を振っておいたがにとりからの返事は疲れ切ったような投げやりな手だけだった。

 そうしてにとりのいた場所から距離を取ると、阿弥はくすくすと笑い出す。

 

「ああ、楽しい! 昔に戻ったような気分!」

「ここ最近はあまり外に出ることもありませんでしたね。喜んでいただけて何よりです」

 

 外に出ても家の周りを散歩したりする程度のものである。阿七よりマシとはいえ、阿弥もまた成人女性と同程度の健康を持っているわけではない。

 子供のようにはしゃぐ阿弥に信綱も嬉しそうに目を細め、彼女の手を取って従者としての役割を果たす。

 

 彼女から受け取った根付を大切にしまい、彼女に手を引かれるままに里を練り歩いて――里が夕焼けに染まり始めた頃。

 市場からも人が消え始め、皆がそれぞれの帰る家や仕事を終えた後の一杯を探しに歩み出す風景を、阿弥と信綱の二人はその場に立ち止まって眺めていた。

 

 見回りの仕事を終えた天狗が人間に誘われ、居酒屋に入っていく姿。

 河童と人も互いに肩を組んで陽気に歌いながら歩いている。その顔は夕焼けに照らされてなお赤い。すでに酒が入っているのだろう。

 チラリと見かけた居酒屋の中では鬼が樽の酒を飲み干し、皆に囃し立てられている。

 

 誰も信綱たちには目もくれない。皆が自分たちの楽しみを求めている途中で、その楽しみに人妖の境はなかった。

 

「……綺麗ね」

 

 その風景を愛おしそうに見つめる阿弥が静かにつぶやく。

 

「そう言っていただけるのなら、彼らも喜ぶでしょう」

「ふふ、父さんが頑張って作ったのに喜ぶのはあの人たちなんだ」

「もうとっくに私の手を離れていますよ。今の人里を作っているのは彼らです」

 

 彼らを見ていると信綱の胸にも言い知れぬ充足感が生まれる。

 それは阿弥と一緒に見ているということもあるだろうし、八雲紫ですら一人では成し得なかったことを成し遂げた感慨もあるだろう。

 

 存外、自分はこの幻想郷という場所が好きなようだ。

 妖怪がいて、人間がいて、椛たち妖怪の友人がいて、勘助ら人間の友人がいて――何より御阿礼の子がいるこの場所が。

 

「……ね、父さん」

 

 この世に生を受けて半世紀以上。そんな歳になるまでずっと人里にいたのに気づかなかった事実に胸中で笑いをこらえていると、阿弥が繋いでいた手を離して信綱と向かい合う。

 

「なんでしょうか、阿弥様」

「私はこの場所が好き。稗田阿礼の時から今に至るまでずっと、幻想郷を愛している」

「ええ、存じ上げております」

「そして父さんが頑張った今の幻想郷はもっと好き。……だから私はこの場所を見守っていたい」

「…………」

 

 迷うような顔になる阿弥に無言で微笑みかける。その先の言葉を続けても火継信綱は笑って受け入れることを示すように。

 

「仰ってください、阿弥様。私はあなたの願いを叶えるためにここにおります」

「……っ! 父さんはそれでいいの!? 私たちと一緒にいるんでしょ!? なのに、私がそれを否定したら……!」

 

 死出の旅路に伴したいだろう。阿七の死を見届け、さらに阿弥の死まで見届ける信綱の心はどれほどの傷を受けるのか。

 泣きそうな顔で叫ぶ阿弥に信綱は微笑みを崩さないまま、阿弥の頬を涙が流れないように優しく撫でた。

 

「確かに逝かれることは悲しく、苦しく、辛いことです。――ですが、あなた方から頂くものはそんなものより遥かに大きい」

 

 静かに膝を折り、阿弥の前に頭を垂れる。

 あなたの価値はそんなもので陰りはしないと。阿礼狂いは御阿礼の子の側に居られるだけで、何ものにも代え難い宝を受け取っているのだと。

 主に全てを捧げるその姿勢が何よりも雄弁に語っていた。

 

「どうか私に命じてください。私はそれだけで十二分です」

「……稗田阿弥があなたに命じます。――どうか、私が遠くへ逝った後のことをお願いします」

「御意のままに」

 

 垂れていた頭を上げると、そこには涙を堪える顔で、信綱の肩に手を置いて命令を下した愛しい主の姿がある。

 肩に置かれた手を両手で握り、信綱は安心させるように心からの笑みを浮かべた。

 

「あなたが気に病むことは何もありません。あなたの懸念が嘘になるよう、私も強く生きましょう」

「……ごめ――」

「ありがとう、と。それだけ言っていただければ私は他に何もいりません」

 

 かつて、阿七に同じことを頼まれた時は彼女に謝らせてしまった。

 今はそんな必要もない。彼女の願いは全て正しく、叶えられるべきものであるのだ。

 何も迷う必要はなく、ましてや泣く必要なんてどこにもない。それを証明するように信綱は笑う。

 

 信綱の言葉の意味を正しく感じ取り、阿弥は泣きそうな顔をどうにかして歪め、不格好な泣き笑いの形を作った。

 

「……ありがとう。私の大切な人」

「その言葉だけで私は望外の幸せです」

 

 再び頭を垂れ、そして阿弥の手を握って立ち上がる。

 

「帰りましょう、阿弥様。私たちの家に」

「……うん」

 

 寄り添いながら夕焼けの向こうに歩いて行く二人の姿は、誰にも引き裂けない強い絆によって結ばれていた。

 

 

 

 

 

「阿弥様、寒くはないですか?」

「大丈夫。今日も良い天気ね」

 

 稗田邸の縁側に並んで座り、熱い緑茶を片手に静かに佇む。

 天気の良い日は稗田邸に備え付けられている庭園が見事な彩りになる。春には桜が咲き乱れ、夏は目もくらむ深緑が生い茂り、秋には紅葉が舞い、冬には雪化粧が施される。

 御阿礼の子に目でも楽しんでいただこうと頑張った甲斐があった、と信綱は内心で自画自賛をする。御阿礼の子のためなら大体のことをやってのける男だった。

 

 阿弥はよもや自分の側仕えがそこまでしているとは夢にも思っていないが、彼女に褒められたくてやったわけではない。普段より庭が綺麗だなあ、程度の思いで十分である。

 

 今日は春の芽吹きが聞こえるような良い天気であり、溶けた雪の下から芽吹く小さな生命が二人の目を楽しませていた。

 二人はしばし無言で熱い茶を少しずつ啜る。春の足音が聞こえるとはいえ、まだ外は寒い。

 だが、信綱は部屋に戻ることを進言はしなかった。本来ならば体の弱い阿弥を慮って部屋で休養をすることを勧める男であるにも関わらず。

 

「…………父さん」

「はい、何でしょうか」

 

 阿弥の身体が傾き、信綱の胸に倒れこむ。

 それは別に体調を崩したからというわけではなく、ただ寄りかかりたいだけであると信綱は直感していた。

 

「父さん」

「……阿弥様?」

「父さん、父さん、父さん」

 

 しかしそこから先の阿弥の行動はわからなかったようで、何度も父さんと呼んでその響きを忘れないようにしている阿弥に首を傾げる。

 首を傾げると、阿弥の髪飾りが春の日差しを受けて輝く。あの日に贈ったものは肌身離さず付けてもらえているようで何よりである。

 

「うん、覚えた。この時間を私は絶対に忘れない」

 

 やがて顔を上に向けた阿弥は信綱に春の日差しに負けない優しい笑みを浮かべた。

 

「阿弥様にそのように思っていただき、嬉しく思います」

「絶対に、絶対に忘れない。私の想いが消えたとしても、この記憶だけは色褪せさせない」

「……そんなに意気込むことはありませんよ。阿求様にもきっと同じことをしますから」

 

 信綱の言葉に阿弥はビックリしたような顔になる。

 

「……わかるの?」

「あなたが生まれた時よりずっとお側におりました。わかりますよ」

 

 穏やかな心境だった。この日が来ることを心の底から嘆いていたはずなのに、阿弥の顔を見ているとその気持ちが溶けていくのがわかる。

 いや、溶けていくのは正確ではない。きっと彼女が遠くに逝った時、信綱の心に去来するのは阿七が亡くなった時と同じだけの悲しみだ。

 

 ――だが、阿弥にそれを見せる必要はない。阿礼狂いは御阿礼の子が隣りにいるだけであらゆる負の感情から解き放たれる。

 

「……そっか。父さんはわかっちゃうんだね」

「あなたのことをずっと見てきました。これからもそれは変わりません」

「ん、ありがとう、父さん」

 

 身体が重たいのか、阿弥の身体は信綱の胸から膝に滑っていく。

 阿七と同じ場所をお気に入りとしている阿弥は、その定位置に収まると気持ち良さそうに身動ぎをする。

 

「父さん、今いくつ?」

「五十六です」

「じゃあ阿求の頃にはおじいちゃんね」

「そうですね。耄碌だけはしないよう気をつけます」

「父さんなら大丈夫よ」

 

 軽やかに笑う阿弥に信綱は膝を貸したまま微笑む。

 彼女の髪を慣れた手付きですかすと、阿弥はくすぐったそうに笑う。

 阿七の時はおっかなびっくりだったそれも、今では慣れたものである。

 

「阿七の時は弟。私の時は父さん。阿求にはおじいちゃん。父さんは私たちに色々な形の家族を教えてくれる」

「私が教えているのではありません。あなたが学んでいるのです」

「どっちも一緒じゃない?」

「違いますとも。私はあなたに何かを教えようとしたことなど一度もありません」

 

 そんな上からの立場の行動、御阿礼の子に対してできるはずがない。信綱が願うのはあくまで彼女の側にいること。

 御阿礼の子はただあるがままに振る舞ってくれれば良い。それが最も美しい姿であると阿礼狂いは知っているのだ。

 

「私は人間として生きます。それをあなたは望まれるのなら是非もありません」

「……もうごめんなさいは言わないわ。ありがとう、父さん」

「はい。その言葉だけで私は生きられます」

「うん。……父さん」

「はい」

 

 伸ばされた手を微笑んだままそっと握る。彼女が穏やかなまま逝けるように、かつて阿七を看取った時より自分を取り繕うのが上手くなった信綱は、しかし阿弥との離別が迫っていることに臓腑が凍える心胆だった。

 

 腕よ、震えるな。頬よ、震えるな。阿七との離別の時に強くなることを決めたではないか。

 

「あなたがいてくれて私はとっても幸せでした。きっと今までの御阿礼の子の中でも一番に」

「……私もこの上なく幸せでした。あなたと共にいられた時間は何ものにも代え難いものです」

 

 声が微かに揺れたことを阿弥は気づいただろうか。必死に抑え込んでいるつもりなのに、どうしても心が揺れて肉体にも表れてしまう。

 

「ふふ、ありがとう。……吸血鬼異変に始まって、天狗の騒動、百鬼夜行。色々な異変があったね」

「ええ。どれも一筋縄では行かない異変でした」

「こう言ったら怒られちゃうかもしれないけど――楽しかった。色々な妖怪を見ることができて、中には友達になることもできて……」

「……はい」

「そんな異変を父さんが解決した。あんまり自慢できる人はいなかったけど、すっごく誇らしかった。私の父さんはこんなにすごい人なんだって」

 

 過去を思い返すように語る阿弥に涙が零れそうになり、彼女の手を握っていない方の手で慌てて拭う。

 幸い、一瞬だったようで阿弥には気づかれなかった。

 このまま彼女の終わりまでごまかし続けなくては。彼女には何一つ憂うことなく逝って欲しいのだ。

 

「そのように言われると少々むずがゆいです」

「あははっ、こうやって褒められると照れる父さんも可愛いって思ってた」

「…………」

 

 軽やかに笑う阿弥に信綱は困ったような顔になるしかない。可愛いと言われても今はまともな反応ができそうにない。

 そんな信綱がおかしかったのか、さらに阿弥は笑い――やがて、深く長いため息に変わる。

 

「ああ――もう、話したいことがこんなにたくさんあるなんて。幸せ過ぎておかしくなりそう」

 

 これが最期だ。全てを理解した信綱は最期に一つ、阿七にも抱いた疑問を今度は彼女に直接尋ねる。

 

「……私は、あなたの幸せの一助になれましたか?」

「もちろん。あなたがいなければ私は幸せになんてなれなかった。あなたが父親で、そして私の大切な人で本当に良かった」

「――恐悦至極」

 

 短い言葉を使った信綱に阿弥がくすっと小さく笑う。言葉を短くしなければ、口から余計な嗚咽が漏れそうだったのだ。

 

「その癖、見るのはいつぶりかしら。――父さん。私の手を握ってくれる?」

「はい」

 

 片手で握っていたそれを両手で優しく握る。今にも熱が失われようとしている彼女に少しでも熱を分け与えるように。今、自分の感じている幸福が少しでも彼女に伝わるように。

 阿弥の前では決して崩さない笑みを浮かべたまま、真摯にその手を握る信綱に阿弥は薄っすらと微笑む。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ――父さんの手、とっても暖かい」

 

 

 

 

 

 

 

 信綱は淡い微笑みを浮かべ、動かなくなった阿弥の身体を膝に置いていた。

 握り続ける彼女の手にはまだ阿弥の温度が残っている。

 だが、それも遠からず信綱の体温だけに変わっていくのだろう。

 

「…………」

 

 彼女は幸せだった。彼女の口から出た言葉が嘘であるなどと思いたくはない。

 阿弥が幸せであったのなら信綱が何かを言う理由などない。

 御阿礼の子の幸せのために存在するのが阿礼狂い。その本懐を果たせたのだからむしろ幸福を感じなければならないのだろう。

 だけど――

 

「……っ!」

 

 涙が零れる。手で拭おうかと思ったが、まだ阿弥の体温が失われていない手を離したくなく、袖に顔を埋めるように涙を隠す。

 袖を噛んで嗚咽も隠す。零れる涙は留まるところを知らず、嗚咽が身体を震わせようとする。

 

 阿弥の眠りが妨げられてはたまらない。その一心で身体の震えを抑え込み、嗚咽も黙らせる。

 なぜ、どうして、とは思わない。信綱にはこの涙の理由にすでに思い至っていた。

 

「阿弥様……っ!!」

 

 彼女の言葉は絶対だ。今、この悲しさは阿七の死に匹敵する絶望と悲嘆を信綱に与えるが、彼は必ず立ち上がって阿弥の願いを叶える。

 これはもうすでに決定したことだ。火継信綱は自身がいかなる状態であろうと、御阿礼の子の願いを叶えることを最優先にできる阿礼狂いである。

 

「どうして……どうして……っ!!」

 

 故にこの悲しみは阿礼狂いとしてのそれではない。無論、阿礼狂いが御阿礼の子に死なれてしまった苦痛たるや五体がバラバラに引き裂かれるそれを遥かに凌ぐ。

 しかしそれはすでに一度受けている痛みであって、信綱は二度目の痛みであれば耐えられる自信があった。

 つまるところ、信綱が涙を流す本質は御阿礼の子の死ではなく――

 

 

 

 

 

「どうして、父より先に逝く娘がいるのですか――!!」

 

 

 

 

 

 只々、彼は大切な娘が逝ってしまったことを嘆いているのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「おっと、来たか。向こうは色々騒がしかったと聞くけど、どうだった?」

「とっても楽しかったです。大変なことも苦しいこともありましたけど、全部ひっくるめて」

「ん、そうか。阿七の時もそうだけど、あんたみたいに良い顔で死ぬ奴なんてほとんどいない。良い人生を送れたんだろうね」

「ありがとうございます。ふふっ」

「んぁ、どうしたい? 思い出し笑いなんてして」

「いえ。――私が恋をした、なんて言ったら小町さんは笑います?」

「まさか! 花も恥じらう乙女が恋の話を笑うわけないだろ! さ、乗りな! 閻魔様のところまで運んであげるから、その話をもっと詳しく聞かせとくれよ」

「はい、少し長くなるけど良いですか」

「もちろん! それを聞くためなら船なんていくらでも遅らせるよ! ま、これはその顔を見る限り聞くまでもないだろうけど――お前さん、幸せだったかい?」

「――はいっ」




斯くして、動乱の時代は終焉を迎え、残りは原作に繋がるゆっくりとした時間になります。

この後は登場人物の説明をいくつか載せて、阿求が生まれるまでの空白期間を書こうと思います。ようやくあっきゅんが出てくる目の前まで来た……!!



あ、来週はかなり怪しいです。洒落にならんレベルで。

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