明日以降の休み? ちょっとわかりませんね(震え声)
その日は朝から忙しなかった。
別に信綱の話ではない。彼はもう隠居の身であり、阿求の側仕えと日々の稽古、霊夢の面倒を見ることぐらいしかやることがない。
とはいえ同じ部屋で寝ている先代よりは大体早く起きて、朝の稽古を行うのが日課でもある。
なので信綱は今日も今日とて庭先で剣を振るい、霊力と結界の鍛錬を行っていたのだ。
朝食は先代が作ることもあれば、女中が作ることもある。阿求が起きる前から起きており、食事自体はきちんと摂っているのだ。
そして先ほど先代が博麗神社の方角に文字通り飛んで行くのが見えた。今日の朝餉は女中の作ったものになるだろう。
一日の活力になれば何でも良いが、できれば美味しいものの方が良いのは誰だって同じである。
もう少し剣を振って汗を流してから朝餉にしよう、と一日の始まりを考えたところで視界の端に再び先代の姿を捉える。
その姿はみるみる大きくなってあっという間に屋敷の中庭に降り立ち、慌ただしく信綱に詰め寄ってくる。
「ねえ、薬ってどこにある!?」
「傷に塗る薬ならどの部屋にも置いてある。病気の薬なら俺の部屋にある」
「ありがと、霊夢が熱出してるのよ! ちょっと今日は戻るの遅くなるわ!」
ほう、と信綱は軽く驚いたように眉を上げる。昨日までは健康であっても子供の身。身体も出来切っていない子供は簡単なことで体調を崩してしまう。
「子供はすぐに体調を崩す。なるべく離れてやらないことだ」
「わかってるって! でもあんたやけに詳しいわね?」
「阿弥様のお側にいたのは誰だと思っている」
赤ん坊の頃から旅立つ時まで、ずっと彼女の側に居続けたのだ。子供の世話などお手のものである。
先代は意外な一面というべきか、言われれば納得できる知識の多さにうなずいて、信綱を指差す。
「あんたも時間があったら来なさい。あの子もなんだかんだ爺さん爺さんって懐いているみたいだし」
「もう何もかも信じられないという顔になっていたと思うがな……」
森で撃ち落とされ、平地でも倒され、最後の手段である空中戦でも信綱が勝っている。
霊夢にとって信綱は今なお底の見えない、昔に色々やっていたでは説明がつかないほどに強い存在となっていた。
それは全くの事実なのだが、霊夢はあいにくと神社からなかなか出られない身。信綱についての情報を知る機会が得られていなかった。
「阿求様の側仕えで時間ができたらな。熱冷ましは戸棚の上から二番目だ。とりあえず全部持っていけ。薬の用途と効能は紙に書いてある」
「ありがと! じゃあ後でね!!」
先代は手に薬の入った風呂敷を持って再び飛び上がっていく。
余談だが、信綱の言っていた熱冷ましのある戸棚には子供用の薬が入っていた。
作ったのは信綱。阿七、阿弥の側仕えをしている間にすっかり薬や医療にも詳しくなっていたのだ。
特に阿弥の世話をする中で病気をしてしまう度に医者を呼ぶのでは、彼女の全てを支える側仕えとして問題があると判断したため医術も修めている。
「あれは阿弥様に合わせた比率だから……ちと霊夢には弱いか」
他の患者を見た経験こそ多くないが、御阿礼の子の身体については誰よりも詳しい自信があった。
特に子供の頃は体調が崩しやすいと言っていたのは書物の知識でもなんでもなく、彼自身の経験談なのだ。
そしてそういった時に子供は例外なく欲しがるものがある。
「……まあ、そこはあいつがいるから大丈夫だろう」
誰かがそばにいること。
先代はきっと付きっきりで霊夢を看病してくれるはずだ。
自分は手の空いた時間に様子を見に行けばいい。さすがに体調を崩している霊夢に稽古や課題を押し付けるほど鬼畜ではなかった。
自分は自分の役目を果たそう。阿礼狂いである以上、阿求の側仕えを疎かにすることは絶対にないのだ。
「う……」
身体が熱い。頭の中で鐘が鳴っている。喉が焼ける。息が詰まる。
およそ模範的な風邪の症状を全てその身で受けて、霊夢は寝込んでいた。
微睡みと半覚醒を繰り返し今が夢なのか、起きているのか、それすらわからないまま熱い息を吐き出す。
さっきまで先代が濡らした手ぬぐいを変えてくれていたものの、今は出てしまっている。
霊夢でも食べられるものを作ろうと一言伝えてあるのだが、残念ながら霊夢の記憶には残っていなかった。
誰もいない部屋で自分の苦しい息遣いのみが聞こえる。
そうなると霊夢は急に不安を覚え始める。これまではほとんど一人であっても何も感じなかったのに、なぜか今は一人でいることがとても心細い。
「……ぐすっ」
鼻をすするのは息が詰まっているからか、はたまた泣きそうだからか、霊夢にもわからないまま布団を頭からかぶり直す。
そんな時だった。襖が開いて、誰かが入ってくる音がしたのは。
母さんではない、と熱に浮かされた頭でもわかる。あの人は入る時は一声かけてくれる。
布団の中で考える霊夢を他所に入ってきた者は一直線に布団に向かってきて、立ち止まる。
「……起きているだろう、顔を出せ」
「……爺さん?」
熱で赤くなった顔を布団の外に出すと、そこには霊夢が母親と同じくらい見慣れた存在――一応は父にも当たるのだが、本人の希望で爺さんと呼んでいる信綱の姿がそこにあった。
「あいつから熱を出したと聞いて来た」
「……爺さんは来ないと思ってた」
まだ子供ではあるが、霊夢は敏い子供だ。そのため信綱が自分以外の何かに執心であることを見抜いていた。彼にとって自分は片手間に面倒を見てもらえる程度の存在でしかないことも。
それを悲観するつもりはない。愛情は母親からたっぷり与えられているし、片手間でしかなくてもその間は信綱もちゃんと自分を見てくれている。
しかし、だからこそこういったことで来てくれるとは思っていなかったのだ。
「時間ができたのでな。さて……」
信綱は霊夢の返答を待たずに枕元に座ると、その手で霊夢の額に触れる。
剣を振るって振るって振るい続けて。樹皮のようにすら感じられる固く冷たい掌が心地良かった。
「ん……」
「だいぶ高いな。熱冷ましは飲んだか?」
「母さんが、お腹に何か入れないと辛いって……」
「あいつはどこに?」
「今、お粥作ってる……」
「一応、水だけでも構わないくらい効能は弱いんだがな……」
元々は阿弥に飲ませるために作った薬だ。阿弥が食物すら受け入れられない時のために、効果自体は弱めになっている。
仕方がない、と信綱は懐から何かを取り出す。
「それは……?」
「見舞い品は果物と相場が決まっている。少し待っていろ、切ってくる」
「あ……」
霊夢の手が伸びて信綱の袴の裾を掴む。
「どうした」
「……ここにいて」
寂しいから、とまで言うことはできず霊夢はあらぬ方向を見ながらそれだけポツリとつぶやく。
「……そういうのはあいつに言うべきだぞ」
信綱も霊夢の感情を読み取ったのか、軽くため息をついて座り直す。そして枕元にあった水差しから水を注いで霊夢の側に置く。
「上半身だけでも起こして、ゆっくりと飲め。そして休め」
「……ん、爺さんはどこも行かない?」
「お前が休むまではここにいてやる」
「……ありがと」
「礼を言う余裕があるなら寝ることだ」
そっと信綱の手が霊夢の額に触り、汗で張り付いた髪を梳いていく。
慣れた手付きのそれに霊夢は安心したように目を細め、やがて浅い眠りへと入っていくのであった。
「……ん」
「あ、起きた。熱は大丈夫?」
霊夢が目を覚ました時、意識を失う直前まで信綱がいたと記憶している場所には母親である先代が座っていた。
「……爺さんは?」
「もう戻ったわ。お前がいるなら大丈夫だろう、目を離してやるなって言ってね」
「……そっか」
ほんの少しの寂寥感。彼が真っ当な人間でないことは霊夢にも理解できているが、そうであっても感情とは別物。
霊夢が寂しげな顔になったのを目敏く見つけ、先代は小さく笑ってしまう。
「……何笑ってんのさ」
「いいや、予想通りだなって。体の調子はどう? 痛いところとかない?」
予想通り、という先代の言葉が気になったものの、とりあえず言われた通り辛い箇所を探してみる。
寝起きだからか、頭もずいぶんと軽くなっている。この分なら食事をして薬を飲んで一晩休めば、明日には治っているだろう。
「うん、だいぶ良くなってる」
「……ここまであいつの言った通りか。嫉妬しちゃうわね」
先代は霊夢の具合が良くなっていたことに安堵しつつ、同時に信綱が戻る前に言っていたことを思い出す。
「熱冷ましも飲ませたようだし、起きればだいぶ落ち着いているだろう。そうなったらこれを差し出してやれ」
「あんたは良いの?」
「お前が見ていた方が良いだろう」
相変わらず自己評価が低く、しかも霊夢に対する思い入れも先代よりは浅いはずなのに、先代以上に霊夢をよく見ている。
霊夢の家族は自分である、とも思っている先代は少しばかり悔しい気持ちを彼に抱いていた。
「母さん、さっきから何言ってるの?」
「んー、ちょっとね。ほら、あいつからの差し入れ」
先代は困ったように笑いながら、自身の背中に隠してあったものを出す。
盆の上には桃が置かれており、食べやすいように小さく切られていた。
水気の滴る上等な果肉と、風邪に冒された鼻でもわかる甘い香りに霊夢は目を輝かせる。
「まだあるからゆっくり食べるのよ」
「母さん、食べさせて!」
「まったく、甘えん坊なんだから。はい、あーん」
ひな鳥のように食べさせてもらいながら、霊夢は風邪を引くのも悪くないかもしれないと思う。こんな風に母が優しくしてくれて、爺さんも面倒を見てくれた。
もぐもぐと甘い桃を食べていると、霊夢はふと先代のことが気になってくる。
信綱が悪い人間じゃないのはわかる。稽古は鬼よりも厳しいが、それ以外の時は霊夢の疑問に大体答えてくれて、希望にも応えてくれる面倒見の良い性格だ。
が、同時に真っ当な人間でないこともわかる。彼と人里を歩いている時に受ける視線は尊敬が多分に含まれているが、中には確かに畏れとも言うべき何かが存在しているのだ。
「……ねえ、母さん」
「ん? もうお腹いっぱい?」
「爺さんと母さんって夫婦なのよね?」
「あー……まあ、そうね」
「爺さんって変人じゃない?」
「……ああ、あんたは知らないのか」
普通、娘とはいえ自分の旦那が変人ではないかと聞かれれば、多少は驚くなりたしなめるなりあるだろうに、先代はどこか納得した表情になった。
「知らないって?」
「知らない方が良いことよ。私も結構悩んだからね」
「……爺さんと一緒にいること?」
「んー……」
先代は話すべきか僅かに逡巡するが、話すことに決める。
彼が一生変わらない狂人であることは早めに教えておかないと、どこかで取り返しがつかなくなる。彼を普通の人と同じに思ってはいけないのだ。
もしも霊夢が何も知らず阿求に敵意を向けたら。信綱は何の躊躇いもなく霊夢を殺しにかかるだろう。かけた時間も向けた愛情も何もかも、あっさりと捨てて。
「まあ、子守唄代わりにするにはちょっと物騒だけど話してあげますか」
「なんか想像ができないわ……」
というより今でも先代と信綱が夫婦であることに納得がいかない霊夢だった。
それを聞いて先代はちょっとだけ面白そうな顔になる。
この子供に少しばかり自分の話を聞かせてやろうと思ったのだ。特別な日ぐらいしか誰も来なかった自分の神社に、平気な顔でやってくるあの男のことを。
人それを惚気と言うのだが、それを指摘できる存在はこの場にいなかった。
「じゃあ話してあげる。あいつと私がそもそも出会ったのは……」
「…………」
楽しそうな顔で話し始める先代を見て、霊夢はぼんやりと踏んではいけない何かを踏んでしまったのではないかと思う。
その予感が的中したと実感したのは、三十分以上止まらずに話し続ける先代の声が子守唄になりつつあった頃だった。
「爺さん」
「どうした」
「母さんってものすごい愛が深いタイプだと思う」
後日、風邪明けからかやけにげっそりとした霊夢からそんなことを言われ、信綱は気負った様子もなくうなずく。
「知っている」
「爺さんは母さんに何かしてあげてるの?」
「束縛はしていない。求められれば応える。それだけだ」
「もっと母さんを大切にしなさい!」
「俺なりにしているつもりだが……」
「デートにでも誘えばいいのよ!」
「俺が誘ったら熱があることを疑われると思うぞ」
それにあれは意外と出不精だ。霊夢がいるから足繁く博麗神社に行っているものの、何もなければ縁側でお茶を飲んで一日過ごしたがる性格である。
信綱はそれに付き合うことが多かった。先代に誘われたということもあるし、あの時間は信綱にとって肉体の休息とも言える時間だ。
彼女の距離感は自分にとって心地良い。以前にそれを伝えたことがあるのだが、彼女はそっぽを向いただけだった。ちなみにその日の夕飯は信綱の好物が多かった。
霊夢が妙に先代との関係について詳しくねだってくるため、その辺りの話をしてみたところ、霊夢がうんざりした顔になる。
「爺さんも愛が深いっていうか、面倒見が良いよね……釣った魚には餌を与えるというか」
「見捨てる理由もないし、可能なら良い関係を築きたくなるものだろう」
「これだけじゃないってところがタチが悪い……」
完全に合理性だけだったら先代も離れていた。信綱という男の面倒なところは本人も言っている通りの狂人であるくせ、妙に嫌いになりきれない性格をしているところだ。
合理だけで動いているかと思いきやそうでもない。かといって情だけに寄ることもなく打算も合理も存在する。計算も働いているが、そこに彼自身の感情がないわけではない。
だから霊夢も彼を嫌いになれない。鬼も泣き出すと思うほどの稽古を課しているにも関わらず、だ。
「お前があいつの面倒な話を聞いたのはわかった。それはそうと身体は大丈夫か?」
「あ、うん。一日寝たら熱は下がったみたい」
「ふむ……」
霊夢の額に手を当てて、平熱であることを確認する信綱。
子供の体調は簡単なことで崩れやすく、しかも下手に安心するとまた熱を出す可能性がある。
「身体がだるいとかは?」
「一日寝てたから、そのぐらい」
「……そうか。今日はあまり身体を動かさず、座学を中心にするぞ」
「へ? ……爺さん、私の風邪が感染った?」
「病み上がりが一番危ないんだ。特にお前ぐらいの子供はコロッと倒れる」
人間、倒れる時は本当に呆気ないのだ。軽い風邪をこじらせてあっさり死ぬ子供も多くはないが、皆無というわけではない。
信綱も霊夢が阿求に手を出すとかがない限り、手塩にかけている弟子に手を抜くつもりはなかった。
「……たまには風邪も悪くないかも」
「なにか言ったか?」
「なんでもない!」
その日、霊夢は妙に機嫌が良く信綱の課題に挑戦をしていくのであった。
「お久しぶりです! 清く正しい射命丸文ですよー!」
見慣れない長方形のものを片手に、文がやってきたのは信綱が人里を歩いている時だった。
人好きのする――しかしどこか胡散臭い笑みを浮かべながら、文は気安い調子で信綱の方に近寄る。
「珍しいな、一人か?」
「いつもいつも天魔様と一緒にいるわけじゃないですからね!? 今日は人里で取材中です!」
はい、と文が見せる手帳にはびっしりと文字が書き連ねてあり、彼女の几帳面な性格が推し量れるようであった。
なかなか真面目にやっているようだ、と信綱は感心してその手帳を返す。
「熱意があるのは良いことだ。ところでそれは?」
「お、よくぞ聞いてくれました! これはカメラと言いまして、強い光を当てて景色を紙に残すことができるんです!」
「ほう、外の世界のものか?」
「それを基に河童が作りました。さすがに数はありませんけど、烏天狗様にならどうぞどうぞと快くくれましたよ」
それは脅迫というのではないだろうか、と内心で思うも口に出すには至らなかった。本当に問題があったら天魔が動いている。
小さく息を吐いて話題を押し流し、歩き出すと文も隣を歩いてくる。
「なぜついてくる」
「いやあ、あなたについて書いた記事は反響が大きいんですよ。知られざる英雄の一日! みたいな感じで」
「昔の話だ。今はもう隠居の爺以外の何ものでもない」
百鬼夜行以来、妖怪が暴れることもなければ信綱がその剣を振るうこともない。
もうあれから二十年以上が経過しているというのに、今なお信綱が行ったことへの名声は途絶えていなかった。
「妖怪は良くも悪くも根に持ちますよ。あなたのことも死んでからだって忘れないでしょうね」
「人里だと少しずつわからない人も増えているというのに……」
面倒な話である。信綱は何にも煩わされることなく阿求に仕えていたいだけだというのに。
「あはは、良いことじゃないですか。知ってもらえるっていうのは、自分が怒る部分も知ってもらえるってことですよ」
「俺の一族がどんな呼ばれ方をしているか知らないわけじゃないだろう。人里で知らん奴はいない」
阿礼狂いの名は信綱にのみあるように思われるかもしれないが、実際は火継の一族皆がそうなのだ。
彼らも平時は人里に混ざって仕事をしている。その中で生まれる狂人と常人の摩擦は日々信綱の頭を悩ませていた。
「おかげで火継の連中が起こした揉め事は大体俺に来る。俺が死んだらどうなるんだ全く……」
「なるようになりますよ。あなたが生まれる前だってそうだったんでしょう?」
「お前の新聞作成もなるようになった結果か?」
「最初はそうでしたけど、今は楽しんでますよ。情報に目を光らせるのも悪くはありません」
「流行りそうなのか? だとすると人里でも何か考える必要があるのだが」
供給過多になられても困るだけなのだと伝えると、文は困ったように笑う。
「幻想郷は狭いんです。多くの天狗が飛び回って情報を集めたら一日も持たないです」
「道理だな。となると日刊は諦める形か」
「そうですね。私たちも仕事ではなく趣味という形になりますので、あんまり信ぴょう性とかには期待しないでください」
「お前の情報を当てにしたことはあんまりない」
大体椛に頼んで裏取りを行っていた。あの頃は味方もロクにおらず、しかし警戒する相手は数多くいたというあまり思い出したくない時間だった。
なぜか自分を慕ってくる吸血鬼。何を考えているのかわからない八雲紫。虎穴に入らねばならない天狗。放置したら明らかに不味い地底。
我ながらよく全てに対処できたものだ、と信綱は内心で自画自賛をする。これも偏に御阿礼の子がいたおかげだろう。
などと考えていると、文は大仰に傷ついた仕草をして片手でそっと目元を拭う。
「酷い!? 昔は人里離れたひと目につかない場所で逢瀬を繰り返した仲じゃないですか!」
「おいやめろ、後々面倒になるからやめろ」
人里の面々がぎょっとした顔で見てきたため、信綱は辟易した顔で止めることにする。
これを放置すると噂話があっという間に広がって先代の耳にも届き、彼女の機嫌が悪くなるのだ。
そうなると何かと面倒だから止めようとしているのだが、文にはそれが信綱にとっての弱味に見えたようだ。
「私、嘘は言ってませんから! だからまたあの誰も知らない廃屋で熱い時間を痛い!?」
「好奇心猫を殺すということわざを知っているか? 知らないだろう。冥土の土産に覚えておけ」
「あれ、冗談抜きに命の危機!?」
「まだ何か言いたいことがあるなら聞くぞ?」
僅かに微笑みすら浮かべての言葉に対し、文はちぎれんばかりの速度で大きく首を振る。
危ない。ちょっとでも調子に乗ると彼は躊躇せずに首を落としにやってくる。
彼が許容するのは自分に被害が出ない範疇であって、そうでない場合は情け容赦なく潰しにかかる。
「いえいえいえ何もないです! 新聞屋的に脅迫には屈しないとか言ってみたいですけど!」
「ほう?」
「強者に媚を売るのが天狗です! ですから刀に手を添えるのだけはご勘弁を!!」
「全く……」
何が勘弁して欲しいって、勝てる絵図が全く思い描けないのが勘弁して欲しい。いい歳どころかいつ死んでもおかしくない年齢だというのに、今でも文以上――いや天魔以上の強さを誇るのが恐ろしい。
もはや彼に勝てる妖怪など何人いるのか。文の思いつく限りではちょっと浮かばなかった。
ちょっと厄介な相手程度の認識だったのに、いつの間にか自分を追い越して遥か高みに至っていた。そのことに文は柄にもない感慨を覚える。
「……にしても、あなたも大概よね。私が目をつけた時は吸血鬼退治ぐらいしか目立った功績もなかったのに」
砕けた口調で話し始めた文に、新聞の話は終わったのだと直感した信綱も応えていく。
「それがあれば十分だと思うぞ。お前たちが散々異変を起こしたんだろうが」
「そう言われると返す言葉もないわ。妖怪にとっても激動の時代だった」
肩をすくめる文の姿に、信綱はふと疑問に思ったことを聞いてみる。
天魔や椛らが今の幻想郷を気に入っているのは知っているが、文の思いを聞いていなかったと感じたのだ。
「……お前は今の幻想郷をどう思う?」
「どうって、天魔様から聞いてないの?」
「お前自身の意見だ。良かれ悪しかれ、思うところはあるだろう」
「んー……あなたは私など気にしていないと思っていたのに。もしかして本当に気があったり?」
「……俺にとって大半の存在は等しい存在だ。天魔もお前も例外ではない」
さり気なく椛はその中に入っていなかったが、文は気づかなかった。
彼も出会った時から変わらない。その事実に苦笑して文は素直な気持ちを話しだす。せっかく聞いてくれるのだ、言わない手はない。
「――悪くないと思ってるわ。あなたは知らないでしょうけど、以前の妖怪の山って本当に退屈だったの! 誰も彼も同じことの繰り返し! 敵もいないのに哨戒ばかりやらされる下っ端に、少し上を見たら権力闘争に明け暮れる大天狗! 烏天狗の中にも派閥とかが生まれて大変ってものよ!!」
「社会構造を持つ集団の宿命だな。人里だって似たようなものだ」
とはいえ人間は世代の交代が短い。同じ仕事も三十年続ければ引退を迫られるし、人間は六十年と少し生きれば死んでいくものだ。
もしもそれらがなく、ただただ惰性で仕事が続いていくとしたら――それは、文の言うように心底から退屈を感じてしまうものなのだろう。
「もう本当にうんざりしていたわ! 正直、吸血鬼異変があった時に向こうについた奴らの気持ちがわかったわ! 私は天魔様に仕事を与えられていたから行かなかったけど!」
「あの時からか、お前との縁も」
天魔としてはやってきた妖怪の実情が探れれば良かった程度のものだろうが、それであの頃は無名だった信綱を見出したのだから世の中わからないものである。
「でも、あなたと知り合ってからの幻想郷は楽しいわ。鬼が来た時なんてもう終わりだと思ったけど、あなたは見事に退けた。喉元過ぎればってわけじゃないけど、振り返れば笑い話にできる」
「結果良ければなんとやら、か」
一応人死も出ているので信綱としては笑えない話だが、あれを知っているのは信綱と先代の二人だけだ。文の反応が一般的には正しいものとなる。
「それで今は新しいルールに新聞。やることが多すぎて目が回りそう! 素敵!」
「退屈が毒なら忙殺が薬とは……」
きっと仕事が山積みになっているのを見て目を輝かせるのだろう。信綱としては近づきたくない相手の部類である。仕事など少ないに越したことはない。
などということを考えていると、ふと文の顔が穏やかな――人間をずっと見続けてきた妖怪特有の全てを見透かすそれに変わる。
「だから、ええ――この幻想郷が続いていくことを私も願ってるわ。あなたが懸念するようなことは今のところ存在しない」
「……その目は好きになれんな。何度見ても慣れるものではない」
多くの妖怪にそんな目をされてきた。まるで自分のやっていることが全て彼女らの掌の上にいるかのような錯覚がして、信綱はあまり好きではなかった。
実際のところは彼女らを何度も心底驚愕させているが、妖怪にとっては自身の予想が覆されること自体も楽しいことなのだ。
「あら残念。私はあなたのことは嫌いじゃないわよ。きっとしばらくは忘れない」
「お前に覚えてもらおうとは思っていない」
「へえ、じゃあ誰に覚えてもらいたいのかしら、興味が有るわね」
「さてな」
真面目に相手をするだけバカを見るだけだ。
差し迫った状況なら別だが、これからの幻想郷で彼女らは適当にのんびりと生きていくのだろう。
そしてその彼女らを相手するハメになるのは恐らく霊夢だ。信綱は彼女が今後出会うであろう一癖二癖どころか癖しかない妖怪のことを思い、少しだけ同情する。
文はそんな信綱の様子を見て、顎に手を当ててうなり始める。そして名案とばかりに輝く彼女の顔には、妖怪としての顔はもう浮かんでいなかった。
「ううむ……では、今日の取材はこれにしましょうか! 題して――幻想郷の英雄の想い人とは!? でいかがでしょう!」
「御阿礼の子以外にいると思うのか」
「思いませんです、ハイ。でもこの際だから、あなたと交友関係のある妖怪を全部書いて煽れば――」
「お前の首が空を舞うだろうな」
物理的に。
いくら彼女たちの新聞作成が娯楽目的とはいえ、自身に被害が来るのは御免被りたい信綱だった。
理解は示してくれるだろうが、それはそれとして機嫌を悪くする先代の姿が目に浮かんでしまい、信綱は自分で自分に苦笑する。妻の機嫌を取る夫とは、まるで自分が真人間になった気分だ。
「まあ良いだろう。ここで会うのも何かの縁だ。聞きたいことがあるなら答えてやる」
「赤裸々な子供時代のお話とかでも!?」
「無論こちらに面倒が来ない範囲で、だ。来た場合は……さて、場所を変えるか」
「そこで話を変えないでください!? なに、下手な記事書いたらどうなるの私!?」
悲鳴を上げながらも、信綱から離れようとはせず着いてくる文。なんだかんだ彼女との付き合いも長くなった。
最初は天魔の言葉を伝える仲介役だったが、信綱が普通に天魔と顔を合わせるようになってからも付き合いが続いている。
椿とは似ても似つかない性格だが――自分はなかなか天狗に対して縁がある。
これから先の幻想郷では彼女の新聞がみなを楽しませるのだろう。そんなことを思って、信綱は歩くのであった。
「……ところで、あなたの家にも文々。新聞は行っていると思うのですが、あれの扱いはどうなってます?」
「軽く眺めた後で竈に放り込んだ」
「かなりひどい扱い!?」
娯楽に縁の薄い自分にはあまり楽しみが見出せないのだけが残念であった。
なにげにあやややとも付き合いは長い方です。おぜうとほぼ同時期なので。
そしてぼちぼち時間を進めていかねば。紅魔郷、妖々夢、萃夢想ぐらいはやりたいので。
ほぼダイジェストというか、ノッブの視点的に人里から動かないので霊夢のケツを蹴っ飛ばすぐらいですけど。
誰か私に夏休みをください(白目)